東洋町の歴史

2009年9月 5日 (土)

東洋町50周年記念式典

News & Letters/142

東洋町町制施行50周年に際して

                       基調報告

人生50年ということがあります。地域社会にとっても半世紀というのは大きな歴史であります。昭和34年7月に野根町と甲浦町が合併し新しい東洋町が誕生しました。その間50年5代目の町長として今私は記念式典の壇上に立っているわけであります。

昭和34年といいますと、先のアジア太平洋戦争の戦禍から14年後のことであり、岸信介総理大臣の時代でありました。ちょうど国内は勤評闘争とかまた、あの安保闘争が続いて起こっていた時代であり、また池田内閣がすぐ後で成立し所得倍増といってまさに日本経済が混乱の中から飛躍的に発展しようとしていた時であります。
当時野根、甲浦の人口もピークにさしかかっており、両町とも4000人を超える大所帯でありました。

記録や識者に聞くと、合併当初は、町政は大変でありました。役場の位置も定まらず、町長選の有効無効で大もめになり、また、教育委員会も勤評闘争のあおりを受けて一時機能不全に陥っていた、ということでありました。更に重大なことには、新町政がスタートした翌年東洋町の財政が破綻に瀕し、財政再建準用団体に指定されるということになったのでありました。合併にこぎ着けた苦労もさりながら、合併直後、町民や役場のなめた辛酸は大変なものがあったと考えるものであります。

それから、町政は徐々にたち直り、庁舎の確定、行政組織の整備、下水道などの生活環境の整備、ポンカンの特産化など現在の東洋町の基盤ができあがったわけであります。
この間、全国的傾向の中で、東洋町も人口流失や産業の低迷などで町政は急速に衰退の傾向になってきました。
町政がだんだん低迷する中で、この低迷を押しとどめるための試みとして二つの注目する事件が起こっています。

1つは、平成14年に平成の大合併の波が東洋町にも押し寄せてきたということであります。高知県東部の市町村との合併か、又徳島県の町村との合併か、迷ったけれども、結局東洋町はどことも合併せず独自で存続する道を選んだのでありますが、国からの交付金や補助金の削減のなかでわれわれは独自の地方自治の厳しい道を選択したわけであります
今ひとつは、平成18年から19年にかけては、全国を揺るがすような大事件、高レベル放射性廃棄物の埋設施設を東洋町に導入するかどうか、をめぐって町内を二分する騒動が起こったのであります。その騒動も町長選挙という形で無事決着をつけ、その点については現在町内では何の問題も無くなっているのであります。

アメリカの新しい大統領オバマさんは、アメリカにおける原子力産業に関し大きな政策転換をしました。すなわち高レベル放射性廃棄物の埋設処理施設とされていたユッカマウンティンの事業計画を正式に廃止し、原子力発電建設に対する補償金制度も廃止しました。
東洋町の選択は世界の潮流にかない、新しい人類のエネルギーへの転換にさおさすものでありました。

現在、化石燃料の過剰使用による温暖化現象などで地球環境が人類存続の危機的な状況にまで悪化しています。国家の財政も市町村分も合わせると1000兆円にも上るという国債の累積で何時国家的な経済的大破綻が到来するやも知れないという状態であります。
一寸の虫にも五分の魂ということわざがありますが、東洋町は小なりといえでも独立した地方自治体であり、国家・人類の末端を担いたっております。

この、今日の日の50周年を画期として、われわれは、町民の要請のみならず、この時代の人類の要請にも応答する義務があるのであります。自力更生の健全な財政と産業基盤を整えて、新しい時代の一翼をになっていかねばなりません。

地球環境問題や、国際的な経済危機などに見るように、これからは平穏な時代とは違い、何時嵐が吹きすさぶか分からないという不安定な時代が到来する予感がするのであります。つい最近、衆議院選挙で自民党公明党の歴史的な敗北があり一種の政変があったわけでありますが、否応なく大きな変革の時代が再びやって来ようとする予兆とも思えるのであります。

