部落解放運動

2016年11月18日 (金)

部落問題と天皇問題

News & Letters/535

期せずして部落問題と天皇問題が取りざたされている。
一つは、部落問題を解消するという法律を制定するという。

もう一つは、天皇の退位をどうするか
「聖と賤」の問題は関係があるという。
今回の部落問題の法案は、よろしくない。部落問題のために特別な行政施策をすること、調査をすることなどを掲げている。

部落問題という特別な施策ではなく、すべて国民に平等公正な行政施策をすることが徹底される必要がある。
旧選民制度の偏見に惑わされて行政機関や司法が差別施策をすることを禁じるという法律が必要なのだ。憲法第14条などのような「社会的身分」に対する偏見差別を
禁ずることが必要である。部落民にだけ特別な施策は有害となる。逆差別的に部落差別が固定化されるだろう。

部落又は部落問題についての特別な「調査」も有害な問題を新たに惹起する可能性がある。もともと部落については何か根拠があったわけではない。

封建時代の支配者も法的にえた、非人の制度を作ったわけではない。土佐藩の元禄大定目という藩法に出てくる身分は武士と町人・農民だけである。
時々の為政者が行政施策として差別を事実的に遂行してきただけだ。士農工商穢多・非人という言葉も明治時代に作られたものにすぎない。

だが、部落差別がないというわけではない。それは厳然としてある。だから差別を禁ずる憲法や地方公務員法などにそれと同じ文句を書いた法令がたくさんあるのである。
憲法第14条やそれと同じ趣旨の条項を持つ法令をまとめて、権力が差別をしてはいけないという趣旨の法律を作るのは意義があるだろう。

特別な施策や調査をすることはやめるべきである。同和対策を利用してあくどい利権の中に部落大衆を巻き込むべきでない。
人は生まれながら平等である。部落民や穢多・非人などというのはもともと何の根拠もない。私もそうだが本人がそれを嫌がっているのだから社会が押し付けるべきではない。

天皇問題。いやだという天皇の意思を無視して無理に皇位に縛り付けようという連中は不敬も甚だしく宸襟を悩ますこと甚だしい。

天皇制を国民が維持したいといっても天皇本人が嫌がっている場合は天皇の意思が尊重されるべきである。さらに天皇制そのものを超えて同じ人間として開放してあげるべきだろう。

ある人間集団が、天皇などという尊称を名乗ること自体根拠のないことであって、はたからサルが見たらおかしいというだろう。

人は生まれながら平等なのである。部落民とか、天皇民とかいうものは何の根拠もないことである。天皇の地位は国民の総意で決めることになっているが、本人に拒否権があることは言うまでもないことである。

部落問題も天皇問題も解決するには何よりも社会がそれを当人に強制してはならない。本人の意思を尊重すべきことが大前提である。
皇室典範が言う男系の後継者が絶えるという絶好の機会が到来するというのだから、天皇制を解消し、皆さんを普通の人間として社会が迎えるべきだ。

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2016年10月31日 (月)

部落問題についての法案

News & Letters/530

「人権侵害救済法」(または人権擁護法)という名で部落差別解消の法案が国会で審議されようとして種々の物議をかもしている。

今部落問題はいかに考えるべきであるか。
こんな法律ができたたら、解消に向かっている部落問題が固定化され、同和利権がはびこる、という左右からの論争がある。同和利権も今日の部落問題の一つの姿である。

同和地区について客観的、公法上のなデータは何もない。封建時代では、逆にその地域は里程にも計上されず人外の里として文字通り無視抹殺されていた。特定の地域が同和地区であるという客観的な資料、歴史的資料はあるか、と市役所に尋ねても、ないという。同和対策事業の対象である同和地区指定の根拠がはっきりしない。戦前に国が全国の同和地区を調査しているから国に聞いてくれ、という答えである。

それで国に聞いてみたら、それは市町村が把握しているはずだという答えであった。
同和地区は確かに存在し、差別事象は今も後を絶たないが、しかし、どこそこが同和地区であるという公の証拠がない。
しかし、周辺の人も当事者もどこが同和地区かはっきり知っている。

極めて奇妙だ。部落差別をしてはならないということを法律で規制することについてどう考えるか。

法律の内容にもよるが法律を制定することは可である。なぜなら憲法第14条第1項に「社会的身分又は門地」による差別が禁止されている。第14条の「社会的身分」が部落差別による旧賤民身分を指すことは明らかになっている。この憲法の規定により様々な法令で繰り返し差別が禁止され、罰則規定まであるのもある。

すでに法的規制がなされているのである。憲法やそれら法令に悖ることがない限り、そして差別が現存する限り、部落差別をなくすための法律は有意義であろう。

部落問題についての法律の制定が部落の固定化などをもたらすというのは根拠がない。部落問題は現体制・格差社会では解消し得ない。同和利権など解放運動団体の腐敗問題は、全く違う次元の話だ。部落差別の実態を知らないものがいくらこの法案を非難しても法的規制の意義を減ずることはできない。

法的規制で重要なのは、権力と大企業による差別を規制することだ。差別の根幹は権力にある。差別事象があったからといって一般人民や報道機関を法的に規制してはならない。人民間の問題は人民自らの討論や学習を通じて解決すべきであって権力の容喙を招いてはならない。報道機関は一種の権力であるから、部落差別について厳格な自己規制綱領を持つべきであろう。部落解放運動は人民解放闘争の一角として反権力の姿勢を明確にすべきである。

