歴史観・世界観

2017年8月11日 (金)

北朝鮮と抑止力

News & Letters/584


2017年8月10日 甲浦で稲刈り
北朝鮮の暴発行為はエスカレートの一途である。

しかし、この事件は、大きな真実をあぶり出した。
この真実は多くの平和主義者にはなんとなく分かっていたが、大多数の政治家や国民には全く分からないか 不分明であった。

 それは、北朝鮮の核武装・核ミサイルの無制限な開発によって「核の傘」とか「核抑止力」という想念又は政治思想が全く無力であり虚妄であることを暴露したと言うことだ。

 また、膨大な予算で維持してきた日本の自衛力又は自衛隊が全く無力であり何も出来ないと言うことも実証された。従ってクラウゼヴィッツの『戦争論』も好戦的な半狂人が権力を握る国については無力であることも証明されたと言うべきである。

クラウゼヴィッツの場合、戦争は政治の延長だという理屈であるが、これは政治を行う理性的な人間同士を前提にしている。核兵器を持った狂気の男には通用しない。自分も破滅するが相手も破滅させてやると言う論理、それを現実化できる核兵器の登場は如何なる理性も利害得失も通用しない別世界の、次元の違う非論理の世界なのである。

我々は北朝鮮のキムジョンウンに対抗する手段を持たない。誰も持たない。
ただ、北朝鮮内部でこの世の魔王を消し去る以外には、誰も何も出来ない。

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2017年8月 4日 (金)

国民機関説

News & Letters/582
篠原英朗著の『ほんとうの憲法』は、戦後反改憲派の東大法学部の国民主権論が、戦前の美濃部達吉流の国体論(天皇機関説)の焼き直しであることを暴露した。
しかし、その基軸となるのは、憲法前文の国政信託論であるが、その点では、天皇機関説を攻撃した戦前の右翼と同様に篠原らの現代右翼論客も同じであって、国政は国民が政治家や官僚に信託したという説の上に立っている。
現代憲法学の国民主権論は結局、天皇機関説を→国民機関説に変更しただけなのである。
実態は、国民が主権を行使できるのは基本的に選挙の時だけであって、選挙権を行使した後は、政治家どもに国政は「信託」したことになり、政治家は信託(はく奪)された以上
何をやってもいい。選挙で美辞麗句を並べうそを言って当選して「統治権」を握れば独善的な権力行使をしてもかまわない。
森友学園、加計学園、PKO日報事件などは氷山の一角にすぎない。三権分立などというのはちゃんちゃらおかしい。刑事裁判、行政事件訴訟、原発や自衛隊、安全保障などの裁判では司法が行政権力と一体となって国民の真実、権利を踏みにじる、破たん調の判決文も恥じることはない。
わたしはこれまで、市民オンブズマンとして数えきれないほどの住民訴訟をやってきた。それに対する裁判所の支離滅裂な判決文をいつかまとめて本にしたいと思っている。
日本の地方裁判所(高等裁判所)がいかにでたらめか人が知ればびっくりするだろう。司法が行政権力の藩壁になって原告住民をあざ笑うのである。
戦前の国体と同じく現代の国民主権国家も国民主権は虚構であって実際は
天皇機関説の天皇と同じく粉飾にすぎない。憲法や法令で国民が直接主権を行使できるのは、憲法改正についての国民投票と地方自治法で若干の直接請求権が認められているに過ぎない。
あとは「信託」された政治家と官僚が国政を牛耳っているのであって、その姿は、何ら戦前と変わらないのである。
我々は、三権全般にわたって本当の意味の国民主権の政治のありようを構想し、それを構築しなければならない。

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2017年6月28日 (水)

新天皇制

News & Letters/574

天皇の意向に沿うべく退位法案が成立し、上皇―天皇という重層的な新しい天皇制が誕生した。それが、どういう機能を果たすかわからないが、問題なのはこの法案を可決するに当たって共産党まで含めて翼賛的に全会一致がなされた事実である。

現代の天皇も、北畠親房の神皇正統記流の考えー天皇は常にその仕事(まつりごと)の可否によって「御運」が決まる、という教えがあるから、座して祈るだけでなく一生懸命何かしら働かねばならない。自然災害被災者の見舞いや日本軍による戦争の犠牲者への鎮魂の旅行など・・・それを国民はありがたく、尊いと感激する。狂気のように戦争を主導した昭和天皇よりはるかにましだ。

