私は、この本が出回っていることは知っていたが、そのふざけた標題と著者名からして読む気がしなかったが、最近図書館で借りて読んでみた。驚くべき内容であった。
このような図書が白昼堂々と出版されたことは驚くべきだ。
もとより部落民も過ちがあれば糾弾されねばならない。むしろ誰よりも誤りや失敗、悩み、妬み、横恋慕、野心、卑屈、・・・・あらゆるいやらしい欲望があり、恥ずかしく、苦しい。
糾弾する者は無謬であるなどありうるはずもない。誰もそんなことを思っている者はいない。それでも部落民は差別に対して糾弾し抵抗してきた。
本書で藤田が問題にしているのは二つある。
第一のテーゼは
①部落民が、差別(の痛み)は差別を受けた部落民でなければわからない、ということ。
第二のテーゼは
②部落民にとって不利益なことはすべて差別である。という主張。
①のテーゼについて、藤田は執拗にこれを攻撃する。
問題はこれがどういう場面で部落民から出るのかである。おそらく部落民の思いが相手に伝わらない、もどかしい状況から発せられたものであろう。
そのこと自体はどうしようもない真実だ。差別を受けたものでなければ屈辱、くやしさ、、悲しみ、憤りなどの感性はわからない。拷問を受けている者の痛みは、傍観者にはわからない。何らかの体験を媒介にして部外者はその痛みを忖度し、音色は違うが共鳴することはある。
しかし、むろん差別でないことを差別だと感じたといってもそれが真実差別であるということにはならない。差別は、行政・司法・議会や学校などの公的機関、会社、地域などで部落(民)を不当に忌避したり不当に扱い、旧賤民の呼称などを使い侮蔑を加えるなどをして基本的人権を踏みにじり、部落民に不公正な不利益を与える行為であって、客観的に判別できるものである。
部落差別は、国連の人種差別撤廃条約でいう「世系」(descent)への差別であって、血統による差別の様相を呈している。単なる身分差別ではなくいわれなき種姓差別でで人種差別の一種だ。
被差別側の主観的な感情のみで差別だとは言わなくても国連の人権憲章に照らせば客観的に認識できる。それはまた具体的には、日本国憲法で認められた基本的人権の理念(基準)に照らして特定人間集団に加えられている取り扱いが公正か不公正かという判断であり、誰にでも客観的に判断される。
むしろ、日本社会は、差別の客観的な基準を法定せず、また、加害の差別者の差別行為を罰する法律も作らず、差別の判定をもっぱら被害者に丸投げしてきた。藤田がわからねばならないのは、部落だけではない、慰安婦問題でも、在日朝鮮人へのヘイトスピーチや襲撃事件などでも、被差別者が悲鳴を上げなければ、差別が問題とならなかった日本社会、それを許した反体制側の責任なのだ。
例えば慰安婦の日本軍による性奴隷化の実態は、戦後戦地から帰還した日本軍兵士らが地域の祭りなどで寄り集まった宴会では面白おかしくその所業を自慢げに話していたから常識的なことであったが、日本の国も社会も自らその問題を反省せず否定し続けていた。年老いた被害者が名乗り上がらなければまともな論議にもならなかったのである。
「在日コリアンが差別について沈黙を強いられているのはヘイトスピーチのせいではない。社会正義としての反差別規範なしにマイノリティを承認しようとする多文化共生や、差別する自由を守りつつ被害者に寄り添おうとする日本型反差別こそ、私たちの絶対的沈黙状況を背後から支える権力関係なのである。」(「レイシズムとは何か」梁英聖)
部落民でなければ差別はわからないというのは、日本社会のそのような状況への被差別者の孤立した叫びであり、命がけの反語なのである。差別であることがわかっていながら何もしない日本社会への糾弾なのだ。差別は、身分(差別)をわきまえろというのが平常であった封建時代とは違って、民主化が進んだ戦後においては、被差別者以上に差別者側がわかっていた。些少なりとも良心の呵責なしに無意識に空気を吸うように差別をするということなどありえない。
だから一般民でも差別事象を摘発しそれを糾弾することをしなければならない。糾弾権は部落民、解放同盟だけにあるというのは何の根拠もない。しかし、一般民が差別糾弾に立ちあがったという例は寡聞にして聞かない。部落民以上に一般民は差別事象を見聞きできるのであるから、家庭であれ職場であれその場で糾弾し差別を一掃するべきだ。そのような社会的規範を作ることができるはずだ。
差別する側も巧妙(陰湿)になり差別意識が露見せぬように慎重にやっているから、判断が難しい場合がある。差別する側の家庭などでは、大っぴらに差別教育が行われているだろうし、例えば選挙の投票の折には、部落出身の候補への差別意識や感情は完全に隠されている。差別言動や差別のシステムが顕在化(客観化)しなければ、糾弾のしようがない。
②そこで、部落民に不利益なことは何でも差別だというテーゼが問題となる。
私は、朝田善之助唱えたこのテーゼは基本的に正しいと思うが、理論的には、曲解される恐れがある。が、実際には曲解する人はほとんどいないだろう。例えば部落民が一般女性に恋をし、結婚を申し入れたがその女性に断られた場合、これを差別だという部落民がいたであろうか。
そのような非常識な解放運動関係者は存在しない。その女性と恋愛関係にありながら、部落を理由に結婚が許されないという場合には問題となるが、相手の女性は好きでもない男からの求愛を拒否したからと言って糾弾されるわけはない。
朝田理論は、論理的に組み立てられた理論ではないし、何も解放運動全体の理論というわけではない。朝田は学者ではないから彼に解放運動の理論的な厳密さや論理性を求めることはできない。
②のテーゼは朝田氏の経験的な見解であり、大衆に分かりやすいテーゼとして採用したものであろう。
朝田氏や京都府連、解放同盟が、この理論を基にして差別でもないものを差別だといって糾弾闘争をしたという話は聞いたことはない。
同和利権の連中が朝田理論を利用して、利権を拡大したというわけでもない。藤田が取り上げた非難される部落民の姿の主な実例は以下のとおりだ。
1・たこ焼き屋の横車
ある学校の運動会ではこの度は車の乗り入れや物売り禁止を職員会議で決めたところ、部落民がたこ焼きを売るために乗り入れてきた。それをとがめたところ、その学校の用務員の部落民Mが、そのたこ焼き屋は俺の弟や俺が許可した、何が悪いと言い張った、この部落民の横暴。
この記事を読めば誰でも思いあがった部落民の驕慢さ、それが世間の顰蹙を買いむしろ部落民への差別心を起こさせるものだ。だけど実際はどうであったか、ほんとうにMさんはそのような発言をしたのか、わからない。