地域差別に根差す政府の原子力政策や沖縄基地問題は、解放運動が住民と連帯して真っ先に取り組むべきだ。
反原発の闘争で荊冠旗を見たことがない。沖縄差別や原発立地地域差別政策は、部落差別と同根なのである。
今度の法案が、このような差別に対する規制も含むことを望む。

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2016年10月13日 (木)

「革共同私史」について【訂正】

News & Letters/524

橋本の「革共同私史」についての私の現行中
柏木論文は「共産主義者」24号に掲載されたものです。

  【補充】 私の党派闘争

私の党派闘争は、そもそも解放同盟内では、狭山事件の関係から急速に革命的共産主義運動を根付かせることが困難であることから、解放同盟から脱却して直接全国の部落青年に呼びかけ独自に一革命戦線として独自の解放運動を構築するところから始まった。

そのときの同志は大阪寝屋川市国守部落の西方寺僧侶斉藤あきのり君(故人)ら数人であった。解放運動の一党派として全国部落研とか関西部落研を名乗って主として狭山闘争を全国に呼びかけた。狭山闘争以外にも豊中高校、向陽高校(和歌山)の差別糾弾、差別映画橋のない川上映阻止闘争などいくつもの激しい糾弾闘争を繰り広げた。

この様な糾弾闘争は中核派とは無縁の地で闘われたが、やがて中核派の一戦線として位置づけられた。これは学生運動や労働運動、反戦青年委員会などを主として組織していた中核派には全く異様な存在であったであろう。中核派や新左翼には旧社会党や共産党が重視していた部落解放運動は無縁のものであったからだ。

しかし、日本の反体制運動では戦前から左翼3団体の1つとして全国水平社の激しい闘いの戦線が繰り広げられてきた。共産党はこの戦線を民主主義革命→社会主義革命の二段階革命戦略に巧みに組み込んでいたのである。

新左翼の経済論は、戦前の労農派系統であり、農業問題や部落問題など封建遺制による差別問題は資本主義の発展の過程で自然に解消するものという軽い位置づけであった。
だから、この新左翼の戦線に封建遺制の差別問題を持ち込むこと自体が大いなる私の党派闘争の始まりであった。

私は、その党派闘争の理論を宇野学派の経済論(帝国主義段階論)でもって部落問題を位置づけた。それは私の卒論であったが、その序文が立命評論に掲載された。立命評論のその号は多数回印刷が繰り返されたという。資本主義の帝国主義段階では、一方に金融資本が確立されると同時に、本来資本主義の発展と共に解消されるはずの地主・小作関係や過小農の広範な存続、そして部落問題など封建遺制が解消されず、むしろ新たな論理でもって再編されるというものだ。従って部落問題も二段階革命路線で解決できるのではなく、帝国主義打倒のプロレタリアートと同一の戦略課題を持って戦列を組んで社会主義革命的に解決する道しかないのである。

洗練された都会型の学生運動をやってきた連中にこの様な理論が素直に受け入れられるはずはなかった。基幹労働部門のプロレタリアの決起による革命を目指すという思想は、部落民ら底辺の人民はルン・プロとしか見えないのである。

その中で、狭山闘争は全国的に広がり、全国の部落青年は戦闘化して荊冠旗を掲げて「糾弾・奪還」の声が日比谷公園にこだましだした。解放同盟の本隊も危機感を抱いて狭山闘争の主導権を取り返そうとして大動員をかけだした。部落の青年を取られてはまもなく解放同盟本隊もトロッキストに乗っ取られると恐れたのであろう。
危機感を抱いたのは解放同盟中央〔特に上田卓三〕だけではなかった。中核派関西地方委員会にもいた。それが橋本その人だ。

「共産主義」24号の柏木論文や「前進」の秋口論文もその当時出てきた。まさに資本主義の発展の中で部落民はプロレタリア化し部落問題が解消されると読める内容の論文が出てきたのである。これは同時期に「共産主義」や「前進」に私が書いた論文とは全く違う内容であった。私を含め当時の部落研の主な活動家は、討論を重ね、柏木論文や秋口論文を部落解消主義として厳しく非難をした。部落解消主義では解放運動は戦えない。

しかし、橋本らは後に、腐敗分子として暴力的に排除した与田らを使って部落研の分裂策動を初め、又関西地方委員会を反澤山で固め、一切の論争を封じ澤山及びその同調者を排除した。それだけでは飽きたらず、橋本は、澤山をこの世から物理的に抹殺するために白色テロルを組織し、それを実行した。白昼、無防備の澤山に多数の者を襲撃させ鉄パイプで全身をめった打ちにし、地面を血の海にした。革命的な部落解放運動を撲殺するこの橋本企画の蛮行は長く歴史に印刻されねばならない。

今私は、この蛮行について個人的な恨みを持っているわけではない。この反革命的蛮行がもたらしたのは、今日の部落解放運動の惨憺たる有様だ。腐敗分子与田らが率いた解放運動も同対審答申路線を一歩も乗り越えることが出来ていない。第一、同対審答申とは何かも知らないだろう。全文数百ページの答申を読んで分析した者はほとんどいない。だが現実に解放運動の大勢は同対審答申路線のなかに埋没し、腐敗し、解体して、部落差別のほうが「解放」されている始末だ。

