報道のありかた

2020年9月17日 (木)

ふるさと納税のまやかしさ、いかがわしさ

私は、菅総理のアイディアで成功例とされるふるさと納税は邪道であると批判した。しかしこのアイディアで菅は大分地方票を集めたようだ。

他候補もマスコミもこのふるさと納税(脱税)を批判するものはいない。
官僚が抵抗したようであるが、その意見も公表されていない。
地方を活性化するには、地方交付税交付金を増額・充実する方策をとるべきだ。

例えばふるさと納税をごく単純に絵解きをすると、ここに100万円の納税義務のある者(多分金持ち)がふるさと納税で100万円を寄付すると、返礼品という形で50万円返ってくる。すなわち50万円節税したことになる。

「ふるさと」という市町村には50万円は残る。
しかし、市町村全体の税金としては50万円しかとれず、50万円損失(納税者が得)したことになる。

元のように100万円徴税して、そのうち指定の「ふるさと」に50万円交付し、残りの50万円を元の市町村に残す方が正常ではないか。「ふるさと」に交付された50万円を地場産業の振興(たとえば産物の価格抑制の補償、漁船の燃料費の軽減、産物発送料の公費負担など)に使えばよい。

現行のように調達する返礼品で地場産業に金が回るとしても、それに相当する正規の交付金の支給で地場産品の生産・販売の増進を図るべきであろう。

小さな市町村で十数億円以上のふるさと納税を集めているところがある。
奈半利町は別格として、室戸市もそうだ。例えば返礼品のマグロなどは、市内では取れない。

そこで返礼品供給者一覧表を見ると市外の大きな水産会社の名前が出てくる。
これでは地場の産業復興には何の役にも立たないだろう。地場産だといってウソがまかり通る。

ふるさと納税は結局金持ち富豪層の公認の脱税方式でありこれが何千億円、何兆円の巨額になれば大きな財政上のひずみ(損害)となろう。菅はこの富豪たちのための脱税制度を作って得票を伸ばしたのである。獅子身中の虫だ。

マスコミはふるさと納税に抵抗した官僚の視点を隠ぺいし明らかに国全体の税収が大幅に減少している事実を報道しない。

今回の自民党総裁選の主役、安倍、菅、二階のこの三人は、河井安里議員の選挙における1・5億円の大買収作戦の真犯人であってこのことは誰の目にも明らかである。まともな国家であれば、すでにブタ箱に入らねばならない連中であるが、腐りきったマスコミはこれも隠ぺいしかかっている。

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2020年9月12日 (土)

核廃棄物の最終処分場についての高知新聞社説

本日9月12日の高新朝刊の社説の見出しは「東洋町の教訓生かされず」だ。

1・北海道寿都町長が、文献調査への応募の意向を発表したことについて
「町民や議会の理解を得ないまま町長が、突然、応募検討を表明した。」
ことが、東洋町の教訓が生かされていない、ということのようである。

しかし、寿都町の片岡町長は、応募の意向を表明し、議員や町民と議論する、反対が多ければ応募をやめるというのだから、独断専行や秘密裏にことを進めるということではなかろう。
立場は違うが、今のところ片岡町長のやり方には問題はない。問題はその内容だ。

2・「東洋町で住民が分断される混乱が生じた際も、国が主体的にかかわる姿勢が見えなかった・・・」
 という。しかし、東洋町では、「分断」が起こったのは町長及び町長派議員と住民との間であって町民の間での分断や対立はさほど表面化していない。

核のごみ受け入れ推進派はごく一部を除いて大っぴらには活動せず、彼ら側からのビラや宣伝活動はほとんど見なかった。東洋町で突出したのは町長と国の代理人NUMOであって、表面に立ったのは反対派の町民やその支援者たちだ。

町長選挙戦が済んだのちにも核の問題で町民が「分断」されたとか、しこりが残ったいうことは全くない。核推進派の議員も新町政に賛同する者もいた。核廃棄物や核燃料の東洋町への持ち込み禁止条例には全議員が賛成して可決した。当時現地にはNUMOだけでなく経産省の担当職員も出てきていた。
NUMOではなく国が前面に出ろという社説は、高レベル放射性廃棄物の最終処分場建設(地層処分)をもっと強力にやれという意味にしか読めない。

