憲法改正問題

2017年8月 5日 (土)

続・国民機関説

News & Letters/583
現憲法前文の英語では
 Government is a sacred trust of the people,the authority of which is derived from the
 people,the powers of which are exercised by the represntatives of the people,and
 the benefits of which are enjoyed by the people.
となっている。これは、明らかに1863年リンカーのゲチスバーグでの有名な演説(The Gettysburg Address)の一節 と同じ趣旨である。
  人民の,人民による,人民の為の政府は地上から滅せさせないぞ
 Government of the peoole ,by the people ,fot the people shall not perish from the earth.
だから of the people というのは、by the people とは違って、人民の 保有する政府という意味である。
日本人民は、国政を政治家や官僚に「信託」してはいない。
ただ、それに属する権力の行使は、人民の代表(representatives)が行使することになっている。
人民の代表は、しかし、統治権者ではない。人民に選出された代表にすぎず、権力行使は人民の意思に沿わなけれない。
現在立法府は人民の代表が選出されているが、行政府たる内閣はそうなっていない。
人民の意思を反映するシステムが極めて不十分であるから、行政府は独善的になる。
総理大臣と閣僚は直接国民によって選出される必要がある。
さらに問題なのは司法権力である。これはほとんど全く人民によって選出された代表 representatives ではない。
最高裁長官が行政府によって任命されるシステムでは、行政府の補完物でしかない。
司法権力は憲法前文の趣旨からは完全に取り残され暗闇となっていて、人民圧服の旧体制のままである。
最高裁判事、高裁の判事、地裁の判事はすべて管轄する住民による公選で選ばれるべきであり、その判決文についても、それぞれ管轄地域の不特定の人民の代表によってチェック(審査)され、重大な過ちや故意の誤判について糾弾され責任が問われるがなければならない。
検察においても告訴・告発権(検察権)を人民に与え検事とともに人民も直接裁判所に犯罪を起訴できる制度が必要である。
現行憲法を変えずとも法令で相当改変することができるだろう。人民主権が貫かれねばならない。
天皇が国政を総攬し統治権者という憲法上の建前(国体)であったが、実際は重臣や官僚、軍部が国政を壟断していた。
天皇は国体の一機関と位置付けられ実権は干されていた。
今、憲法上国民が主権者として位置づけられているが、実際は「信託」論により骨抜きにされ、わずかに立法府の選挙の時だけお出ましが許されるというあわれな境遇に祭られているのである。戦後の憲法学者は天皇機関説に代わる国民機関説を東大法学部などすべての大学法学部の教壇から垂れ流してきたのである。

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2017年8月 4日 (金)

国民機関説

News & Letters/582
篠原英朗著の『ほんとうの憲法』は、戦後反改憲派の東大法学部の国民主権論が、戦前の美濃部達吉流の国体論(天皇機関説)の焼き直しであることを暴露した。
しかし、その基軸となるのは、憲法前文の国政信託論であるが、その点では、天皇機関説を攻撃した戦前の右翼と同様に篠原らの現代右翼論客も同じであって、国政は国民が政治家や官僚に信託したという説の上に立っている。
現代憲法学の国民主権論は結局、天皇機関説を→国民機関説に変更しただけなのである。
実態は、国民が主権を行使できるのは基本的に選挙の時だけであって、選挙権を行使した後は、政治家どもに国政は「信託」したことになり、政治家は信託(はく奪)された以上
何をやってもいい。選挙で美辞麗句を並べうそを言って当選して「統治権」を握れば独善的な権力行使をしてもかまわない。
森友学園、加計学園、PKO日報事件などは氷山の一角にすぎない。三権分立などというのはちゃんちゃらおかしい。刑事裁判、行政事件訴訟、原発や自衛隊、安全保障などの裁判では司法が行政権力と一体となって国民の真実、権利を踏みにじる、破たん調の判決文も恥じることはない。
わたしはこれまで、市民オンブズマンとして数えきれないほどの住民訴訟をやってきた。それに対する裁判所の支離滅裂な判決文をいつかまとめて本にしたいと思っている。
日本の地方裁判所(高等裁判所)がいかにでたらめか人が知ればびっくりするだろう。司法が行政権力の藩壁になって原告住民をあざ笑うのである。
戦前の国体と同じく現代の国民主権国家も国民主権は虚構であって実際は
天皇機関説の天皇と同じく粉飾にすぎない。憲法や法令で国民が直接主権を行使できるのは、憲法改正についての国民投票と地方自治法で若干の直接請求権が認められているに過ぎない。
あとは「信託」された政治家と官僚が国政を牛耳っているのであって、その姿は、何ら戦前と変わらないのである。
我々は、三権全般にわたって本当の意味の国民主権の政治のありようを構想し、それを構築しなければならない。