狭山闘争も解放同盟の枠を越えることは出来ない。単なる冤罪問題の再審請求運動に過ぎなくなっている。師岡先生を初め解放同盟の論客・弁護士先生らはそもそも寺尾判決の恐ろしい論理を見抜けなかった。客観的事実と自白が矛盾する、だが矛盾するが故に真実だ、と言う恐るべき「弁証法」を刑事裁判に持ち込んだ寺尾の差別論理、これを認識しなかった。

自分は今解放運動について偉そうなことは言えないが、橋本利昭らの74年12月14日京都長岡での白色テロルがなければ、解放運動の戦線だけは、革命的共産主義運動の拠点として今も息づいていたに違いないと考え、切歯扼腕する思いである。

この白色テロルから程ない時期に私が聞いたところでは、解放同盟中央本部の私の師匠格にあたる執行委員らが革共同中核派の幹部と会って、このテロを厳しく糾弾したところ、涙を流して自己批判をしたということである。真偽は分からないが、実行犯である橋本らは今回発表された「革共同私史」では「共産主義者として正しかった」と確信していると居直っている。

少数派が多数派により不当な弾圧を受け、生きることが出来ないので暴力で反抗したというなら、その暴力もある程度容認される余地もあるが、党内の多数派が、無武装の少数派を暴力でたたきのめす、殺しても構わないというやり方が橋本のおはこであるが、この様な考えの者が権力を握った場合どういう社会が現出されるであろうか。
反スターリン主義は戦略戦術の問題より以前にスターリンの反対派に対する血なまぐさい党内粛正を問題にしているのである。

少数意見の者を暴力で圧殺しても共産主義としては正しいというのは、二律背反である。何故なら革命によってヒューマニズムを回復しようとするのが共産主義でありマルクス主義であるからだ。

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2016年10月11日 (火)

続革共同私史

News & Letters/523

      【 訂正】
先の「革共同私史」で北方さんのことについて誤解がありました。
スパイだとされた北方正昭は私が指導を受けた北方さんとは別人でした。
ただし、私が敬愛していた京大医学部出身の北方さんは、橋本の最初の「党派活動」で排除されたことは間違いない。
当時私は学生戦線を離れ、解放同盟中央本部で書記をしていたのでいつの間にどういう理由で北方さんや浜野さんら当時の関西中核派の指導部が排除されたのか全く分からなかったが、今回橋本の「革共同私史」で橋本の「党派闘争」の犠牲にされたことが知れた。

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2016年10月 7日 (金)

革共同私史について

News & Letters/522

中核派関西派の橋本利昭が「革共同私史」という回想録に私のことが若干記載されている。
この回想録全体のコメントは他日にするとして、橋本は「党内闘争」3回のうちの一つとして私との闘争についてである。

かつてのペンネーム「杉進也」について次のように書かれている。私のかつてのペンネームの一つが「杉進也」である。

「杉進也」との党内闘争の理由は、「杉進也」が「革命的共産主義運動と部落解放運動を対立、分裂させる言動に怒りがわいた。」からだという。

60年代から70年代にかけて私は中核派の闘争、「革命的共産主義運動」に参加したが、それは部落解放運動を革命的共産主義運動に発展させるためであって、それと敵対するような言動は何もしていない。

私は「前進」や「共産主義者」などの機関誌紙にいろいろな論文を載せたが、橋本が言うような革命的共産主義運動に敵対するような「言動」をした覚えはない。橋本は、澤山保太郎がこういうことを書いたとか、こういうことを言ったとか、そういう行動をとったという証拠を挙げるべきであろう。又、橋本の第一番目の党内闘争である北方氏についても「スパイ」だったというが私が知る限り、北方氏がそのような卑劣な人間であるはずはない。極めて尊敬すべき指導者であり人格も立派だった。

この二つの党内闘争について橋本は、「そもそも意見の違いを「党内闘争」で「解決」するというやり方そのものに問題があったし、・・」と反省的であるが、私は橋本と一切理論闘争をしたことはない。私が論争したのは、共産主義者第26号の部落問題に関する論文(確か柏木論文)と、それと同調する「前進」の秋口論文であり、それらについて東京で北小路敏氏と一回だけ論争したが、関西地方委員会では、北小路との論争以来私は一切の会議に召集されなくなったから橋本や関西担当の政治局員とも誰とも論争することはなかった。当時の中核派の会議は極秘だから、召集されなければ出席できない。

もし関西地方委員会で私が出席し部落問題について論争したら、誰が私にまともに反論できたであろうか。
橋本は部落問題については当時は全く無知であった。他の地方委員のメンバーも部落問題をろくに勉強したものはだれもいなかったし、する気もなかったであろう。彼らは部落研の動員力を期待していただけである。

当時は中核派内部のすざましい部落差別事件が続発していたが、橋本らはそれらについて一切対処しなかった。
党内の差別事件はただだと思っていたのであろう。
橋本は私に対して最後に白色テロルをかけてきて私を殺害する部隊を編成し、その計画を実行し、私を危篤状態に陥れた。

