教育行政のありかた

2019年9月 3日 (火)

憲法第26条 義務教育

憲法第26条の規定は、

①子供たちが教育を受ける権利

②普通教育を子供たちに提供する保護者の義務

③義務教育の無償をうたっている。

③の無償は当然として、問題はこの教育が子供を学校に強制的に入学・通学させるということを意味しているか、である。

私は、子どもたちを朝から夕方まで学校に閉じ込めて教育を強制するのは憲法の趣旨ではないと思う。

不登校の問題、いじめ(差別)の問題、子供たちの自殺、知識の詰込みや試験、競争など子供たちのストレス。私は自分自身が振り返ってみてぞっとする。憲法23条には学問の自由も保障されている。小さな子供たちにも学問(学習)の自由は保障されねばならない。Compulsoryな教育ではなく、自由な学習が子供たちに保障されるべきである。

私は現在の小中学校の「義務教育」制度はいったん廃止すべきであると考える。どこで勉強してもかまわない、家や図書館で一人でまた友達と一緒に勉強してもいい、もちろん親や兄弟でもいいし自由に家庭教師についたりや塾に通うのでもいい、また、現在のような小中学校も存在させ希望する生徒を受け入れることもできる、特に音楽やスポーツなどのクラブ活動では学校があるといいだろう。そういう多様な教育環境(憲法が言う「普通教育」)が用意され、その学校で一応卒業資格のテストがあってもいいだろう。

学校があっても出欠を取らず、自由出席にすべきだ。
高校・大学へ入学する試験はあるからそれのための学習の場は、自由に選択できるようにすべきだ。

憲法第26条は何も牢獄のように子供たちを集め特定内容の学校教育を強制している趣旨ではない。

明治5年の学制の施行はそれなりの意味があったかもしれない。
しかし、子供たちへの圧迫は幾世代にもわたりその害悪はかりしれない。権力がこの教育制度を使って天皇制を叩き込み国民を侵略戦争に洗脳したのはその害悪の象徴だ。
現行憲法下でもそれは基本的に変わらない。教育現場に日の丸を持ち込み昔の教育勅語的教育をまで強制しようとする。

教室の授業の思い出は常に陰鬱であった。常に沈黙しておらねばならなかった。多くの部落の子は学校で始めて差別を体験する。

おそまきながら、今、憲法の趣旨を捻じ曲げて子供たちを苦しめてきた「義務教育」を考え直し、自由な学習の場、楽しい少年時代を子供たちに提供するべきであると思う。学問の自由の権利は学者先生だけでなく子供たちにもある。

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2018年3月22日 (木)

教育に関する国の法律

News & Letters/623
前川善文科省事務次官の中学校での講演内容に干渉した文科省は依然として法令に従ってやったと主張している。
既に論じたように、国の法律「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によれば、文科省は、教育委員会や学校に対して直接指導したり助言したりすることはできない。文科省ができるのは都道府県知事や市町村の首長に対してである。
また、都道府県教委も市町村の教委に対して指導や助言はできない。県教委ができるのは市町村の首長に対してである。
1、前掲法律の第48条第1項の規定では
①文科省⇒知事及び市町村長   
②都道府県教委⇒市町村長となっている。
 
決して文科省⇒教育委員会 とはなっていない。そして国は、知事や市町村長を通じて教育内容に介入できない。
知事や市町村長の権限は教育の環境整備や予算などに直接関与できるが、教育内容に関与することはできないからである。
2、また、上の法律は、その指導や助言、援助ができる内容は、教育内容ではなく「都道府県又は市町村の教育に関する事務」なのである。授業の内容や教員の性質や能力などに干渉することは論外なのである。
そして、上の法律第2項には、その「教育に関する事務」について誤解がないように具体的事例を11項挙げている。
教育内容について指導や調査などをしていいという事例は何もない。
国の法律は二重に国による教育内容への介入を禁止しているのである。
 
ところで今日の高知新聞(平成30年3月21日朝刊)の記事によると
県議会で教育長の人事が決議(決定)された、という記事があった。
しかし、知事や県議会が直接教育長を決めることはできない。知事は教育委員を議会の承認を得て任命することができるが、教育長は前掲法律第16条第2項の規定により「教育委員会が任命する」ことになっている。
教育委員会は任命された教育委員によって何らかの方法、たいていは互選によって教育長を決めるのである。
知事や議会が教育長を決めたのであれば、それは違法であり無効となる。
行政や議会は法令に基づき事務を処理しなければならない。森友学園のように権力の意向が行政事務の法規となってはならない。