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憲法

News & Letters/581
トーンダウンしたとは言え、安倍内閣が憲法改正・自衛隊合憲・侵略戦争合憲化しようという姿勢は変わりがない。最近『ほんとうの憲法」(篠田英朗著)を読んでみた。
現行9条の規定でも日本が集団的自衛権を含む自衛戦争権を持つことができるという
途方もない見解(牽強付会の説)を主張していて噴飯ものだ。
憲法改正に反対する東大系の憲法学者を非難し戦力不保持の規定について英文を引き合いにして次のように言う。
「land,sea,and air forces as well as other war potentiai」
が「陸海空軍その他の戦力」に対応している。つまり禁止されている「陸海空軍」とは
「war potential」 としての「戦力」に該当するものである。逆の言い方をすれば、
「war potential」ではない陸海空軍は、必ずしも禁止されていない。
 
いったいこんな詭弁を使うものが学者といえるのであろうか。
war potential でない陸海空軍などが存在するのであろうか。
このような愚劣な歪曲をする本であるが、学ぶ面もあった。
それは、次のような指摘である。
東大憲法学者の系譜は、戦前天皇機関説の美濃部達吉の系統でありその第一の弟子宮沢俊義らは戦後憲法学をけん引し会見に反対してきたたが、実は戦前戦中は大東亜戦争賛美の憲法学者であって、ドイツ国法学の影響下にあったこと、即ち国体思想を現代的に国民主権論のなかで保有していることを剔抉している点である。
憲法学者が「国権」とか「統治権」というとき、それは戦前の国体論と同じく官僚国家体制であり、東大法学部系憲法学者はそれを主権者である国民が規制するのが立憲主義だとしている、と批判する。
ようするに観念的に措定した国体を憲法学の中核に掲げているとの批判である。
この指摘は鋭いものである。英米流の憲法解釈を主張するが、篠原は具体的に対置する政治思想は何か何も提示しない。
それは、彼も又国体論者であるからだ。
篠原も東大憲法学者と同じく憲法前文の 国政は国民の厳粛な信託による、という原理を挙げ、国民と政府間の信託契約が立憲主義だいう。
しかし憲法の原文たる英文は、そうはいっていない。前にも書いたように
Goverment is a sacred trust of the people,となっていて、
国政を人民が誰かに信託するとはなっていないのである。正確に訳せば、国政は、人民に所属する神聖なる信託物であり・・・、となる。
trust は動詞ではなく名詞なのであって、その前に sublime(厳粛な)ではなく sacred(神聖な) という形容詞がついている。
sacred神聖なという形容詞は、神(造物主)からの賜りものを意味しtrustが天賦のものであることを示唆する。
of the people のof は よる(by)ではなく 所属を表すもので人民による、ではなく人民に所属する、と訳さねばならない。
和文の憲法も東大の憲法学者もそして篠原もこの信託論によって、日本人民から国政の権限を奪うのである。
 
そして
国体論は、観念の世界の話ではない。それが日本の戦前戦後の政治的実態なのである。
その実態を示すものとして最近読んだ『虚構の法治国家』(郷原信郎、森炎対談集)がある。
日本の国体の中枢である司法権力(警察・検察・裁判所)が戦前の伝統を踏襲し、牢固として人民の前に屹立している姿が描かれている。
人民主権、国政が人民のものであるなら、例えば、犯罪の告発が検察の独占を許さず、誰でもが裁判所に犯罪者を告発し裁判にかけられるようにするとか、裁判官の大半を公選制にするとか、意図的な誤判裁判官に損害賠償請求や罷免請求ができるようにするとか、重要法案について国民投票や、住民投票がどんどん行われようにするなどあらゆる方面で
人民の主権行為を大幅に拡大しなければならない。直接民主主義を主とし、代議制を従とするべきであろう。
 

