社会思想

2017年3月16日 (木)

朕は不快である

News & Letters/556

明治時代に作られた教育勅語は、時代錯誤であるとか、国民主権に反するものだとか
いろいろな批判がある。籠池幼稚園では教育勅語が暗唱されている。私の母親も暗唱できていた。
しかし、教育勅語は国民の子弟が暗唱するようなものではない。こんな声が聞こえてくる。

朕は不快だ。爾臣民の子供らが、「朕思うに皇祖皇宗・・・爾臣民…父母に孝…」などというのは怪しからん。
朕の口真似をして 臣民の身分でありながら 朕とか爾臣民などという言葉を使って得意になっている。
教育勅語は、天皇である朕が爾臣民に教訓を垂れるもので、この文句を練習するのは、朕の息子以外誰にも許されない。
朕という言葉は、天皇にのみ許された自称だ。ただの臣民である籠池や稲田らが、朕という尊称を使った教訓文を
訳の分からない子供らに唱えさせるのは、立場をわきまえない不敬行為である。
朕はすでに死んだ。教育勅語も朕とともに死んだ。朕、朕というな。ばか。

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2017年3月 4日 (土)

豊中の安倍小学校の教育勅語

News & Letters/553
巨魁の表裏二つの醜い姿が現れている。
①国政国有財産を私物化し、②国民を権力者の臣民奴隷化する。
①と②が美しい日本の本性である。きゃつらが大好きなのは教育勅語だ。
「国憲を重んじ国法に遵ひ、一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以って天壌無窮の皇運を・・・」
これらはすべて「爾臣民」に対してであって、自分たちは国民の犠牲の上に
国憲は軽んじ、国法は踏み破り、いつでも公のものを私物化し、残虐な歴史で血塗らた天皇家とともに安倍一族ら世襲権力族が永久に自由を満喫し?栄することをうたう。
彼らは天皇や皇室を尊崇する気持ちは全くなく、ただ支配の道具として使いたいだけである。
豊洲にしろ豊中にしろ、室戸市や東洋町、高知県庁・・・いたるところ公のものの私物化が進む。
住民訴訟の大半が、この私物化と人権蹂躙に対する抗議活動だ。
民主主義の下で、爾(なんじ)臣民を黙らせ何も見えないようにして 権力をとった連中が公共物を私物化しているのである。
だから、教育勅語は時代錯誤ではなく、現代も生きているのである。
教育勅語は、皇祖皇宗の虚偽の歴史認識にたって、美化された天皇を頂点とする権力者に対し、それに屈従する臣民の儒教的封建的義務を押し付けアジア侵略戦争体制を構築する教育の真髄を表すものである。
反体制側の種々の運動の中で果たして、これに対抗できる民主主義が構築されているだろうか。

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2017年1月24日 (火)

クラウゼヴィッツノート(1)

News & Letters/545

プロレタリア革命においてクラウゼヴィッツの『戦争論』は有効か。
彼の『戦争論』が19世紀、20世紀を超えて、21世紀の今日でも軍事学の
基本的な古典として使われている。

アメリカ軍のヴェトナム戦争の総括でもその反省のベースは彼の『戦争論』であるという。すなわち、アメリカ軍がヴェトナムに対し殲滅戦を挑まなかったことが敗北の原因とされている。革共同中核派の本多論文(共産主義者第23号所載)もこの『戦争論』を基本的に支持した。

私はクラウゼヴィッツの『戦争論』を支持しない。
この『戦争論』と真っ向から対置しているのは日本国憲法の第9条である。

クラウゼヴィッツの『戦争論』の骨格的なテーゼは二つある。

① 戦争は政治の継続である。

② 戦争では敵を殲滅することが基本的な戦略である。

①について

 この思想は根底から間違っている。それは戦争の合理化であり永続的戦争論である。
確かにクラウゼヴィッツの考えは、これまでの政治家や軍人の考えを反映したものであるといえるが、戦争は政治の継続ではない。戦争は政治の破たんの結果であり、それは、逆に政治の否定であって、人類が市民社会形成以前の野蛮状態における暴力の行使に戻ることを意味する。 これに対決する絶対反戦論を構築する必要がある。