だからといって天皇制を維持することに加担するべきではない。
天皇制の存在は憲法第14条2項の貴族制度の廃止の規定に反する。それだけではない。
日本のプロレタリアートの階級意識の形成に大きな障害である。階級の敵ブルジョワジーへの戦い、プロレタリア革命はプロレタリアの階級意識の形成にかかっている。

商品として物象化されるプロレタリアートの階級意識の形成には、物象化そのものによって大きな困難を背負うが、特殊日本的には第一に民族植民地問題、第二に、天皇制、第三に部落問題などの困難が重畳される。

だから、ルカーチがいうようにプロレタリアは正しい階級意識を獲得するには「自分自身に対する戦い」すなわち絶えざる「自己批判」が必要なのである。(ゲオルグ、ルカーチ「歴史と階級意識」)堕落した中核派の中には、アジア人民に対する日本人としての反省の意識(血債思想)を攻撃するものもいるが、帝国主義下現代日本プロレタリアの階級意識形成の現実的困難に無頓着というべきである。

天皇が統治権を持たないしその牙は完全に抜かれているから大丈夫だと高をくくってはならない。天皇制を認めることは、現代の階級対立を解消し→天皇を奉戴するブルジョワジーとの城内平和意識に屈服することになる。

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2017年6月11日 (日)

天皇制永続法案成立

News & Letters/569

「退位特例法」という新しい天皇制の法律ができた。

これは天皇制の永続法であり、上皇・天皇・皇嗣・皇室という新天皇制を奉戴し
実は与野党の真の対立は存在せず新天皇制のもとで城内平和(階級対立解消)
が達成できたという歴史的事件である。

戦犯昭和裕仁の罪を償う仕事を象徴天皇として努めてきた平成明仁天皇の意義は
戦争・地震・原発災害で人民の怒りを慰藉解消する国事行為を一生懸命励んだのであるが、
皇室の金枝玉葉の皇位継承が乏しくなり大きな不安をこの際一挙に立て直しを図った。
敗戦直後は戦争責任で天皇制廃滅の危機があった。今回はまさに生理的・物理的理由で皇室の存続の危機に直面した。

今回の皇室の真の狙いは、女性宮家の創設→女性天皇の実現→天皇制永続であろう。

天皇制の護持の第一は、まさに戦争や原発事故などの人災、貧困や差別、権力の専横などに対する人民の怒り→階級対立の激化をやわらげ慰藉し・解体する装置として機能させるためのものである。
今上天皇の気持ちはどうであれ彼が取り組んだ被災地などへの訪問の国事行為はその役割であった。

第二に、さらに進んで、タイの故プミポン王はしばしばタイの内戦で対立陣営を王宮に呼び寄せ対立を鎮静化させてきたが権力側はそれと同じ役割を天皇制に負わせようと構えているのである。階級対立を抑え城内平和とする。
それはもちろん支配権力が進める侵略戦争や環境破壊路線で国民を従順にさせることなのである。

天皇制護持のもう一つの意義は、人間には生まれながら貴賤上下の差別があるということを絶対的教訓として国民の心底に叩き込む、その身分差別の象徴的存在とすることだ。
福沢諭吉は、「学問ノススメ」で天は人の上に人をつくらず・・・と言へり。といって、その文章の後に「されど・・・」と自ら反論して貴賤上下の差別があることを強調した。天皇制がある限り部落差別や在日中朝人民への差別迫害は止まない。

新天皇制の法案にかつて天皇制廃止を掲げていた日本共産党までがひれ伏し「全会一致」で可決したのは画期的であろう。

室戸市吉良川町の大先輩で天皇制官憲によって殺された石建虎兎栄(いしたてことえ)の愛唱歌

    憎しみのるつぼに 赫く燃ゆる
    くろがねの剣を 打ち鍛えよ
          真紅なる旗を見よ 屍の
          築きなす砦に 翻るを見よ

戦争も原発も、天皇制も差別も、安倍政権や権力の圧政の何一つも、すべて乾坤を分かつ階級対立の結果であって憎しみのるつぼで鍛えられたプロレタリアの剣が舞い踊る階級敵の、それらがなせる業であることを見失ってはならない。

憲法では、天皇の地位は国民の総意で決めることになっているが国会議員によって決められた。憲法違反ではないか。

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2017年4月 8日 (土)