用務員Mさんとたこ焼き屋の側の話は聞けない。
何故今回の運動会で物売りが禁止となったのか、先生と子供だけの授業とは違って運動会という地域性を持ったイベントでは、出店が出るということはありがちなことで、悪いことではない。その学校では過去にはそれが許されていたのであろう。
職員会議の決定を部落民の用務員Mとたこ焼き屋の兄弟は知らなかった可能性が強い。用務員Mは日頃から職員会議への出席が許されていなかった可能性がある。少なくとも物売り禁止の決定が周知徹底されていなかった可能性がある。物売り禁止の決定の会議にMさんが参加していたら、事件は起こらなかったかもしれない。
用務員と教員とは職務は違うが子供たちの教育に携わることでは同じであるから、職員会議に出席し意見を言う資格を与えるべきであろう。
この用務員Mにはおそらく職員室では自分の席はなかった、机も与えられていなかったであろう。私は藤田のこの本の記載からそのように想像する。
身分の低い男が、知らなかったとはいえ禁止の職員会議決定を無視して身内のたこ焼き屋を学校に引き入れ利権的行為をさせた!という差別的感情が教員たちの頭にほむらとなって燃え上がった。職員会議という教員たちの神聖な特権が何の資格も教養もない部落民によって侵された!わたしは、むしろ一個の部落差別事件がこのが甲で起こった可能性があると考える。
この事件をある物わかりの良い解放同盟系のインテリが、部落民の卑しむべき行為、恥ずべきこと、困ったことだと慨嘆して藤田に手紙で通信した。藤田は得たりやおうとこれを部落民の横暴の好個の材料として、「同和こわい考」に取り上げた。
藤田の想像は私とはまるで違う。
「この事例を読んで、私はいろいろ考えさせられました。Mさんの発言もさることながら、この学校におけるMさんの遇され方が、まず気になります。・・・・Mさんは、「俺の学校で、俺が許可して、俺の弟が商売して何が悪い!といったといいます。日ごろからMさんが、この学校でどのように振る舞い、それを校長はじめ教職員が、どのように眺めていたか、この発言は物語っています。「うるさいから、文句は言わずに、見てみんふりをしておこう」という遇し方と、「ある程度好き勝手にやっても、校長らは、よう文句はいわんやろう」という・・・・」
Mさんへの藤田のこのような想像には根拠はない。
私の想像や解釈が間違いだというなら、その用務員Mやたこ焼き屋の実情がどうだったか、この事件について学校名も含めその当事者の話も取材して載せるべきであろう。
屋台のたこ焼き屋の生活は厳しい。イベントを追っかけ、日銭を稼ぐには、準備にもかなりの費用が掛かる。その運動会に期待して十分仕込みもしていた。それがなんぜかできなくなった。部落問題は、職員会議の権威よりも、用務員とたこ焼き屋の部落民の生活の実態に目を向けるべきではないか。学者先生の差別的想像で済まされない。
2,S君の藤田への暴力行為(S君というのは私澤山のことである。)
「同和はこわい考」の40頁~42頁で藤田は1970年の3,4月ごろ「被差別部落出身のS君」から「糾弾する」と電話で言われ「有無を言わせぬ実力行動」でやられた。
「それは一つの会のヘゲモニーをめぐっての対立にすぎない」ことだったとか。
それは、部落に対する幼いころからの「あの恐怖感。心と体の、深いところから突き上げてくる、身震いをするような感じ、どう表現すればいいだろうか」という恐ろしい体験を再び味わったということの実例としてである。事件の現場は京大の構内だ。
藤田を守っていた友人は、S君が「俺は部落民や・・・」といったことで「全身から力が抜けたようになり、S君の前に土下座し、両手をついて謝っていた。」という。
恐ろしい理不尽な糾弾を受けたというその話は、藤田の盟友師岡祐行氏が婦人公論に寄稿した狭山事件に関する文章の一部を藤田が転載したが、その文章中に、狭山の麦畑で「スコップが発見された」という叙述があった。その記述にS君に付け込まれた。
すなわち
「スコップ発見と被差別部落への見込み捜査とに重大な関係があると推測されることは、すでに指摘されてはいた。というのは、そのスコップが石田養豚場から盗まれ、被害者を埋めるのに使用されたものであり、したがって犯人は石田養豚場関係者、つまり石川さんだとされていたのである。だから「五月11日、スコップ発見」に何のコメントもつけなかったことは差別捜査に関し不注意のそしりを免れない。S君はそこをついてきた。」という。
この藤田の「同和こわい考」の叙述には、大きな虚偽と誤った見解が入っている。
第1に、事件の発端となった婦人公論の師岡論文の問題点は、「スコップ発見」という記述ではない。一個のスコップが死体現場付近の麦畑で、ある農婦によって「発見」されたことは事実であり、その事実を記述したからと言って何も問題になるものではない。我々が問題にしたのは、婦人公論の師岡論文の中の 犯行に使われたスコップ という文章であった。
S君は藤田に電話で、それはカギかっこで「犯行に使われた」スコップ とするか、犯行に使われたとされるスコップ というような記述にすべきであると穏やかに指摘。
師岡氏や藤田は浦和地裁糾弾闘争に対して連帯の意思を表示し、連帯の会を組織していたから、我々も敬意を表する相手であった。
しかし、藤田らは、婦人公論の訂正はもとよりせず、その記事をそのままコピーして別個の小パンフにしてばらまいていたが、S君の仲間らがそのパンフレットの文章も訂正せずに無修正のままであるといって一部をS君に渡した。
そこでS君は、藤田に電話をしてパンフレットについては手書きでもカギかっこを入れるなど訂正することができるではないかと強く抗議をしたところ、藤田は、そんなことは些細なことで全体が正しいのだから構わない、と返答した。そこでS君は激高し、会って直談判(糾弾するといったかもしれない)するから居場所を教えろというと おう京大におるから来いやというのであった。
そこで京大へ連れの森という青年一人を伴って出向いたところ、竹ざおで武装した赤ヘルメットの数十名の集団に守られた藤田と対面した。本書にも「私の友人が事情もわからないままに、私を守るべく手を出した。」というとおり、S君ら二人に向かって竹ざおで突いたりたたいたりしてきた。身に寸鉄も帯びていない二人に対し先に暴力をふるってきたのは藤田側の赤ヘル集団だった。私はひるまずその赤ヘル集団の中に正面から突撃し、藤田を捉え地面にねじ伏せて、自己批判を迫った。S君が藤田の上に馬乗りになって自己批判を迫っているその間、赤ヘル集団の竹ざおがS君の頭や身体を容赦なくたたきつけられた。
