マスコミの報道のありかた

2019年10月16日 (水)

不自由展 愛知トリエンナーレ2019事件

10月15日の国会予算委員会で野党の質問と政府答弁を聞いた。
隔靴掻痒の感をぬぐえない。企画展の混乱予想を事前に申告しなかったということで
政府は補助金不交付を決定した。政府は内容ではなく手続き上の問題で決定したという。
野党の側もそのレベルの追及に終始したようだ。

しかし、安倍権力側の狙いは、河村名古屋市長があらわに示したように慰安婦少女像であった。
安倍政府は、積極的あからさまには表現の自由や文化の統制を始めたのではない。
今の段階では、真の狙いは煙幕を張って、反日本主義的傾向を抑える、申請など手続き上の事務段階で妨害をする

ということである。だが、煙幕は薄くその真の狙いは誰にでも透けて見える。徴用工や慰安婦問題で過去の植民地支配や侵略戦争を肯定する、そのためには隣国との対立・敵対も辞さない。
だから野党は、手続き上の瑕疵を追及するだけでなく、慰安婦問題や徴用工問題、日本の植民地支配・アジア太平洋への侵略戦争そのものを問題にしなければならない。

この内容の論戦を避けて、あるいは敵の狙いに内心同調して、政府と対決するといっても所詮は迫力のないアリバイ作りに過ぎない。

新聞やテレビの報道もそうだ。手続き上の形式論議は政府の日本主義的文化統制という実質的な内容をかくす役割を果たす。日本主義的イデオロギーはかつて(戦前に)戸坂潤(「日本イデオロギー」岩波文庫)が明らかにしたように、本体は無内容を特徴とする俗物の思想であるが、民主的なもの、科学的なもの、ヒューマニスティックなものなどを押しつぶす思想と行動を本命とする。

今次の安倍内閣は、一層日本主義的で反動的であるが、これを衝く好個の材料が愛知の企画展事件だ。
展示された朝鮮の少女の尊さと安倍権力の醜さをあぶりだすことなしに、権力の文化統制、表現の自由への弾圧を糾弾することにはならない。

| | コメント (0)

2019年10月13日 (日)

人災洪水


台風19号で東海、関東、東北の大小河川が氾濫した。未曾有のことだ。箱根では二日間で1000ミリを超える豪雨が降った。

近年の異常気象による自然災害の激増は政治を担当するものには十分予想されたことだ。
日本の治山治水の大敗北が今回の災害で覆うことがないほどに露呈された。治山治水は古来より政治の要だ。

それでなくとも山地の荒廃は放置され、下流の河川への土砂の流下、川床の土砂堆積、堤防の相対的低下→氾濫洪水という図式は、誰でもわかることだ。ここ十年、安倍政権、自公政権でどれだけ有効な治水事業がなされたのか。

数年前ある識者のブロッグ(降籏達生)で指摘されていたが、近年異常気象による自然災害の増大が見込まれているのに逆に治水事業の国の予算は激減しているという。

平成9年では2.3兆円だった治水事業予算は、平成24年以降3分の1程度にまで削減され(平成24年には0.8兆円、平成27年には0.9兆円)およそ3分の1になっているという。

河川には常時上流から土砂が流れ川床を浚渫しなければ水流が堤防を越え、超えたところで堤防が決壊することは当たり前だ。河川の浚渫や管理整備には金がかかる。これまでの予算を少なくとも維持するか増大させるのが政治の第一の義務だ。

国会や報道陣は台風の被害を嘆いてみせたり大々的に報道したりするが、この悲惨な治水事業の予算削減をなぜ問題にしないのだ。

台風15号も今回の19号の被災も、これだけの予算削減で無策であった事実がある以上、人災というべきである。
大型の台風が襲来し国民が深刻な被害にあっていても、首相も知事も素知らぬ顔で庁舎に当庁さえしない。