②について

 戦争の目的が、敵の完全な打倒、敵のせん滅であるという理論は、確かに第一次、第二次大戦の実相を予言し、特に戦後の原水爆の登場による核戦争の時代を予想したものとなった。従って、『戦争論』はその理論を丸ごと受け入れるのではなく、一つの壮大な反語として受け止めるべきである。

 すなわち、政治、政治的交渉を止め、国家などが暴力で相手に対処するならば、それは、よく統制されていれば限定戦争に抑制されるが、戦争(暴力)の性質上、いったん戦端が開かれたら互いに絶滅戦を展開することになり、人類の破滅に至ることになるから、政治の継続として戦争を選択してはならない、という反語である。

 しかし、問題なのは、プロレタリアートの反戦・革命闘争及びパルチザン闘争をクラウゼヴィッツの『戦争論』に関連して、その理論的発展として位置づける考え(カール・シュミットら)である。すなわちレーニン、毛沢東、カストロ、ホーチミン・・・・、第二次大戦時のヨーロッパのパルチザンらの戦いをクラウゼヴィッツの理論の発展としてとらえられるのか、である。

そして何よりプロレタリア革命が武装蜂起であるとすれば、その具体的な姿はどうなのか、である。

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2017年1月 6日 (金)

クラゥゼヴィッツ「戦争論」

News & Letters/544

本多延嘉氏の暴力革命論は、結局クラウゼヴィッツの『戦争論』に行き着く。本多氏はクラウゼヴィッツの『戦争論』を高く評価する。
本多氏の共産主義者第23号の論文(「戦争と革命の基本問題」)はクラウゼヴィッツの焼き直しであろう。

ナポレオン時代のこの『戦争論』については、今も世界中の軍人や政治家がほめそやす。
それを最も称賛したのはヒットラーである。問題は、エンゲレスとレーニンがこれを高く評価している点である。

マルクスがこれをどう評価したかについては、私は未だ知らない。
結論から言うと、反戦運動をしてきた私は学生時代からこのクラウゼヴィッツの戦争理論を評価しない。

なぜか。この書は、徹頭徹尾戦争肯定論である。戦争(暴力)は政治の継続であるとしたが、逆に言えば政治は戦争の継続という位置づけだ。
それは外敵だけでなく内部の敵対勢力・民衆にも向けられた国家の暴力の正当化の論理である。

マルクス宛の手紙ではエンゲレスの評価は、この戦争理論はあたかも商取引と同じであると理解しているから、プロレタリアートの理論として評価しているようには見えない。レーニンの評価は、戦争は政治の継続であるというクラウゼヴィッツの主張を特に評価している。

レーニンは経済学や軍事的戦略家としては素晴らしい能力を発揮した。しかし、マルクスの経てきた哲学(特にフォイエルバッハを媒介としたヒューマニズム)の思想は探求した後がない。だから我々は、マルクス・レーニン主義であって、レーニン主義ではない。

レーニンはパリコミューンの総括で、二つの欠点を挙げた。その一つが武装したプロレタリアートの「寛大さ」であった。

確かに反革命のヴェルサイユの政府を打倒しなかったのはパリの労働者の最大の失敗であるが、しかし、それはプロレタリアートの「寛大さ」とは関係がないと思う。プロレタリアートの「寛大さ」はプロレタリアの本性であり、革命の性格から発したものである。
クラウゼヴィッツは、近代戦争の性格は、いろいろな事情で緩和されるとしても原理的には敵勢力のせん滅にあると主張する。皆殺し理論だ。

反戦の旗を掲げてきた我々は、クラウゼヴィッツの『戦争論』とは全く違った想念で現代の戦争に立ち向かってきた。
国のため、民族のための一切の戦争を認めない。外敵に侵入されるときブルジョワジーは敵に国土と人民売り渡すことも辞さないだろう。