やがて藤田はS君の下でうめきながら自己批判をするということで一枚の紙切れにその反省文を書いてS君に渡した。
S君は、それで藤田を許し、その紙片を掲げて赤ヘル集団に対し、自己批判がされたことを宣言した。そして、竹ざおを収めた赤ヘル集団に向かってS君は、責任者は誰だ、前へ出ろと怒鳴った。この連中に棒で袋叩きに合わされ理由はない。
一人の赤ヘル戦士が前に出かかったが、たちまちきびすを返して逃げ出した。
私と連れの二人はその学生の後を追った。京大の構内中を追いかけまわしたが、相手はついに時計台前の広場で転んだところをS君につかまった。S君がその男を殴ったのは何も藤田の代わりではない。素手の人間なのに多数人で竹ざおで袋叩きにしたことの責任を問う鉄槌であった。S君の方は出血はなかったが体中に赤黒い打撲痕を負い服はボロボロになった。
S君には、赤ヘル集団に対し、俺は部落民だ、などという会話をするような余裕は全くなかったし、誰も部落民だからと言って土下座をして誤ったわけではない。藤田とは自己批判を迫るやり取りをしたが、赤ヘル集団とはただ乱闘と追いかけのみで会話や事件の説明はなかった。赤ヘル集団が暴力をふるうのをやめたのは、自分達の首領が自己批判文を書いた、降参したということであって、部落民であることが分かったので攻撃をやめたのではない。藤田が書いてあるように
「S君こと私に追いかけられ捕まった男も自己批判をしたが、部落民を袋叩きにしたからではなく、理由もなく無武装の人間に大勢のものが棒で襲い掛かり袋叩きにした行為について反省を迫った結果謝罪したのである。その赤ヘル連中は私が部落問題で京大にやって来たということを知っていたら、初めから攻撃をしなかったかもしれんが、そのことを知っていた様子はないし、私の方もやってきた理由は赤ヘル集団には何も話していない。
そのことは「同和こわい考」の中で藤田がいう通り「私の友人が、事情も分からないままに・・・」と書いてある通りだ。
だが、何日後かそれからしばらくして、丸山公園まで確か府学連主催のデモがあり、集会の後帰る途中すでに暮れかけた丸山公園の出口付近で、森という青年とS君二人は、十数名の屈強そうな青年に突如取り囲まれた。後で人に聞くと、その連中はパルチという集団であるとのことであったが、まともな党派とは思えない正体は分からなかった。その場での問答で藤田の復讐をしようとしている連中であるのは間違いなかった。
何者かわからないが、二人の正面に立った数名は懐に右手をさし入れて構えていた。それは懐に短刀(やっぱ)を持っていて刺し殺すぞという意思表示であった。
その男達の首領らしき者が私に向かって、中核派のSだな、藤田をやったのはお前だな、と確認してきた。S君は恐怖の中で沈黙していたが、覚悟を決めてやおら藤田糾弾のいきさつをゆっくり話をした。それは中核派の党派闘争ではなく部落民としての糾弾行為だということをこんこんと説くものであった。
そうすると、指導的な連中が何かを相談するようであったが、やがて囲みをといた。S君ら二人はほうほうの体で河原町の通りへと生還した。Sが部落問題を説いた相手は、丸山公園の夕間暮れの恐るべき連中であって、京大の赤ヘル集団に対してではない。だから、藤田の本書で分かったのは、丸山公園の刺客を使ったのは藤田であるということだ。丸山公園の刺客が後で藤田に復命したとき相手は部落民を名乗っていたと報告したに違いない。彼らは部落民の前に土下座するわけもなくただ囲みを解いて去って行っただけだ。S君が部落問題を説き聞かせたのはその刺客たちであった。
自己の重大な部落問題に係る間違いを開き直って、武装した赤ヘル集団の暴力を使い、それが失敗すると、さらに刺客を使嗾し部落民を殺害しようとしたのではないか。
少なくとも私は、その疑念を持ち続けている。S君というのは、私(澤山保太郎)のことだ。
*所で、前に引用した藤田の文章(下線部)を見てみよ。依然として、スコップが犯行に使われたというコメントを繰り返している。
発見されたというスコップが石田養豚場のものであるのか、またそれが犯行に使われたかどうか、それらは大きな疑問であった。藤田は数十年前と同じく今もスコップが犯行に使われたという警察の見込みについて、少しも批判的に説明していない。
犯行に使われたというスコップの発見は、遺体の発見以降捜査上の最大の画期であって、そこから一気に部落への攻撃が本格化したのであるから、些細なことではないのである。
狭山事件の捜査全体が疑惑に満ちたものであることは周知の事実だけれども、師岡さんも私も当時はそこまで厳密には考えていなかった。」という。S君が指摘したのはこのようないい加減な姿勢であって、藤田らが直接差別事件を起こしたというものではない。
糾弾というのは何も差別事件だけの用語ではない。誤りを正す一般的な言葉だ。
狭山事件は単なる冤罪事件ではない。それでは当時、師岡氏や藤田は何をもって狭山事件を差別事件と考え雑誌に投稿したり、パンフを作成して配布したのだ。
狭山事件の差別捜査の核心は発見されたというスコップが石田養豚場の者であったかどうか、そして実際に犯行に使われたかどうかであり、犯行に使われたとする捜査当局が被差別部落に突撃する最大の口実であった。藤田は本書でスコップ発見について「何のコメントもつけなかったことは差別捜査に関して不注意のそしりは免れない。」というが、スコップが発見されたという事実を書いたから、それに適切なコメントをつけなかった、からと言って人からそしりをうけ、反省する必要などさらにない。
①農婦によって発見されたスコップが初めから被差別部落の養豚場のものとされ、②被害者を埋めるのに使われたとされたこと、③養豚場の主の石田さんを含め十数名の部落民が善枝さん殺しの容疑者として捜査対象にされたことが重大な疑問点なのであった。5月11日のスコップ発見より前にすでに石田養豚場の関係者が捜査対象だったといわれている。
だから、「犯行に使われたスコップ」という記述は何ら客観的な証拠に基づくものではないし、それを認めるのは差別捜査の重大な契機を認めるものなのであった。「同和こわい考」の書き方では、スコップ発見という事実の記述だけでそれを不可として、部落問題に協力的な学者先生の論文にいちゃもんをつけ、暴力的糾弾に及んだということであって、S君というのは、ほとんど狂人か何かのように思われるように描いた。
いやしくもS君こと澤山は、学生自分に奈良本辰也や井上清ら立命館大学日本史専攻の先生方のもとでもっぱら部落問題を勉強し、部落問題を卒論にし、卒業後は奈良本先生の推薦で解放同盟中央本部に就職して、朝田善之助、岡映ら全国水平社の生き残りと寝起きを共にし、何よりも大阪府連の西岡智氏の膝下で解放運動の実践を体験してきたものだ。