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2016年9月25日 (日)

自衛隊

News & Letters/520

 周辺を見るといつの間にか、自衛隊は違憲だ、という人がいなくなった。
 必要最小限の自衛のための武力を持つのは憲法も禁じていない、とか侵略軍に攻められたら、どうするんだ、とか結局安倍晋三と同じ論理を使うのである。

しかし、自衛隊は明らかに憲法9条に違反するのである。

戦前よりもはるかに強大な火器を持つ軍隊の存在が現憲法で許されるはずはない。
そして、それでは、憲法が間違っているのか。否である。

憲法9条は正しい。国が軍隊を持つことも、戦車や大砲や戦艦、爆撃機、鉄砲・弾薬を持つことを9条は否定していてこれは完璧に正しい。国際紛争をこれらの武器や軍隊を使って解決することも一切禁じている。これも全く正しい。

その軍隊や武器でもって他国を威圧したり、他国の政治的軍事的勢力を抑止したりすることも禁じられている。

これらは全く正しい。憲法9条は文字通り正しく守られねばならない。

そんな考え方は、非現実的だ、理想論だ、あるいは非国民だ、などという。しかし、何人もそのような非現実的だといわれる憲法を我々が持っているという現実、その憲法9条を掲げてこの70年間非戦状態、国際平和状態を維持してきたという現実をも直視するべきである。この70年間自衛隊は戦争行為に関しては不要だったのである。

災害対策では自衛隊はしばしば出動し活躍もしてきたから自衛隊は国土災害救助隊とかいう名称で武器をクワやブルドーザーに替えて存続させたらいい。
敵に攻められたらどうするのだ、国民を見殺しにするのか、というだろう。

周辺に敵など存在しない。中国や朝鮮が日本に攻めてくる恐れはほとんど0だ。それにたくさんの原発施設を持つ日本では、とても他国と戦争を構えることはできない。通常兵器でも原発は攻撃可能であり、防衛するすべがない。新潟や福井の原発をやられたら日本は壊滅的打撃を受ける。
・・・・・
問題なのは、日本に、または日本人に、武装させた場合の危険性なのだ。安倍晋三や稲田ともみさん、櫻井よしこさんらのような悪魔的な侵略思想を持った連中がいっぱいる。狂人に刃物を持たしていいのかというのが近隣アジアや世界の大心配であり脅威なのである。「敵」がどうのこうのではない。己の過去と現在が「敵」の恐怖となっていることを忘れてはならない。

殺しつくし、焼きつくし、犯しつくす、三光作戦をやって数千万人の無辜のアジア人民を平然と殺してきた、そんな民族には鉄砲ではなく、憲法9条の荒縄が最も必要なのである。憲法9条は我々の理想というよりも魔性を持つ日本人を縛る縛(いまし)め、捕縄なのである。憲法9条にはそれを実施する法令がないし、それに反することをする者への罰則規定が不備である。

早急に法令を整備しこの国是を死守しなければならない。
自衛隊の兵士とプロレタリアートが手を結び、すべての軍備を解除し、国土防災の平和部隊として自衛隊が再編されねばならない。自衛隊違憲論は、今こそ必要である。

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2016年8月16日 (火)

戦争への反省

News & Letters/510

8月15日、先の大戦の犠牲者、戦没者に対する慰霊祭が各地で行われ、戦争への反省が語られる。

だが、何を反省するのだ。数百万人の日本人の犠牲者、数千万人のアジア伊人民の犠牲を出したことを反省するという。

武力を盛った軍部の独走、外交の失敗・・・、いろいろな反省の弁がある。
だが、戦争を起こした原因について語られるのはほとんどない。

1、資本主義の帝国主義段階での必然の結果であり、帝国主義国の競合が武力解決をよんだというのは全般的には正しい。
 だが、それでも勝てるはずもない、中国や米英を相手にして日本の無謀な戦争の理由は説明しきれない。