自国のブルジョワジーであれ、他国の外敵であれ、われわれは、それらを撃退するプロレタリア革命を遂行するだけである。
プロレタリア革命を達成するには、それだけに頼ることはできないが平和的手段が使える場合は、できる限りそれを使わねばならない。

しかし、結局は武装闘争の修羅場をくぐらねばならないということは片時も忘れてはならないし、その準備を怠ってはならない。

ドイツの戦争扇動詩人シラーの熱情が込められたクラウゼヴィッツの『戦争論』(その行き着くところはヒットラーナチスであり、軍国日本)の根底的拒否がマルクス主義の出発点でなければならない。クラウゼヴィッツの戦争肯定論に根差した本多氏の暴力革命論もきっぱりと拒絶されねばなるまい。

クラウゼヴィッツの戦争理論についてさらに考究して行く。

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2017年1月 3日 (火)

続 革命と暴力(2)

News & Letters/544

現在の日本や世界の情勢は、混迷を深め収拾の目途が全く立たない。
戦争や核兵器の問題にしても、原発の問題、労働者の過重労働と低賃金、原発以外の環境公害問題、差別や迫害・・・・どれも深刻化し、拡大している。
独裁体制の社会ではもとより民主主義政治体制の社会でも、真に民主的に人類の課題を正しく解決できる糸口も見えない。

反体制の大衆運動や革命を目指す諸党派の内部でも、思いあがった指導者が、独善的な運営をしてやまない。
人類を救う正しい政治思想、正しい革命の手法は何か、我々は全力を挙げて研究し討論を深めなければならない。

現在の世界を覆っている資本主義体制を打倒し、新しい人間中心の平和な社会を構築するのはどうしたらよいのか。
回答:プロレタリア革命。確かに圧倒的大多数で社会の生産を担っている労働者大衆が決起する以外にないことは間違いない。
プロレタリアートが決起した際、現行の議会や官僚組織を使って革命の課題を遂行することは到底期待できない。

必ず現体制を擁護している警察、軍隊、裁判所、監獄などの暴力装置がそのプロレタリアートの前に立ちはざかる、ということも確実である。
このブルジョワジーの暴力の発動を阻止するためには武装したプロレタリアートがその暴力装置を暴力的に破壊しなければならない。これも間違いない。
暴力の行使がどの範囲にまで及ぶかは、敵の出方次第である。

我々はこのプロレタリアートの武装蜂起と暴力の行使について初めから予定し準備するものでなければならない。

だが、だからといって、プロレタリアートによる、ブルジョワ体制を転覆し社会主義を目指す革命を暴力革命というべきではない。
敵の暴力装置を破壊する行為は確かに実力行使であり暴力の行使であるが、その暴力はプロレタリア革命の本性を表現するものではなく、革命を生みだす際の助産婦的な意義を持つにすぎない。

革命の母体と生まれた主体は人間であって、時には、ほとんど助産婦の手を煩わすことはない場合もある。
70数年前、高知県の吉良川町の西灘部落で、実際私は産婆さんが来る前に一人でこの世に出てきたということだ。

革共同中核派の最高指導者であった本多延嘉氏の『共産主義者』第23号の論文「戦争と革命の基本問題」は、革命的転変の折に暴力の行使の具体的内容についてはほとんど記述せず、「プロレタリア革命の暴力性」すなわち、「プロレタリア暴力革命」について論ずる。

本多氏はいう
『もともと共産主義革命の暴力性の根拠は、プロレタリアートによる「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」(マルクス『宣言』)のもつ決定的な意義に規定づけられている。』
しかし、そうだろうか。
「共産主義革命の暴力性の根拠」が「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」に求められるのであろうか。

ブルジョワ的私有財産の労働者階級の共有財産化は、プロレタリアートによる権力奪取の後で遂行される最も重要な課題だ。

その時点では、ブルジョワジーの武装解除がなされプロレタリア大衆による民主主義の体制が達成されているから、それは、暴力過程ではなく、社会の圧倒的多数の多数決によって民主的にかつ平穏に遂行される。「専制的侵害」といっても独裁者による専制ではない。プロレタリアートの暴力の行使は、敵権力を打倒し敵権力の暴力装置を破壊するときだけである。