その「S君」は、解放同盟中央本部に勤務の時、誰よりも早く、狭山事件を取り上げ、東京の国民救援会の難波英夫さんを訪ね彼から狭山事件の公判調書を全冊譲り受けそれを徹底的に読み込んで狭山の闘争を全国闘争にしようと決心して立ち上がった人間だ。スコップ発見の記述だけで人を糾弾するような人間ではない。藤田もそんなことで「不注意であった」と反省するはずもないだろう。
藤田はなぜ真実をかたらないのだ .なぜ部落民を狂人のように恐ろしいものに仕立て上げるのだ。藤田の部落に対する偏見的想念は相当根深い。
3・識字学級で辞書を引けと言ったら・・・・
藤田の本では、解放運動の進展の中で部落民の驕慢さなど墜落した部落民像の話がいくつも列挙される。
識字学級の集まりで「文章を書くには、ちゃんと辞書を引いて」と話したところ、「差別の結果教育を受ける権利を奪われたわたしらに辞書を引けというのは、ひどい」と批判された作家がいる。」(67頁)
識字学級の生徒の学習のレベルにもよるが、字が満足に読めない者が辞書を引くことは不可能に近い。私が幼少時に山や川、海にいつもついて回った10歳ほど上の従兄がいるが、私が高校生の時、運転免許を取るためにその従兄が教科書をもって私の家に通ってきた。それが私の人に字を教えた最初の経験だ。従兄はほとんど学校に行っていない。
戦争未亡人の母子家庭の長男だ。私は幼少時母が出稼ぎに行って赤貧洗うがごときその家庭に預けられていたから実の兄のような存在だった。そこの戦争未亡人は字が読めなかったから後年私が学校へ行くころにはしばしばそこの大阪方面の水商売に出稼ぎに行っていた従姉からの手紙を読まされた。従兄はひらがな程度はできたが漢字は全然ダメだった。その程度の者に辞書を引けなどと言ってもできるわけはない。
辞書を引く能力があるのに、そうしないで先生を辞書代わりにするのはよくないことだ。
藤田の主張は、人を糾弾するだけでなく、自分自身をも糺す運動でなくてはならない。という。その通りだ。巨額の同和対策予算で解放運動は根底からその運動の在り方が変わった。行政に依存し行政にやらせ、行政から…してもらうという墜落した運動が解放運動にはびこった。行政に要望することで成らぬというものはほとんどなかった。
私も西岡先輩らと、このままでは手足も頭もなえしぼんで・・もらう族とやらせ族が部落にはびこり部落民は劣等人種に墜落するのではないか、などとよく話した。ある地域では解放同盟の支部大会の議案書も市民館の公務員に作らせていた。
このような状況の中で、私らは、石川一雄さんに係る狭山差別裁判の糾弾闘争こそ部落の姿勢を正し目の先の利権ではなく部落解放の大義を実現するため運動内部を革新する手段でもあるとして狭山闘争を重視した。
そして、西岡と澤山が開いた矢田解放塾でも、5,6年後に訪れてれてみると大阪市教委の機関となって生徒と同じぐらいの数の先生を擁していてそれこそ手取り足取りで勉強を教えていたが、私はこれを刷新した。先生に対し、あまり教えるな、生徒自身に勉強する力をつけてくれといった。
先生が教科書の内容をまとめて黒板に書き説明を加え、生徒がボウと黒板を見つめていてノートも取らないので、先生が生徒のノートをとって黒板を写し取ってやっていたのである。こんなやり方では先生は賢くなるが生徒の能力はむしろ低下するとして私は、先生を制止した。どんなにつたなくても自分で教科書を読み、それを整理してノートに書き込み、それを先生にみてもらって論議をし指導を受ける、ということでなければ、学習は身につかない。何よりも学習力がつかない。
学問に王道はないのである。そして、私は、矢田解放塾の膨大な数の先生(講師)を整理してもらった。先生方には気の毒であったが、解放塾は自力更生型の道場だからであった。
部落や解放運動の状況について外部からでも内部からでも批判をすることは大いに結構なことだ。その批判の急先鋒はほかならぬ私自身だった。高知の故郷に戻っても市民オンブズマンの旗を掲げながら行政の腐敗を暴露し部落の利権屋どもと公然と戦い続けてきた。物取り要求はほとんどせず自分の部落の環境改善事業は遅々として進まなかった。行き詰まりの道を何とか打開せよなどと今頃言っている始末だ。
藤田らの部落像は解放運動の進んだ大阪や京都、九州のことであろう。圧倒的多数の地方の部落では旧態依然たる厳しい差別の中、環境整備さえ進んでいない。
差別と闘う体制が十分ではなく、部落外の篤志家の支援もほとんどないところで藤田らが要求する運動側の自制、部落民という特権的な「資格」の排除など問題にもならない。
ここは高知県の西灘部落と言って戦後まもなく大阪市大の教授が生徒ら若いものを連れて調査に来た部落でその教授が著した本に「まさに文化果つるの地」と記載された被差別部落だ。ここでは部落民であることはただひたすら差別を受ける苦しみ、恥ずかしさ、くやしさに耐えることであって自己を特別化したり、誇りを持つことなど許されるところではない。
差別は差別される人間性もゆがめる(94頁)
藤田は部落民の傲慢なふるまいの原因を次のように言う。
「差別は人間の尊厳を犯すといいますけれども、しかし差別は、差別される人の人間性をもゆがめるとも言えます。部落解放運動を見るとき、「差別の結果」という分析はあっても、崩壊させられていっている感性を、どう取り戻すかが、ほとんど語られていないのは、どうしたことかと、私はいぶかしく思っているのです。」
差別が被差別者の人間の性格をゆがめ、その感性をも崩壊させる、藤田の主張はこれまで誰も想像もしなかった新しい精神医学上の学説であろう。藤田の理論が正しければ、差別がある限り部落から傲慢な人間など異常な悪人が次々に作り出されることになる。
本人らの責任ではないとしても差別によって部落はこれまで傲慢人間、破壊されたゆがんだ人格、反社会人間、悪人たちの再生産場であったということか。
部落差別理論もいろいろあるが、これ以上の悪辣な理論は存在しないだろう。
そんな被差別地域のゆがめられた性格の人間と何の「共同闘争」がありうるのであろうか。
藤田のいいたいことは、部落民は、部落外の者から絶えずそのゆがんだ性格を指摘され矯正してもらわねば世間の人と肩を組むことなど望むべくもないということか。
そこで藤田は、「部落外出身者が部落解放運動(同盟)に拝跪してしまってはいけない。」(95頁)と警告するのであるが、差別が部落民の性格を「崩壊」させゆがめるのであれば、部落外の者は、そんな部落民の前に拝跪するどころか、鞭打ち糾弾する立場に逆転しなければなるまい。「差別―被差別の関係は、位相を変えれば、いつでも逆転しうるものです。」(94頁)というのはこういうことだろうか。