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2018年3月17日 (土)

文部省の越権行為

News & Letters/622
文部省が前次官の前川氏の名古屋市立中学校での講演に調査を入れてきた。
権力の教育現場への介入は厳しく禁止されている。
教壇の上では教師は無冠の帝王であって、自己の思想と良心に基づき、又研鑽してきた学問に基づき子供たちを教育するもので、いかなる権力によってもこれを曲げられてはならない。
それは、憲法第19条(思想・良心の自由) 第23条(学問の自由)によって保障され、また教育基本法第16条では「不当な支配」に服してはならないことがうたわれている。
今回の不当介入事件について文科省は、法令によりしたことで問題ないという反論をしているがとんでもないことだ。
文科省が依拠する法律「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第48条では確かに文科省大臣が都道府県や市町村に対し指導したり助言したり援助したりすることができると規定されている。しかしそれは第一に、「教育に関する事務の処理」につてであって、教育や授業の内容ではない。その証拠にこの法律の文言を見ればわかる。
政府が指導したり助言する相手は教育委員会や学校ではなく「都道府県」や「市町村」なのである。都道府県や市町村は施設など教育環境や予算を整備するのが任務であって教育内容まで関わることはできない。環境の整備のほかに地方公共団体の首長が教育についてできることはその土地の全般的な教育方針の策定とか特定の教材について予算を出すとか出さないとかという程度のことにすぎない。また前記憲法の趣旨から首長はもとより教育委員会といえども教師の授業内容についてまで介入する権限はない。
文科省作成の学習指導要領は一応の教育内容の目安にはなるが、教師に強制するものではない。
また、都道府県教育委員会は市町村(長)に対し、上記法律第48条の指導や助言はできるが、法令違反がない限りみだりに市町村長の行政に介入すべきでない。
かつて私が東洋町長であったとき一定期間教育長の不在が続いたことがあった。それにつき県教委は私に対して早く教育長不在状態を解消するように「指導」があった。
私のできることは、議会に対して教育委員の選任の議案を提起することであって、議会が理由もなく否決を続ける以上、教育長不在が続くのはやむを得ないだろう。
それで、法令に基づき町教委は教育長不在の時の措置の規定(前掲地教法第20条2)に従って町教委の職員である教育次長が教育長の任務を遂行していた。
首長は議会の同意にもとづき教育委員を任命できるが、教育長を任命する権限はない。教育長は教育員会が互選して決めるのである。
法令に基づき適法な措置を取っている町教委や首長に対して県教委が不当介入した事件だ。
権力はその権限を行使する場合常に法令を正確に読んで権力ができることとできないことをはっきり認識してとりかかることだ。
それはともかく安倍や菅や麻生などごろつき連中、それを忖度する官僚らが学問や教育内容について人並みにものをいうのは笑止千万なことだ。

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2017年10月29日 (日)

教育の無償化

News & Letters/598
消費税をさらに値上げをして、その資金で教育の無償化などに充てる。
またそのために憲法を変えるという。
こんなでたらめな話で国民はコロッとだまされるようだ。
しかし、教育の無償化は10年前私があの貧しい小さな東洋町でやったことだ。
保育園児から中学校まで給食は無料、学級費やPTA会費、ノートやえんぴつに至るまで無償にした。私は4つの小中学校の校長先生に、子供や保護者に学校でいる費用を請求しないように要請した。義務教育無償はすでに憲法に掲げられている。
さらに小中学校高校生まで毎月米を配給した。
何も税金を上げたり憲法を変えてまでしなければできないというものではない。
私がやった東洋町の福祉や教育の事業を点検してみろ。小さな町(予算も20数億円)でも首長がやろうという気があればいくらでもやれる。逆に言えば、そんなことまでやる必要はない、もっと利権行政にお金を使わねばならない、と考えるから、できないのである。
安倍は、消費税を上げて、自衛隊の装備や森友・加計行政の資金を増強するのが狙いなのである。

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2013年12月21日 (土)

