人権問題

2017年6月15日 (木)

共謀罪

News & Letters/572


共謀罪の成立によって、戦前型の日本社会、現在の中国や北朝鮮のような社会が到来する、ということだ。

計画や準備の段階で逮捕され処罰される。裁判所が権力の擁壁になっている現代、「計画」、「準備」はどのようにでもでっち上げができる。テロを防止するためだというが、日本人民には、政府に抗議したり反対運動を合法的に遂行することが困難になる。従って人民は、逆にテロや武装闘争をしなければ政治活動ができなくなる。今回の共謀罪法案の可決は→テロ・武装闘争への決定的な後押しとなるだろう。

天皇制の新たな整備(退位法案)によって日本プロレタリアートの階級意識の形成に大きな障害が設けられたが、共謀罪の成立は、その効果を大きく減殺するだろう。

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2017年3月 4日 (土)

豊中の安倍小学校の教育勅語

News & Letters/553
巨魁の表裏二つの醜い姿が現れている。
①国政国有財産を私物化し、②国民を権力者の臣民奴隷化する。
①と②が美しい日本の本性である。きゃつらが大好きなのは教育勅語だ。
「国憲を重んじ国法に遵ひ、一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以って天壌無窮の皇運を・・・」
これらはすべて「爾臣民」に対してであって、自分たちは国民の犠牲の上に
国憲は軽んじ、国法は踏み破り、いつでも公のものを私物化し、残虐な歴史で血塗らた天皇家とともに安倍一族ら世襲権力族が永久に自由を満喫し?栄することをうたう。
彼らは天皇や皇室を尊崇する気持ちは全くなく、ただ支配の道具として使いたいだけである。
豊洲にしろ豊中にしろ、室戸市や東洋町、高知県庁・・・いたるところ公のものの私物化が進む。
住民訴訟の大半が、この私物化と人権蹂躙に対する抗議活動だ。
民主主義の下で、爾(なんじ)臣民を黙らせ何も見えないようにして 権力をとった連中が公共物を私物化しているのである。
だから、教育勅語は時代錯誤ではなく、現代も生きているのである。
教育勅語は、皇祖皇宗の虚偽の歴史認識にたって、美化された天皇を頂点とする権力者に対し、それに屈従する臣民の儒教的封建的義務を押し付けアジア侵略戦争体制を構築する教育の真髄を表すものである。
反体制側の種々の運動の中で果たして、これに対抗できる民主主義が構築されているだろうか。

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2016年11月26日 (土)

言論の封殺

News & Letters/537

 私の言論に対する封殺攻撃は幾回かあった。

一つは、全国部落研と中核派との路線論争である。
この論争に対しては橋本利昭らが私に対して2組の糾殺隊を組織して白色テロを実行して封殺に成功した。糾殺隊の隊長はFとYであったという。この白色テロによって澎湃と台頭していた革命的な解放運動がつぶされた。

大衆運動を指導中の反対派を暴力でつぶすというのはスターリン主義の真髄でありマルクスレーニン主義とは正反対の反革命そのものだ。

次に、私が東洋町の町役場に入って、行政内外の不正行為を次々と暴きこのブロッグに載せたが、それに対して一部の町民からブログそのものをやめろという攻撃が続いた。しかし私は断固としてこれを拒否した。

今、私が九州で反原発の運動を展開してきた。それは九州の人の要請であり、私もやらねばならないと決心してやっている。

しかし、最近の私の本ブログなどの言論について厳しい査問とも思える規制行為を受けた。
私の主張は、政府文科省の地震調査研究推進本部の「新レシピ」を原発再稼働の裁判や運動で主張すべきだ。

そのレシピでも電力会社が各原発で設定した基準地震動の値を大きく超過し、原発は動かせなくなる、というものであるが、これは何も私の独創ではなく、すでに全国各地の反原発住民訴訟で重要な戦いの武器として使われているし、脱原発全国弁護団連絡会(海渡、河合弁護士らが主導)も原子力規制委員会に対し、このレシピに基づいて全国の原発の過小な規準地震動を計算しなおせという「要請書」を出している。特に「若狭ネット」で大阪府立大の長沢教授がこの政府のレシピの住民裁判での活用を強調している。