ブルジョワ財産への「侵害」といっても、本来的な侵害ではない。プロレタリアート大衆にとっては当然の回復行為にすぎず、きわめて人間的行為である。
また本多氏は言う、『暴力はプロレタリアート人民の革命的共同体、偉大な世界史的事業を達成する能力を回復するための不可欠の表現形態である。』

この文章は前後二つに分かれている。前の「暴力はプロレタリアート人民の革命的共同体」の文章は、どこへつながっているのか、どこにもつながっていないのか不明である。
後の①・・・ための不可欠の表現形態 につながるのか②・・・を達成する能力を回復・・・・につながるのか、それとも、後のどこにもつながれず独立しているのか、すなわち、暴力は・・・革命的共同体であり、という文章なのか不分明である。しかし、いずれにしても暴力が敵権力を破壊するということよりも、プロレタリアート人民や革命的共同体の本性を形成する上で重要だということである。

そして、本多氏はいう、
『暴力は革命の助産婦である、というとき、革命の担い手と革命の助産婦である暴力の担い手が統一されていることを無視して、あたかも暴力が革命の外部にあって、それが革命をとりあげるように考えるのは、暴力革命に対する許しがたい反革命的敵対の理論である。』

革命の担い手と暴力の担い手が同じプロレタリアートであることは自明であるが、本多氏はその同じというのを「統一」という。

革命の動乱の中でプロレタリアートがするべき課題はたくさんある。敵権力を封殺するための暴力の行使もその一つである。だが、プロレタリアートの任務は、それだけではない。
革命遂行の行為に本命とするものとそれを補完したり助けるものと重要性において差等があるのは当然である。敵権力を暴力で打倒することは最大限重要であると位置づけたとしても暴力の行使が革命の本命ではない。敵を打倒するという暴力行為も革命行為の一つであり、「助産婦」という表現はそれを最小限に抑えようという「表現形態」である。

暴力助産婦論は、何も暴力がプロレタリアートの外部にあるといっているのではない。ここではむしろ、本多氏の助産婦論排撃の意図がマルクスやエンゲルス批判であり、プロレタリア革命がプロレタリアートだけでなく、農民やプチブルジョワ連中に対する説得と合意の獲得(宣伝工作)が最も重要な課題であることを無視し、革命運動の党派や大衆運動の中で異論を唱えるものを片っ端から糾殺する理論を作り上げようとしたところにある。

中核派の「革命軍」の主要な標的はブルジョワ権力やその手先ではなく、党派や自分の言うことを聞かない活動家に向けられていたということは、本多氏の論文の当然の帰着であり、それこそが「反革命的敵対の理論」であろう。自分も又、60年代から70年代にかけて本多氏の下でその部下の一員として活動して、この本多暴力論を読んでいたが、当時はよくわからなかった。

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2016年12月30日 (金)

続 暴力と革命

News & Letters/543

プロレタリアートが革命情勢の中で、権力を奪取するためには、その統治機構を「暴力的に転覆」する必要がある、とマルクスは『宣言』で書いた。
だからといって、本多氏の唱えるようにプロレタリア革命が本質的に暴力主義革命ということにはならない。

本多氏は、人間の歴史の根源から、すなわち原始共同体の時代から共同体の意思の形成過程も含めて社会そのものが暴力によって作られてきた、プロレタリア革命も「プロレタリア暴力革命」であり、プロレタリアートの共同意思の形成・権力の奪取、革命の遂行の全過程が暴力の貫徹過程というとらえ方をする。

権力と渡り合う闘争だけでなく、党派闘争はもとより人民内部の革命運動の組織活動もまた暴力過程に位置づけられるというのである。
暴力はすでに革命の助産婦ではなく、革命の本質であり、「規範」でもある。