教育委員会制度

News & Letters/392

自民党政府は現行の教育委員会制度を骨抜きにし、教育の中立性を解消しようとしている。愛国主義教育、大東亜戦争史観の植えつけ、秘密保護法、憲法改正・・・など一連の反動攻勢の一つとして教育委員会制度の破壊を目論んでいる。

個々で現在の教育委員会制度について意見を述べる。
現在の教育委員会は制度としての建前は一応立派であるが、重大な問題がある。

1、二重の意味で現行の教委制度は自民党らの策謀が実態となっている。

①一つは、教育委員は教育行政の執行官であるが、現状では教育委員会事務局の飾りのようなもので、せいぜい諮問委員程度の機能しか働いていない。
従って実際は自民党らが策謀するとおり首長の教育委員会支配の実態になっている。

②また、現在の教育委員は首長が推薦し、議会の承認を得て委員が決まり、そしてその5人の委員の互選で教育長が決まる、ということになっている。従って実際には首長の意向で教育委員や教育長が決まっているのである。

③そしてさらに重要なことは、事務局の職員は結局首長が任命する。教育長の次のポストである教育次長が実権を握ることになる。
東洋町で私がびっくりしたのは、教育委員会の組織図であった。事務局を統括するのが教育次長と言う位置づけで、その下に事務局職員が束ねられるという図表であった。
教育長はその事務局の上で教育委員と一緒に並んでいた。教育長が事務局を統括するという図式ではなかったのであるから、教育長は委員会だけしっかり出てきて普段はぶらぶらしておればいいわけだ。この東洋町の組織図は毎年県教委に提出されていたが、県からは何も言われなかったという。

④教育委員会の予算の編成権も教育委員会にはなく、市町村長ら首長にある。
だから、権力から相対的に自立して教育行政を行うなどと言うのは単なる制度の建前であって実際はとっくの昔に権力の前に無力化していた。自民党らはこの悲惨な実態を新たな法制度にしようとしているにすぎない。それではどうするか。

改革案:

1、教育委員を公選化すること。首長選挙の時か議会議員の選挙の時に同時におこなえ 
 ばよいし、農業委員のように独自に行ってもいい。

2、委員の常勤化。5人のうち少なくとも3人は常勤としなければならない。
 常勤化しなければ、日常業務を執行できないし、教育現場の実態を把握できない。
 15万円以上出来れば議会議員と同等の待遇を与えることだ。
 教育委員は諮問委員ではなく法律的には行政執行官である。
 その分一般職の職員を本庁に返し、委員が全般的な事務をとららければ責任ある教育 
 行政とはいえない。ボランティアでやれというのも酷だ。

3、首長の教育予算編成権も大枠の予算と、施設整備や給食など学校費用だけにとど
 め、細部の個別事業への関与は排除すべきである。教育のソフト面に使う費用など教 
 育員会の独自予算編成権も設定するべきだ。


教育委員公選制でない以上、教育の権力からの独立と言ってもほとんど機能していない。

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2013年1月23日 (水)

暴力について

News & Letters/326

大阪桜宮高校の体罰―生徒の自殺を巡って例の橋下市長の強硬姿勢が問題になっている。
体罰は暴行であり、認められない。私も小学校の時に受けた体罰を忘れられない。

一つは、教室で頭の良い良家の同級生が、いたずらをしていた。
鏡を持って机の下にもぐって女子のスカートの下を写していた、自分はその子が何をしているのか知らずに呼ばれてその鏡を見せられた。何が写っているのかもわからなかったが、それを女教師が見て、私の頭を強くたたいた。
鏡を持って下から映しているのは安岡という子供であることは明らかだった。その子は大きな屋敷に住み、親は教師であった。

罰すべきはその子供であって私がたたかれるいわれはなかった。
私はその女教師が憎々しげな顔をして私に迫ってきた姿を忘れることは出来ない。
私は母子家庭で親は出稼ぎに行っておらず、二つ上の姉が所帯をしてさみしく暮らしていた。その女教師は地元出身で確か岡村という先生だった。私がどういう地区に住んでどういう家庭かを熟知していたはずだ。私はただ卑屈になって耐えていた。

もう一つは、小学校で運動会の行進の練習をしているとき、私の前を行進していた生徒が、隊列を離れて音楽が流れているスピーカーの位置を変えてすぐ元の隊列に戻った。いたずらをしたのだ。スピーカーは地面に置いてあった。行進曲の音調が変になった。それで私は隊列を離れてそのスピーカーの向きを元に直した。そうすると運動場の本部席にいた先生が色を変えて駆けつけてきて私の頭をいやというほど殴った。