来年には、坂本龍馬のNHK大河ドラマが放映されると言うことであります。
龍馬は幕末の日本に於いて単に策を弄し口舌のたくみで斡旋活動をしていたというような人間ではありません。
龍馬は自ら白刃をかいくぐり血煙の中で時代を切り開いた、戦うプランナーであったのであります。我々は坂本龍馬を観光の看板や客寄せの材料にするのではなく、龍馬を 困難な局面を切り開く先達として正しく仰ぎ見、その見識と勇気を見習うというふうに考える必要があると思います。

かくて我々へのこの困難な時代の要請は、再び三度、龍馬のように時代を切り開く茨の道を、勇気を持って進んでみよというものであります。
我々は、これから先50年、100年の歳月、幾山川を越えても、歴史の呼びかけに正しく応答し、自然豊かな故郷を守り抜き、地域社会と国家の安泰を果たして、次の世代に感謝され喜ばれる故郷(ふるさと)を残していかねばならないのであります。

最後ではありますが、町制施行50周年の今日の日に近隣市町村の代表者や、守口の市長さんや議長さん、それに高知県庁の総務部長さんが遠来ご参列下されたことを厚く御礼申し上げます。
また、今日の晴れの日に表彰される町民の皆さん、誠におめでとうございます。表彰者の皆さんこそは、アジア太平洋戦争の戦禍を越え、ふるさと内外にあって戦後復興を成し遂げてこられた戦士であります。われわれは、異境の地で戦没した「英霊」の御霊に感謝するとともに、生きてふるさとの再建に尽くしてこられた人々を永く顕彰してゆきたいと思うのであります。
誠にありがとうございます。

以上で私のご報告と決意の程を述べさせて頂き基調報告に替えさせて頂きます。

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2009年5月22日 (金)

佐賀の江藤新平

News &Letters/125

昨晩5月20日夜10時歴史ヒスとリアとか言う番組のNHKテレビで江藤新平の業績を報道した。
ちょうどその前日の夜から翌朝にかけて、自分は佐賀市にいた。佐賀県議会議員の太田記代子女史とプルサーマル阻止運動の石丸さんご夫妻の案内で、夜、佐賀城二の丸あたりの江藤新平が斬首されたとおぼしき場所を探索し、大門に残る佐賀の乱の弾痕を指で触ったりもした。城門には幕末回天の内乱のおり大活躍した佐賀藩自慢のアームストロング砲1門が置いてあった。あたりは静まりかえり、江藤新平の魂魄がそのあたりに漂っている感じがした。

翌朝5月20日、朝まだき、太田女史と石丸女史の案内で確か万行寺とかいう新平の墓に詣で、さらに江藤新平がさらし首にされたかせ場とかいう旧刑場に赴き、さらに、神野公園とかいう旧藩主鍋島公の旧庭園に行って江藤新平の銅像を見上げた。
ことのついでに太田女史は私を、あの懐かしい俊寛僧都の、その墓とかいう所にまでも案内して頂いた。

私は、感動した。私は墓前で江藤新平に対してとった土佐人の、野根や甲浦の人の冷酷な仕打ちを謝罪した。藩命もだしがたしとはいえ、人民の権利を守る絶壁のような偉大な人物に、縄をかけたこと、死に追いやったこと、そのことによって日本近代史の歯車が狂い天皇制絶対主義の強権支配の道がはじまったこと、これは返す返すも残念なことであった。ただの1人も身を挺して江藤新平を守ろうとしなかったのである。
私は墓前で深くわが土佐人の罪を謝罪し、江藤新平の志をきっと引き継ぐぞ、という決意を心に誓った。

時折しも、佐賀の玄海原発にプルサーマルなる悪魔的な企ての、その原料が刻一刻と近づいて来ているときであった。佐賀の多くの人は江藤新平を慕っていると思われるが、佐賀の行政にたずさわる多くの人は、そうでもないようだ。江藤新平が生きていたら佐賀どころか九州の人民の生命を脅かすプルサーマルなどいうものを許すだろうか。
江藤新平は権力の中にありながら、権力の腐敗と戦い、人民の権利行使の道を必死に確保しようとした。