私には藤田の恐るべき破壊された人格、新しい差別理論の創始者の姿がせまってくるように見える。「差別が被差別者の人格をゆがめる」⇒ 差別を受けている部落民は人格がゆがみ人間としての感性が「崩壊」している。学校用務員Mのような傲慢な部落民の跋扈、S君のような訳の分からぬ理由で糾弾暴力をふるう男など枚挙にいとまがない、・・・・。
わたしには、この新しい精神医学は、ナチスが優生学を利用してユダヤ人虐殺の理論をでっち上げたのと同じようなもののように思える。ちなみに、差別を受ける部落民の側には確かに人間として変化が起こるだろう。
どのような変化かは、一概には言えない。差別に無抵抗で一般民が希望するような結婚や就職をただ諦める人もいるし、屈辱を体験しても情けないと思いながら耐えるだけの人もいるだろう。丑松のような人もいればアンクルトムのような人もいるだろう。その反対になにくそと思う人、暴力的に復讐を考える人、金をもうけて見返してやると思う人…色々いるが、中にはごく一部に暴力団に入る人も出てくるし、解放運動や労働運動に参加する人も出る。だが、差別が人格や性格のゆがみを生ずるというのであれば、被差別側よりも差別する側の方が多いのではないか。
はっきりした理由もないのに人を差別するには、相当な精神力がいるだろう。誰にでも良心はあるはずだが、その呵責を押し殺して人に侮蔑を与えたり排除したリし、それで悲しんでいる人がいても平気な顔をするのだから、人間として精神が正常ではいらねないだろう。そして部落や在日朝鮮人を差別する者が教育や行政についていると、子供たちや社会がゆがんだものとなり社会は分裂と対立、迫害と驕慢・・・あらゆる悪影響が広まる。
藤田は、むしろ差別者たちのゆがんだ人格や性格の方に探求心を向けるべきではないか。
例えば、藤田自身は、幼少の折から部落は こわい、けがれている と感じてき、今もその観念にとらわれてきた、という(38頁)が、それは自身の家庭の影響や「京都という土地柄」のせいという。どうして怖いのかその「意識の中身」はわからないともいう。
「私はなんの体験、経験もないままに被差別部落はこわいと観念していた」ともいう。
だが、差別によって被差別者は性格がゆがむという理論を持つに至った藤田はもはやなぜ被差別民がこわいのか悩む必要はあるまい。京都市内の小・中学校で藤田は、被差別の児童生徒と席を並べて勉強したはずだ。その生徒に対してどのように接したか胸に手を当てて考えてみよ。同級生の中で被差別地区から通う生徒と友達にはならなかったのか、それはなぜか、思い出せば心当たりが出てくるだろう。
思えば、私は徳島市の福島小学校で1年生、2年生を過ごした。その当時私は姉とともに父母のもとで裕福な生活をしていた。父は親戚の大きな石鹸工場の経営を任されていて、私は上等の服を着て何不自由のない身分の子として通学していた。
学校で同席していた女の子がいつも汚い服を着て私の隣に座るので私はその子をひどく嫌った。小学校3年生の時、父母が離婚したので高知県の室戸市吉良川町に転校した。
私は、たちまち被差別部落の母子家庭の貧しい子供となり、なけなしの汚い服を着て先生に嫌われる身分になった。美しい清潔な服を着ている同級生にあこがれた。
食べ物も腹いっぱい食べれば幸せで徳島の生活のように肉や魚類はめったに食べることはなかった。私は2年間の短い期間ではあるが、差別する側にいたこと(事実隣席の女の子を嫌った)があった。貧しいということで差別することを誰かに教わったわけではない。食べ物ではわからないが、服装などで貧しいということをひどく恥ずかしくつらい思いをした。
そうして徳島で隣席の女の子を嫌ったことはすっかり忘れていた。貧しいということを隠すことに腐心した。中学3年生の時に親戚の青年から自分らが被差別部落の者だと聞かされたが、それが何のことか意味がよく分からなかった。先生が差別的発言をしたという事件があったが、それもよく分からなかった。私ら姉弟は叔父の家に世話になって暮らしていたが、叔父は夕飯の時その差別事件について、身にぼろをまとへども心に錦を飾っておれ、と教訓した。
私は野球をし勉強することで一生懸命で自分が差別を受けているという感じが全くなかった。小学校の時は先生から理由もなくたたかれるなどひどい目にあわされたが、中学校に上がってからは私は貧しいということ以外には、スポーツでも勉強でも町の子に負けているとは少しも思っていなかったし、先生からも大事にされているという感じを強くもった。
同じ部落の貧しい女の子が同級生の町の子にひどく侮辱(学級費を払っていないなど黒板に書かれた)を受けたが私は公然と教壇に上がり、誰がこれを書いたんやと大声で叫び、黒板の文字を消してその男の子と対決した。
徳島で貧しい女の子を嫌った自分は母の部落にかえって貧しさを恥じ隠したが、それを理由にするさげずみ攻撃には断固戦うと決意していた。
西日本の人間は、差別・被差別の原体験は否応なく義務教育で経験する。藤田も経験したはずだ。理由なく部落民をこわい とか けがれている という感情を持つはずはない。
仮に幼少時に被差別者(貧しい子)に対しこわいとかいう感情を持ったとしても、中学・高校に上がり、大学で教育を受けて、なおかつその感情を持ち続けるなどというのは、到底考えられない。
同和対策事業を運動側からも点検すべしと部落外から提案することがなぜ悪い(63頁)
「せんだっても私の知人が同和対策事業の個人施策の見直しを運動側からも進めるべきではないか,たとえば児童・生徒に支給される特別就学奨励費によって子供たちは毎年、最新流行の筆箱やランドセルを持つようになっているけれども、教育の問題としてそれでよいのかといったところ、「それを部落民がいうのならよいが、部落外の者がいうと差別になる」と批判する人がいた。」
という。
藤田はなぜそれが差別になるのかわからないと憤慨する。
部落への給付事業そのものには問題はない。確かに同和対策で部落の子供たちだけに特別な給付事業が行われることは問題がある。子供たちや保護者間に逆差別的な反感を醸成し意図した効果とは逆の結果を生むだろう。部外者であれ内部のものであれ批判するのは自由であり差別とは言えないが、同和対策を一方的にやめさせることは一般民の逆差別感情を助長し解放運動の妨げになるだろう。政府や自治体の同和対策事業は、逆差別の状況を作り、本来妙薬である同和対策事業自体を毒薬に替えようとするものである。