戦争の危機

News & Letters/565
トランプアメリカのシリア攻撃によって世界、特に北朝鮮周辺の戦争の危機が現実的脅威になって来た。アメリカが北朝鮮を攻撃すれば、北朝鮮は韓国及び日本に向かって反撃するだろう
金正恩は原爆、細菌兵器、通常兵器・・・あらゆる方法で報復をしてくるであろう。
日本はトランプのおかげで壊滅的打撃を受ける。金正恩の理性を信頼する何物もない。
アメリカはアメリカ第一の方針から、北朝鮮がアメリカに到達するミサイルを開発する前に北朝鮮をつぶしておきたい。トランプは、内政での大失敗の連続から失脚の恐れがあるから、戦争をおっぱじめることによって逆転的に政権を維持し、同時に死の商人たちの支持も取り付けたい。韓国や日本はどうでもよい。
トランプの道は戦争への一筋しかない。
日本のバカ総理は、日本が壊滅するかもしれない成り行きも考えずにトランプの戦争政策をもろ手を挙げて支持した。
北朝鮮の絶望的な報復攻撃をどのように避けるか、避ける道は一つもない。
東京、大阪など大都市、各地の米軍基地、原発施設・・・こういった枢要なところに核弾頭のミサイルが炸裂する。
先のアジア太平洋戦争よりもっと悲惨な戦禍がトランプ・安倍ら亡国の徒輩によって引き起こされるだろう。
アメリカに乗って日本も北朝鮮を攻めるという連中も出てくる。
戦争に反対すること、憲法9条が、今より重大な使命に立つときはない。いかなる武力行使も止めさせなければならない。
戦争法案に反対する、だけではだめだ。戦争の現実的勃発自体に反対しなければ意味がない。
アサドやロシアの爆撃、細菌戦に反対し、アメリカのシリア攻撃にも反対し、そして何よりも今はアメリカによる北朝鮮攻撃に反対しなければならない。

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2017年1月24日 (火)

クラウゼヴィッツノート(1)

News & Letters/545

プロレタリア革命においてクラウゼヴィッツの『戦争論』は有効か。
彼の『戦争論』が19世紀、20世紀を超えて、21世紀の今日でも軍事学の
基本的な古典として使われている。

アメリカ軍のヴェトナム戦争の総括でもその反省のベースは彼の『戦争論』であるという。すなわち、アメリカ軍がヴェトナムに対し殲滅戦を挑まなかったことが敗北の原因とされている。革共同中核派の本多論文(共産主義者第23号所載)もこの『戦争論』を基本的に支持した。

私はクラウゼヴィッツの『戦争論』を支持しない。
この『戦争論』と真っ向から対置しているのは日本国憲法の第9条である。

クラウゼヴィッツの『戦争論』の骨格的なテーゼは二つある。

① 戦争は政治の継続である。

② 戦争では敵を殲滅することが基本的な戦略である。

①について

 この思想は根底から間違っている。それは戦争の合理化であり永続的戦争論である。
確かにクラウゼヴィッツの考えは、これまでの政治家や軍人の考えを反映したものであるといえるが、戦争は政治の継続ではない。戦争は政治の破たんの結果であり、それは、逆に政治の否定であって、人類が市民社会形成以前の野蛮状態における暴力の行使に戻ることを意味する。 これに対決する絶対反戦論を構築する必要がある。

②について

 戦争の目的が、敵の完全な打倒、敵のせん滅であるという理論は、確かに第一次、第二次大戦の実相を予言し、特に戦後の原水爆の登場による核戦争の時代を予想したものとなった。従って、『戦争論』はその理論を丸ごと受け入れるのではなく、一つの壮大な反語として受け止めるべきである。

 すなわち、政治、政治的交渉を止め、国家などが暴力で相手に対処するならば、それは、よく統制されていれば限定戦争に抑制されるが、戦争(暴力)の性質上、いったん戦端が開かれたら互いに絶滅戦を展開することになり、人類の破滅に至ることになるから、政治の継続として戦争を選択してはならない、という反語である。

 しかし、問題なのは、プロレタリアートの反戦・革命闘争及びパルチザン闘争をクラウゼヴィッツの『戦争論』に関連して、その理論的発展として位置づける考え(カール・シュミットら)である。すなわちレーニン、毛沢東、カストロ、ホーチミン・・・・、第二次大戦時のヨーロッパのパルチザンらの戦いをクラウゼヴィッツの理論の発展としてとらえられるのか、である。

そして何よりプロレタリア革命が武装蜂起であるとすれば、その具体的な姿はどうなのか、である。

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2017年1月 3日 (火)