だが、玄海原発に対する二つの陣営がやっているそれぞれの裁判では、このレシピに基づく主張は何も出されていない。裁判で有力な新証拠を取り上げることが重要なことは言うまでもない。他の裁判闘争で活用している武器をどうして使わないか不可思議だ。佐賀を拠点する二つの陣営のうち一つが、そのレシピで計算すれば玄海の竹木場断層についての規準地震動は、現行の520ガルをはるかかに超えることが確認された。

それでもこのレシピを使わないという。政府の推本が、このレシピを作ったのも市民側の地震学者たちの批判活動の結果である。

武村方式に比べれば完ぺきとは言えないかもしれないが、政府推本のレシピでも全国の原発の現行の基準地震動を超えるという事実は、電力会社や原子力委員会にとっては脅威であり、裁判では窮地に立たされる。原子力委員会や経産省は政府部内、地震学会でも孤立しているという状況だ。

だが、佐賀の裁判闘争をやっている人たちは、これを取り上げようとしないばかりか、その状況を私がブログで明らかにしたことについて「私たちの裁判をつぶす気か」などと罵倒を浴びせ、ブログやメールで取り上げることを止めろという圧力をかけてきだした。
それはほとんど査問に等しいものだった。その男達は平然と言う。「九電などへの質問など運動面でその「新レシピ」を出さないことにしたのも私たちの裁判に影響があるからだ」いったいこの男は何者なのだろうか。誰かに対する「信義」を大事にしなければならないという。その誰かの計算でも新レシピは九電の基準地震動を超えるという数値を出していた。

それでも、それを使わないという。使わないというその理由に合理性があるであろうか。かれは、そのレシピについてずっと前から知っていて、使わないことに合理的理由は何もないことも知っている。論理的に言えば、合理的理由がないということは不合理な理由ということだ。それで勝つかもしれない有力な証拠を裁判で使わないということでは、非難を浴びるだろう。

糾殺隊の暴力なら私も黙らざるを得ない。命を惜しんで逃げなければならないからだ。しかし査問ぐらいで私の言論を封ずることはできない。今このブログでは実名を伏せているが、不当な言論封殺には、合法的ないかなる対抗手段も辞さない。玄海原発のもとに九州や中四国の人間の命がかかっているのである。

会計や人間関係など団体のプライバシイは守らねばならない。だが運動論や裁判方針などは、公然と討論されなければならない。大衆団体は党派ではないのだから、結果だけでなく、結果に至る論議もオープンでなければならない。党派を含むいかなる組織も官僚的な統制や暴力による抑圧で内部の異論を封殺してはならない。大衆運動の中で民主主義は鍛えられねばならない。自由な言論は民主主義の根幹である。

 明治二年、地元佐賀藩の首班に就いた江藤新平は民主主義でも現代を超えるような構想を持ちそれを実施しようとしていた。すなわち「民政仕組書」である。それによれば、直接民主主義を基盤にして議会と行政組織を確立しようとしていた。

人民は、各戸から200人単位の直接民主主義の議会に全員が参加し、投票で行政担当者を選らび、諸事を審議決定し、行政を質すこともできた。

このような思想を生み出した佐賀での大衆運動は、権力者に民主主義を要求するだけでなく、江藤の構想に沿うような民主主義を自ら実行しなければならない。
党派でも大衆運動団体でも、言論統制は人権侵害であり、してはならない。異論や少数意見の中に真実や勝利のカギが胚胎しているかもしれないのである。

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2016年11月18日 (金)

部落問題と天皇問題

News & Letters/535

期せずして部落問題と天皇問題が取りざたされている。
一つは、部落問題を解消するという法律を制定するという。

もう一つは、天皇の退位をどうするか
「聖と賤」の問題は関係があるという。
今回の部落問題の法案は、よろしくない。部落問題のために特別な行政施策をすること、調査をすることなどを掲げている。

部落問題という特別な施策ではなく、すべて国民に平等公正な行政施策をすることが徹底される必要がある。
旧選民制度の偏見に惑わされて行政機関や司法が差別施策をすることを禁じるという法律が必要なのだ。憲法第14条などのような「社会的身分」に対する偏見差別を
禁ずることが必要である。部落民にだけ特別な施策は有害となる。逆差別的に部落差別が固定化されるだろう。

