3月11日 東北大震災の教訓
はや11年が過ぎた。その前日だったか数日前だったかの夕方、私は疲れていたので東洋町役場から戻って畳の上に横になっていたらしばしの間うたた寝に落ちた。夕食を告げる下宿のおばさんの声で私は眼を覚ましぼんやり坐ったままで、どういうわけか、そのおばさんにむかって「日本に大変なことが起こる」と語った。
なぜそう言ったかわからないし、大変なことが何なのか分からなかった。私の言葉は、そのおばさんから当時白浜のホテルに手伝いに来ていた私の実姉にも伝わっていた。
そうしてあくる日か数日後にか大震災が東北を襲い、原発までも爆発した。すぐにホテルで働いていた下宿のおばさんから私に電話があった。「町長さんの言う通りのことがほんまにおこった!」
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11年前の東北の大震災(平成三陸沖大地震というべき)は自然現象は仕方がないが、その被害は、原発大爆発も含め人災の側面が非常に強いと私は思う。なぜなら、三陸沖においては明治29年の震災(犠牲者2万2千人)、昭和8年の震災(犠牲者3064人) 昭和35年のチリ地震も含め三陸は激震による津波災害は繰り返されてきた。
どれだけ対策がなされてきたのであろうか。
私は東洋町役場に入って最初はもちろん高レベル放射性廃棄物処分場の町内導入問題を解消することが第一の課題であったが、それは直ちに解決した。第二の課題は、南海地震・大津波の対策であった。甲浦の方は一部を除いて山が近かったから問題は白浜・小池、生見、野根地区の津波対策には避難タワーを次々と建設することであった。
私は、県庁に備えられていた南海地震の記録を読んでいたし、その大部の記録書の中に差別的表現があることを県庁に指摘もしていた。とりわけ、作家吉村昭の「三陸海岸大津波」の本を読んでいて、この文庫本を数百冊購入して、職員や住民に渡して、津波対策の重要性を訴えてきた。役場内部の昇進試験の出題もその本から出すとして、受験者にコピーを用意した。
そして私は津波避難タワーの建設の計画を立て1期の任期中に2基のタワーを建て、さらに2基のタワー建設予算を残して役場を去った。吉村のこの小さな本を見れば、誰でもその津波のすごさに慄然とするだろう。
東北でも四国でも日本の沿岸にある市町村は、誰に言われなくとも、津波襲来への備えをしなければ住民の命は救われないということは自明のことだ。それは地震発生から数分の内に自然の高台か人工の矢倉かタワーに上るほかに助かるすべはないということだ。いくら強固な堤防を築いても津波は大蛇かところてんの様に堤防を這い上がり乗り越えて襲ってくる。
数度の津波大災害を経験していながら、11年前に三陸の沿岸の町にいくつの津波避難タワーが建設されていたのか。
災害時の当時の新聞記事(確か朝日だったと思う)でただ1件だけ、避難タワーに上って相当人数の人が助かったという記事があっただけだ。
明治・昭和の大被災を正しく教訓化し東北の沿岸の町や村の各所に避難タワーが建設されていれば、2万数千人という明治時代と同じ犠牲者を出すことはなかっただろう。家や田畑など財産は失ってもほとんどの人が命を落とすことはなかった可能性について学者や新聞やテレビが真剣に考えるべきであろう。
一時間ほどで読み切れる吉村昭のドキュメンタリを真剣に読んで備えをしていれば11年前の東北の犠牲者はほとんど出なかったと私は確信している。今も津波避難タワーの建設は一部の市町村を除いて遅々として進展していない。高知市内などには、大きなビルなどへの避難が準備されているようだが今度の南海地震の規模が尋常ではないものとすれば、市内の住宅街などに避難タワーが百基や2百基が建設されてもおかしくないはずだ。
室戸市中心部もそうだが高知市街ももともと低地でありこのままだと大災害を受け多大の犠牲者が出る可能性がある。
為政者や学者、マスコミは、災害の実態を繰り返し報じ嘆くだけでなく、正しく教訓を生かし、命を救う方策、避難タワーの建設などの具体的対策の進捗状況・予算の状況を点検し、国民に知らせる必要があろう。
古来、日本では戦災は別格としても、地震・津波・火山、風水害など災害対策が政治の一番重要な課題であることを肝に銘じるべきだ。
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