そのテロの直後に病院で聞いた話では、滑稽なことに、その殺害計画書(メモ)をベトコンに持たせていたが、それが警察に押収された、ということであった。それからのち松山刑務所で京都地検の検事がそのメモをもって私を訪ねてきた。
そのメモの筆跡は明らかに橋本の達筆の筆跡であった。公安の検事は、私から証言を取ろうとして数日刑務所に通ってきたが、徒労に終わった。

白色テロルによって橋本利昭が得たものは何か。関西地方委員会での自己の地位と、部落解放運動の革命的発展の阻止、とりわけ狭山闘争の敗北への地ならしである。それ以降狭山闘争は解放同盟の枠内での闘争に矮小化し、解放運動の武装的革命的発展は消えてしまった。橋本が意図すると否とを問わずこのテロは反解放運動であり、反革命の役割を担った。

橋本の第3の「党内闘争」のきっかけになった与田打倒であるが、まさに与田を抱え込んで澤山ー革命的部落解放運動に対置したのは橋本自身ではないか。初めから与田と対決したのはだれで、その与田を見出し部落研を分裂させ、そしてその腐敗をを育てたのは誰なのだ。

中核派中央の脱血債、部落問題や民族問題を解消する路線(当時柏木論文などを澤山は「解消主義」と指弾してきた)と党内闘争を展開していた杉進也こと澤山保太郎の闘いを文字通り血の海に沈めたのは、お前、橋本ではなかったのか。何の罪もない部落民を殺そうとした人間が「血債」の思想を旗印にするというのはなんという逆説だ。

今からでも遅くはない、謝罪しろ。俺はいま九州の果てで、毎日、毎日、ビラまきをやっている。俺はお前のようにえらい人間、理論的エリートではないから、足を引きずりながら人民の戸別の庭に入り込んで、反原発のビラまきにいそしんでいる。

死ぬときは、路上で手にビラをもって倒れるだろうよ。今こうして頑張れるのは北方さんや浜野さん、澤さん、渡辺さんなど中核派の尊敬する先輩や全国部落研の 同志たちとの戦いの思い出があるからだ。中核派としての矜持があるからだ。

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2016年7月27日 (水)

相模原障害者差別虐殺事件

News & Letters/507

恐るべき事件だ。世界が驚倒した。
ただの殺りく事件ではない。差別虐殺なのだ。
しかもこれを遂行したのは明らかに極右であり、安倍晋三、橋本徹、日本会議、小池百合子、在特会らにつながる連中だ。街頭やネットでヘイトスピーチをやるだけでなく、被差別者を社会から抹殺することを実行し始めたのである。

ただの狂人の行為ではない。極右の確信犯だ。「Beautiful Japan」などという書き込みが安倍らと同じ思想であることを示ししている。美しい日本のために、被差別者が根こそぎ殺される時代が始まった。

このような事態を惹起した責任はだれだ。
第一に弱者やアジア人民、被差別者に憎悪をむき出しにし、過去の侵略戦争を美化し、日本を戦争国家に引きずり込もうとする極右の台頭と、第二に解放同盟ら差別糾弾側の弱体化だ。

差別に対する火の出るような怒りの糾弾闘争が消えてから久しい。
闇にこもっていた差別者たちが、時をえ顔に白昼公然と差別言辞を吐きながら往還を歩いている。

私が、解放運動に武装闘争論を提起したのは、何よりも今回の相模原のような権力やそれにさおさす差別者たちによる差別虐殺に対する予防のためであった。被差別者は、差別虐殺に対して武装して戦わなければ、この地上に生きることができない。血の海に沈むのは無辜の被差別者か、陋劣な差別者か、どっちなのだ。それを今回の事件は突き付けている。

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2015年10月 9日 (金)

読書感想 「部落解放同盟「糾弾」史」小林健治著ちくま新書

News & Letters/441

この本の著者小林さんが現在の解放同盟とどういう関係に刈るのかわからない。
戦後の解放同盟の糾弾の歴史でおもにマスコミ関係の差別事件への糾弾が描かれている。
しかし、糾弾闘争の歴史を書くのであれば、解放同盟の権力に対する糾弾闘争を主要に書くべきであって、マスコミや各種の著作者の差別用語だけを取り上げて主たる糾弾として描くべきではないだろう。

1、戦後澎湃と上がった解放運動の権力への糾弾闘争は後に「行政闘争」と呼ばれ各地方自治体へ向けられたものである。

 それは、行政や議会側に、同和地区へのあからさまな行政施策の放棄、排除、無視~あからさまな侮蔑に対して激しい憤激の 中で戦われてきた。私がごく若いころ土方鉄さんのもとで解放新聞の編集や取材のお手伝いをしていた頃、京都府連の糾弾闘争に参加した。それは部落の野犬捕獲人のささやかな要求(出勤しても服や私物を置くロッカーもない、なんとかしてくれ)を組合も行政も取り上げないという冷たい仕打ちを訴える糾弾であった。確かそれは市役所か府庁のロビーでだった。