河床の浚渫もしない、堤防の増強もしない、有害無駄な軍備や原子力へのテコ入れの金はてんこ盛りの予算措置で、治山治水の金は、容赦なく削減する。政治に十分関与できない私は、テレビの災害報道を見て悔し涙だ。

苛政猛於虎也(苛政は虎よりも猛し) と孔子は言った。
虎の被害は耐えて村に残れるが、苛酷な政治では耐える方法がない、という。

安倍など自公政権という猛虎をしのぐひどい政治をのさばらしているわれわれ国民は繰り返し繰り返し自然災害の餌食になるだろう。

| | コメント (0)

2019年10月 5日 (土)

関電利権のフィクサーーの「人権教育」

関電事件も、かつて追求した高知県のモードアバンセ事件、また、現に追及している室戸市の利権行政と同じ構図だ。事件の中心に「同和」利権ボスが存在していた。

関電幹部が言う「人権教育」の講師だったとか、また新聞報道では、森山フィクサーは福井県の「客員人権研究員」、「福井県人権施策推進審議会委員」であったという。

まぎれもなくこのフィクサーは部落問題を政治的に利用し、利権を確保するために使ってきた人物である。
そして関電は今この人物の異常な姿、「怖い」存在を強調して、すなわち部落差別をあおることで罪を逃れようとしている。原発を建設し維持し発展させるために関電はこの「怖い「」男を十分活用してきたのであるが、逆に身を守るためにこの差別像を活用する。脅されてお金を返せなかった・・・。

現在進行中の関電の事件とは規模も性質も違うが、
20数年前高知県にのモードアバンセ社事件があった。1996年ごろから解放同盟高知県連幹部が関係する協業組合に県が数十億円の巨額の闇融資をし、これが焦げ付き、副知事ら県幹部が背任罪などで逮捕されるという県庁始まって以来の大事件であった。県庁に大規模な捜査が入ったとき橋本知事はイタリア方面に飛んでいた。

モード社の安原という社長と副知事らが刑責を負ったが、県の同和対策審議会などでこの事業を称揚した連中と県庁の最高責任者は罪をとわれなかった。
高知新聞らもこの事件を報道するのに当初は実名を使わず「特定の協業組合」などというわけのわからない名前を使っていた。

室戸市の利権行政も目を覆うものがあり、有力特定議員がのさばってきた。
その一例(新火葬場建築工事事件)が裁判中であるが、高知地裁は最近、利権行政の事実を全面的に免罪する判決を下した。近くそのでたらめな地裁の判決文を批判する控訴趣意書を書くのでそれを見てもらいたい。

特定の業者のために特定有力議員が議会で請負金額のつり上げを声高に叫び他の議員を脅かしたりして、業者が実際の工事費の2倍の請負金を行政からせしめていた。・・・・

ほかの団体と同じように部落解放運動にも、徹底して反権力に徹する勢力と、権力と妥協したりその一翼を担おうとする勢力があり、かつては内部でのその攻防が厳しいものがあった。

(それは、師岡祐行著「戦後部落解放運動論争史」全5巻に詳しい。この著作に紹介されている論客や活動家の殆どはすでに黄泉に旅立ち生存者は数人である。)
同和対策特別措置法などで国や地方自治体には巨額の対策予算が組まれ70年代以降「同和利権」が顕著となり、解放運動内部の反権力派が退潮した。

その中で狭山闘争が運動内の反権力闘争の中核として発展しようとしていたが、これも挫折し、今や単に冤罪反対運動になっている。

高浜のフィクサーは、同和利権派の申し子でありそれを背景に地元行政を牛耳り、電力会社を揺すぶってこれと合体し、日本最大級の原発産業、関電の、その推進の最悪の使徒となった。
全国津々浦々の大小利権行政を根絶しなければ、原発はもとより核の最終処分場や中間貯蔵施設など原子力産業はいつどこに根付きだすかわからない。

| | コメント (0)

2019年9月24日 (火)