江藤新平の佐賀の乱は失敗したが、原発や核に対する佐賀県人の新たな「佐賀の乱」は今始まろうとしている。今度こさけ、土佐人は佐賀県民の差し出す手をしっかり握りかえさねばなるまい。

俊寛僧都であるが、私が愛読していた平家物語の一節にたしか「足摺」という文章があり、私は高校時分その箇所をよく声を出して読んでいたものである。その俊寛の墓に佐賀市で出会おうとは思いもしないことであった。
太田県議と石丸女史に感謝しています。またまもなく人を連れて佐賀に伺います。

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2009年1月 4日 (日)

江藤新平と甲浦

Nwes & Letters/148

  明治七年佐賀の乱で破れ、敗走して上京中の江藤新平は、同年3月29日、土佐甲浦にて土佐藩の捕吏によって捕まった。高知まで籠でかん送され軍艦で佐賀に送られて、きょう首(さらし首)にされて刑死した。

佐賀県の人にとっては甲浦は因縁のある地であり、維新の元勲江藤新平の怨念のこもった土地と言うことであろう。2週間後の4月13日に死刑が執行されているから、新平にとっても甲浦の最後の場面は忘れることは出来ないだろう。

  江藤新平一行が敗走したルートは佐賀ー鹿児島ー宇和島ー高知ー甲浦であるが、高知に入ったときから既に包囲網は布かれていて、野根か甲浦で逮捕の筋書きは出来ていたようだ。何も東洋町の住民が積極的にこの逮捕劇に活躍したわけではないが、この地で悲劇の結末をつけたのはやはり後味は悪い。最後の望みである上京のためにせめて大阪方面に船で逃がせなかったか、の思いが残る。

  物の本によると、江藤新平は貧しい下級武士の生まれで刻苦勉励して人となり、佐賀藩では早くから 勤王思想を抱き、脱藩して京都に上り、諸藩の勤王の志士や公卿らと親交を結ぶなど、先覚者として活動した。

佐賀藩は名君鍋島かんそうによって、相当高度な軍事力(アームストロング砲などを持っていた)を備えていたが、倒幕の内戦では出遅れていた。江藤の先陣的活動によって佐賀藩(肥前)は辛うじて薩長土肥の最後尾に引っかかったのであった。幕府が倒壊してしばらくのいわゆる朝幕時代(天皇を頂く薩長土肥権力と徳川幕藩体制の二重権力)に江藤は朝廷にあって極めて重要な仕事をしてきている。

とりわけ、岩倉や木戸、大久保らが欧米視察に出ていた数年間は留守を任されていたが、明治五年頃実質的に西郷ー江藤の政権を樹立していたと言うべきで、この間を頂点とする江藤新平のめざましい開明的施策は日本を近代的国家にする上において大きな功績を残したと言うべきであろう。

明治六年の政変(いわゆる征韓論争)から明治7年の佐賀の乱までは、ビスマルク的天皇制絶対主義を標榜する大久保利通と民権的近代政治を進める江藤新平との闘争であり、政略にたけた大久保の完勝に終わったものである。

  佐賀の乱は、江藤新平の失敗であったことは明らかだ。西南の役も西郷の失敗だった。大久保の巧妙な挑発にのせられたのであった。
江藤や西郷は決して保守反動勢力ではなかったが、大久保に対抗するのに、保守反動の旧武士団を率いたことが最大の敗因だった。
確かに倒幕戦争・明治維新においては旧武士団とりわけ西南雄藩の武士集団がその戦闘の中核を担った。全国各地に農民や都市貧民の騒動は激しく起こっていたが、それらは封建体制打倒の背景にはなったが主導部隊ではなかった。明治維新はブルジョワ革命ではあるが、根底的なそれではない。