しかし、レーニンが『国家と革命』で高く評価したマルクスのパリコミューンの描写(『フランスにおける内乱』)では、全くそのようなものではない。
『フランスにおける内乱』の第2章や第3章をつぶさに見ればわかる。その一節を以下引用するが読者はこの際その本を読むべきだ。

”3月18日からヴェルサイユ軍のパリ進入まで、プロレタリア革命は、「上流階級」の革命に、ましてその反革命にふんだんに見られる暴力行為を、まったくともなわなかったので、ルコント、クレマン・トマ両将軍の処刑と、ヴァンドーム広場事件と除けば、その敵が騒ぎ立てる材料となるような事件はなにも起こらなかった。”

悪逆無道な両将軍の処刑や、ヴァンドーム広場事件についてやむを得ない理由を述べながら、マルクスは、パリコミューンでのプロレタリアの「寛大さ」、「武装した労働者の雅量」をむしろ強調している。パリコミューンはもとより一時的な達成物にすぎなかったし、プロレタリアートも未成熟であったが、ブルジョワ的な常備軍や官僚機構、議会が廃止され真の民主主義(Representative democracyではなく Direct democracy)が徹底された。

革命的転変の中で激しい市街戦などで死者が出るとしても、殺戮そのものが目的でもなく、あくまでも暴力そのものは革命の助産婦であり必要悪にすぎない。

プロレタリア革命は、すでに現体制の中にはらまれ、支配階級の桎梏のもとに抑圧された、人間本来の自由・平等への意思の実現、労働の解放を通じて人類の再連帯を勝ち取る運動であって、そのはじめに、敵の暴力装置を破壊し(この時暴力の行使もひるまない)、革命を守るために武装蜂起が必要なのである。

憎しみと復讐による、あるいは「規範」とまで高められた暴力の解放行為ではない。

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2016年12月25日 (日)

革命と暴力

News & Letters/542

革共同中核派の関西派が84年三里塚闘争での第四インターへの当時の中核派のテロ攻撃について自己批判した、という。

また、「革共同の敗北」という本で、中核派の元再考幹部らも同様な反省を示した。
しかしもとより、その自己批判は不十分であろう。第一、犠牲者に対する謝罪と賠償はどうするのか、

暴力をふるって半殺しにしました、それは間違っていました、という総括だけですむわけではない。
犠牲者のところへ行って頭を下げ、できる限りの償いをするのが人間というものだ。
しかし、反省は、そんな次元にとどまらない。

①、唯我独尊的な前衛党意識の問題
②、暴力論(とりわけ本多延嘉の「共産主義者第23号」の「戦争と革命の基本問題」での暴力論)の問題
③、糾察隊の組織と実践
これらについて根源的な反省をしなければ、中核派の歴史的な敗北は総括されえない。
①、②、③、 の誤りを具象化した人物は今も組織の中でひそかに生き続けている。私もこの連中の組織した糾察隊の餌食にされたのである。

ここでは、②の本多論文の暴力賛美論について論じる。
本多の暴力論は、マルクスが言う、暴力は革命の助産婦である、などという次元を超えて、暴力の発現が革命そのもの、革命とは暴力の行使だ、プロレタリアートは暴力の権化だととらえた。

これは暴力論としては画期的であり、恐るべきものである。資本主義以前の階級社会では、人民は武装しなければ自己を防衛し人間としての尊厳と理念を実現できないことは確かだ。
しかし、武力によって他を圧倒し自己を暴力体として我意を支配的に社会に打ち立てるというのは常軌を逸脱している。

暴力や武力は社会変革や組織拡大のの手段であり助産婦的なものであって必要悪なのだ。殴りあったり憎悪したりすることはあっても社会変革の基本は大衆的な合意の獲得であり、同意を原則とした組織活動であって、異論を唱える者を暴力的に抹殺することは論外なのである。プロレタリアが武装するのは、常時武装した敵権力の暴力に対抗し、権力を奪取するためである。

不必要に暴力を振るい、敵を殺戮する必要はない。まして、人民内部において、反対派に凌駕するために暴力的殲滅戦のために糾殺行動を組織するなどはそれ自体反革命行為であろう。
本多論文は、その糾殺隊の論理であり、驚くべきものだ。