部落又は部落問題についての特別な「調査」も有害な問題を新たに惹起する可能性がある。もともと部落については何か根拠があったわけではない。

封建時代の支配者も法的にえた、非人の制度を作ったわけではない。土佐藩の元禄大定目という藩法に出てくる身分は武士と町人・農民だけである。
時々の為政者が行政施策として差別を事実的に遂行してきただけだ。士農工商穢多・非人という言葉も明治時代に作られたものにすぎない。

だが、部落差別がないというわけではない。それは厳然としてある。だから差別を禁ずる憲法や地方公務員法などにそれと同じ文句を書いた法令がたくさんあるのである。
憲法第14条やそれと同じ趣旨の条項を持つ法令をまとめて、権力が差別をしてはいけないという趣旨の法律を作るのは意義があるだろう。

特別な施策や調査をすることはやめるべきである。同和対策を利用してあくどい利権の中に部落大衆を巻き込むべきでない。
人は生まれながら平等である。部落民や穢多・非人などというのはもともと何の根拠もない。私もそうだが本人がそれを嫌がっているのだから社会が押し付けるべきではない。

天皇問題。いやだという天皇の意思を無視して無理に皇位に縛り付けようという連中は不敬も甚だしく宸襟を悩ますこと甚だしい。

天皇制を国民が維持したいといっても天皇本人が嫌がっている場合は天皇の意思が尊重されるべきである。さらに天皇制そのものを超えて同じ人間として開放してあげるべきだろう。

ある人間集団が、天皇などという尊称を名乗ること自体根拠のないことであって、はたからサルが見たらおかしいというだろう。

人は生まれながら平等なのである。部落民とか、天皇民とかいうものは何の根拠もないことである。天皇の地位は国民の総意で決めることになっているが、本人に拒否権があることは言うまでもないことである。

部落問題も天皇問題も解決するには何よりも社会がそれを当人に強制してはならない。本人の意思を尊重すべきことが大前提である。
皇室典範が言う男系の後継者が絶えるという絶好の機会が到来するというのだから、天皇制を解消し、皆さんを普通の人間として社会が迎えるべきだ。

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2016年10月31日 (月)

部落問題についての法案

News & Letters/530

「人権侵害救済法」(または人権擁護法)という名で部落差別解消の法案が国会で審議されようとして種々の物議をかもしている。

今部落問題はいかに考えるべきであるか。
こんな法律ができたたら、解消に向かっている部落問題が固定化され、同和利権がはびこる、という左右からの論争がある。同和利権も今日の部落問題の一つの姿である。

同和地区について客観的、公法上のなデータは何もない。封建時代では、逆にその地域は里程にも計上されず人外の里として文字通り無視抹殺されていた。特定の地域が同和地区であるという客観的な資料、歴史的資料はあるか、と市役所に尋ねても、ないという。同和対策事業の対象である同和地区指定の根拠がはっきりしない。戦前に国が全国の同和地区を調査しているから国に聞いてくれ、という答えである。

それで国に聞いてみたら、それは市町村が把握しているはずだという答えであった。
同和地区は確かに存在し、差別事象は今も後を絶たないが、しかし、どこそこが同和地区であるという公の証拠がない。
しかし、周辺の人も当事者もどこが同和地区かはっきり知っている。

極めて奇妙だ。部落差別をしてはならないということを法律で規制することについてどう考えるか。

法律の内容にもよるが法律を制定することは可である。なぜなら憲法第14条第1項に「社会的身分又は門地」による差別が禁止されている。第14条の「社会的身分」が部落差別による旧賤民身分を指すことは明らかになっている。この憲法の規定により様々な法令で繰り返し差別が禁止され、罰則規定まであるのもある。

すでに法的規制がなされているのである。憲法やそれら法令に悖ることがない限り、そして差別が現存する限り、部落差別をなくすための法律は有意義であろう。

部落問題についての法律の制定が部落の固定化などをもたらすというのは根拠がない。部落問題は現体制・格差社会では解消し得ない。同和利権など解放運動団体の腐敗問題は、全く違う次元の話だ。部落差別の実態を知らないものがいくらこの法案を非難しても法的規制の意義を減ずることはできない。