この社説には東洋町で最大に問題となった高レベル核廃棄物の地層処分そのものについて何も論じていないが、これに賛成しているということだろう。高知新聞はかつて何度もNUMOの地層処分に関する巨大広告を掲載してきた。
社説は、最近政府が選んだ「科学的特性マップ」での「適地」が全国に多数あることも指摘する。

だが、地層処分の危険性こそ東洋町で最も問題になり町民から忌避された問題であった。2007年の東洋町での教訓は、高レベル放射性廃棄物を含む核廃棄物の地層処分が町民に否定されたことだ。

政府やNUMOの宣伝刊行物によると、地下300m以下の地底にガラス固化体にした核廃棄物を埋設するという。それには4重のバリャがあって人間界から半永久的かつ安定的に隔離されるというのである。

第一のバリャはガラス固化体であり、第二は鉄の容器、第三はベントナイトという粘土、第四は天然バリャという岩盤だという。

しかし、第一と第四のバリャはバリャとはならない。第一のバリャのガラス固化体は放射性物体の本体そのものであり、第四のバリャというのは我々の生存する自然界そのものなのである。あとは鉄と粘土だけの二つのバリャだけであり、鉄はすぐにさび付き粘土はすぐにひび割れ崩壊する。だから地層処分というのはバリャがない生ごみの埋め立てと変わらない。

生ごみならまだしも極度に高レベルの放射性廃棄物を生ごみ並みの埋め立てで当面を糊塗しようとする方法が地層処分である。

すでに地層処分は日本学術会議が地震・津波の常襲国で、地層は断層や裂け目だらけで地下水が充満している日本列島では不適であると発表している。北海道寿都町には、狭い面積に黒松内低地活断層が帯状に横たわっている。こんなところまで科学的に「敵地」とされているのだから無茶苦茶である。神恵町も同じだ。泊原発の近辺が活断層だらけだ。

新聞や報道機関に求めるのは、政府が発表した「科学的特性マップ」なるものがいかにでたらめかということを調査して国民に真実を知らせることではないか。

3・東洋町の教訓でもう一つ大事なことは、財政的行き詰まっているから核の交付金で財政を立て直すということが、嘘だということである。いかに財政が苦しくても市町村や都道府県は、地方交付税交付金で財政が支えられている。
私の町政4年間で、公共事業や、福祉事業、教育の施策は飛躍的に増大した。予算上もほぼ1・5倍ほど増えた。

それにもかかわらず借金は25%(10億円)ほど減少させ、基金も数億円増えた。町民全体の経済力を直ちには豊かには出来なかったとしても町民への行政サービスは前町政と比べ断然豊かになったのである。

高知新聞は、4年間の私の町政の実績を報道せず、町内のボス連中と同じようにバラマキだという風に否定的に報道したが、今、東洋町の核廃棄物問題の核心的部分、地層処分の可否、財政問題について何も語らずに東洋町の教訓を云々することは真実性、誠実性に著しく欠如している。

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2020年5月22日 (金)

ばくちうちの検事

黒川検事長は、最後の仕事として、東京高検の黒川弘務と新聞記者3人に対する賭博罪(常習犯)での逮捕令状を発行するべきだ。権力の腐敗がこれほどまでに明らかになったのは珍しいが、今まで隠されていただけだろう。

1、検察官の定年延長議案についての認識

 新聞記事やネットの論調では、安倍政府への批判として「問題意識の低さ」(高知新聞)とか、「無神経」(田原総一郎)だ、という程度のそれ自体低い批判調である。
 しかし、安倍総理の認識は、検察という職能集団に対する民主的統制として内閣の検察人事への介入を正当だとしているのである。検察は行政官であり行政官の長である総理大臣が任免権を持つのは当然と主張している。自衛隊に対する総理大臣の指揮命令権限(民主的統制)と同様の立場である。

 この安倍の考えの前提を批判せずに安倍の「問題意識の低さ」をあげつらっても新聞読者には批判の意味がよくわからない。
 検察官はGHQの憲法草案では、最高裁に所属するはずであった。

 Public procurators shall be officers of the court and subject to its rule-making power.