     1、暴力の原理論 暴力の万能性

【暴力は、かならずしも人間性に敵対する粗暴な行為を意味するものではなく、人間社会の共同利益を擁護するための共同意思の積極的な行為なのである。すなわち、本質的に規定するならば、暴力とは共同体の対立的表現、あるいは対立的に表現されたところの共同性であり、人間性に深く根差したところの人間的行為である。】

暴力は、「共同利益」、「共同意思」、の行為、人間の、行為ではなく、「人間的行為」という口吻には強い肯定的響きがある。これが本多氏の暴力の原理論だ。
さらに、【暴力は原理的には共同利害を前提とし、それを擁護するための人間的な行為なのであって、その意味では、共同利害をつくりだしたり、共同利害を貫徹する手段なのである。
つまり共同利害に基づく共同意思の形成とその対象化された意思を知性としつつ、共同利害を擁護し、維持し、発展させていくためのテコとして強制行為が発現していくのである。】

暴力は、「共同利益」を擁護するだけでなく「共同利害を作りだし」、それを貫徹する「手段」でもある、共同利害を擁護し、維持し、発展させるテコ、ということだから、暴力が人間の歴史をつくり、発展させたということになる。ほとんどジンギスカン的な暴力・征服歴史論ということだろうか。

【共有財産に基礎をもつ原始共同体においては暴力は私有財産や支配、被支配関係を生みだす根拠であったどころか、まさにぎゃくに共同利害、すなわち共同体の成員の人間生活の社会的生産過程(労働における自分の生活の生産と生殖における他人の生活の生産の二契機の統一)の意識的規範であり、したがってまた社会的生産の物質的な前提条件をなす土地を含む生産手段の共同所有ならびに共同管理とそれを基礎とした社会的総労働の比例的な配分と生産物の社会的分配、さらにかかる労働過程を基礎とした生殖=人間関係を規制する意識的規範としての役割をはたしていいたのである。】

暴力についてのこの長い文章の意味が分かる人がいるだろうか。書いてあることはわかるが意味が不明である。
文字通りに読めば、暴力が人間の社会的生産過程の「意識的規範」だというのである。規範というのは法令のようなものであろう。

暴力が人間関係を規制する規範だというのだから、暴力団が暴力で社会を支配するそういう社会の話か、戦国時代の話なのだろうか。この話は特殊な歴史的社会のことではなく、
人間の原理的な暴力の性質を記述するところだから、暴力が歴史の創成、社会の維持、規範など人間生活全般を貫徹し、支配している原動力のようなものということを意味するのか。

法令や倫理など「規範」は、階級社会では、支配階級の利害を確保するためにつくられるが、暴力そのものではない。原始共同体でも社会には規範はあったであろう。その規範を支えるために強制力=暴力が行使されるということもあったであろう。しかし、規範は暴力そのものではない。それが人間社会の意識的規範だというのは、規範のないあからさまな暴力社会の話であろう。

あるいは、暴力を優勢的に行使することが社会の規範となったということか、いずれにしても本多氏は、社会が暴力でもって成り立っているということを言いたいのであろう。

     2、プロレタリア暴力革命  マルクスを超越

【プロレタリア暴力革命は、「敵の出方」や「一定の条件」や「身の程知らぬ敵の反撃」なるものによって採用される革命の戦術的形態を意味するものではなく、プロレタリアート人民の自己解放の本質的規定性を意味しているのである。】

これはどういうことか。少し長くなるが本多氏の最も核心的な主張を引用する。

【暴力はプロレタリアート人民の革命的共同性、偉大な世界史的事業を達成する能力を回復するための不可欠の表現形態である、ということである。
もともと共産主義革命の暴力性の根拠は、プロレタリアートによる「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」(マルクス『宣言』)のもつ決定的な意義に規定づけられている。
しかし、われわれは、この規定の内包する意義について、ただたんにブルジョワ的所有権の侵犯の不可避というような理解におしとどめてはならない。