続 革命と暴力(2)

News & Letters/544

現在の日本や世界の情勢は、混迷を深め収拾の目途が全く立たない。
戦争や核兵器の問題にしても、原発の問題、労働者の過重労働と低賃金、原発以外の環境公害問題、差別や迫害・・・・どれも深刻化し、拡大している。
独裁体制の社会ではもとより民主主義政治体制の社会でも、真に民主的に人類の課題を正しく解決できる糸口も見えない。

反体制の大衆運動や革命を目指す諸党派の内部でも、思いあがった指導者が、独善的な運営をしてやまない。
人類を救う正しい政治思想、正しい革命の手法は何か、我々は全力を挙げて研究し討論を深めなければならない。

現在の世界を覆っている資本主義体制を打倒し、新しい人間中心の平和な社会を構築するのはどうしたらよいのか。
回答:プロレタリア革命。確かに圧倒的大多数で社会の生産を担っている労働者大衆が決起する以外にないことは間違いない。
プロレタリアートが決起した際、現行の議会や官僚組織を使って革命の課題を遂行することは到底期待できない。

必ず現体制を擁護している警察、軍隊、裁判所、監獄などの暴力装置がそのプロレタリアートの前に立ちはざかる、ということも確実である。
このブルジョワジーの暴力の発動を阻止するためには武装したプロレタリアートがその暴力装置を暴力的に破壊しなければならない。これも間違いない。
暴力の行使がどの範囲にまで及ぶかは、敵の出方次第である。

我々はこのプロレタリアートの武装蜂起と暴力の行使について初めから予定し準備するものでなければならない。

だが、だからといって、プロレタリアートによる、ブルジョワ体制を転覆し社会主義を目指す革命を暴力革命というべきではない。
敵の暴力装置を破壊する行為は確かに実力行使であり暴力の行使であるが、その暴力はプロレタリア革命の本性を表現するものではなく、革命を生みだす際の助産婦的な意義を持つにすぎない。

革命の母体と生まれた主体は人間であって、時には、ほとんど助産婦の手を煩わすことはない場合もある。
70数年前、高知県の吉良川町の西灘部落で、実際私は産婆さんが来る前に一人でこの世に出てきたということだ。

革共同中核派の最高指導者であった本多延嘉氏の『共産主義者』第23号の論文「戦争と革命の基本問題」は、革命的転変の折に暴力の行使の具体的内容についてはほとんど記述せず、「プロレタリア革命の暴力性」すなわち、「プロレタリア暴力革命」について論ずる。

本多氏はいう
『もともと共産主義革命の暴力性の根拠は、プロレタリアートによる「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」(マルクス『宣言』)のもつ決定的な意義に規定づけられている。』
しかし、そうだろうか。
「共産主義革命の暴力性の根拠」が「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」に求められるのであろうか。

ブルジョワ的私有財産の労働者階級の共有財産化は、プロレタリアートによる権力奪取の後で遂行される最も重要な課題だ。

その時点では、ブルジョワジーの武装解除がなされプロレタリア大衆による民主主義の体制が達成されているから、それは、暴力過程ではなく、社会の圧倒的多数の多数決によって民主的にかつ平穏に遂行される。「専制的侵害」といっても独裁者による専制ではない。プロレタリアートの暴力の行使は、敵権力を打倒し敵権力の暴力装置を破壊するときだけである。

ブルジョワ財産への「侵害」といっても、本来的な侵害ではない。プロレタリアート大衆にとっては当然の回復行為にすぎず、きわめて人間的行為である。
また本多氏は言う、『暴力はプロレタリアート人民の革命的共同体、偉大な世界史的事業を達成する能力を回復するための不可欠の表現形態である。』

この文章は前後二つに分かれている。前の「暴力はプロレタリアート人民の革命的共同体」の文章は、どこへつながっているのか、どこにもつながっていないのか不明である。
後の①・・・ための不可欠の表現形態 につながるのか②・・・を達成する能力を回復・・・・につながるのか、それとも、後のどこにもつながれず独立しているのか、すなわち、暴力は・・・革命的共同体であり、という文章なのか不分明である。しかし、いずれにしても暴力が敵権力を破壊するということよりも、プロレタリアート人民や革命的共同体の本性を形成する上で重要だということである。