法的規制で重要なのは、権力と大企業による差別を規制することだ。差別の根幹は権力にある。差別事象があったからといって一般人民や報道機関を法的に規制してはならない。人民間の問題は人民自らの討論や学習を通じて解決すべきであって権力の容喙を招いてはならない。報道機関は一種の権力であるから、部落差別について厳格な自己規制綱領を持つべきであろう。部落解放運動は人民解放闘争の一角として反権力の姿勢を明確にすべきである。

地域差別に根差す政府の原子力政策や沖縄基地問題は、解放運動が住民と連帯して真っ先に取り組むべきだ。
反原発の闘争で荊冠旗を見たことがない。沖縄差別や原発立地地域差別政策は、部落差別と同根なのである。
今度の法案が、このような差別に対する規制も含むことを望む。

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2016年7月29日 (金)

警察手眼

News & Letters/508

差別虐殺の容疑者の名前が植松という。
植松という姓は全国各地にある。
私の知っている植松は室戸市佐喜浜町の旧家である。
明治初年、日本の近代警察の骨格を形成する上で重要な役割を果たしたという人が
この植松家からでた。さとこさんという高齢の女性が古い家を守っていて、私が行けば常に歓待してくれる。

その人の名前は植松直久といい、明治15年9月21日に37歳で没した。墓は近くの墓地にある。
その人の編著作の書が『警察手眼』だ。
この書は明治以降今日でも警察とは何か官人とは何か、肝に銘ずべき格言が詰まっている。
今回の相模原の前代未聞の差別襲撃事件に対する警察の対応ついて疑問があり、この書を開いてみた。

次のように書いてあった。

「警察要旨」

「行政警察は予防をもって本質とす。すなわち人民をして過ちなからしめ、罪に陥らざらしめ、損害を受けざらしめ、もって
公同の福利を増益するを要するになり。」

「探索心得」

「声なきに聞き形なきに見るが如き無声無形の際に感覚せざるを得ざるなり。」
「怪しきことは多く実なきものなり。決して心を動かすべからず、しかれども一度耳に入るものは未だその実を得ざるといえども又怠らざるは警察の要務なり。」

相模原では、容疑者は襲撃計画まで作っていて、その対象に今回の施設の名前を挙げていた、という。

それでも警察はほとんど何もしなかった。職務怠慢というような言葉で片づけることはできない。

その根因は、どこにあるか。驕慢な権力意識だとおもう。
事件があってもできたら動かずにことが収まるほうが良い。東洋町の海の駅の放火事件のようにもみ消す。
権力を自分らが持っていてこれが最大の利権だ。人民のために動かすのは最小限度でよい。
政権に関係する政治家の犯罪事件には介入しない。甘利らは守られ、福島原発の犯人らは放免された。

権力を握りその上に安座する。それが現代の警察・検察の姿だ。そういう意識だから、襲撃予告が宣言された

施設を防護する処置をとらないのは当然なのだ。実際に19人もの人間が殺されてびっくりしたようにふるまっている。

『警察手眼』に聞いてみよう。
「官員は元来公衆の膏血(こうけつ)をもって買われたる物品のごとし。故にその価に適当する効用をなさずんばあるべからず。もしこの効用なき者はその買主なる公衆に疎まれ又その物品中にもあやしまるる無論なり」
「それ官員は公衆の膏血をもって買われたる物品なれば、その価だけの効用なくんば人民に疾悪を受くるは言をまたざるべし。」

植松直久は、フランス流の人民を守る警察を日本に建設しようとした。
その思想の根幹には、警察や政府官員は人民によって買われた物品だという位置づけがあった。

人民主権の筋が通った警察を作ろうとしていたのである。いわく「警察官は人民の為には保傅(ほふ)の役なり」

室戸市佐喜浜の植松家は90才を超すおばあさんが元気でひっそりと守っている。おばあさんは正義感がきわめて強い

方で植松直久さんを大変大事にしている。近代日本警察を研究する学者がこれまでたくさんこの家を訪問してきたという。

またこの植松家から自由民権の有名な県会議員も出ている。
この『警察手眼』の本は、植松家にまだ幾冊かあり、分けてもらえるのではないかと思う。
この史跡を訪問したい方は私が案内します。素晴らしい史跡だが国も県も市もそのような指定はない。