検察庁は、法務省にではなく最高裁に所属すべきであった。なぜ現在のようになったか。

少なくとも今日の学説でも検察官は、行政官でもあるが司法官でもあり、現行憲法第77条第3項では司法官としての検察官は最高裁の定める規則に従うとなっている。

検察官は、刑事事件について原告として犯罪人を訴追する立場にあり裁判官とともに司法の一翼を担う職責と権限を持っている。立件(起訴)や裁判遂行については、行政官の長(総理大臣や法務大臣)の指揮圏外にある。

だから、総理大臣が検察官の身分や職責について干渉する場合には三権分立を干犯することになるのである。

無論、検察の暴走とかいう事態、検察自身の権力への忖度、検察の腐敗・職務怠慢などの問題についてこれをどう食い止めるか、検察の公正な運営については、国民の監視と国民審査が及ぶような適切な検察の制度改革が必要である。

しかし、今は不祥事を続発させている時の政権が延命のために検察を自己の番犬化さそうとする動きを封殺することが急務であるから、安倍内閣の司法の一角への民主的統制論に基づく内閣の介入を批判し阻止しなければならないのである。問題意識が低いとか国民の意識への無神経さとかではなく、敵は明確な意識と目的をもってことに臨んでいることを指摘しそこへの反論が必要ではないかと考える。

2、昨日今日の高知新聞の黒川検事長辞任の記事には違和感を覚える。

「問題のすり替え許されず」論である。要するに本題は政府の検察定年延長議案であり、「個人的な不祥事」事件ではないという論説である。それはその通りであるが、今回の定年延長問題とマージャン賭博事件とをすり替えの利く別個の問題とする考え方である。その論そのものがすり替えではなかろうか。

検察定年延長議案の中に仕込まれた特例規定とマージャン賭博事件とは切っても切れない関係があると考えるのが普通ではないか。安保法制、森友、加計、桜、検察定年延長・・・とマージャン賭博事件、これらは、法令を自己流にひん曲げ、自分らは国政を利用してやりたい放題の犯罪行為を繰り返してきた。

秋霜烈日、国民にはこれを押し付け、恐ろしい疫病にかかっても自宅待機だといって検査も拒否し続け、他方、自分らは賭博など好き放題の酒池肉林か。権力を握ったものは、法令を曲げ、無視しても構わないという。

検察番犬化を目論む検察定年延長法案とその渦中にある政府高官の犯罪的遊興行為とは切っても切り離せない。
すり替えを許すなという論には、政府高官のマージャン賭博事件を個人的不詳事件化しすり替えができるとする前提の論であり、ゆるされない。

権力とマスコミの癒着の犯罪行為は個人的不祥事ではない。そして、この賭博事件は黒川の性格的な問題ではなく、こういう形で日常的に権力とマスコミの闇の交流があったことを証するものであり、これ自体驚くべきだ。

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2020年5月15日 (金)

検察定年延長

昨日5月14日安倍総理は記者への説明で、検察官は行政官だという趣旨の見解を表明した。だから、検察官は、内閣に人事権があり内閣の監督下で業務を行う筋だから今回の検察定年延長議案については三権分立を犯すものではない、ということになる。


 


会見場の記者は何も反論するものはいなかった。
検察官の業務は、行政と司法の両方に関与している。これが常識だ。
刑事事件で訴追権限は検察官しかなく、刑事裁判では原告として主要な役割を遂行する。


 


単なる行政官ではない。司法の分野では刑事事件に限ってであるが、裁判官と同様検察官は独立不羈の立場で業務を遂行する義務がある。


 


憲法第77条第2項の規定では、「検察官は、最高裁判所の定める規則に従わなくてはならない。」とされ、そして憲法第76条では、すべて司法権は、最高裁以下の裁判所に所属すると規定されている。


 


だから、検察庁法第14条の法務大臣の検察官に対する指揮監督の権限も、憲法の規定を超えることはできない。
検察官は第一義的には行政官である前に司法官であるから、安倍の馬鹿が言うように内閣の意のままになる存在ではない。
ところで、今回の検察定年延長議案に対する国民の厳しい反感が大きなうねりとなっている。


 