その先生は私がいたずらをしたと勘違いをしたのであろう。
その先生は吉岡という男の先生だった。私が受けた体罰はこれだけであるが、今も許せないと思っている。

これらの先生は、腹立ちまぎれに生徒を殴ったのである。子どもの人権とか、子供の心とかは歯牙にもかけていないのである。私がいい家庭の子供であれば、このような暴行は受けなかっただろう。中学校3年生ぐらいになるともう大人のように威厳をもっているから先生も手が出せなかった。
小学校5年生、6年生時分以降は一度も体罰は受けなかった。

桜宮高校はまるで教師による暴力学校だ。橋本市長が強行姿勢を取る理由もある。
私は、関係した教師はもとよりそれを黙認していた教師も教員失格であると思う。辞職するべきだ。校長や教頭も教師を辞めるべきだ。市の教育委員も全員引責辞任するべきであろう。生徒が死をもって抗議したのである。

しかし、不思議なのは、高校生にもなっていながら、暴行を受けてただ黙って耐えていたという生徒の有り様である。試合に負けた、試合でミスをした、などということで暴行を受けたとなると私なら黙っていない。何をするんですか、といって逆に相手を叩き伏せるであろう。実力で対抗できなければ不登校で抗議する。

私は、この学校では人権教育は何もしていなかったと思われる。人権は他人の人権よりも何よりもまず自分の人権から始めねばならないのだ。
教師であろうが誰であろうが、人として対等であることが人権のはじめだ。
日常的に暴行を受ける関係は、今では牢獄でも存在しない。

生徒たちは自ら立ち上がり人権宣言をしなければならない。
橋本市長も、このような教育環境について行政としての責任がある。
いじめや暴力を学校現場から排除し、安全な教育環境を用意するということは、行政の仕事である。人権抑圧的で、競争と弱者切り捨て政策、人の心も配慮せぬぶっきらぼうな物言いの橋下市長の登場は、桜宮高校の暴行教育を一層助長させたと思われる。

橋下もこの際公職を退くべきだ。入試中止だとか予算を出さないとか強権を振るっても、暴行教育は治らない。それどころかこのような人に対する思いやりのない行政の仕法、権力を振りかざした姿勢が大阪の暴行教育の精神的支柱となる。
予算執行権を言う前に公務員の人権教育と生徒たちの人権意識の確立が先だ。

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2012年3月 1日 (木)

維新の教育思想(その2)

News & Letters/289

橋下は、教員が組合の政治方針を教育現場に持ち込んでいるではないか、教員は選挙の洗礼は受けていない、選挙で選ばれた首長が教育内容を決めるのは当然だ、と叫んでいる。しかし、
「組合の方針」というのは、それは教員たちの政治思想の結晶であり、倫理観である。持ち込んでいるのではなく、自らの精神を発現しているのである。

政治家は教育のあるべき姿を主張したり宣伝することは当然自由だ。しかし、政治家は教育者ではない。

教育の世界は思想と学問の世界だ。政治家の活動世界も思想(理念)が重要だが、理想通りにはいかず、現実の利害関係に拘束される。権力に関係しない全くの批判勢力の場合は比較的理想に合った主張や行動が現出されるが、権力にかかわる政治家の場合には、その言うところは利害関係の色合いが濃厚となる。時には虚偽の宣伝をし策謀、欺瞞がまかり通る。情勢が変われば転々とその主張を変えるし、その徒党は離合集散し、その政策的主張が180度変わっても平然としている。

そんなものが青少年の教育にふさわしくないことは言うまでもない。
政治家が教育者でありうるのは、その所属する政治団体、政党内部だけだ。
そこでの教育内容はおぞましい権謀術数の手練手管だ。

要するに政治家の世界は結果倫理であり、教育のそれは目的倫理なのである。
野球部は試合に勝ちさえすれば何をやってもいいというわけにはいかない。
負けても身につけるものを得なければならない。教育の世界は目的に達するまでの道程や動機が大事であり、結果だけ良ければいいのではない。