幼弱なブルジョワジーの部隊の代わりに下級武士や豪農クラスが登場した。これらの階層にはフランス流の共和政治の思想から、極反動的な国学系統まで含んでいた。日本の近代化はこれらの混合勢力によって推進された。革新的な江藤新平は絶対主義者大久保と対立したが、これに動員したのは旧武士団であり、大方が反動勢力であった。

 江藤は自分らが作った近代的な軍事力や政治体制に圧倒された。かつて倒幕の際には、最大限有効であった旧武士団も今となっては足かせにすぎない。それを解体する方がより近代的で合理的であっるものを、これを利用しようとしたのであった。
江藤が寄りかかることが出来るものが他に何もなかった、時代に相応しい新しい勢力を構築することが出来なかったのだから仕方がない。

 東洋町でもそうだ。核反対運動においては、誰も彼も味方にしなければならなかった。

 あれやこれやと人を評価したり、好き嫌いを言っている場合ではなかった。
その運動が勝利し新しい権力が打ち立てられたとき、反対運動の中にいたいくつかの有象無象がわらわらと権力にとりついてきた。わしらの言うことを聞け、・・・をしちゃれ、・・・を認めろ、・・・をどうして切ったんや、とうるさい限りだった。

 特定の利権グループの言いなりになっては新町政は元の木阿弥である。断固としてこれらを遮断し、貧しい町民生活を照準にあてた公正な町政を進めなければならない。
 かつてある時まで自分をもり立て一定の力になったものでも、新しい段階においては、その力をそのまま利用していては、前に進むことが出来ない。

 その者達にも時代に相応する変革を求め、そうしないなら捨て去らねばならない。江藤は、政敵を倒し近代化を推し進めるために、佐賀の反動勢力を利用してしまった。
それ自体は革命的でなくとも時代の流れの中で、革命勢力として役に立つものもある。

 ヘーゲルのいう「理性の狡知」という働きだ。

 しかし、それらはその時代が過ぎれば純粋に反動性をあらわにして、それを利用するものを滅ぼす。

 東洋町甲浦。江藤新平逮捕より126年の星霜が移った。
我々は、江藤新平の残した悲劇の轍を再び践むことがあってはならない。鎮魂。

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2007年6月11日 (月)

土佐南学

土佐南学の中興の祖といわれる谷時中の生まれたという寺が甲浦にあった。真乗寺という。

その寺が荒れ果ててつぶれそうになっている。もう手直しは効かない。

谷時中は関が原の合戦があったころ甲浦のその寺で生まれた。浄土真宗の寺だ。

幼いうちに父に従って高知市のお寺に移転した。そこの寺は同じ真乗寺といった。後に還俗して朱子学(南村梅軒のはじめた南学)をまなんだ。時中の門下に山崎闇斎、野中兼山がいた。山崎闇斎は京師に赴き、後に同じ姓だが土佐岡豊の別系統の谷重遠を教え、谷重遠は南学を土佐に定着させ、幕末まで土佐の勤皇思想に大きな影響を与えた。時中は偉い学者として高知で死んだ。

その谷時中の生まれた寺が無住のまま腐りはて、崩壊しかかっている。寺は山の下のほうにあり近くの住民の津波避難路の障害となっている。寺の上には谷家の墓地がある。

この古寺を壊しこの跡地に土佐南学の記念館を建てようではないか、という話が持ち上がっている。多くの人の浄財で記念館が建てられたらいいことだ。

土佐の勤皇思想には二つの流れがあり、南学系統と国学系統である。国学系統の国粋主義には激しい穢れ思想が貫かれており、後に油とり一揆など反動的な騒動を起こした。

土佐南学の巨人、谷重遠(秦山)は、被差別民への差別意識がなく、当時としてはきわめて歴史学的な解釈を施し、普通の人民だという説を主張していた。

谷時中のような学者を生んだ甲浦を誇りにし、記念して、古寺を整理したいと思う。

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