そして、本多氏はいう、
『暴力は革命の助産婦である、というとき、革命の担い手と革命の助産婦である暴力の担い手が統一されていることを無視して、あたかも暴力が革命の外部にあって、それが革命をとりあげるように考えるのは、暴力革命に対する許しがたい反革命的敵対の理論である。』

革命の担い手と暴力の担い手が同じプロレタリアートであることは自明であるが、本多氏はその同じというのを「統一」という。

革命の動乱の中でプロレタリアートがするべき課題はたくさんある。敵権力を封殺するための暴力の行使もその一つである。だが、プロレタリアートの任務は、それだけではない。
革命遂行の行為に本命とするものとそれを補完したり助けるものと重要性において差等があるのは当然である。敵権力を暴力で打倒することは最大限重要であると位置づけたとしても暴力の行使が革命の本命ではない。敵を打倒するという暴力行為も革命行為の一つであり、「助産婦」という表現はそれを最小限に抑えようという「表現形態」である。

暴力助産婦論は、何も暴力がプロレタリアートの外部にあるといっているのではない。ここではむしろ、本多氏の助産婦論排撃の意図がマルクスやエンゲルス批判であり、プロレタリア革命がプロレタリアートだけでなく、農民やプチブルジョワ連中に対する説得と合意の獲得(宣伝工作)が最も重要な課題であることを無視し、革命運動の党派や大衆運動の中で異論を唱えるものを片っ端から糾殺する理論を作り上げようとしたところにある。

中核派の「革命軍」の主要な標的はブルジョワ権力やその手先ではなく、党派や自分の言うことを聞かない活動家に向けられていたということは、本多氏の論文の当然の帰着であり、それこそが「反革命的敵対の理論」であろう。自分も又、60年代から70年代にかけて本多氏の下でその部下の一員として活動して、この本多暴力論を読んでいたが、当時はよくわからなかった。

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2016年12月25日 (日)

革命と暴力

News & Letters/542

革共同中核派の関西派が84年三里塚闘争での第四インターへの当時の中核派のテロ攻撃について自己批判した、という。

また、「革共同の敗北」という本で、中核派の元再考幹部らも同様な反省を示した。
しかしもとより、その自己批判は不十分であろう。第一、犠牲者に対する謝罪と賠償はどうするのか、

暴力をふるって半殺しにしました、それは間違っていました、という総括だけですむわけではない。
犠牲者のところへ行って頭を下げ、できる限りの償いをするのが人間というものだ。
しかし、反省は、そんな次元にとどまらない。

①、唯我独尊的な前衛党意識の問題
②、暴力論(とりわけ本多延嘉の「共産主義者第23号」の「戦争と革命の基本問題」での暴力論)の問題
③、糾察隊の組織と実践
これらについて根源的な反省をしなければ、中核派の歴史的な敗北は総括されえない。
①、②、③、 の誤りを具象化した人物は今も組織の中でひそかに生き続けている。私もこの連中の組織した糾察隊の餌食にされたのである。

ここでは、②の本多論文の暴力賛美論について論じる。
本多の暴力論は、マルクスが言う、暴力は革命の助産婦である、などという次元を超えて、暴力の発現が革命そのもの、革命とは暴力の行使だ、プロレタリアートは暴力の権化だととらえた。

これは暴力論としては画期的であり、恐るべきものである。資本主義以前の階級社会では、人民は武装しなければ自己を防衛し人間としての尊厳と理念を実現できないことは確かだ。
しかし、武力によって他を圧倒し自己を暴力体として我意を支配的に社会に打ち立てるというのは常軌を逸脱している。

暴力や武力は社会変革や組織拡大のの手段であり助産婦的なものであって必要悪なのだ。殴りあったり憎悪したりすることはあっても社会変革の基本は大衆的な合意の獲得であり、同意を原則とした組織活動であって、異論を唱える者を暴力的に抹殺することは論外なのである。プロレタリアが武装するのは、常時武装した敵権力の暴力に対抗し、権力を奪取するためである。

不必要に暴力を振るい、敵を殺戮する必要はない。まして、人民内部において、反対派に凌駕するために暴力的殲滅戦のために糾殺行動を組織するなどはそれ自体反革命行為であろう。
本多論文は、その糾殺隊の論理であり、驚くべきものだ。

     1、暴力の原理論 暴力の万能性

【暴力は、かならずしも人間性に敵対する粗暴な行為を意味するものではなく、人間社会の共同利益を擁護するための共同意思の積極的な行為なのである。すなわち、本質的に規定するならば、暴力とは共同体の対立的表現、あるいは対立的に表現されたところの共同性であり、人間性に深く根差したところの人間的行為である。】