政治(戦争も含む)は、たとえ狡猾でダーティな動機で、卑劣な手段を使っても、政治目的が達成されればそれでいいのである。
動機が純粋でいくら善であっても、国民の福祉や災害対策などに無力であれば政治の世界では評価されない。

私の言うのは、政治の世界では動機は不純でも構わないと言っているのではない。
理想を高く掲げ動機も手段も清純でなければならないことは言うまでもない。

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2011年8月18日 (木)

橋下大阪府知事

News & Letters/274

橋下大阪府知事を一言でいえばファシスト的政治家というべきだろう。

地方や国民を無視した新しい国家主義運動の扇動者であり、その行政手法は弾圧型だ。
何か分からぬ狂気で大衆を煽り、支持を急速に拡大する手法は見事なほどだ。
行政の弛緩したルーズさ、無駄、腐敗を厳しく追及して大衆の支持を得る。

そして向かうのは福祉切り捨て、弱者見放し、資本家たちへの財政的テコ入れ、強権的な命令と組織規律の徹底だ。これにサーベルを佩かせ軍靴を履かせたら立派なファシストが完成する。

例えば、君が代・日の丸事件。
橋下は、公立学校の教員はきょういく委員会の命令に従え、という。教育委員会の決定は上司の命令だ、従えぬものは学校をされ、という。そして、条例まで作った。
橋本は戦前と戦後を取り違えているのではないか。

教育委員会は教員に命令することができるのか。教育委員は教師の上司か、教育基本法や教育行政に係る如何なる法令を見ても、教育委員が、教師の教育活動を直接指揮したり監督したりする権能を定めた規定は何処にもない。

教育委員会の所轄業務はあくまでも教育条件の整備であって、教育内容ではない。
教育内容そのものを担当するのは学校であり、地域であり、家庭であり、職場である。
地域ではお年寄りや青年団や婦人会、消防団などが地域の若者に教育をし、家庭では祖父母、父母や兄姉らがその子女弟妹を教育する。職場では上司や先輩が教える。

学校では先生が教育担当だ。教壇の上の教師には如何なる権力も影響を与えることはできない。教壇上では教師は帝王であり、ただその良心に縛られるだけだ。

憲法で謳われた「思想及び良心の自由」(19条)とか、「学問の自由」(23条)とかは教育の場でこそ貫徹されねばならない。心ならずも強制された教育をしていた教師をわれわれは恩師と呼べるだろうか。第1、人は自分の思想信条に反する事を教えることができるであろうか。

日の丸や君が代は、私などはそれを見、聞けば震えが来る。少年時代に刻印された心情は消し難い。
しかし、日の丸にも君が代にも思想的には問題がある。国家が定めたものでも問題は問題だ。

君が世の歌詞は明らかに国民主権に反する。日の丸はかつてアジア全域の侵略の旗印であった。その事にこだわるのには現代的にも歴史的にも重大な意味がある。

君が代の君は天皇の事であるが、先の大戦で果たした天皇の戦争責任は何ら問われていない。侍従などの残された記録を見てもアジア太平洋戦争を実際に指揮しけん引したのは間違いなく天皇ひろひとであった。

戦争をおっぱじめ狂喜して追行しただけではない、終戦を遅らせたのも天皇であった。天皇身分に拘泥せずに速やかに無条件降伏をしておれば広島長崎の原爆投下もあり得なかった。太平記や雨月物語に出てくる話だが、天皇(上皇)が冥界の棟梁となって天皇家が統べるこの世をのろってやると遺言したというが、自らの血族に呪われた一家をどうしてわれわれが歌にしてまで尊崇しなければならないのだ。

これは思想信条にかかわる事であり、天皇制批判も学問の自由の中にある。
歌を歌いたくないものは歌わなくてもいいのだ。

ファシストには権力がすべてであり、選挙で勝てば官軍なのだ。法令も学問もなにもいらないのである。

角川新書の『大阪維新』(上山信一著)という本を見てみた。橋下改革が日本を変えるという副タイトルが付いている。行政の効率化が中心テーマのようだ。大阪市と大阪府を合体して橋下小国家とでもいうものを作ろうという。しかし、この本をどう読んでも、府民の生活がどう変わるのかさっぱり分からない。

大阪にどんな産業、どんな環境が現出するのかも分からない。行政の効率化、市場拡大、経済成長、競争激化、・・・経営者らしい衝動がこの本にあふれている。それを実現するために橋下司令官の権力行使が何の障りもなく行きとおるそういう行政体を作りたいという事らしい。