福島第一原発の事故責任

高知新聞の9月20日付長官の判決文についての社説の冒頭に「原発とは根拠もなく安全性や経済性を強調し、想定しない過酷事故を起こしても、だれも責任を取らなくてもいい事業なのだろうか。」という不可思議な文章が出ていた。

①「想定しない過酷事故」であったのだろうか。また②「想定しない過酷事故」であれば、刑事責任を追及するのは困難であろう。

①想定
東電では大津波が来る可能性というのは、社内ですでに大問題になり正規の幹部会議でも対策まで議論されていた。
想定は十分にされていたのである。政府の地震調査研究本部の長期予報がでたのを最高幹部はみな知っていた。

地震本部というのは、日本の主な地震学者の大半が参加しているという。地震本部や中央防災会議の学者が提起した警告を無視した東電の幹部が刑事責任を問われるのは当然であろう。

日本の一流の地震学者たちの地震の予想を、無視してきたのは何も東電だけではない。日本の電力会社と原子力規制委員会が今もなお頑強に抵抗し地震動について現実に合わない独自の計算式を固守して日本の原子力施設を累卵の危険の上に放置してやまないのである。

悪名高いいわゆる入倉・三宅方式である。北米の過去の地震から導き出したという計算式は、日本の現実の地震動を過小評価するものであり、電力会社のお気に入りでクリフエッジを極力低くし耐震設備に金をかけなくてもいいような結果を保証してきた。

地震本部が2008年に出したいわゆる「新レシピ」は日本国中どこでも取り入れられているが、原発だけがこれを適応させない。電力会社や規制委(規制庁)は治外法権のように日本や世界の科学の成果も世間の声も聴かない。

新聞やテレビは、まさにこれを大問題にしなければならないのである。熊本地震でも、入倉・三宅の計算式は非現実的で「新レシピ」が現実をより正確に反映していることが実証されている。

日本の地震学のアカデミズムが阪神淡路の大震災の反省から総力を挙げて立ち上げた地震調査推進本部の見解を「信頼性がない」とか言ってこれを無視して大事故を起こした、これをどうして「想定しない過酷事故」といえるであろうか。

地震本部の学者を会社に呼んで、その見解を詳細に説明してもらうというのが会社経営者の筋であろう。島崎という地震学者が規制委の委員長までして玄海原発の審査にもあたった。しかし退職してから、入倉・三宅方式では原発の地震動の計算は過小評価になるといって猛烈に規制委を批判している姿は、それを物語る。

規制委に在職中は電力会社の味方をし、やめてからそれを批判している。
むしろ圧力を加えて、規制委が地震本部の見解に従わないようにさせたのは電力会社、東電そのものであろう。

地震動の計算式は三通りあり、a入倉・三宅式、b武村式、c松田式である。武村式は反原発側の想定に近く地震動の値が現実に近く大きく出るが、まだ未完成だという。

地震本部の出した「新レシピ」は松田方式であり、入倉方式と武村方式の中間を行くとみられている。

玄海原発の活断層の評価にこの松田方式で計算してもらったところ、これでも原発の基準地震動を超える結果が出た。

伊方や川内、若狭湾の原発などもこの「新レシピ」でアウトになるという。判決文では地震本部の長期評価は信頼できないと東電の被告らは言ったというが、それどころか信頼させないぞ、全国都道府県がそれを受け入れても原発だけは受け入れないぞという行動をとったのが被告らであろう。今もそうだ。実際には何千ガルもの地震が起こっているのに原発の地震動の設定はせいぜい5,6百ガルどまりだ。特に六ケ所村など東北の原子力施設は450ガル程度の低水準だ。

②会社の幹部など個人に刑事責任を負わせるのは困難だという意見も出ている。
だから、組織罰の規定を設けるべきだという。それも必要であろう。個人と組織の両罰にするべきだ。
だが、会社の責任者、組織の責任者の罪を問わないでは、かえって企業の犯罪は抑止されず増大するだろう。