今も覚えているが、府職労の大江書記長も糾弾されていた。京都の同盟員が、同じ労働者である野犬捕獲人が、なぜ差別をされ続けるのかせつせつと訴えていたが、党の方針では絶対に自己批判が許されていないかの書記長もさすがにその訴えに涙を流さざるを得なかった。その涙は、千年もの間差別を受けてきたものの悲痛な叫びが、強固な党派最高幹部の胸をもゆすぶり、してはならない差別をしていた自分たちを責めた、その悔悟の涙に違いない、と私は思った。

解放同盟の糾弾は、厳しいが、人の魂を揺さぶる美しいものでもあった。
全国各地で展開されたこのような行政に対する糾弾闘争を没却しては、解放同盟の糾弾の歴史とは言えない。

2、狭山差別裁判糾弾闘争をどうして書かないのであろうか。

 狭山の闘争は石川一雄さんから始まって67年ごろから私が全国闘争として設定して現在に至っているが、この闘争は、それ自体一個の差別裁判への糾弾闘争であるが、同時にこのような差別的冤罪事件にほとんどまともに取り組もうとしない解放同盟への糾弾も込めた戦いであった。結局解放同盟も組織を挙げてこの闘争に取り組むようになったが、それはどちらかというとこの闘争を放置しておれば同盟組織、少なくとも青年組織が過激派(すなわち全国部落研)に乗っ取られるという危機感があったからである。それは日比谷公園で今は亡き上田卓三さんがその危機感を絶叫していた。このままでは同盟が過激派に乗っ取られる、次の公判には同盟が主導権を取れるよう大動員をかける、という趣旨の演説をした。

全国から集まった多くの部落青年が「糾弾、奪還」を叫んで立ち上がったからである。
狭山の闘争は、解放運動全体を同和予算獲得運動から反権力糾弾闘争に転換させるべき大きな仕掛けでもあった。
小林の著作は、狭山差別裁判糾弾闘争をまったく書かない。

3、小林の記録したマスコミや文人たちへの差別糾弾には相当牽強付会のものがあったようである。

 ①作家筒井康隆の週刊文春誌上での「士農工商SF屋」の表現がやり玉に挙がった。
 版元の文芸春秋社はその「差別性」を認めたが筆者の筒井氏はそれを認めなかった、という。
「士農工商SF屋」がどうして部落差別になるのか全く不可解である。
それはSF屋を貶めることになるが、部落民を貶めることにはなりえないだろう。
士農工商という言葉自身明治か大正ごろに教科書用に作られた造語であり歴史的な概念ではない。

せいぜい中国あたりの儒教の本に中国の階級制度として載っているものである。日本には士農工商という身分制は存在していなかったのである。たとえば土佐の憲法といわれる元禄大定目やそれ以前の長宗我部百箇条に出てくる身分はせいぜい侍と百姓、町人程度であり、士農工商などという架空の身分制度は存在しない。農民が工商の上に立つなどあり得ない話だし、侍が士であったためしもない。士農工商の士というのは士大夫(貴族)のことであって武器を操り戦争することを生業とする武士(兵)ではない。

そんな日本では架空の身分制士農工商○○を自己を卑下するために使ったからといって何の問題がある。
士農工商○○の ○○は必ず穢多非人だと勝手に決め込んでいるが、それは教科書用の差別的造語をむしろ宣伝するようなものだ。日本の中世封建社会で穢多非人への激しい差別があったことは事実であるが、明確に法制化されたものではない。
だから、前近代社会では穢多に対する差別は当然であるのではなく、封建社会においても、一部の住民を穢多非人と侮蔑し差別迫害を加えた幕府や諸藩の仕打ちは、許されないのである。

筒井氏が糾弾を拒絶したことは正当である。

②「特殊部落」

 特殊部落という言葉を使ったということでたくさんの者が糾弾を受けている。
確かに特殊部落という言葉は明治以降に主に権力側によって旧穢多・非人に対して使われてきた。
その場合は明らかに差別性をもっていて糾弾に値する。私が糾弾した明治初年の土佐の漁業を記録した官制の記録では、私の村を含め土佐湾沿岸の「特殊部落」の光景や人物を一つ一つ取り上げ、そこの住民に侮蔑の記述を繰り広げ「特殊部落」が行政の妨げだなどとも書いていた。私はその資料の一部を図書館で発見し、高知県連らと一緒に副知事以下の県庁職員や県漁連の幹部を呼んで大衆的な糾弾を行った。その前代未聞の膨大な差別記録は、光内聖賢さんと相談して、人権センターの一室に保管することにした。いまでもそこにあるはずだ。
しかし、飛鳥田社会党委員長の「社会党は特殊部落」だとか、国会や芸能界などを特殊部落だという表現には、部落差別の意図も響きも何も感ぜられない。それは国会や芸能界は特殊な部落、特殊な集団だというにすぎない。

「特殊部落」という言葉が戦前に同和地区をさしてつかわれた歴史的事実はあるが、部落という言葉が普通の単語、集落を部落と表現し使用する以上、特殊な部落「特殊部落」はすべて同和地区を指していると決めつけるわけにはいかないであろう。
まして、社会党を特殊部落といっても、醜い派閥抗争の社会党の実態を指しているのであり、それを同和地区の実態と並べて連想することはありえない。
「特殊部落」という言葉が差別性を帯びるのはあくまでもそれが同和地区を指していること、さらに侮蔑的にさしていることによってである。それが有名な水平社宣言の差別の規定の趣旨だ。