そうではなしに、われわれは、労働力の商品化という「平等」の交換過程をとおして形成される労働者の非人間的現実の根拠であるブルジョワ的私有財産をプロレタリアートが専制的に没収し、労働者階級の共有財産として転化していく暴力的過程が、まさにプロレタリアートの革命的共同性を現実に形成し、自己解放の物資的前提条件とその主体的な自覚と能力を統一的に創成する過程である、と積極的に位置づけることから出発しなくてはならないのである。

プロレタリアート人民の革命的蜂起とその武装の問題、革命的前衛党の指導のもとでの計画的、系統的準備の問題は、プロレタリア暴力革命の最も高度な内容をなすものである。平和革命になるか、暴力革命になるかは敵の出方による、という見解(日共)、一定の条件のもとで、しかも敵が身のほどを知らずに反撃してきた場合には暴力革命をとることもある、という見解(カクマル)をもって、プロレタリア暴力革命に敵対するものは、プロレタリアート人民の革命性、自己解放の事業のもっとも深部の敵対者である。】

共産党宣言では「ブルジョワ的私有財産の専制的侵害」について暴力的過程を必然とするとはいっていない。
それを記述する前に『宣言』は、プロレタリアートを支配階級にすることと同時に「民主主義を闘い取ること」を前提にしている。

プロレタリアートが支配階級になるには、耐えがたい抑圧と搾取への革命的爆発の中でブルジョワジーを「暴力的に転覆」するとしているが、プロレタリアートが権力を握ったら、ブルジョワジーの私有財産の収奪など革命の諸目的の遂行はブルジョワ側から見れば「専制」的であっても、あくまでも民主主義的に実行されるのである。
『宣言』では、暴力は、革命情勢の中でプロレタリアートがブルジョワ体制を転覆するときに使われるとした。

本多氏は、ブルジョワジーの私有財産の「専制的侵害」を暴力とし、それを暴力過程に入れた。
それだけでなくさらにマルクスを超えて、「プロレタリアートの革命的共同性を現実に形成し、自己解放の物質的前提条件とその主体的な自覚と能力を統一的に創成する過程」をも「暴力的過程」として「積極的に位置づける」必要があるという。だから、革命だけではなくその準備段階から人民内部での組織活動や党派闘争も暴力過程に含まれることになる。

暴力が、「プロレタリア人民の自己解放の本質的規定性を意味している」、というのは、プロレタリア人民は、暴力の権化であり、プロレタリアートの指導機関であり、暴力の発動機関である前衛党の暴力装置として位置づけられる、ということである。
第四インターへのテロの自己批判は、このような暴力礼賛、マルクス主義というより暴力主義思想に汚染された革共同中核派の核心的思想まで踏み込んだ反省にまで及ばなければならない。

この本多氏の暴力理論は、権力に対してその暴力が振るわれるとき、それ相応の威力があり意義があったであろう。だが、人間解放の哲学であるマルクス主義とは、何の関係もない。

激動の60年代~70年代に諸戦線で果敢に権力に立ち向かって戦った中核派の青年たちは、本多氏の暴力論に取りつかれて立ち上がったのではない。
だが、一部の中核派内部の幹部には、(いまもなお)この本多暴力論に心酔し、糾殺隊までを組織して暗躍した連中がいた。

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2016年11月18日 (金)

部落問題と天皇問題

News & Letters/535

期せずして部落問題と天皇問題が取りざたされている。
一つは、部落問題を解消するという法律を制定するという。

もう一つは、天皇の退位をどうするか
「聖と賤」の問題は関係があるという。
今回の部落問題の法案は、よろしくない。部落問題のために特別な行政施策をすること、調査をすることなどを掲げている。

部落問題という特別な施策ではなく、すべて国民に平等公正な行政施策をすることが徹底される必要がある。
旧選民制度の偏見に惑わされて行政機関や司法が差別施策をすることを禁じるという法律が必要なのだ。憲法第14条などのような「社会的身分」に対する偏見差別を
禁ずることが必要である。部落民にだけ特別な施策は有害となる。逆差別的に部落差別が固定化されるだろう。