 組織は個人、複数の個人が動かしている。東電の幹部は、津波が施設の高さ10メートルを超える危険性を知っていたし、知る立場にあった。原発を止めることへの躊躇があったというが、止めても止めなくてもしなければならないことがあったはずだ。 

非常用発電機を高所に移動させるとか、使用済み燃料を移転しておくとか、最低限のことでさえ、しなかったのである。自ら警告に呼応し対策の陣頭に立つべきものが、幹部社員の意見(15.7メートルの津波予想まで計算していた)をも封殺して大惨事を招いたのであるから、未必の故意の典型例だ。東電への今回の判決の評価に、新聞やテレビにこの 未必の故意 という言葉が一つも出てこないのが不可解だ。  
  

| | コメント (0)

2019年8月 1日 (木)

甲子園球児

大船渡高校の佐々木投手が、夏の高校野球岩手県大会の決勝戦で監督が、当番をさせなかったことをめぐって、特にテレビ番組での張本勲氏の発言について論議が沸騰し、張本氏への批判が厳しい。張本氏は監督の判断(故障を防ぐため出さなかった)を批判し絶対投げさせるべきだ、故障を恐れるべきではない、などという強い主張をした。

選手の健康や故障を心配する声が張本氏の主張と対立するのは筋違いだ。私は、張本氏の主張は正当なものと思う。
球児の健康や故障の対策については地方および中央の高野連の責任である。試合のスケジュールの過密さが特に投手の健康、肩の故障をむしばみ、原因となっていることは明らかである。張本氏は球児たちの心情を吐露しただけである。

球児の立場からすれば甲子園出場が最高の目的である以上、可能な限り、負傷や疲労・体力の限界が見えていない以上たとえ3回でも5回でも登板したい、登板させるというのは当然のことであると思う。

球児が、甲子園で燃え尽きるのか、プロの世界で燃え尽きるのか、選手自身の選択の余地がある。

監督が選手たちの生殺与奪の権を握っているような現在の高校野球の姿は、改善すべきだ。選手が一挙手一投足ベンチの監督の指図を仰ぎ、選手登録や出場枠の決定、レギュラー選手の決定など監督の権限が余りにも強大である。球児はほとんど監督に頤使される奴隷のようである。
1週間に400球程度の投球は普通の投手の投球練習の範囲である。

佐々木投手の体力や気力ではたとえ完投はしなくても、相当な回数の登板は可能であっただろう。監督の一存で決勝戦の出場を逃した投手、甲子園行きが夢と消えたチームメイト、球児の無念さを張本氏は代弁した。

| | コメント (0)

2019年5月30日 (木)

優生保護法仙台地裁判決

    水平98年(福島9年)2019年5月29日

比較のしようがないが、三権のうち司法が最もでたらめであり、救いようがない。立法府は選挙があるし、行政府はその立法府にある程度掣肘を受ける。

しかし、司法府の腐敗は国民の手が届かないからどうしようもない。
原発訴訟もそうだが優生保護法をめぐる今日の仙台地裁の判決の支離滅裂さはその典型だ。優生保護法を憲法違反としたのは当然としても国の賠償責任を否認した論理は裁判官の性質の劣化、権力迎合の姿勢はあまりにもひどい。
新聞報道の判決要旨を見て整理すると、

①リプロダクティブ権について法的論議の蓄積が少ない。
②それについて司法判断もない。
③原告の手術の証拠の入手も困難
①② ③であるから除斥期間改正の立法措置は「必要不可欠」と判断した。
にもかかわらず、

①立法措置は国会にゆだねられていて
②そこでの議論の蓄積がなく、
③司法判断もなかったから

「立法措置が必要不可欠であることが国会にとって明白だとはいえない」ので「立法不作為は国家賠償法上違法との評価を受けない。」というのである。

澤山のコメント:

第一に、国家機関の行為(不作為)の瑕疵が重大かつ明白である場合の明白性は、その機関(または公的人間)自体がその行為の重大性を明白に自覚していたかどうかではなく、客観的に又は一般的、社会通念上明白であるかどうかであって、その判断は裁判官がしなければならない。この裁判官は理由を挙げて、この事案において立法措置は「必要不可欠」だったと判断しているのであるから明白性は自明のことである。
必要性だけでも十分明白性はあるが、さらに、不可欠でさえあるという程に強い明白性があったというのである。

第二に、「不作為」を問題にしているのに、国連でも問題になっていたナチス張りの日本の優生保護法について立法府も司法もろくに議論もしなかったという自己の怠慢、不作為を言いながら、むしろそれを理由に不作為を肯定・宥免する。不作為を否認するためには、不作為ではなかったとか、作為することが不可能であったとかを言わねばならない。不作為の事実(理由)を申し立てることは、不作為を実証することであって、不作為を否定することにはならない。

公金の浪費を非難される人間が、浪費の事実や理由を言い立ててその浪費を正当化できるだろうか。
浮気を責められた者が、浮気の理由や事実 をもって反論すれば、それは開き直りということになる。
権力を持った者の論理の破綻、非論理は暴力の行使であって暴力の肯定であって、その差別の肯定は暴力・迫害の肯定である。

(今日より私年号 水平98年、福島9年を使う)

| | コメント (0)

2019年5月10日 (金)

天皇の国事行為

天皇の国事行為は憲法第7条で10項目に限定されて定められている。
しかし、天皇・皇后が力を入れている戦没者の慰霊行為、地震・風水害など被災地へのお見舞い行為、各国外交官の謁見、また誕生日などで記者会見して意見を述べる行為なども国事行為には入っていない。誕生日などで意見を述べる行為もそうだ。

また、皇后をはじめ、皇太子、皇族たちが天皇の代替としていろいろな国や地方自治体等が係る公的なイベントに参加したりする行為はどういうことになるだろうか。憲法第5条では摂政が天皇の代わりに国事行為を行うとなっているだけだ。

憲法第4条2項では天皇は法律に基づきその国事行為を委任することができることになっているが、その法律「国事行為の臨時代行に関する法律」第2条によれば、委任するのは天皇が「精神若しくは身体の疾患又は事故があるとき」となっているから、天皇が健常であれば憲法上国事行為の委任者は誰もいない。病気か事故あるときに摂政となる順位の皇族だけが委任者でありうる。・

摂政となっていない皇太子(または皇嗣)をはじめ、皇后以下の皇族たちは国事行為はもとより、それ以外の天皇としての象徴行為の代行はいかに善意から出たものであっても、憲法や皇室典範などに規定されていない行為であり、脱法行為というべきであろう。被災地へのお見舞い行為などでは慈悲深い皇室への好感度はまし讃嘆の声さえあがっている。天皇制支持の機運はますますあがり、天皇制永続の地盤はいや増して強固となる。ただのさざれ石が巌をとなる。

巌がさざれ石になるのが自然ではなかろうか。
天皇制廃止論者はまず如上の脱法行為を問題にすべきであり、慰霊やお見舞いなど脱法行為が縮減すれば天皇や皇族への国民の関心も薄れることであろう。また、天皇ご一家の安息の日、家族団らんの時間も多くなるだろう。

| | コメント (0)

2018年6月27日 (水)