③解放同盟の弱体化の今日の惨状の原因について

この本の筆者は解放運動の衰退の現状を嘆く。まともな糾弾闘争もできない現状。同盟員の激減。
しかし、筆者が解放出版社などに勤め出版物の差別表現に対する糾弾闘争に明け暮れていた当時、すなわち解放運動が勢威旺盛な時代にすでに解放運動の鋭意は失われていた。
それは、解放運動の大勢が政府が出す巨額の同和予算に押し流され鼻まで浸かって窒息状態になっていたからである。

だから、それより十年も前に私が解放同盟を見限り、それから逸脱し、新しい解放運動を建設するために狭山闘争で全国を行脚した理由だ。要するに解放運動はその目的を達成しさまざまな利権の山の中、大満足のなかで実質的に息を引き取っていた。狭山闘争も現在続行中であるが、差別糾弾の影は消え普通の冤罪事件、公正裁判要求運動に成り下がって久しいのである。寺尾判決に対する同盟の糾弾文章(おもに師岡先生の作文)」も寺尾判決の差別性をなんら暴くことはできなかった。

解放運動を刷新する唯一の闘争は私が率いた狭山闘争をはじめとする【解放運動は武装闘争である】という路線闘争であり、全国の部落青年を革命派に転換しつつあったが、それも中核派(主に関西の橋本利昭ら)の策謀によって暴力的に「打倒」された。「打倒」する理由を私に面と向かって言ってきた者はその当時からいまだに誰もいない。「前進」に載った部落問題をテーマにした秋口論文を私が「解消主義的」だと批判したことが「打倒」の理由ということか。路線上の対立で人殺し(殺人未遂)を平気でやる連中には本当に恐れ入る。その後の革命派の「部落解放運動」は実質的に部落解消主義的であり悲惨なものだ。実力闘争を基本に据えた糾弾闘争などとんでもないという状況だ。

だから糾弾闘争もろくにできない今日の解放運動の体たらくは、解放同盟本隊がさまざまな特権を得て現状大満足を達成しこの本の筆者が言うとおり差別を感ぜられなくなったこと、それに代わる新しい勢力がほとんど存在しないことに原因がある。
差別の諸相も変わってきているが、部落差別は潜在し、週刊新潮など週刊誌などの橋本徹攻撃のようにヘイトスピーチ的差別攻撃もあらわになってきているが、全国水平社的な鮮烈な解放運動勃興の兆しは見えない。

ちなみに、私はいくたびも首長選挙に出たが1勝しかできなかった。それは私の文字通り不徳の致すところであり力量(財政も含めて)のなさが主な原因であるが、厳しい部落差別の現実も言わなければウソになるだろう。どこの馬の骨か、これがこの近辺の寒村の価値判断に牢固としてある。この骨品制の壁を突き破ったのは一度だけであった。

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2015年8月 7日 (金)

続・革共同政治局の敗北

News & Letters/428

「革共同政治局の敗北」の登場は衝撃的であろう。

多くの関係者がこれを読んで、自分自身の過去及び現在について思いをめぐらすであろう。
前回に問題にした革共同の墜落の原因について本書は表面的な素描しかなしえていないと私は書いた。

清水や中野、塩川、与田等々の個人的な問題としては出されているが、根本的な原因の解明は出来ていない、と私は考えている。

本多さんが生きておればこのような事態にはならなかったのか、である。
第1の問題は、前衛党についての考え方だ。

私は本多を含め革共同の革命党としての自覚において、スターリニスト的体質を払拭できなかった、というよりより激しい闘争の中で一層スターリニスト的体質を純化させた、と考える。それは日共やカクマルらと同等かそれ以上にである。

それは結局日本的には梯明秀の主体性哲学、アメリカのラーヤ・ドウナエフスカヤの思想をネグレクトしそれと正反対に位置する。

卑俗に言えば藤本進治的前衛意識(大衆は馬鹿だからこれを引きずりまわす、 「革命の哲学」)を強烈に志向してきた、その破産的結果が今日の革共同の崩壊現象の根因であろう。
前衛とは大衆の先頭に立って弾にあたって死ぬことだ。大衆の後ろに隠れて大衆を操るものではない。

梯明秀とラーヤはマルクス死後最大のマルクス主義哲学の泰斗である。
プロレタリアの主体性、自己意識、自己運動を視座にすえてスターリニスト的前衛思想を根底から否定した。

マルクス主義こそがスターリンや毛沢東など大小のスターリン主義的官僚支配を打倒する原理論を持っていることを示した。
中核派は二人の偉大なマルクス主義思想家を無視しあざ笑った。それはマルクス主義の原理を否定しあざ笑ったのと同じであった。

マルクス主義は人民の自由と解放の哲学であって、大衆を引き回したり異説を唱えるものをテロで圧殺する思想ではない。

清水や野島、中野、塩川はもとより、本多延嘉でさえもマルクス主義哲学を体得しそれを運動の中に根付かせようとはしていなかった。初期マルククスの思想、マルクス主義の原点、滴るような革命的ヒューマニズムに無関心だったのだ。
初期マルクスの著作について本格的に学習したり論議に上るというようなことはついぞなかった。