暴力は、「共同利益」、「共同意思」、の行為、人間の、行為ではなく、「人間的行為」という口吻には強い肯定的響きがある。これが本多氏の暴力の原理論だ。
さらに、【暴力は原理的には共同利害を前提とし、それを擁護するための人間的な行為なのであって、その意味では、共同利害をつくりだしたり、共同利害を貫徹する手段なのである。
つまり共同利害に基づく共同意思の形成とその対象化された意思を知性としつつ、共同利害を擁護し、維持し、発展させていくためのテコとして強制行為が発現していくのである。】

暴力は、「共同利益」を擁護するだけでなく「共同利害を作りだし」、それを貫徹する「手段」でもある、共同利害を擁護し、維持し、発展させるテコ、ということだから、暴力が人間の歴史をつくり、発展させたということになる。ほとんどジンギスカン的な暴力・征服歴史論ということだろうか。

【共有財産に基礎をもつ原始共同体においては暴力は私有財産や支配、被支配関係を生みだす根拠であったどころか、まさにぎゃくに共同利害、すなわち共同体の成員の人間生活の社会的生産過程(労働における自分の生活の生産と生殖における他人の生活の生産の二契機の統一)の意識的規範であり、したがってまた社会的生産の物質的な前提条件をなす土地を含む生産手段の共同所有ならびに共同管理とそれを基礎とした社会的総労働の比例的な配分と生産物の社会的分配、さらにかかる労働過程を基礎とした生殖=人間関係を規制する意識的規範としての役割をはたしていいたのである。】

暴力についてのこの長い文章の意味が分かる人がいるだろうか。書いてあることはわかるが意味が不明である。
文字通りに読めば、暴力が人間の社会的生産過程の「意識的規範」だというのである。規範というのは法令のようなものであろう。

暴力が人間関係を規制する規範だというのだから、暴力団が暴力で社会を支配するそういう社会の話か、戦国時代の話なのだろうか。この話は特殊な歴史的社会のことではなく、
人間の原理的な暴力の性質を記述するところだから、暴力が歴史の創成、社会の維持、規範など人間生活全般を貫徹し、支配している原動力のようなものということを意味するのか。

法令や倫理など「規範」は、階級社会では、支配階級の利害を確保するためにつくられるが、暴力そのものではない。原始共同体でも社会には規範はあったであろう。その規範を支えるために強制力=暴力が行使されるということもあったであろう。しかし、規範は暴力そのものではない。それが人間社会の意識的規範だというのは、規範のないあからさまな暴力社会の話であろう。

あるいは、暴力を優勢的に行使することが社会の規範となったということか、いずれにしても本多氏は、社会が暴力でもって成り立っているということを言いたいのであろう。

     2、プロレタリア暴力革命  マルクスを超越

【プロレタリア暴力革命は、「敵の出方」や「一定の条件」や「身の程知らぬ敵の反撃」なるものによって採用される革命の戦術的形態を意味するものではなく、プロレタリアート人民の自己解放の本質的規定性を意味しているのである。】

これはどういうことか。少し長くなるが本多氏の最も核心的な主張を引用する。

【暴力はプロレタリアート人民の革命的共同性、偉大な世界史的事業を達成する能力を回復するための不可欠の表現形態である、ということである。
もともと共産主義革命の暴力性の根拠は、プロレタリアートによる「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」(マルクス『宣言』)のもつ決定的な意義に規定づけられている。
しかし、われわれは、この規定の内包する意義について、ただたんにブルジョワ的所有権の侵犯の不可避というような理解におしとどめてはならない。

そうではなしに、われわれは、労働力の商品化という「平等」の交換過程をとおして形成される労働者の非人間的現実の根拠であるブルジョワ的私有財産をプロレタリアートが専制的に没収し、労働者階級の共有財産として転化していく暴力的過程が、まさにプロレタリアートの革命的共同性を現実に形成し、自己解放の物資的前提条件とその主体的な自覚と能力を統一的に創成する過程である、と積極的に位置づけることから出発しなくてはならないのである。