この怒りのうねりは、新月コロナウイリスに対する政府の棄民政策に対する怒りが背景にあるが、これまでの安倍の政治私物化への怒りが根底にあり、ネットの上ではあるが一種の暴動状態となった。


 


国民は、安倍独裁政治に対して暴動を起こすべきである。行政も議会も、そして司法までも私物化されては、もはやまともにこの日本列島では生きていけない。


 


かつて、大逆事件で幸徳秋水ら10数名が無実の罪で処刑された一週間後、文豪徳富蘆花は第一高等学校の講演会で一高生に政府に対する「謀反」を呼びかけ大きな感銘を与えた。


 


また、2・26事件で一部軍部が起こしたクーデタ的行為に対して東大教授河合栄次郎は武装闘争を呼びかけた。


 


2018年夏の米騒動が勃発したとき、大阪朝日新聞は白虹貫日(白虹日を貫けり)という故事を引いて天子の身の上に兵乱が起こるぞと脅迫的記事を書いた。


 


武装闘争は何も中核派の独占物ではない。一流の文化人や学者の抱懐してきた純呼たる革命思想だ。


 

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2019年10月16日 (水)

不自由展 愛知トリエンナーレ2019事件

10月15日の国会予算委員会で野党の質問と政府答弁を聞いた。
隔靴掻痒の感をぬぐえない。企画展の混乱予想を事前に申告しなかったということで
政府は補助金不交付を決定した。政府は内容ではなく手続き上の問題で決定したという。
野党の側もそのレベルの追及に終始したようだ。

しかし、安倍権力側の狙いは、河村名古屋市長があらわに示したように慰安婦少女像であった。
安倍政府は、積極的あからさまには表現の自由や文化の統制を始めたのではない。
今の段階では、真の狙いは煙幕を張って、反日本主義的傾向を抑える、申請など手続き上の事務段階で妨害をする

ということである。だが、煙幕は薄くその真の狙いは誰にでも透けて見える。徴用工や慰安婦問題で過去の植民地支配や侵略戦争を肯定する、そのためには隣国との対立・敵対も辞さない。
だから野党は、手続き上の瑕疵を追及するだけでなく、慰安婦問題や徴用工問題、日本の植民地支配・アジア太平洋への侵略戦争そのものを問題にしなければならない。

この内容の論戦を避けて、あるいは敵の狙いに内心同調して、政府と対決するといっても所詮は迫力のないアリバイ作りに過ぎない。

新聞やテレビの報道もそうだ。手続き上の形式論議は政府の日本主義的文化統制という実質的な内容をかくす役割を果たす。日本主義的イデオロギーはかつて(戦前に)戸坂潤(「日本イデオロギー」岩波文庫)が明らかにしたように、本体は無内容を特徴とする俗物の思想であるが、民主的なもの、科学的なもの、ヒューマニスティックなものなどを押しつぶす思想と行動を本命とする。

今次の安倍内閣は、一層日本主義的で反動的であるが、これを衝く好個の材料が愛知の企画展事件だ。
展示された朝鮮の少女の尊さと安倍権力の醜さをあぶりだすことなしに、権力の文化統制、表現の自由への弾圧を糾弾することにはならない。

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2019年5月 3日 (金)

天皇狂騒曲

天皇の退位、2019年5月1日から新天皇の即位、令和への改元などで新聞やテレビは大騒ぎだ。改元で何か新しい時代が来るかのごとき雰囲気を作ろうと躍起になっている。
天皇、などという尊大な称号を得てご本人は何とおもっているのであろうか。

前天皇(現上皇)はその尊称の荷物が重くてつらいのでなるだけ庶民的な装いを
こらし、膝を曲げて国民の手を取った。昭和天皇裕仁の先の大戦での戦争責任を償うようにして沖縄などの戦跡を精力的に訪ねまわった。

それは戦没者への祈りというよりも天皇が犯した戦争犯罪の贖罪行為としてそうしたのであろう。地震・津波・風水害などの被災者に膝まづく行為には、天皇制を否定し、自分は人民と同じだ、というメッセージが込められているようだ。

前天皇明仁と美智子妃の思いと傾向は、天皇退位ではなく廃位、天皇制廃止の方へ傾斜していたというべきであろう。宮廷奥深く象徴としての天皇ではない。
宮殿を脱し修羅の場で身を焦がす自己否定行為だ。