その結果、大衆運動の自己運動ではなく、スターリニストとしての官僚的特権の自己運動が優先し、大衆運動を圧殺して省みない体質が構築されたのである。

そのことは本書「革共同政治局の敗北」の著者たちも同様であろう。

81年革共同第5回大会の議案についてのコメントでこの著者は「そこには世界史的・人類史的な課題である原発ゼロ化、核戦争廃絶もなければ・・・・・」といい、「第5回大会路線が内包する誤りがより端的に現れたものが、反原発闘争の軽視と放棄であった。・・・・政治局は、反原発という人類史的テーマの綱領的・戦略的な解明の戦いに背を向けていたのである。」という。

< div>なぜ「前衛党」ともあろうものがこのような致命的な誤謬を犯したのか、2011年の福島原発の破局まで反原発闘争に動かなかったという重大な過ちの根因は、何か。
それは、誰が前衛なのかという根本的な問題なのだ。決して「前衛党」を自称している連中が前衛なのではなく、大衆こそが前衛であり、それについて学習し大衆の戦いや願いを自己の戦略にすえていくという党としての思想性の欠如なのである。

真理は、誰か革命家か天才が発見するのではない。あらかじめ大衆の中に、その生活や戦いの中に用意されていなければ見つけることもできないのである。反原発闘争は全国各地で戦われていた。戦いを始めていた住民たちが前衛なのだ。それの意義を学習することが出来なかった「前衛」ははるかな後衛であり、追従でしかない。

傲岸なスターリニスト的前衛思想を捨てて、真実のマルクス主義の原点に返ること、大衆の自己運動、それがラーヤ・ドゥナエフスカヤの主唱したマルクス主義であった。

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2015年8月 6日 (木)

革共同の敗北

News & Letters/427
私は今「革共同政治局の敗北」という本をほとんど読んだところである。
衝撃的な内容であるが、私が抱いていた革共同中核派の幻滅的イメージの具体的な姿を鮮やかに見せてくれた。革共同にすこしばかりは関係し「前進」や「イスト」などに論文を書いたこともある私としても第三者的に見過ごすことはできない。
革共同は日本人民の希望であり宝であった。それは憲法9条を人格的に表象した存在そのものであった。
この本の読後感想を書いてみる。
1、この本では革共同の崩壊する内容と過程が現象的に表出されているが、
  その根因的な要素が何なのかはっきりしていない。
  すなわち何故革共同は今日の状況にまで墜落したのかその理由が明確に出さ 
  れていない。清水丈夫や中野洋らの個人的な問題ではない。
2、筆者ら二人は自ら革共同の「左派」だと規定しているが、何を基準にしての左派
  なのかはっきりしない。
3、革共同崩壊の決定的な契機となった6年3・14テロ事件の内容がかなり分かったが、  その舞台の二人の主人公塩川と与田について筆者である水谷、岸元政治
  局員はその二人についてほとんど知らないだろう。
  今度の本では、この二人のテロ・リンチ事件(塩川が加害者で、与田が被害者)
  が革共同崩壊の引き金となったと位置付けられている。  
   しかし、この「3・14Ⅱ」事件より30数年前、一つの反革命行為があった。
  かつて塩川と与田は共同して、澤山に対して反革命暴力(殺人未遂事件)を起こ 
  した張本人にであった。澤山を血の海に沈めて、狭山闘争を敗北に導き、革命 
  的な部落解放の大衆運動を壊滅させた犯罪人そのものだった。
  瀕死の重傷を負わせる澤山襲撃について彼らは刑事罰はもとより、階級的な非
  難も制裁も受けずにきた。澤山が沈黙を守ったからである。  
  かつて収監されていた松山刑務所に京都地検の公安担当検事が数日にわたっ
  て澤山の尋問にやってきた。そのとき検事が証拠として手にして澤山に示したの
  は塩川の筆跡の澤山襲撃の作戦メモであった。もちろん澤山は完全黙秘を通し
  たので澤山襲撃事件では誰も有罪者は出なかったはずだ。 
  だが、その襲撃の反革命性を忘れてはおるまい。澤山は自分の書いた前進論 
  文とそれと根本的に相違する秋口論文(部落問題解消主義に通ずる理論)に対 
  して異を唱えただけであって、革共同に対して何一つ敵対した行動はとっていな
  かった。戦闘的な部落解放運動の発展は革共同にとって貢献するものであって
  何らの障害になるものでもなかった。澤山は激しい新しい解放運動の開拓のた
  めに革共同に対してびた一文も援助を乞うたこともない。狭山や諸闘争で全ての
  動員費用は部落研内のカンパと澤山の家族が負担したものだ。
  かつて全国部落研や戦闘同志会を創生し、各地の部落青年とともに激しい差
  別実力糾弾闘争に立ちあがり、中でも狭山差別裁判糾弾闘争をその先頭で戦っ 
  ていた同志を殺害しようとしたことの階級的犯罪性を背負った二人(塩川と与
  田)が、その襲撃事件の数十年あとで、日本人民の希望の星であった革共同を
  終焉させる、その契機となったおぞましい腐敗事件とリンチ事件を二人が起こし
  ていたのであった。与田は部落問題はほとんど知らなかったし、各地の糾弾闘 
  争にも一切参加していない。中核派から部落研に入り込んできただけの新参者
  であり、こんな男が全国部落研や戦闘同志会のこれまでの闘争を発展させ得る
  はずがない。果たせるかな、解放運動は武装闘争であるという原則を捨てて、新
  しい差別糾弾闘争の分野は出せず、狭山闘争も糾弾・奪還の実力闘争ではな
  く、解放同盟の公判闘争の枠の中でうごめいているにすぎないものになった。
  澤山が暴力に封殺されずに闘い続けていたら今頃は全国の解放同盟を牛耳っ
  て差別糾弾、反戦・反原発闘争の一大拠点とし、日本プロレタリア革命の砦とし 
  て解放運動を位置付けていただろう。
 私の野望は、革共同の一員の任務として、全国の部落大衆を革命陣営に引き込み、荊冠旗を首相官邸に突入、一番乗りさせることであって、革共同の党の幹部になることではなかった。  
 おそらく塩川は、私が革共同関西地方委員会を統率する地位についたり、中央政治局入りすることになるやもしれないことに我慢ならなかったのであろう。
塩川にとってはそのようなことが最大の関心事であったかもしれないが、私には党務のようなことは迷惑な負担であり、大衆闘争の発展とその中で首都に向かってへんぽんと翻る荊冠旗を見ること以上の野望はなかったのである。
そのことは塩川自身が一番知っていたはずだ。私をラーヤ主義者だとか、大衆運動主義者だとか揶揄したり非難していたのである。
与田は革命的な部落解放運動を切り開く戦いでは、理論的にも実践的にもほとんど何の貢献もない。私らを追い出し部落研の実権を握っても3日4日(1週間のうち活動は3日、後の4日はプールのある別府の豪邸で優雅に過ごしていたという)の腐敗生活では、解放運動の武装的発展など夢想だにもできない。沢山の作った解放運動をほとんど実質的に解体したのである。「革共同政治局の敗北」の著者は「3・14Ⅱ」事件の二人の主役の本当の、元の姿を知るべきである。
                            続く・・・・・・・

