天皇制のありかた

2022年7月25日 (月)

自民党補完勢力の台頭 参政党

今次の参院選挙ではいよいよ日本維新の会の勢力が定着し、中道、左翼勢力の凋落と安倍晋三の犠牲による反動勢力の台頭が明らかになってきた。

とりわけ、参政党なる新しい整理力の選挙演説を聞いても、日本のアジア侵略の歴史的事実を全面的に否定し、戦前軍部が掲げた大東亜圏とか八紘為宇などの侵略的用語まで使って天皇中心とした日本国のアジア支配の野望まで堂々と主張している。

コロナ対策のワクチンやマスクについても攻撃しているからほとんど狂気的集団と思われるが、この政党に参加しているのが一見まともそうな大人だからどうなっているのだと思う。ネットなどを通じてこれに賛同し熱中する若い者が多く出ているという。世も末だという感じだ。

私もワクチンは一切受けていないが、マスクや口の消毒は厳重にしている。戦後の歴史教育を選挙で公然と否定する団体は参政党だけだろう。

今ロシアがウクライナでやっている残虐なことをもっと大々的にアジアでやったのが日本なのである。
我々日本人は、100年たっても1000年たっても侵略の歴史的事実を忘れてはならない。それを否定する政治家にいかなる議席も与えてはならない。

それが最低限の日本人の良心だ。
我々は、誇らしい良い歴史も恥ずべき悪い歴史も、事実をありのまま認識し、反省すべきことは反省し、謝罪し、できる限り償いをしなければならない。

歴史的事実を認識することを自虐史観と言って非難する連中、自尊史観とか虚偽の歴史観を宣伝する連中の魂胆は、夢よもう一度で国粋主義的アジア侵略の思想を復活させようとするものであり、再び祖国を灰燼の中に引きずり込もうとする亡国の徒なのである。

「霊の御柱」などの荒唐無稽な平田派国学の流れの皇国史観を唱道する連中をいかなる政治的舞台にも挙げてはならない。権力に近づけてはならない。

それは侵略戦争と身分差別の根源であり、無辜の民の累々たる屍の上に咲くあだ花だ。

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2021年9月27日 (月)

自民党の総裁選挙


腐りきった安陪・菅内閣が崩壊し、新しい腐り党首の選挙である。
彼らは改革どころか保守思想・反動の競争で集票を競っている。
議員はともかく、党員大衆は、さほど恵まれた国民層ではないであろう。

それなのになぜ安陪などの政治貴族の影響下にあり、それを領袖として仰いでいるのか。
なぜ貧しい国民の多くが政治的サラブレッドの金権保守勢力の指導者を選挙で勝たせるのか。

カールマルクスの「ルイ・ボナパルトのブリューメール18日」という本がそれを解明している。
ルイ・ボナパルトはナポレオン一世の甥であり、クーデターで権力を奪ったのであるが、この男は、間抜けで、女たらしで、
ばくち打ちであったというが、当時のフランス国民は国民投票で彼に圧倒的支持を与えた。

日本国民もどうして字もろくに読めない間抜けで、ただの土豪劣紳にすぎない連中に投票し、国政選挙や地方選挙で大勝利を与え続けるのか。

マルクスは、それは過去のフランスの栄華への郷愁を共有する親近感だといういことだ。

戦前の日本の「栄光」への郷愁(ノスタルジー)、天皇制・日本神話・靖国神社・・・の思想というより情感を共有するということ、それに反射する排外主義的人種差別や身分差別観念の共有ーの親近感の醸成に成功しているからなのであろう。

そのような親近感をあおることが日本の保守政治家の最も大切な行事なのである。日本の保守政治家の多くは世襲制であり、選挙は金権選挙で、貧しい国民とは生活の上では全く違った人種となっているから、日本人民がそやつらに投票するはずはあり得ないのだ。

安陪や菅ら自民党議員らが靖国神社参りをやめないのは彼らが戦争で無駄死にを強要させられた「英霊」を本当に追悼する心があるからではなく、過去の栄光とする日本の虚像をでっち上げ国民大衆にそれを共有させて、投票を引き寄せるためなのである。

トランプも同じだ。パックスアメリカーナの過去のアメリカへの郷愁を掻き立てそれを共有していると錯覚させることに成功して大統領になった。

日本国民は、日本の歴史(人民の歴史)がどんなに悲惨であり、武家はもとより天皇家の歴史が崇徳上皇が自分の血で書き残したように如何に呪わしいものであったかを知るべきである。

天皇制は現行憲法上では実権を抜かれているように見えるが、それは日本の反動勢力のノスタルジーの象徴となり、国民にこの郷愁を共有させることでルイボナパルトやトランプ(そして日本の安倍や菅)のようにいかに間抜けでどう欲で馬鹿であっても当選が得られる呪術的背後神となっているのである。

だから、在日アジアの人への人種差別や、ほとんど種姓(人種)差別化している部落差別はやまない。今展開されている自民党総裁選挙は保守思想の競争であるが、それは一種の差別排外思想の競争でもある。