プロレタリアート人民の革命的蜂起とその武装の問題、革命的前衛党の指導のもとでの計画的、系統的準備の問題は、プロレタリア暴力革命の最も高度な内容をなすものである。平和革命になるか、暴力革命になるかは敵の出方による、という見解(日共)、一定の条件のもとで、しかも敵が身のほどを知らずに反撃してきた場合には暴力革命をとることもある、という見解(カクマル)をもって、プロレタリア暴力革命に敵対するものは、プロレタリアート人民の革命性、自己解放の事業のもっとも深部の敵対者である。】

共産党宣言では「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」について暴力的過程を必然とするとはいっていない。
それを記述する前に『宣言』は、プロレタリアートを支配階級にすることと同時に「民主主義を闘い取ること」を前提にしている。

プロレタリアートが支配階級になるには、耐えがたい抑圧と搾取への革命的爆発の中でブルジョワジーを「暴力的に転覆」するとしているが、プロレタリアートが権力を握ったら、ブルジョワジーの私有財産の収奪など革命の諸目的の遂行はブルジョワ側から見れば「専制」的であっても、あくまでも民主主義的に実行されるのである。
『宣言』では、暴力は、革命情勢の中でプロレタリアートがブルジョワ体制を転覆するときに使われるとした。

本多氏は、ブルジョワジーの私有財産の「専制的侵害」を暴力とし、それを暴力過程に入れた。
それだけでなくさらにマルクスを超えて、「プロレタリアートの革命的共同性を現実に形成し、自己解放の物質的前提条件とその主体的な自覚と能力を統一的に創成する過程」をも「暴力的過程」として「積極的に位置づける」必要があるという。だから、革命だけではなくその準備段階から人民内部での組織活動や党派闘争も暴力過程に含まれることになる。

暴力が、「プロレタリア人民の自己解放の本質的規定性を意味している」、というのは、プロレタリア人民は、暴力の権化であり、プロレタリアートの指導機関であり、暴力の発動機関である前衛党の暴力装置として位置づけられる、ということである。
第四インターへのテロの自己批判は、このような暴力礼賛、マルクス主義というより暴力主義思想に汚染された革共同中核派の核心的思想まで踏み込んだ反省にまで及ばなければならない。

この本多氏の暴力理論は、権力に対してその暴力が振るわれるとき、それ相応の威力があり意義があったであろう。だが、人間解放の哲学であるマルクス主義とは、何の関係もない。

激動の60年代~70年代に諸戦線で果敢に権力に立ち向かって戦った中核派の青年たちは、本多氏の暴力論に取りつかれて立ち上がったのではない。
だが、一部の中核派内部の幹部には、(いまもなお)この本多暴力論に心酔し、糾殺隊までを組織して暗躍した連中がいた。

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2016年12月 9日 (金)

天皇制

News & Letters/540

 天皇制についてこれを解消すべきだと主張しているのは日本共産党だけだ。さすがだ。
 共産党(綱領)は、しかし、天皇制を廃止するには憲法を変える必要があるから、時機を見て取り上げるという。

 しかし、憲法第1条では、天皇の地位は国民の総意で決めるということになっている。
したがって、天皇制を廃止することも国民投票によって決することができる。
 皇室典範があってもそれは天皇一家の私的な法律となり、国政に影響しない。
 天皇の地位は、国民一般と同等とするという決議を国民投票で可決すれば天皇制は実質的に終わるだろう。

  皇室典範は法律であるから、その決議に基づいて国会で自在に改変することができる。
現在天皇自身がその過酷な公務から悲鳴を上げておられる状況から根本的に開放するには
天皇の地位そのものを国民投票で決すべきであって、耄碌した有識者や右翼論客に任せるべきではない。

 この措置は憲法第14条の趣旨にも合致するものである。
 天皇といえども人が嫌がることを強制しようとする右翼学者たちの言動は、強要罪が該当するのではないか。

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2016年11月26日 (土)

言論の封殺

News & Letters/537

 私の言論に対する封殺攻撃は幾回かあった。

一つは、全国部落研と中核派との路線論争である。
この論争に対しては橋本利昭らが私に対して2組の糾殺隊を組織して白色テロを実行して封殺に成功した。糾殺隊の隊長はFとYであったという。この白色テロによって澎湃と台頭していた革命的な解放運動がつぶされた。

大衆運動を指導中の反対派を暴力でつぶすというのはスターリン主義の真髄でありマルクスレーニン主義とは正反対の反革命そのものだ。

次に、私が東洋町の町役場に入って、行政内外の不正行為を次々と暴きこのブロッグに載せたが、それに対して一部の町民からブログそのものをやめろという攻撃が続いた。しかし私は断固としてこれを拒否した。