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2013年12月 4日 (水)

カン・ウギュという抗日闘士について

News & Letters/385

朝鮮のカン・ウギュという抗日闘争の義士は日本では元朝鮮統監だった伊藤博文を倒した安重根よりも知られていない。

カン・ウギュは1919年3・1独立運動が勃発した朝鮮で、新しく赴任してきた朝鮮総督斎藤実の一行に対して手りゅう弾を投げつけ多数の日本人役人らを殺傷した。斎藤総督を爆殺することは出来なかったが、日帝の植民地支配者たちの度肝を抜き、朝鮮の民族解放闘争に大きな影響を与えた。

私が感銘を受けるのは、この英雄的な行動だけではない。この義挙を遂行したときかれが64歳の当時としては高齢であったことである。

かれは、医者であり教育者でもある廉潔の士であったが、年老いても民族の独立運動を活発に続け、年老いてなお、老人同盟という闘争組織を作って、むしろ急進的な武装闘争を推進したのである。

若いときは過激な運動に従事していたが、高齢になればそんなことは無理で後方で若い者を支援する、というのが常識的な考えだ。
私も若いときには、関西部落解放研究会、とか全国部落研とか、また、部落青年戦闘同志会などという急進的な団体を作って、相当過激な闘争を繰り広げた。
しかし、中年以降は反体制であることは違いないが、やることは極めて穏やかなあるいはほとんど権力には無害な行動しかとってきていない。

しかし、カン・ウギュは違っていた。戦闘的な高齢者の団体を作り、日本帝国主義の先兵である重臣とその一行を爆弾をもって襲撃したのだ。死をも恐れない勇気に敬服するばかりだ。カン・ウギュはその行動の翌年処刑された。

考えてみれば過激な行動はむしろ高齢者に最も適している。
若い者が闘争で早く死んだり、長く牢獄につながれたりすることは大変なロスであり負担であろう。残りの命が少ない年寄りが闘争で処刑されてもさほどのことはない。

私も30歳代の半ばに、狭山闘争の浦和地裁襲撃事件で2年の懲役を打たれ実質1年8ヶ月刑務所にいた。妻とは別離していたが家に老母と幼少の息子を置いて下獄した。

短い期間であったが老母と息子のことを思うと一日千秋の思いで懲役に服し時に涙を流して耐えた。若いころの牢獄はシャバに保護すべき係累が多く精神的に大変だ。

高齢であれば、今はむしろ牢獄は安息の場にもなり得る。飯は保証さているし本も読めるし規則正しい生活がある。たとえ処刑されても十分生きたのであるから悔恨は少ない。
むしろ、カン・ウギュのように高齢者こそが若者にできない勇敢な行動を起こす立場にあるのではないか。若者は先が長く恋人もおり、養うべき親や子供がいる。親より先に死んではなるまい。慎重な行動が求められる。

年寄りは、その時が来たら武器を持って立ち上がっても何も問題はない。
若い者のことを嘆くのではなく、困難な仕事を高齢者が進んで担当すべきではないか。
今、我々は、カン・ウギュに倣って、日本で戦闘的で命知らずの老人同盟を結成すべきではないか。高齢者が闘いの前列に進みこの暗黒の時代を切り開くべきであろう。

手に手りゅう弾をさげて敵陣に突撃するカン・ウギュの英姿を思い浮かべてみよ。

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