2、明治初年から始まった日本政府内の江藤新平ら民権派が、明治6年の政変、佐賀の乱、西南戦争の過程で敗退し、王権派、大久保、伊藤、山縣らが勝利して、以後、天皇・軍部が議会・官僚を抑えて絶対主義的権力を行使する体制を築いたこと。

3、総理大臣でさえ戦争を回避することができなかった。天皇・軍部が日本を支配していた。これを打破することができなかった。天皇裕仁が実際に戦争を指導していたことは側近の残された日記から明瞭である。
 
安倍ら改憲・戦争推進派達が狙うのは、議会や国民から超絶した戦前型の政権の構築であり、天皇の利用はその核心である。最近の天皇の動きは、安倍らの動きに不安を感じ、天皇自身がこれを忌避しているのではないか。
天皇を元首にするという自民党らの憲法改悪の狙いが奈辺にあるか、天皇や皇后、周辺の者たちが気付かぬはずはない。

むしろ、天皇制を廃止しない限りこの不安は払しょくできない。天皇は退位し、皇室典範にのっとり現皇太子をもって皇統を途絶するべきであろう。明仁天皇が御陵(墓地)を縮小し、葬儀を簡略にするという真の願いは、天皇の真の人間化であり、平民化であろうと考えられる。

今の時代に天皇などという道教由来の尊称を僭称するのは滑稽だという想念がすでに天皇自身にあると考えられる。そして、今上天皇が、沖縄、南方方面の戦没者の慰霊の旅をつづけるのは、先のアジア太平洋戦争の大きな原因が、統帥権を持った天皇制の存在であったことを天皇家自身が気付いていることを示すものではないだろうか。

天皇が必死で反省していることを、我々国民が無反省でいいのであろうか。民主主義を根底から否定し、戦争遂行政府の核となる天皇制を廃止することを決心することが8月15日の国民行事である。

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2016年7月22日 (金)

都知事選挙 賭け

News & Letters/501

選挙で議員や首長を選ぶのは難しい。
政策・公約で選ぶといってもそれが実行されるか全くわからない。

自民党など本当の目的や意図を隠して甘言を弄して当選するのがおはこなのである。
地方議会や首長選挙ではなおさらだ。美辞麗句を並べて当選しても利権行政しかやらない。
実務経験があるとかいうのもまやかしだ。

そんな連中でろくな人間がいたためしがない。利権行政も一応は実務である。
鳥越さんが、テレビ討論で、誠実 という言葉を出したが、それが一番の基準であろう。
政策や実務は、役場に入ってから勉強すればだんだんにわかってくる。
問題はそのわかり方だ。誠実さがあれば、行政の基点がどこにあるか、弱者や貧者をいかにして救済するか、

その観点で地域の産業や福祉を充実させる、という政策とそれを実行する実務が出てくる。
行政は法律に基づいて遂行されなくてはならない。だから、貧者・弱者の視点での行政では憲法が後ろ盾になる。

ほとんどの首長らは、憲法の定め、最低限の文化的生活を保障、義務教育の無償、勤労の保障、・・・・・これらは理念だ、今は予算がない、などといって憲法をないがしろにして適当に政策だ、公約だといってきた。

憲法を奉戴し、文字通りこれを実行する誠実さが必要だ。

様々な利権が交錯する行政の世界で、左手(ゆんで)に貧者救済の旗を持ち、右手(めて)に憲法の旗を掲げて行政を行う、そういう人を選ぶには、その人物の誠実さを見分けることだ。鳥越さんにその誠実さがあるかどうかわからないが、他の者には誠意のかけらも見えない。鳥越さんに賭けてみる以外にない。

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2016年7月13日 (水)

東京都知事選

News & Letters/499

鳥越さんが都知事選に立候補された。喜ばしい限りだ。
宇都宮さんが一番いい候補だと思われるが、今は野党と市民連合を優先せざるを得ないだろう。
石田純一さんもそうだったが、鳥越さんも国政レベルの危機感で都知事選に立候補したようだ。
テレビなどの記者会見で都政に国政の話はないでしょう、という批判的な声もある
しかし、都政と国政とを機械的に区別するのはおかしい。

憲法改正問題は、国政は言うまでもないが、地方自治においては重大な問題なのである。
国政が憲法をないがしろにしている中で、義務教育無償など憲法の理念を実現する重責は地方自治体に負わされている。