これに対する批判的提案は、部落の子供たちが受けている個人給付は子供たち全員へ発展させるべきだ、憲法の義務教育無償を全生徒に実現させようという提案でなければならなかった。私が東洋町長の折、義務教育無償、福祉無料の政策を次々に実行してきたが、それを同和対策として特定地域の者に限るようなことはしなかった。
特定地域の子供に対する給付を返上すべきという提案は、解放運動の成果をすてろということになり、一般の逆差別感情と同じ効果を発露する。差別発言と誤解される可能性があるのである。それを部落民内部がいうのであれば自分の利得も捨てることであるから潔しと評価されるが、部落外のものがいえば痛くもない腹をさぐられかねないのである。
憲法を守り、子供たちの人権を守る姿勢がはっきりしておれば、藤田の知人のような結果としては妬み意識的な発言は出てこなかっただろう。運動に理解を示し協力するのであれば、高知県の浜辺の部落(長浜)の住民がやり遂げた教科書無償運動のように解放運動の成果を貧しい多くの国民に押し広げる努力と宣伝活動が肝要なのである。
部落解放運動に連帯するというのはそういうことであって、解放運動の成果にケチをつけ、それを差別だといわれて根に持つなどは藤田先生ほどの人物のなすべきことではない。
相手の差別的偏見、恐怖感を逆用して・・・利益を引き出す・
またある人が講演で小笠原亮一さんの・・・引用し・・・「被差別」側のおちいりやすい危険の一つとして「差別の力に負けるどころか、相手の差別的偏見、恐怖感を利用して、相手から自分の利益を引き出そうとすることへの誘惑」があると指摘したところ、たちまち「それは差別やないか」とのヤジが会場からとんだという。
小笠原さんの著作についてはわからない。自分の心象の経験からか何を根拠に彼がこのようなことを言ったかわからないが、それを引用したこの講演者の発言では、普通の部落の人が聞いたら誰でもけしからん発言だというだろう。
相手の恐怖感や偏見を利用して、利益を引き出すというのは、エセ同和の連中のやることだろうと思われるが、これを部落民一般がそのような誘惑に陥りやすいということには何の根拠もない偏見であって、純然たる差別発言というべきである。人の弱みに付け込んで利益を引き出しそれで生活をしているという人間は軽蔑に値する。会場でヤジが飛んだぐらいで済んだのだから、穏健な聴衆ばかりであったのであろう。
部落問題の講演会でのこの発言では、まともな司会者なら講演している先生の発言を中止させ、真意を問い、合点がいかなければ撤回を求めるだろう。藤田がこれが「なぜ差別になるのかわからない」というなら、人間に対する非礼がなんであるかわからないということになる。S君の事件での事実の捻じ曲げ被害者面するなどを平然とやる人間の性質なら、むべなるかなだ。
公務員になって余った時間の使い方がわからずとまどっている
(94頁~95頁)
「ところで先日、私が「公務員になった部落民の中に、余った時間の使い方がわからず、とまどっている人がいるのではないか」といったところ、ある人から「部落民がそういうことをいうのは、いいけれど、一般の者がいうのは、差別になる」といわれ、言葉を失ってしまいました。余暇の利用を含めて時間の使い方というのは、文字通り生活文化の一環であって、被差別部落のこれまでの生活と労働の在り方によって、公務員になってにわかにうまれた時間の使い方にとまどっているのではないかというようなことをいいたかったのです。しかし私の真意は伝わらず、部落外出身者としての私の立場から、一刀両断のもとに差別と決めつけられたと思われます。」
私はこの文章を見て、中国の何かの古典を思い出したが藤田は中国文学の研究家だから熟知しているだろう。 小人閑居して不善をなす という言葉だ。
農業や行商など自分で仕事をして日銭を稼ぐ労働は時間の制限がなく、私の祖母がよく言っていたが、朝は朝星、夜は夜星と一日中野良仕事に励み、夜は、夜なべ仕事をして休む暇なく働いた。そういう生活をしている者は部落民ならずとも公務員やサラリーマンのような8時間労働で、土日祭日休みという生活にあこがれる。都会などで解放運動の進展の結果公務員に就職する者も出てきた。その人らに対して、余暇ができてむしろ困っているだろう、等という言葉をかけるというのは、どういう風に聞こえるか、藤田にはわからないようだ。余暇といえば上記の中国の古典の言葉があることは藤田は百も承知だ。藤田の言葉の響きは、部落民は公務員となり暇ができてもそれを文化的に有効に使えないではないか、所詮部落民は部落民であればいいという差別的揶揄と聞こえる[
小人とは身分の低いいやしい人間のことで中国のこの言葉の意味は、君子でない者、賤しい身分の者に余暇を与えるべきではない、余暇を与えると悪いことをしだす、という封建道徳なのである。この身分差別を維持するための酷烈な道徳と同じ響きの言葉を藤田は平然と吐き、それを差別だといわれたことに憤慨しているのである。公務の後の余暇を何に使おうが人に干渉されることはない。大きなお世話だ。
部落差別とは (48頁)
ちなみに、藤田の部落差別の概念規定は
「前近代からうけつがれてきた、身分制と不可分の賤視観念にもとづいて特定地域にかつて居住したことのある人びととその子孫、もしくは現に居住している人びとを種々の社会生活の領域において忌避もしく排除すること」だという。この規定は「同和はこわい考を読む」(178頁)にも全く同文が掲載されているから確信をもって書いているのだろう。
身分制は今も続いているのか
前近代の身分制とか旧賤民とかではなく、前近代から受け継がれてきた身分制というこの規定は奇妙であろう。これでは賤民の身分制が前近代からうけつがれて現在でも存在しているように聞こえる。賤視観念と不可分の身分制というから旧賤民・エタ・非人のことであろう。しかし現在は旧賤民も部落民という身分も存在していない。天皇・皇族以外は現在日本には身分制はない。藤田は学者だからそんなことは百も承知だ。明治4年のいわゆるエタ解放令以来賤民制度は廃止された。確かに制度は廃止されたが実際生活上では差別は続いたから、実質的に身分制度も存続しているといいたいのであろうか。
しかし、明治の賤称廃止令(いわゆるエタ解放令)―現行憲法の第14条で身分による差別が廃止または禁止されたこと、実生活上はともかく、制度(法律)としては現在部落への身分差別が存在しないことは歴然たる事実であり、それが戦前戦後の部落解放運動の最大の槓桿であった。