部落又は部落問題についての特別な「調査」も有害な問題を新たに惹起する可能性がある。もともと部落については何か根拠があったわけではない。

封建時代の支配者も法的にえた、非人の制度を作ったわけではない。土佐藩の元禄大定目という藩法に出てくる身分は武士と町人・農民だけである。
時々の為政者が行政施策として差別を事実的に遂行してきただけだ。士農工商穢多・非人という言葉も明治時代に作られたものにすぎない。

だが、部落差別がないというわけではない。それは厳然としてある。だから差別を禁ずる憲法や地方公務員法などにそれと同じ文句を書いた法令がたくさんあるのである。
憲法第14条やそれと同じ趣旨の条項を持つ法令をまとめて、権力が差別をしてはいけないという趣旨の法律を作るのは意義があるだろう。

特別な施策や調査をすることはやめるべきである。同和対策を利用してあくどい利権の中に部落大衆を巻き込むべきでない。
人は生まれながら平等である。部落民や穢多・非人などというのはもともと何の根拠もない。私もそうだが本人がそれを嫌がっているのだから社会が押し付けるべきではない。

天皇問題。いやだという天皇の意思を無視して無理に皇位に縛り付けようという連中は不敬も甚だしく宸襟を悩ますこと甚だしい。

天皇制を国民が維持したいといっても天皇本人が嫌がっている場合は天皇の意思が尊重されるべきである。さらに天皇制そのものを超えて同じ人間として開放してあげるべきだろう。

ある人間集団が、天皇などという尊称を名乗ること自体根拠のないことであって、はたからサルが見たらおかしいというだろう。

人は生まれながら平等なのである。部落民とか、天皇民とかいうものは何の根拠もないことである。天皇の地位は国民の総意で決めることになっているが、本人に拒否権があることは言うまでもないことである。

部落問題も天皇問題も解決するには何よりも社会がそれを当人に強制してはならない。本人の意思を尊重すべきことが大前提である。
皇室典範が言う男系の後継者が絶えるという絶好の機会が到来するというのだから、天皇制を解消し、皆さんを普通の人間として社会が迎えるべきだ。

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2016年11月10日 (木)

反知性の勝利

News & Letters/534

憎悪と弱者いじめ、金と暴言、反知性が選挙に勝った。
トランプ、フィリピン大統領、金正恩、そして安倍晋三、橋下徹・・・・反知性派たちがこの世を牛耳る時代。

ただ黙然と空を仰ぐのみ。反知性派は、いかなる不合理なことでも、人類の生存がかかるようなことでも狂気のうちに平気で遂行する。

例えば原発推進は、反知性派の象徴的な事業だ。狂った連中がやることだから、なかなか止めるのが難しい。しかもこの連中は政治権力に貪欲である。

民主主義は、この反知性派の優勢的な登場を抑えることができない。理性的人間は、この地上では少ないし、政治活動を疎んずる傾向があるからである。

従来の民主主義に代わる新しい民主主義の思想が必要であろう。

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2016年10月24日 (月)

情宣活動

News & Letters/526

我々の反原発闘争で一番欠如しているのは情報活動である。
活動家たちは会議や講演会や、ネットを通じてよく勉強する。

しかし、一般国民は日常において原発について正しい情報がほとんど届いていない。
我々は自己満足運動に浸っているのではないか。

宣伝戦で負けてどうして反体制運動に勝てるだろうか。
毎日1枚のビラもまかずに、活動している気になっている。

そんな連中がいくら集まっても、集まっただけの勢力でしかない。
大衆に我々の情報を繰り返し繰り返し訴えていく。

反原発闘争は、大衆を敵陣営が獲得するのか、それとも我々が獲得するのか、
いつにかかって宣伝戦である。

唐津市街の主なところは撒いた。徹底的な宣伝戦を展開するのが当面の任務である。
反原発運動は足の運動なのだ。

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