今、私が九州で反原発の運動を展開してきた。それは九州の人の要請であり、私もやらねばならないと決心してやっている。

しかし、最近の私の本ブログなどの言論について厳しい査問とも思える規制行為を受けた。
私の主張は、政府文科省の地震調査研究推進本部の「新レシピ」を原発再稼働の裁判や運動で主張すべきだ。

そのレシピでも電力会社が各原発で設定した基準地震動の値を大きく超過し、原発は動かせなくなる、というものであるが、これは何も私の独創ではなく、すでに全国各地の反原発住民訴訟で重要な戦いの武器として使われているし、脱原発全国弁護団連絡会(海渡、河合弁護士らが主導)も原子力規制委員会に対し、このレシピに基づいて全国の原発の過小な規準地震動を計算しなおせという「要請書」を出している。特に「若狭ネット」で大阪府立大の長沢教授がこの政府のレシピの住民裁判での活用を強調している。

だが、玄海原発に対する二つの陣営がやっているそれぞれの裁判では、このレシピに基づく主張は何も出されていない。裁判で有力な新証拠を取り上げることが重要なことは言うまでもない。他の裁判闘争で活用している武器をどうして使わないか不可思議だ。佐賀を拠点する二つの陣営のうち一つが、そのレシピで計算すれば玄海の竹木場断層についての規準地震動は、現行の520ガルをはるかかに超えることが確認された。

それでもこのレシピを使わないという。政府の推本が、このレシピを作ったのも市民側の地震学者たちの批判活動の結果である。

武村方式に比べれば完ぺきとは言えないかもしれないが、政府推本のレシピでも全国の原発の現行の基準地震動を超えるという事実は、電力会社や原子力委員会にとっては脅威であり、裁判では窮地に立たされる。原子力委員会や経産省は政府部内、地震学会でも孤立しているという状況だ。

だが、佐賀の裁判闘争をやっている人たちは、これを取り上げようとしないばかりか、その状況を私がブログで明らかにしたことについて「私たちの裁判をつぶす気か」などと罵倒を浴びせ、ブログやメールで取り上げることを止めろという圧力をかけてきだした。
それはほとんど査問に等しいものだった。その男達は平然と言う。「九電などへの質問など運動面でその「新レシピ」を出さないことにしたのも私たちの裁判に影響があるからだ」いったいこの男は何者なのだろうか。誰かに対する「信義」を大事にしなければならないという。その誰かの計算でも新レシピは九電の基準地震動を超えるという数値を出していた。

それでも、それを使わないという。使わないというその理由に合理性があるであろうか。かれは、そのレシピについてずっと前から知っていて、使わないことに合理的理由は何もないことも知っている。論理的に言えば、合理的理由がないということは不合理な理由ということだ。それで勝つかもしれない有力な証拠を裁判で使わないということでは、非難を浴びるだろう。

糾殺隊の暴力なら私も黙らざるを得ない。命を惜しんで逃げなければならないからだ。しかし査問ぐらいで私の言論を封ずることはできない。今このブログでは実名を伏せているが、不当な言論封殺には、合法的ないかなる対抗手段も辞さない。玄海原発のもとに九州や中四国の人間の命がかかっているのである。

会計や人間関係など団体のプライバシイは守らねばならない。だが運動論や裁判方針などは、公然と討論されなければならない。大衆団体は党派ではないのだから、結果だけでなく、結果に至る論議もオープンでなければならない。党派を含むいかなる組織も官僚的な統制や暴力による抑圧で内部の異論を封殺してはならない。大衆運動の中で民主主義は鍛えられねばならない。自由な言論は民主主義の根幹である。

 明治二年、地元佐賀藩の首班に就いた江藤新平は民主主義でも現代を超えるような構想を持ちそれを実施しようとしていた。すなわち「民政仕組書」である。それによれば、直接民主主義を基盤にして議会と行政組織を確立しようとしていた。

人民は、各戸から200人単位の直接民主主義の議会に全員が参加し、投票で行政担当者を選らび、諸事を審議決定し、行政を質すこともできた。

このような思想を生み出した佐賀での大衆運動は、権力者に民主主義を要求するだけでなく、江藤の構想に沿うような民主主義を自ら実行しなければならない。
党派でも大衆運動団体でも、言論統制は人権侵害であり、してはならない。異論や少数意見の中に真実や勝利のカギが胚胎しているかもしれないのである。

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