朝日新聞社説 核のごみ処分

News & Letters/638
本日6月25日朝日新聞朝刊に高レベル放射性廃棄物の処分問題について
政府を批判する社説が掲載された。全く新味のない陳腐な意見である。
政府は国民からの信頼を得なければ議論が進まないという。
朝日の主張を整理すると
①最終処分場は必要である。
②核のゴミ処理の話は原発推進や核燃料サイクルと切り離さなくてはならない。
③現在のトップダウン方式ではなく
 日本学術会議が提案するように「第三者機関」を設置して議論をすべきだ。
④国民の意見を謙虚に聞き、信頼を得るところから始めるべきだ。
私の批判:
 第一に、政府の原発推進政策と切り離して議論というが、切り離すことはできないし
  切り離してはならない。なぜなら原因と結果だからだ。
  結果だけ一生懸命論じて対策を講じても次々と原因が問題を増大させ結果を深刻化し    ているのである。
  「核のごみ」問題は、原発・核燃料リサイクル政策と不可分なのである。
 第二に、政府が一方では「核のゴミ」の処理を言いながらその「ゴミ」を増産している    矛盾した
  政策を実行している事実を指摘し糾弾すべきなのだ。原因と結果のうち原因に目をつ    ぶるとこの矛盾は見えなくなる。政府が国民から信頼されない最大の問題は、この矛    盾点だ。
 第三に、政府が自民党ら原発推進派でなく原発の稼働を止める権力であれば、
  あるいは、日本学術会議が提唱する方式でやれば、それでは 「核のゴミ」の処理に    関する議論は国民に受け入れられるであろうか。この点について朝日は楽観的のよう    だ。
これこそ 難中之難無過此(なんちゅうしーなんむかし) であって、無知蒙昧の住民が住む地域だと思ってやってきてもむしろそのようなところが強固な抵抗を示すのである。放射能の危険性を知らない無知蒙昧の地域は日本には存在しない。
むしろこの超危険な有害物質は、地域や自分の利益を顧みず英雄的な犠牲心の横溢した住民が住むそのようなところにもっていかねば受け入れられないだろう。
自分たちや子孫が放射能の毒素をかぶり様々な病気で苦しみのたうちながら死んでいく、それでもかまわないという高度に倫理的な人間集団が住む
地域をつくらなければ、「核のゴミ」は受け入れられないだろう。
朝日新聞は、現実の結果から原因を隠して国民の信頼を得るという姑息な目くらましを捨てて、核廃棄物を受け入れる並外れて高度な人倫の完成体を作るために努力をするべきではないか。
ところでこの「核のゴミ」という表現はやめるべきだ。我々の日常の生活廃棄物のゴミと同程度に軽く考えられるニュアンスがある。そのものズバリの高レベル放射性廃棄物など科学的な言葉をつかうべきである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月26日 (木)

新聞

News & Letters/629
私も新聞を発行している。「室戸市民新聞」である。「高知県民新聞」も出していたが休刊中である。
全て無料配布だ。街並みはもとより野超え山越えて室戸市内の全ての世帯を回って配布しきることを目指している。
4月11日付の新しい新聞を現在室戸市内に配布中である。幾人もの市民から「貴重な新聞だ」と励ましの声をいただいている。
私の新聞が他の新聞と違うのは、単に事実を客観的に報道するというのではない。
腐敗した地方権力の内情を暴き、打倒することを呼び掛ける実践的なものだ。その点では赤旗に似ている。
この新聞は、暴かれた事実に関係のある人にとっては憎しみの対象であろう。しかし、私は、人を憎んでやっているのではない。
関係のある人に会っても礼を尽くし、挨拶をする。その人にむしろ親しみを感ずる。
大きな事件は大概裁判にかけているから、新聞の内容は裁判の記録である。
室戸市や東洋町、高知県庁の行政が正常化すればそれでいい。人はどんな人でも尊重されねばならない。
そして、行政が正常化するためには、新聞で批判するだけではなかなか達成できない。
他の新聞と違うのは、記者である私がその行政の権力を掌握しようとしていることだ。
だから、事実の報道とそのコメントだけでなく、私の新聞ではどうすれば市民の生活が改善されるか、正しい行政とは何かを提示している。
私自身がひとり完全無欠で立派な人格者だという訳ではない。むしろ私は欠陥だらけで修行途中の身であり、毎日、失敗と後悔を繰り返しながら生活をしている。顧みれば恥じ多い人生で初めからやり直したいぐらいだ。
だから他人について個人的なスキャンダラスな事件は書けない。書くのは公の行政や議会に上った事件だけだ。
批判の相手や権力を忖度したり、また批判の相手からの攻撃を恐れて筆を曲げないことだ。
ジャーナリストでもあった若きマルクスがいうように、根本的な批判とは、批判の結果を恐れぬことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月20日 (金)