天皇制を廃止し、天皇一族を普通民・自由民に返す絶好の機会であった。
それなのに、政府や御用新聞、NHKなどテレビ、そしてかなりの国民が再び天皇制を盛り立て否が応でも尊く立派で高貴な存在に押し立てようとする。

天皇一家は、まいったなあと思っているかもしれない。

天皇制が再び反動勢力に利用され、ファシストの政治的象徴とならないためにも、天皇制を廃止することが肝要であり、また、本人たちはどう思っているかわからないが、生まれながら高貴な人類と生まれながら卑しまれる人類の存在は自由平等の民主主義からはるかに遠く、階級社会の永続化を支えるものである。

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2018年4月26日 (木)

新聞

News & Letters/629
私も新聞を発行している。「室戸市民新聞」である。「高知県民新聞」も出していたが休刊中である。
全て無料配布だ。街並みはもとより野超え山越えて室戸市内の全ての世帯を回って配布しきることを目指している。
4月11日付の新しい新聞を現在室戸市内に配布中である。幾人もの市民から「貴重な新聞だ」と励ましの声をいただいている。
私の新聞が他の新聞と違うのは、単に事実を客観的に報道するというのではない。
腐敗した地方権力の内情を暴き、打倒することを呼び掛ける実践的なものだ。その点では赤旗に似ている。
この新聞は、暴かれた事実に関係のある人にとっては憎しみの対象であろう。しかし、私は、人を憎んでやっているのではない。
関係のある人に会っても礼を尽くし、挨拶をする。その人にむしろ親しみを感ずる。
大きな事件は大概裁判にかけているから、新聞の内容は裁判の記録である。
室戸市や東洋町、高知県庁の行政が正常化すればそれでいい。人はどんな人でも尊重されねばならない。
そして、行政が正常化するためには、新聞で批判するだけではなかなか達成できない。
他の新聞と違うのは、記者である私がその行政の権力を掌握しようとしていることだ。
だから、事実の報道とそのコメントだけでなく、私の新聞ではどうすれば市民の生活が改善されるか、正しい行政とは何かを提示している。
私自身がひとり完全無欠で立派な人格者だという訳ではない。むしろ私は欠陥だらけで修行途中の身であり、毎日、失敗と後悔を繰り返しながら生活をしている。顧みれば恥じ多い人生で初めからやり直したいぐらいだ。
だから他人について個人的なスキャンダラスな事件は書けない。書くのは公の行政や議会に上った事件だけだ。
批判の相手や権力を忖度したり、また批判の相手からの攻撃を恐れて筆を曲げないことだ。
ジャーナリストでもあった若きマルクスがいうように、根本的な批判とは、批判の結果を恐れぬことだ。

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2018年3月17日 (土)