大阪府はもとより大阪市や衛星都市をディクテイターの号令下に置きたいのである。

私の対案:

1、大阪の文化や伝統は何処へ飛んで行くのだろうか。もういい加減に経済成長教はやめたらどうだろう。スローライフ、低成長でもいいのではないか、静かで優しい社会で生きていけばいいのではないか。薪や木炭をたいて飯や汁を作って暮らしても幸せになれるのではないか。日本には、自然主義的で人間的な生活の革命が必要ではなかろうか。機械文明とは違う新しい文明を創造する力は、東京ではなく大阪にあるように思う。

2、大阪は天下の台所であったのだから、もっと地方や外国と連携し、多種多様な地方の人と産物の交流の場として再生するべきだと思う。外国特にアジアからの学生らの大量の受け入れ、又地方や外国への人材の大量の投入、学習やレクレーションを地方・外国で行うなどして盛んに門戸を開放すべきである。大阪を小アジア社会に変えたらどうだろう。在日のアジア人も多い。

3、省エネルギーでエコ社会を建設する。人口もどんどん減らすべきだ。アスファルトの代わりに、田んぼや畑、緑の農園や果樹園が広がる、放牧の牛や豚が遊んでいて、いたるところに森や木立の茂みがあり、鳥や獣達がいる田園都市に変えていったらどうだろう。
海辺には、コンクリートの防潮堤やブロックの並立ではなく、砂浜に小舟が引き上げられていて、そのそばで漁師が網を繕っている、そのような浦の風景、昔の大阪に返したらどうであろうか。

 効率だの競争だの成長だのと、ぎゃあぎゃあ騒ぐのではなく、大阪がエコ社会への転換都市として、その澪つくしとなるべきではないか。

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2011年5月26日 (木)

(続)軋轢

News & Letters/248

越境入学は絶対に認められないという事ではない。事情によっては教育的配慮で越境して別の学校に通学させる必要もある。だが、住所をごまかし、ふるさとを嫌忌してする越境入学は法令上の問題だけでなく、人権問題でもある。これを放置していると特定の者たちにたいする差別感情を合理化する。

私は役場に入る前から東洋町のこの事実について聞いていたので教委の事務局にこれをただしたところ、そのような事実はありません、という回答であった。これを問題視し、議会内外で論議し出すと、多くの人たちから反目の目が私に注がれた。

いろいろな理由で多くの場合は教育委員会が現状を認めるという事になったが、越境して通学する子供の親たちは、苦々しい思いで私をみていたことであろう。野根中学校の生徒が激減し全校生徒が10人前後になっているのに、甲浦中学校の運動会では地域対抗のリレー競走で、野根地区のチームが優勝するという光景が見られたのである。

  正常な心でこの光景を見ていられようか。だが、教育委員会や父兄の方々ににとっては私の言動は許せない事であったであろう。

  ②校舎・体育館等の耐震補強整備

高知新聞の記事では、東洋町の耐震補強整備率は県下最低であり、その前提である耐震診断すらも満足にできていなかった。教育委員会は何をしていたのであろうか。補強工事ができないまでも診断は完了させ、全校舎の補強工事の計画ぐらいは立てておくべきではなかったか。全体の2,3割しか進んでいず、整備工事の残りはすべて私の行政時代に完遂しなければならないという事になった。

  教育環境の整備は教育委員会の最も重要な仕事である。私などは、予算を組む前に財政担当職員を連れて学校の状況を見て回り屋根裏までよじ登って修理個所を確認してきた。教育委員会が学校整備事業に無関心であったのではないか。

  ③東洋町だけではないが、学校教育で必要な教材はほとんど保護者負担ではないかという状況であった。

公費負担は極端に少なく貧しい子供たちへの請求書の方がはるかに比重が高いのであった。私は義務教育無償を段々と実現しようと決心し、公費負担分を拡大し、最後にはほとんどの教育費において無償化を実行した。

  鉛筆もノートも学級費もPTA会費もそして給食費も無償にした。
  教育委員会は、保護者や子供たちへの負担の転嫁について何の手だてもしようとしなかった。この4年間の教育に関する新しい事業はほとんど私の主導によるものであった。教育委員会の影がかすんだのではないか。