100年を越えるこの古い家は地震が来れば倒壊するかもしれない。

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2016年7月27日 (水)

相模原障害者差別虐殺事件

News & Letters/507

恐るべき事件だ。世界が驚倒した。
ただの殺りく事件ではない。差別虐殺なのだ。
しかもこれを遂行したのは明らかに極右であり、安倍晋三、橋本徹、日本会議、小池百合子、在特会らにつながる連中だ。街頭やネットでヘイトスピーチをやるだけでなく、被差別者を社会から抹殺することを実行し始めたのである。

ただの狂人の行為ではない。極右の確信犯だ。「Beautiful Japan」などという書き込みが安倍らと同じ思想であることを示ししている。美しい日本のために、被差別者が根こそぎ殺される時代が始まった。

このような事態を惹起した責任はだれだ。
第一に弱者やアジア人民、被差別者に憎悪をむき出しにし、過去の侵略戦争を美化し、日本を戦争国家に引きずり込もうとする極右の台頭と、第二に解放同盟ら差別糾弾側の弱体化だ。

差別に対する火の出るような怒りの糾弾闘争が消えてから久しい。
闇にこもっていた差別者たちが、時をえ顔に白昼公然と差別言辞を吐きながら往還を歩いている。

私が、解放運動に武装闘争論を提起したのは、何よりも今回の相模原のような権力やそれにさおさす差別者たちによる差別虐殺に対する予防のためであった。被差別者は、差別虐殺に対して武装して戦わなければ、この地上に生きることができない。血の海に沈むのは無辜の被差別者か、陋劣な差別者か、どっちなのだ。それを今回の事件は突き付けている。

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2016年5月 1日 (日)

高知新聞社説【基盤の立憲主義が揺らぐ」

News & Letters/481

平成28年5月1日高知新聞の朝刊社説で自民党の憲法改正案に対する批判がなされている。

その意図するところはいいのであるが、批判が緩いし、現行憲法についての理解が浅い。
現行日本国憲法前文の最大の主眼は、①第一に、国民主権の強調であり、②第二に国政の目標が反戦平和主義、自由平等など国民の基本的人権の実現、③第三に、これ(憲法)に反する権力の行使、立法、詔勅類の廃止をうたっている。

前文では、権力に対して法の支配そのものをは直接的には対置し表現していないが、それは③によって、担保されている。

だから、日本国憲法の立憲主義は①と②と③の全体が一体となっているのである。
①②③のどの一つが揺らいでも憲法の立憲主義の趣旨は揺らぐ。すなわち①②のために憲法を制定するというのが現行憲法制定の趣旨であり、③そうでない憲法や法令は認めないというのが立憲の本旨である。

立憲主義が平和主義や基本的人権などと分離・並立して論ぜられないように構成されているのである。

立憲主義でいうなら明治憲法も一応立憲主義の建前を取っているのである。
問題は、誰のため、何のための立憲かである。

自民党案の前文は第1に「国民主権」の言葉は一つ挿入されているがその内実がなく、それが天皇元首の下に据えられている。

第2に先の戦争への反省、反戦思想が欠如している。

第3に基本的人権という言葉があるがその内実がなく、それも政府ではなく国民の義務となっている。第4に国民に義務付けはあるが、政府の方に何の規制もない。第5に、憲法制定の目的趣旨を、日本の「伝統」と国家の存続においていて、戦争の廃絶、飢餓からの解放、政府による圧制からの人類の解放など現行憲法の趣旨を没却した。彼らが言う日本の「伝統」というのは圧政の伝統である。

それは、上掲現行憲法の①②を実現するための憲法ではなく、立憲は立憲であるが、国民のための憲法ではなく、圧政者の都合の良い立憲となっている。自民党案の立憲の最大の狙いは人民主権の打倒、その盗奪なのである。

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2016年3月29日 (火)

命の軽重

News & Letters/469

高知県東部のある地区で最近殺人1件、瀕死の重傷2件が起きた。同じ地区の同一グループの仕業と思える。

それが3件目でやっと犯人が逮捕された。被害者が袋叩きにされ虫の息になって放置されていたのを警察が探し出した。

地元の新聞記者が、その事件、逮捕のありさまを取材し、本社のデスクに原稿を送った。確かこの3月11日のことだった

だが、新聞社はそれを記事にしなかった。
1件目の殺人事件は2年ぐらい前にこのブログで書いた。被害者は犯人らの出入りする民家で袋叩きにされて死んでいた。その悲惨な撲殺遺体のありさまは多くの村人が見て知っていたが、警察は病死という事にして捜査をしなかった。