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2020年2月14日 (金)

上皇

天皇の退位についての皇室典範特例法によれば、退位した明仁は上皇となり、后も上皇后となる。

上皇とは太上天皇のことであり、歴史的には場合によっては天皇をしのぐ権威と権力を持つ。

第一に、日本国憲法第1条では天皇の地位は国民の総意に基づくと規定されている。上皇などという存在と尊称は憲法にはない。憲法にないものを皇室典範、その特例法で設置を決めることができるであろうか。

その地位は国民の総意に基づくとあるが、国会の議決が国民の総意といえるだろうか。国会議員の選挙で天皇の地位について公に議論されたことなど一度もない。

憲法第2条で皇位は世襲であると規定されている。第1条は直ちに第2条で否定されていて、国民の総意ま何もないが、すくなくとも同時に二人の天皇を祭り上げるということにはならない。天皇は退位すればすべての公の行事から姿を消し神がかった虚飾から解放されて一国民として自由な生活が保障されるべきである。

天皇の国事行為の最も欺瞞的なのは、戦没者への慰霊旅行だ。
先の大戦で罪があったのは裕仁昭和天皇であって、明仁天皇には無関係だ。だから太平洋諸国や沖縄などへの戦没者慰霊の旅はする必要はない。必要なのは、天皇による慰霊でなく、天皇を含む日本政府および日本国民による謝罪と賠償だ。

私は十数年前室戸市の姉妹都市オーストラリアのポートリンカーンへ交流団の団長として高校生らと一緒に行き、10日ほどそこに滞在した。最初のある高校で私があいさつした。先の太平洋戦争のとき、日本軍がダーウインなどに空爆を加えオーストラリアの市民に多大な犠牲と損害を与えたことについて、私は日本人を代表して謝罪した。

そうすると、私の英語が通じたと見え、そこの数百人の高校生を囲んでいた保護者や市の関係者たちが私の周りに集まってきて  
Greatly impressed!と口々にいって、日本人から初めて謝罪の言葉を聞いた、といった。

日本人は中国や朝鮮はもとよりアジア太平洋諸国のどこへ行っても侵略戦争へのapology を忘れてはならない。

天皇であれ上皇であれ、天皇裕仁が先導した侵略戦争の犠牲者の霊魂に対しては慰霊ではなく謝罪が必要なのである。

なお、天皇制存続、女帝の皇位継承などについては憲法改正に準ずるものとして憲法96条の国民投票が必要であり、国民の総意が示されねばなるまい。

その時国論が二分されるようでは、天皇制は維持できないだろう。総意は過半数とか三分の二以上というようなものではない。

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2019年11月30日 (土)

尊王攘夷

新天皇の即位をめぐる狂騒曲がやっと静まった。
今時、天皇族を崇め奉ることに日本国民はどれ程反応しているのであろうか。

ばかばかしくて見ていられないというのが本音であろう。

しかし、ばかばかしい行事もこれほどまで銭をかけ、大掛かりな虚構をうやうやしくやっていると、本当に威力を発揮することになるかもしれない。

歴史を振り返ると、なおさら空恐ろしい。
幕末の基本スローガンは尊王攘夷であった。
この四文字には、王と夷が対句になっている。一方はあがめられ、他方は卑しめられ迫害される。

もともと攘夷の夷は、蝦夷の謂いであってアイヌを含む東北以北の民衆のことだ。

幕末において異国人を軽愚して敵対するために伝統的な蝦夷への蔑視・敵愾心を借りてそれを利用した。東北の民衆への差別心を外国人に向けたのである。

平安時代以前から日本の朝廷や武家政権は、蝦夷・奥州俘囚への激しい差別心をもって政治の要諦としてきた。桓武天皇らは蝦夷征伐と都建設を最大の政治的課題にしてきたし、鎌倉、室町、江戸幕府の権力の中核は征夷大将軍であった。蝦夷への蔑視と天皇や将軍への敬意は絶えず一本に結ばれていた。現代の皇室への尊敬(特別な敬愛)は必ず他方に軽愚され抑圧される者がいるはずである。

今も東北の民衆は原発の業苦を背負わされ犠牲に供されている。
そしてまた遠い昔全国数十か国に配流された奥州俘囚の裔孫である部落大衆、その被差別の忍苦の生活も続いている。
天皇一族の晴れやかなパレードを見るにつけ情けない思いが突き上げる。

支配階級の権力の象徴である天皇とその天皇制に対し、日本国民は、いかなる敬愛の念も抱かず、その血塗られた歴史(崇徳上皇は配所で血書でもって天皇の皇統を呪うと誓った)の実相を直視し心の武装を解いてはならない。

     解放歌の一節

ああ、虐げに苦しめる 三百万の兄弟よ
踏みにじられしわが正義 奪い返すは今なるぞ
涙は憂いの為ならず 決然たちて武装せよ

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2019年5月10日 (金)