(厳密な論理では、身分制度は解放令でも現憲法でも残っている。解放令はもとより賤称の廃止令であり身分制の廃止ではないし現憲法第14条も社会的身分による差別を禁止しているが社会的身分そのものの廃止は言っていない。だがこれは私の理論であって藤田がそう言っているわけではない。)
藤田がいうように今も身分制度が制度として残っているというのであれば、部落解放運動自体が違法行為であり、政府転覆の罪科に問われる。
そうすると藤田の部落差別の規定は、糾弾闘争を犯罪とみる時代遅れの政府と同じ高地に立っているとみなされる。全国水平社や部落解放運動の糾弾闘争は、封建時代の一揆や騒乱と違って合法的根拠を持っている。糾弾権は、生まれながらの天賦人権であり、世の不正を糺そうとする誰でもが保有している神聖な権限だ。同和予算に鼻まで浸かっている連中にはひとかけらの糾弾権も許されていない。
忌避若しくは排除か
前近代の身分制が存続しているかのような藤田の考えは、差別の現れ方として「忌避もしくは排除すること」だという。前近代ではそのような傾向がつよかったかもしれない。
しかし、今は部落民を封建時代のように忌避したり排除したりばかりではない。むしろ前近代でも忌避しているように見えても社会の環境の悪いところで汚れ役を背負わせてきた。
今は、公教育の場でも福祉や医療など種々の生活領域で部落民を排除できない。
封建時代でも部落差別は、部落民を一般民から区別し特定のところに押し込めひどい目に合わせるが、しかし決して一般民から分離しない。封建時代も今もそうであった。
今の資本主義社会の主な傾向は、部落民を市場に組み入れてそこで卑しむというのが主流だ。そして、部落差別は権力者が差別迫害するだけでなく一般民衆が前面に出て差別の鞭をふるう。それは、一般民衆が自らに係る階級的矛盾や社会的危難、汚い仕事を敵階級に向かってではなく特定の少数民族や社会的集団にこれを転嫁して解決又は解決したという気分を獲得するために差別的迫害を加えるのである。
身分制は卑賎感念でつくられたのか
藤田らだけでないが歴史家の多くがいう「賤視観念」や浄穢思想によって差別が引き起こされるのではない。旧賤民も現在の部落民ももともと人間的に卑しまれたり汚れているわけではない。誰が差別の対象とされたのか。インドでは征服民族アーリア人によってインド先住民が、日本でも大和朝廷による被征服民である奥州俘囚らが差別の対象とされ、非人とか穢多とされた。中世天皇制の枢要な地位にあった空海の性霊集や朝廷の最高地位にまで登った菅原道真の菅家後集をみれば、蝦夷を非人としておそれ侮蔑していることがわかる。激しく忌避しているようであるが実際には天皇や貴族、神社仏閣はその蝦夷俘囚たちの都への大量の拉致を待ち望んでいたのである。排除ではなく奴婢として差別し使役するため天皇直属の検非違使の庁の膝下に置いたのである。
卑賎感念についていえば、例えば狂言の「餌差十王」を見てみよ。閻魔王やその眷属も鳥肉を食って喜んで、冥途の六道からその餌差(清頼)を娑婆に返したというから、中世の武士や庶民の間では浄穢、卑賎の観念などちっともなかったのではないか。
幕藩体制の時代ならともかく今の時代に、平田篤胤のように賤民に対する卑賎視思想(国学 「霊の御柱」)を学問を装うて煽り立てる学者に惑わされることはない。
初めに権力による迫害(persecute)・征服ありきであり、被征服者への賤視や浄穢はそれの粉飾なのだ。
体制的差別への戦い
1967年ごろ、同和対策の特別措置法制定請求の大詰めを迎え、解放同盟が対政府に総力を挙げて戦っている中で全国青年集会を東京で開いた。そのころ私は大阪府連の教育対策部に所属したまま中央本部の青年対策の書記をしていたので全青大会を政府への闘争にぶっつけた。
全国青年集会(全青)はこれまで大概は、リゾートの地で学習や討論をして過ごしてきたが、私が担当書記だったので、西岡中執らと協議して全青を中央闘争に組み込んだ。
すなわち、民青系の青年が反対したがその連中も含めて全青参加の部落青年たちを総理府に導き、多数の機動隊が固く守る総理府に突入するという実力闘争を敢行したのである。
それとあわせて庁舎内では全国の幹部同盟員百数十人が総理府庁舎内をシュプレヒコールを挙げながらデモ行進をし床次長官の部屋の前に座り込んだ。総理府は騒然となった。
そして私ら青年5名の「決死隊」は総理府の警備員と乱闘してそれらをねじ伏せ抑え込み屋上を占拠した。そこから巨大な垂れ幕2旈をたらし数千枚のビラを雪のように撒いた。この総理府突入闘争の前日の全青の集会ではアメリカからブラックパワーSNCCの戦闘的な黒人青年を招いていて、連帯の挨拶をしてもらった。
だから、アメリカの人種差別反対闘争と同様に、解放同盟大衆は個別的な差別事件だけでなくその背後にある差別の国家体制、差別の権力システムを糾弾し是正することを目指していたのである。アメリカのストークリ・カーマイケルらのブラックパワーが「制度的レイシズム」を問題にして闘争していたのと同次元だ。
藤田の言う忌避と排除の理論では日本の部落問題はもとより、人種差別など様々な被差別の実態とそれへの闘争の真実の姿は捉えられない。部落民は嫌忌されたが排除されず、深く体制内に組み込まれてきた。中世や封建時代には拉致や暴力で、近代社会では、資本主義の市場原理で体制内に編成されて侮蔑と搾取、苦役と迫害を受けてきた。
だから、一般民衆は、権力によって自らに負わされた様々な苦難や危難を少数民族や特定集団に転嫁するのではなく、彼らとともに権力に向かって戦うことが肝要であり自分たちの解放にもつながるのである。私が昔藤田らに繰り返し言ったのは、連帯というのは解放運動をやっている部落民に追従したり金魚の糞のように「附随」したり、鳥なき里のこうもりになったりするのではなく、自らに係る困難を権力に対してまともに戦い、自分の生活の領域では、弱い立場の人への差別や迫害をやめさせる運動が肝要だ、そうすることは糾弾権が解放同盟の独占物であるというドグマを乗り越えなければならないと説いた。
だが、藤田の回答は自分の配下の武装集団パルチの暴力と、この「同和こわい考」だった。
この本は、同和はこわいということの、すなわち部落差別の強力な差別アクセルであり、差別することの自由、差別解放運動本なのである。
ただ、この本は地対協批判などと副題をつけているから、普通の人にはわからない。
だから、藤田の真の意図は特定の人にしか聞こえない犬笛となっている。
本当の犬の声ではない。差別によって被差別民の性格がゆがむという新しい理論のすごさは、普通の人にはわからないが、高周波の差別主義者には最高のアイディアとしてよく聞こえる。少なからずの運動団体関係者には周波数が合わなく、ひんしゅくを買ったが本書「同和こわい考」は、それにもまして多くの学者先生たちのよくぞ言ってくれたという称賛の声を巻き起こした。