文部省の越権行為

News & Letters/622
文部省が前次官の前川氏の名古屋市立中学校での講演に調査を入れてきた。
権力の教育現場への介入は厳しく禁止されている。
教壇の上では教師は無冠の帝王であって、自己の思想と良心に基づき、又研鑽してきた学問に基づき子供たちを教育するもので、いかなる権力によってもこれを曲げられてはならない。
それは、憲法第19条(思想・良心の自由) 第23条(学問の自由)によって保障され、また教育基本法第16条では「不当な支配」に服してはならないことがうたわれている。
今回の不当介入事件について文科省は、法令によりしたことで問題ないという反論をしているがとんでもないことだ。
文科省が依拠する法律「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第48条では確かに文科省大臣が都道府県や市町村に対し指導したり助言したり援助したりすることができると規定されている。しかしそれは第一に、「教育に関する事務の処理」につてであって、教育や授業の内容ではない。その証拠にこの法律の文言を見ればわかる。
政府が指導したり助言する相手は教育委員会や学校ではなく「都道府県」や「市町村」なのである。都道府県や市町村は施設など教育環境や予算を整備するのが任務であって教育内容まで関わることはできない。環境の整備のほかに地方公共団体の首長が教育についてできることはその土地の全般的な教育方針の策定とか特定の教材について予算を出すとか出さないとかという程度のことにすぎない。また前記憲法の趣旨から首長はもとより教育委員会といえども教師の授業内容についてまで介入する権限はない。
文科省作成の学習指導要領は一応の教育内容の目安にはなるが、教師に強制するものではない。
また、都道府県教育委員会は市町村(長)に対し、上記法律第48条の指導や助言はできるが、法令違反がない限りみだりに市町村長の行政に介入すべきでない。
かつて私が東洋町長であったとき一定期間教育長の不在が続いたことがあった。それにつき県教委は私に対して早く教育長不在状態を解消するように「指導」があった。
私のできることは、議会に対して教育委員の選任の議案を提起することであって、議会が理由もなく否決を続ける以上、教育長不在が続くのはやむを得ないだろう。
それで、法令に基づき町教委は教育長不在の時の措置の規定(前掲地教法第20条2)に従って町教委の職員である教育次長が教育長の任務を遂行していた。
首長は議会の同意にもとづき教育委員を任命できるが、教育長を任命する権限はない。教育長は教育員会が互選して決めるのである。
法令に基づき適法な措置を取っている町教委や首長に対して県教委が不当介入した事件だ。
権力はその権限を行使する場合常に法令を正確に読んで権力ができることとできないことをはっきり認識してとりかかることだ。
それはともかく安倍や菅や麻生などごろつき連中、それを忖度する官僚らが学問や教育内容について人並みにものをいうのは笑止千万なことだ。

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2018年2月20日 (火)

高知新聞「核廃迷走」 の続き

News & Letters/620
交付金の餌と放射能への無知を利用して応募地を募り、そこを即適地として最終処分場を建設するという目論見は東洋町で最終的にとん挫した。
そこで政府は、新たな手法として科学的有望地を選定し、上から国民の合意を「形成」するというやり方に転換した。
しかし、合意「形成」として金で学生を動員したりして努力しているがかえって国民の不信と反発を買ってなかなか進まない。
国民の最終処分場への合意形成、その前提となる「国民が決断を下す環境」(連載記事⑧)が整うのが大前提だが、高知新聞はその「環境」について何も語らない。まともな新聞社は少なくとも次の二つは言わなければなるまい。
すくなくとも、
第一に六ケ所村の再処理工場を止めることだ。使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出すという
工程からは元の燃料の何層倍(ある試算では少なくとも6倍)もの新たな核廃棄物が生まれる。
第二に原発の稼働をやめることだ。
これら二つの「環境」整備は核廃処分について国民合意の絶対的な条件である。
その二つ条件を満たしてもそれでもやはり国民の合意形成は超困難である。自分の住むところや近隣に核廃棄物が埋められるということを当事者として想定してみればすぐわかることだ。自分のところ以外のどっかを想定するからそれが実現できると思い込むのである。
そこで政府が以前から持ち出しているのが「中間貯蔵施設」での暫定保存である。
中間というのは
①原発と最終処分との中間という意味と
②原発と再処理工場までの中間という二つの意味がある。
②のコースは破綻しかかっている。問題は①のコースであるが、最終処分場の建設はほぼ絶望的であろうから、中間施設での管理を永続的に進めるという方策しか道はない。これは玄海町だけなく、原発があるところでは今の状況では容易に実現可能である。
すでに使用済み核燃料を原発施設内で中間貯蔵を行っているからである。
政府は最終処分場建設を模索しながら、実際には中間貯蔵施設への転換を推し進める。
埋め捨てをもくろむ地層処分の危険性よりも地上施設での管理はなお一層危険である。
原子炉のような何層ものバリャもなく、永久貯蔵のためのセキュリティも備えない中間施設をなし崩し的に長期貯蔵施設
⇒永久施設に転用する企みの欺瞞性は隠すことはできない。東洋町を経ていまや国民は容易に騙されない。
そして、最後に言わねばならない。
最終処分にしても中間貯蔵の永久化にしても国民の合計「形成」は容易ではない。
引き続きマスコミのフェイク宣伝の力を借りながら政府の最後の手段は、沖縄の辺野古基地建設強行の方式をとることである。
強権を発動して処分場の建設を強行しだすことは目に見えている。それはここ十年か二十年に迫っている。
その時に日本人民はどのような戦いをするのか、これまでのような法廷闘争や住民投票などの平和的な方式だけでは勝てないだろう。