  ④東洋町の教育委員会では数年間教育長が不在であり、教育次長が教育長を代行していた。

議会が町長の推挙する教育委員を認めなかったからである。
  それは、高知新聞等が騒ぐような違法なものではない。教育長が不在の場合は事務局の職員が代行することが法令で決められている。
  しかし、実際上東洋町教育委員会では教育長は私が役場に入るずっと以前から不在であった。教育長は存在していたが、いないも同然であった。そのようなシステムになっていた。

  東洋町教委のパンフレット(これは県教委にも提出されていたという)を見ると、教育委員会の事務局を統括するのは、教育長ではなく、教育次長ということになっていた。法令では教育長が事務局を統括し事務遂行の中心ということになっている。

  東洋町の場合は教育長は教育委員として雲の上にあり、実務は教育次長が事務局職員を指揮してこなすというシステムだったのである。そのシステムが図表化されていた。だから、教育長はぶらぶらしていていいのであった。

  県教委も新聞も、東洋町の従来の奇妙な教育委員会体制、教育長が存在しているが教育長の任務を解除されている状況を何も問題にしてこなかった。
   
  このように社協や教委の問題点を浮き彫りにし、実践的に突き破っていく中では、軋轢も生じるし誤解も呼ぶであろう。社協や教委だけではない、行政の無責任体制について私は悪戦苦闘してきたが、これによって生じる軋轢や矛盾を恐れるようでは、行政をまともに担当することはできない。

  実践というのは新しい矛盾の創造的展開であり、矛盾のないところに発展はない。
  今までのやり方を続けていたのでは、自分の住む町や村が衰滅するという運命の中にある。

  今の時代で封建時代のようにのたりくたりと同じ平穏の中で息をして時を過ごすことはできないだろう。時代を切り開いていく仕事は、文字通り白刃と白刃の切り結ぶ前線の、血の滴る戦いであって、不立文字の世界である。
  これからおいおいにはっきりさせていくことになる。

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2011年5月25日 (水)

軋轢

News & Letters/247

   
  高知新聞では、澤山町政から東洋町が「改革」に向かうということででたらめな記事を書きだした。
  澤山町政では、教育委員会とか社会福祉協議会とかがうまくいかず、人の言う事を聞かない町長のトップダウン方式で軋轢があったという趣旨である。
  社会福祉協議会とか教育委員会と軋轢があったことは事実だ。
  問題は軋轢の内容ではないだろうか。
   
1、社協の問題

  社協にたいして私が問題提起したのは

①第1に福祉事業を再開する事であった。
福祉事業を止めてしまって、殿堂のような立派な福祉センターが閑古鳥が鳴いていたので、福祉事業をやらないのであれば、運営補助金を削減すると私が申し出たのである。

国の法律で補助金の交付はあくまでも実施している補助事業に基づいて必要経費を補助するというものであるからである。団体の組織を維持するためだけの補助金は出すことはできない。だから私の言いたいのはお年寄りなどを世話をする補助事業をやっていただけば、お金を出すということをるる説明したが、これが猛烈な反発
を招いた。やっと、私の方から数年前までやっていたデイサービス等を復活させて活動するという事業計画を提案してこれを承認してもらって補助金交付にこぎつけたのであった。福祉センターは再びお年寄りの集う場として再生されにぎやかになった。

②第2に、社協の「裏金」問題だ。社協はこれまでに町の補助金の残りをため込んで700万円以上の「裏金」を保有していた。社協の福祉事業はほとんど全額町からの資金であったから精算して残りは町に返還しなければならなかった。しかし、残りはなしとして変換せず、社協の金庫に累積されて裁判費用などいろいろな費用に使われていた。

私は当然これを調査し、返還命令を出して回収した。社協としては不快であったであろうが、公金をごまかすわけにはいかない。 
 
③第3の社協の問題は、その組織の在り方だ。
  東洋町だけではないが、社協は役員だけで会員がいないのである。

社協も福祉法人のれっきとした社団法人だ。社員(会員や組合員など)がいて、その社員総会によって役員が選出されなければならない。だが、誰に選ばれたわけでもないのに理事や評議員がいるのである。社協の「総会」だというので招待されて出席してみると、それは役員の総会なのであった。法令では、社協は、福祉関係の
団体や個人によって組織が構成されなければならないとなっている。