2件目は、昨年これも袋叩きにされて現在植物人間になっている。
そして3件目になって初めてその犯人をしょっ引いて取り調べをしている。これら犯罪グループによる凶悪な事件が連続して起こっているのに、そして記者は最近の事件については取材原稿を本社に送ったというのに、新聞はこれを掲載しない。

この犯罪グループには親玉がいて、そいつらは、防犯関係の役員となって警察署での会合に顔を出していた。

地域の密漁の総大将のような男もその会に出席していたので私はびっくりしたことがある。
その男は漁協の事務所で「オラは、徳島県警につかまったことはあるが、高知県警につかまったことはない。」と豪語していたという。その男らの家では警察関係者がしばしば宴会を開いていたといわれる。

東洋町長松延宏幸は、昨年野根漁協の1000万円事件での住民訴訟に対抗して最高裁に虚偽の理事名簿を挙げて、それが功を奏して事件を高松高裁に差戻しにしてもらったが、その虚偽の理事名簿にこの現在収監中の男の名前を連ねていた。

組合員や町民も唖然としたが、恥を知るべきであろう。雲の上の最高裁判事が現実社会のことを知る由もなかろう。

幾人もの者が死んだり瀕死の重傷を負わなければ警察は動かない。差別の塊のようなデスクはその地域がどういうところか熟知していて、そこの地区の人間の命の価値がとるにたりないものと考えているから、県外のはるか遠方の同様の事件を記事にしても、決してこの地区の事件はたとえ高知県であっても紙上に載せるに値しないと考えているのであろう。
何はともあれ地域の住民たちは、殺人鬼がつかまったことにほっとしている。まさか警察は無罪放免にはするまい。

人の命を軽んずる者が、報道機関で飯を食っているのが高知県の実情だ。

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2016年3月15日 (火)

皇室典範

News & Letters/465

国連の皇室典範に関する批判は全く正しい。その見解を日本政府の抗議で撤回したのは間違いである。

皇室典範は、日本社会のあらゆる差別の根源であり、女性差別はその根幹にある。
「皇統」、「皇族」、「男系の男子」という言葉がそれを象徴する。

この皇室典範という身分差別と性差別の、差別の塊が、日本軍のアジア侵略と従軍慰安婦問題を起こした直接の思想的根拠である。皇族の廃止、貴族制の根幹である天皇制の廃止、皇室典範の廃止、少なくとも男系天皇制の廃止は、近代日本の必須の改革的課題である。皇族を一般戸籍に入れること、皇族に憲法はもとより、民法と刑法が適用されるべきことは当然である。貴族あれば賤民あり、という言葉は今も真実であり、さすがに国連はそれを衝いたのである。

安部晋三ごときものが、何を根拠に、皇室典範は女性差別ではないなどというのか、今日女性を忌み嫌っていた伝統を誇る神社仏閣でも「女人禁制」の看板は掲げることはできない。女性を公然と排除する法律を持つ日本こそ世界の恥さらしである。
これと同じようなことを思い出す。

つい最近まで室戸市の寺で女人禁制の石碑を境内に置いてあったのを私が摘発したことがあった。その寺の石段には、女坂、男坂というのもあったがそれもなくなった。今でもその寺のふもとの道路の隅に女人結界の古い石碑があるが、これは歴史的遺産(女性差別の証拠)だとして室戸市の教育委員会(当時山中昭という優秀な職員がいた)に残してもらった。

その寺は、今から数十年前「土佐の西寺」というえげつない差別本を発行し、高知市民図書館に陳列してあったのを私が厳しく糾弾したことがあった。屠殺業を営む人間は、子供のころは純真だがその職に就くことによって残虐な性格の人間になるなどという内容の説教を収録していたのである。市民図書館はその本を一般陳列台から除けた。

身分差別と女性差別は同根であり、それを指摘した私は彼らから目の敵にされている。

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