差別は誰がしているのか
藤田の部落差別論の第二の問題は、誰が差別を行っているのかが完全に抜け影も見えない点だ。部落差別問題でこの権力の問題の欠如は藤田だけではないが、人間は生物学的には個々の特徴はあっても皆同じであり人種や身分は作られたものだ。人間の浄穢や貴賎の別はつくられたのであって、それは権力を握ったものがきめたのである。
日共系学者の部落の近世起源説は曲がりなりにも幕藩体制が差別を作ったとしたが、それを非難する藤田らには部落問題における権力関係を見えなくさせてしまった。
天と地の間に幽霊のように漂う「卑賎感念」が差別を作ったのではない。
アメリカの黒人らの公民権が確立されたのは最近のことであるが日本では明治四年の賤称廃止令や現憲法第14条などの制定によって、差別は公然とはできなくなったが、権力は差別に反対する運動を非難・攻撃したり、資本主義の市場原理の競争(形式的平等)で、もともと格差のあった被差別民を一層落ち込ませ、それを放置するなど露骨な差別や暴力をやめ体制(資本主義)の論理や、形式的法令上の平等の実施で体制的差別を強化してきた。
だから、新しい資本主義とか資本主義を擁護するための権力の営為が近代の差別の本体であり、その正体が表面には見えにくいのである。資本主義の帝国主義段階以降はもとより、資本主義そのものがその原始蓄積過程から強烈な理不尽、植民地民族や社会的弱者集団への蛮行的差別・迫害を伴っていた。発展した資本主義下では市場原理で「公正な」手続きでもって差別を温存し強化さえできたのである。
それは人間に対してだけでなく自然(資源)に対しても破壊と略奪を増幅的に展開し今もやめず地球上の生物をガスの中で窒息させようとまでしている。同和対策審議会答申のように近代化路線で部落の零細企業を破壊することが堂々とできるのであり、高知県のモード・アバンセ事件のように行政が巨額の資金を提供してまでそれを遂行しえたのである。
「同和こわい考」の影響
横井清氏の『光りあるうちに』(阿吽社 1990年218頁)のなかに、次のような驚くべき文章がある。
「被差別部落に対する差別心は、間違いなく「私」の中に実在しており、どこの誰が差別の消滅を語りつげてくれたとて、この「私」はそれを拒否せざるを得なくなった。ここに実在しているのに、そうやすやすと消滅説に転じるわけには行かぬと。」(216頁)
また、横井は言う
「京都の下京区内の家のすぐ近く、一丁くらい先きには市内最大の被差別部落があった。
その周縁部には在日朝鮮人の居住地も含めてスラムが広がっていた。誤解を恐れずに言うと「私」が接した部落の子らは、ひとえにこわかった。子の原体験は、そののちもずっとあとを引いて記憶にのこり、部落問題を考えるときの一つの大切なポイントとなった。」
私は同じ立命館の日本史専攻で日本史研究室に出入りしていたが、横井清という人物が立命の日本史専攻の先輩であることは知っていたが、その人の顔を知らないし、話したこともない。著作も最近まで読んでいない。しかし、日本史の相当な学者であるとは知っていたから、上のような文章を読んで吃驚した。吃驚したというのはその内容ではない。それを公然と言い放ったことについてだ。
私が学生であったのは60年安保闘争の終わってまだその熱が冷めやらぬ62年だったと思う。私ははなから部落問題を勉強するために立命の日本史専攻に入学した。
日本史には奈良本辰也や林屋辰三郎先生、北山茂夫、そして京大の井上清先生ら部落の歴史研究家がずらい並んでいたからである。
だけど、日本史研究室では部落問題は全く話題にも上がらず、夏期講座で私ら数名の者が部落問題をテーマに挙げるように提案しても夏期講座準備の日本史の学生集会では公然と否決された。だからこの研究室で真剣に部落問題が研究されているのか、大きな疑問であった。部落研はあったが民青系で近づけなかった。
偉い先生方の著作は読んだが、部落問題を教えてもらえる環境ではないと考えていた。
私はもっぱらマルク主義の研究など哲学の本ばかり読んでいた。卒論は「日本帝国主義と部落問題」ということで戦前の融和教育を取り上げ部落問題を論じたが、誰の指導も受けなかった。
だから、日本史専攻の横井清が、部落への差別感情を今も持っているという趣旨の文章を読んでも、そうであろうと受け止めるが、それを公然といえる大胆さにびっくりしたのだ。
そう言えたのは藤田敬一の「同和こわい考」の影響である。
長年部落問題を勉強し研究した人間が今なおぶらくはこわいという差別心を持っているということは、私には信じられない話なのである。
幼少時にそのよう差別感情を持ったというのはありうることだ。だが、人権とは何かを知り、部落の歴史や現実を見て部落民が何ものかを知ることができたはずの人間、差別にはいわれがなく、部落民も同じ人間だとわかるのに、どうして差別心がなくならないのか。
わたしには不可解なのだ。普通の人が、差別心や差別感情を持っているというのであればともかく、横井や藤田のような部落問題を研究してきた学者が、そのようなことを言えば、その影響は計り知れない。研究者がいうのだから部落はこわいということが、やはり真実であったということになってくる。
藤田が『同和こわい考』を書いた動機は、この本を読む限り「S君」からちょっとしたことで糾弾を受けひどい目に会わされたことや部落民の驕慢な言動が気に食わないというところからであろうと考えるが、横井清が藤田の本に励まされなぜ今になって被差別部落民への差別心を吐露するのか不可解だ。部落問題の研究で飯食っているといわれるひけ目からか、またはあてつけか、しかし、いやしくも学者が、差別は消滅したという説に対して、己の心の中の差別心を証拠に挙げて反論するなどという前代未聞の悪態、これを表現する本を何のためらいもなく出版する会社、これらは藤田の『同和こわい考』の差別アクセルの直接の影響である。
藤田及び横井らに告ぐ。
部落差別を存続させることは、ただに被差別者に被害を与え続けるということだけではない。この差別は権力によるだけではなく広く民衆をも巻き込むのであり、その民衆は自己が受けている階級矛盾の苦しみを的確に敵階級に向けるのではなく被差別者に転嫁させることでその矛盾の解決を図ろうとし、また解決したと幻想することでその背負う階級矛盾の中に沈没しこれを一層重荷して苦しむのである。
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