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2017年12月23日 (土)

不可解な社説

News & Letters/612
高知新聞本年12月22日朝刊の社説で「MOX燃料高騰」について論評があった。
不可解な点がいくつかある。
1、「原発政策の矛盾の象徴だ」という見出しが出ているが、どういう矛盾かはっきりしない。
MOX燃料の高騰が原発政策の何に矛盾するのか。例えば原発は他の発電よりも安価だからという政策選択と矛盾するというのら分かるが、その指摘は全然ない。その場合燃料が5倍になれば発電コストはどうなるか書かねばならない。高新のいうのは、核リサイクルを続ける限り高いMOX燃料を使い続けねばならない、ということだ。
それは矛盾というより他の発電よりも格安だという原発稼働の一つのよりどころが燃料の点からも破綻しているいうことであろう。
高新:「問題は、核燃サイクルを続ける以上、高騰するMOX燃料を調達するしかないことだ。」
しかし、それは外国から購入している現状ではいえるが六ケ所村の再処理工場が完成し稼働し始めれば核燃サイクルは表面上何も矛盾を持たなくなる。矛盾なのは、プルサーマルしか行き場のないプルトニウムであり、先日高新に談話が載った元立命館大の大島教授が指摘する通り、保有するプルトニウムを消費して減量するためにそのプルトニウムを消費する以上にそれを多量に産出する行為を推し進めているという点であろう。
それが表面的な矛盾であるが、プルトニウム保有・量産体制は他にもっと大きな合目的な恐るべき計画がある。すなわち原爆開発の原料の確保である。
真実の矛盾は、平和利用の原発が、どこの国よりもなお日本では、現代戦争の最高の武器の生産工場になっているという点である。
2、高新:「もう一つは、たまっている使用済み核燃料の行方だ。日本は高レベル放射性廃棄物(核のゴミ)の最終処分場も先送りしてきた。」
  「サイクル政策をやめれば、処分をめぐる問題が一気に浮上しかねない。」という。
使用済み核燃料の行方は決まっている。六ケ所村の再処理工場であり、それまでは各原発の敷地内のプールに貯蔵することだ。
高レベル放射性廃棄物は使用済み核燃料の再処理によって出てくるものである。サイクル政策があって初めて高レベル放射性廃棄物の最終処分場が問題になる。しかし、日本の高速炉が破綻しサイクルが破綻しようがうまく回ろうが、日本で再処理しようが外国でそれをしようがMOX燃料を原料にする限り
再処理を前提にしているのであって、高レベルの核廃棄物の処分場問題は切迫した問題としてすでに現実問題なのである。
高新の社説は、混乱し、今日の核の問題の核心と現実をそらすかのような論調である。
ただし、高新が言う通り、核リサイクルを止めれば使用済みのウラン燃料やMOX燃料の処分問題、再処理をせず直接地下に埋設するという問題が出てくる。
すなわち、これまでの再処理によってできた高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)と原発から直接出てきた使用済み核燃料を別々にか、または一緒にか地下に埋設するという問題である。
しかし、今では、これも建前にすぎない。政府や電力会社など原発推進勢力にとってはむづかしい問題ではない。
六ケ所村と各原発サイトにそれら廃棄物をそのまま放置させる計画であろう。
東洋町の騒動以降日本のどこかの市町村が、核廃棄物を受け入れようと手を挙げるところは皆無となり地下埋設は看板(法律)だけになった。
政府やNUMOが処分場をどこにすえるか模索している恰好をしているが、ほとんどこれはアリバイ工作に等しいものだ。
本音は、全国の原発サイト及び周辺に地上での中間貯蔵施設をどんどん建設していく算段をしていると考えられる。
もとより日本列島では地下埋設をするところはありえないが、ここにも建前(法律)と現実の大きな矛盾がある。
 
こうして核爆弾の材料プルトニウムとプルトニウムを含む高レベル放射性廃棄物がどんどんこの狭い火山や地震で絶えずゆすぶられている列島に累積していく。
せいぜい一世代か二世代の幸福のために、その世代から末代までの人間が苦しみの種を抱え続けることこそ最大の矛盾なのである。

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