女性記者の告発

News & Letters/628
財務次官への取材中に次官から受けたセクハラの事実を他社の週刊誌に漏らしたのは
不適切だ、と所属社の幹部が被害女性記者を非難した。なんだこれは。
第一に、女性記者がそうせざるを得ない環境に置いていたその会社の在り方が問われるべきだ。
第二に、セクハラの受難は犯罪の被害だ。取材中であっても刑事犯の被害にあった場合は
被害者は告発する権利がある。それはもはや業務の枠、会社の規則の枠の次元を超えている。
業務中に首を絞められ殺されかかったらどうする?どういう手段を講じても防衛し助けを求めるのは当然のことで会社のルールは及ばない。基本的人権を守るというのは自然法の世界の話で、会社の規則どころか法令の枠を超えた人間の根源的な行為である。特に性の問題は人間の生命現象でその拒絶反応も生命現象的人権である。
取材源の秘匿とか経営上の利得などで論ずべきものではない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

ふるさと産品の開発 り・ボルト社 ウェブログ・ココログ関連 エッセイ オンブズマン町長の視点 スポーツ ニュース パソコン・インターネット ヘーゲル哲学 ホワイトビーチ・ホテル マスコミの報道のありかた マルクス・ノート ローカルエネルギー 三位一体改革と地方自治 世界の核事情 世界遺産 交通問題 人権問題 住民参加のありかた 住民監査請求と地方自治 佐賀での講演会と交流 佐賀との交流 健康づくり 公務員の気概 別件やみ融資事件 医療・福祉の問題 南海地震対策 原子力政策と地方自治 原子力産業の是非 反核運動 司法のありかた 国との折衝 国政問題 国政選挙 土佐電鉄バス 土佐電鉄問題 地域のリーダー 地域評議会 地方の公共交通のありかた 地方自治と原子力政策 地方自治の学校 地産地消 報道のありかた 大月町低レベル放射性廃棄物問題 天皇制について 天皇制のありかた 守口市との交流 室戸市の改革 室戸市メガソーラー問題 室戸市政 室戸市民新聞 市民オンブズマンの観点 市民自治のありかた 市町村合併問題 平和の問題 心と体 情報公開 情報公開のありかた 情報化時代について 憲法改正問題 政治思想ノート 教育のありかた 教育委員について 教育行政のありかた 文化・芸術 旅行・地域 日本の歴史 日本国憲法と地方自治 日記・コラム・つぶやき 映画・テレビ 書籍・雑誌 最高裁の判例 有機農業 東洋町のあるものさがし 東洋町の改革 東洋町の教育問題 東洋町の歴史 東洋町よもやま話 東洋町不正融資事件 東洋町庁議 東洋町役場の日常 東洋町町会議員の解職請求(リコール)に関する裁判 東洋町町長選挙2015 東洋町議会報告 東洋町議会選挙 核廃棄物拒否条例 歴史観・世界観 民主主義の実現と最高裁 民主主義は産業 水産業について 水産物 海の駅東洋町 環境にやさしいまちづくり 環境問題 生涯学習 生見海岸 甲浦地区 町政 町長日誌 白浜海岸 県闇融資事件 社会問題 社会思想 福祉問題 経済・政治・国際 育児 観光開発 読書ノート 警察・司法のあり方 農産物 近隣市町村との交流 道の駅・海の駅開設の為に 部落解放運動 野根地区 関西地区との交流 防災対策 青少年教育 食育 高レベル放射性廃棄物最終処分場 高知県政 高知県議会 高齢者問題 NUMO