天皇の国事行為

天皇の国事行為は憲法第7条で10項目に限定されて定められている。
しかし、天皇・皇后が力を入れている戦没者の慰霊行為、地震・風水害など被災地へのお見舞い行為、各国外交官の謁見、また誕生日などで記者会見して意見を述べる行為なども国事行為には入っていない。誕生日などで意見を述べる行為もそうだ。

また、皇后をはじめ、皇太子、皇族たちが天皇の代替としていろいろな国や地方自治体等が係る公的なイベントに参加したりする行為はどういうことになるだろうか。憲法第5条では摂政が天皇の代わりに国事行為を行うとなっているだけだ。

憲法第4条2項では天皇は法律に基づきその国事行為を委任することができることになっているが、その法律「国事行為の臨時代行に関する法律」第2条によれば、委任するのは天皇が「精神若しくは身体の疾患又は事故があるとき」となっているから、天皇が健常であれば憲法上国事行為の委任者は誰もいない。病気か事故あるときに摂政となる順位の皇族だけが委任者でありうる。・

摂政となっていない皇太子(または皇嗣)をはじめ、皇后以下の皇族たちは国事行為はもとより、それ以外の天皇としての象徴行為の代行はいかに善意から出たものであっても、憲法や皇室典範などに規定されていない行為であり、脱法行為というべきであろう。被災地へのお見舞い行為などでは慈悲深い皇室への好感度はまし讃嘆の声さえあがっている。天皇制支持の機運はますますあがり、天皇制永続の地盤はいや増して強固となる。ただのさざれ石が巌をとなる。

巌がさざれ石になるのが自然ではなかろうか。
天皇制廃止論者はまず如上の脱法行為を問題にすべきであり、慰霊やお見舞いなど脱法行為が縮減すれば天皇や皇族への国民の関心も薄れることであろう。また、天皇ご一家の安息の日、家族団らんの時間も多くなるだろう。

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2019年5月 7日 (火)

私年号 水平98年

令和という。この元号には違和感が強い。平成も気の抜けたような感じであったが令和には権力的な威圧が感じられる。和というのはお互いに仲良くというよりも征服して和するという感じがあり、令にはせしめるという、強制の感じもある。

天皇交代と改元とが合体して時代を、時を天皇制が支配しているようだ。
時代を支え、これを変えるのは人民である。天皇や政府ではない。
だが、天皇と政府の元号が圧倒している。いくらいやだ、きらいだ、といってもそれが世間で通用する。西暦一本でいくという手もある。

また、私は提案する。天皇元号ではなく、人民の元号を作りそれを流通させたらどうだろうか。例えば、わたしは以前にも提案したが、
水平社宣言は1922年3月3日に京都岡崎で発せられた。
その期日を元年とすれば今年は水平98年となる。百年記念はさ来年だ。
部落差別は依然として続いている。差別がなくなれば改元すればよい。

あるいは、福島第一原発事故を、その事故の期日2011年3月11日を記念して、核9年、または 反核9年(2019年) という元号を使ったらどうだろうか。原発の脅威と反原発の意識を強く持続させるためにも有効であり、前代未聞の事件の教訓を普及するためにも採用されてしかるべきだ。

私年号は日本の古代・中世では僧侶や、反体制派が盛んに作って使っていたのであって何ら遠慮することはない。令和が好きな人は勝手に使えばよい。

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2019年5月 3日 (金)

天皇狂騒曲

天皇の退位、2019年5月1日から新天皇の即位、令和への改元などで新聞やテレビは大騒ぎだ。改元で何か新しい時代が来るかのごとき雰囲気を作ろうと躍起になっている。
天皇、などという尊大な称号を得てご本人は何とおもっているのであろうか。

前天皇(現上皇)はその尊称の荷物が重くてつらいのでなるだけ庶民的な装いを
こらし、膝を曲げて国民の手を取った。昭和天皇裕仁の先の大戦での戦争責任を償うようにして沖縄などの戦跡を精力的に訪ねまわった。

それは戦没者への祈りというよりも天皇が犯した戦争犯罪の贖罪行為としてそうしたのであろう。地震・津波・風水害などの被災者に膝まづく行為には、天皇制を否定し、自分は人民と同じだ、というメッセージが込められているようだ。

前天皇明仁と美智子妃の思いと傾向は、天皇退位ではなく廃位、天皇制廃止の方へ傾斜していたというべきであろう。宮廷奥深く象徴としての天皇ではない。
宮殿を脱し修羅の場で身を焦がす自己否定行為だ。

天皇制を廃止し、天皇一族を普通民・自由民に返す絶好の機会であった。
それなのに、政府や御用新聞、NHKなどテレビ、そしてかなりの国民が再び天皇制を盛り立て否が応でも尊く立派で高貴な存在に押し立てようとする。

天皇一家は、まいったなあと思っているかもしれない。

天皇制が再び反動勢力に利用され、ファシストの政治的象徴とならないためにも、天皇制を廃止することが肝要であり、また、本人たちはどう思っているかわからないが、生まれながら高貴な人類と生まれながら卑しまれる人類の存在は自由平等の民主主義からはるかに遠く、階級社会の永続化を支えるものである。

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