  兼職規定(議員失職)に触れる議員が勝手に役員に入り込むなどはもってのほかだ。
  地方自治法の規定で議員は理事など役員にはなれないのに堂々と役員席に座って意見を述べる。理事は誰が選任したのか、評議員が決めた。評議員は誰が決めたのか、理事が決めた、という問答が続くのである。行政と地域ボスのお手盛りというわけだ。
  会員を募り法令にのっとた民主的な組織に替えて下さいと要請しても馬耳東風なのである。

  そのようなわけのわからない組織であるから、不祥事も出てくる。
  昨年社協の会計事務上の不祥事があったが、社協の役員であってはならない議員から、その責任は町長にあるという糾弾を受けた。
  議事録を見ると、理事として報酬をもらいながら理事会では、事務局から業務報告もうけず、日常業務については何も審議していなかったのである。日常業務に無関心であったのである。そして社協の事務局長は自分がすべき任務なのに第三者風に[監督]不行き届きであったなどととぼけていたのであった。

  私は社協については上の3点について要請したり指摘したりしたが、「トップダウン」どころか日常業務については一切関与していないのである。
   

社協の実態についてはこれまで私はブロッグに書いてきたのであり、この実態はひとり東洋町だけではなく、又社協に限らず県下に多数あるのである。新聞記者であるなら、私を非難するだけではなく、私のブロッグを見て他の市町村の実態を検証して「改革」の機運を盛り上げるべきであろう。地域のボス支配の実態と地域の疲
弊と関係ないであろうか。戦後漁協や農協の法律が改正されたが、何よりもそれら地域の基幹団体のの民主化が地域活性化の要諦をなすというところに意義があったのである。
  網元など有力者だけではなくどんな貧しい漁師でも能力があれば漁協のリーダーになれるという改革が必要だったのである。

  社協とか漁協とかいう地域の公共的団体が民主的に運営されるという事は地域の活性化、地域の自治にとって重大な事であり、また、教育的にも民主主義の実際上の訓練の場でもあるのである。

  地縁血縁金縁や封建因習を打ち破り、地域社会や組織を民主的に運営する能力のある人士がどれほどいるかという事が地域社会ひいては近代国家の底力なのだ。
   
2、教育委員会の問題
   
  私と教育委員会との間に軋轢があったことも事実だ。
  東洋町の教育委員会にはいくつかの問題があった。
  ①一つは越境入学問題であり、②校舎の耐震補強工事、③教材・教育費④委員会の組織体制
  ①越境入学が野放しになり、一つの中学校が廃校になろうというほどすざましい状態であった。主として野根中学校への入学を回避して、甲浦中または甲浦小や徳島方面に越境するというのであった。その底には「同和」問題が潜んでいた。

市町村の条例で決められている義務教育での校区制というのはおろそかにできない重大な使命を持っている。それは、明治の初めから今日まで、金持ちの子も貴族の子も貧しいその日暮らしの家庭の子供も、校区にある子供はみんな同じ学校に入学し通学するという決まりである。四民平等とその意識はこの校区制によって子供の
ころから醸成されるのである。金持ちの子も高級官吏の子も貧民の子供と遊び友人になることによって学科の勉強以上に大いに得るところが出てくるであろう。

  貧民の子も金持ちの子よりも成績がいいという現象を見て卑屈にならず人生を実力で切り開く自信を得るであろう。校区制は近代日本の自由平等や民主主義の実際上の学校なのである。この制度を崩壊させることは、文字通り反動なのである

  東洋町教育委員会はこの校区制崩壊現象を野放しにしてきた。
  その乱脈ぶりは、一般住民はもとより、教育委員をやっていたこともある町会議員や市職員、さらには住民基本台帳の規定を率先して遵守すべき住民課長からして住所をごまかして子供を越境入学させていたのである。住民票や戸籍を扱う住民課長が住所不定という事だ。

  住所を偽るという事は校区制をさだめた条例に違反し、住基法の違反になるのみならず、公正証書原本不実記載の刑法に触れる疑いがあるのである。
  特段の事情も無いのに住居を偽って徳島県にまで及ぶ事態であるから、高知県教委にこの越境入学の実態について調査し指導するように申し出たところ、それは県教委には関係ないという答えであった。
                               (続く)

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