憲法の第三章「国民の権利及び義務」の数十条は、すべて地方自治体の行政実務上の課題であり理念である。

憲法9条の問題も、兵役の負担、兵士の徴集も地方自治体に押し付けられる。都知事をはじめすべての地方自治体の首長や議員の仕事で憲法に関係がないなどというものは何一つない。

その大事な憲法の基本的人権等を骨抜きにし戦争国家に改編するということは、地方自治の本旨の破壊であり、空洞化なのである。

石田さんや鳥越さんが、安倍自民党政権について危機感をもって都知事選に臨むのはまともな姿勢であり、憲法改正を支持し安倍政権に追従する徒輩(やから)は、都政で住民の暮らしや人権を踏みにじる方向に進むことは間違いないであろう。

憲法は何か宝物のように大事にし守るというものではない。憲法は実行し実現すべきものであって、地方自治をまともに遂行する上で至上の指針なのである。

都政と憲法論議とを切断するのは、行政実務を知らない低い次元の話である。
私は、自慢ではないが、東洋町で4年間、憲法実行の地方自治をやったつもりである。
義務教育の無償化や福祉無償化などのたくさんな町政上の施策は、憲法を指針にした行為であった。

宇都宮さんの記者会見の中で、国政レベルの話で都知事に立候補するのはいかがかと思うという趣旨が示されたが、

この発言はいただけない。弁護士らしくない。

地方自治では憲法は関係ないのか、国政レベルで憲法が無視され国民の人権や生活が脅かされているときに、地方自治体に拠って国民を守ろうという行動は全く正当である。原発であれ戦争であれ、結局は、地方の末端まで攻め込まれる。
それを地方自治体を砦として、阻止線を張るのは我々人民の権利だ。沖縄県を見てみよ。

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2016年5月12日 (木)

戦争放棄

News & Letters/484

日本国憲法9条の第1項は戦争放棄を掲げている。これについては2つの解釈がある。
ひとつは、この条項は侵略戦争を放棄しているのであって、自衛戦争は放棄していない、という解釈だ。

もう一つは、この条項は理念であって現実は別だ、という解釈だ。
侵略戦争を放棄するというのは戦前の不戦条約から始まっていて何も新しいことではない。
しかし、日本国憲法9条の戦争放棄の意味がそれにとどまるものではないことが第2項の武装放棄と軍隊の放棄の規定であり、それによって戦争放棄の戦争が自衛戦争も含むという事が明確にされたのである。

そして、この戦争放棄の規定が、理念だ、理想にすぎないという解釈については、憲法制定当時の歴史的事実を歪曲するものであると言わねばならない。

この9条を発案したのは、当時の総理大臣であった幣原喜重郎だ。
このことは幣原自身が自認している。その理由は、日本の侵略戦争に対する世界の非難、国民の悲嘆をかわし、慰藉するためには、二つのこと、すなわち戦争放棄と天皇の人間宣言が必要だと言っている。

幣原は、日本の戦争能力と天皇を神だとして天皇のためなら何でもするという国民性が恐れられていると痛感したから、日本国憲法でそれについての危惧を解消すること、日本はもうたこくみんをおびやかしはしないということを闡明しようとしたのである。この幣原の憲法に込める意向は、マッカーサーも了解し昭和45年頃に連合国軍の対日理事会やアメリカ議会でも証言し、自衛権による戦争の否認を憲法化することを明らかにした。
そして、次の総理大臣の吉田茂も国会で数度にわたって日本国憲法は侵略戦争はもとより自衛戦争も禁ぜられていることを言明した。

マッカーサーはもとより吉田茂もやがて日本に軍隊を作り自衛戦争を肯定させていくのであるが、憲法を制定した当時は本気で自衛のためでも軍隊や戦争は否定していた。
要するに戦争放棄、非武装は憲法の理念であると同時に日本国の現実の政策として選択されたのである。

それは、日本国が、アジア人民に与えた深刻な被害と日本国民に強いた犠牲の反省から出てきたものであり、日本民族が死滅にも値する罪に対する償いの証であった。何千万人もの無辜の他国民を死なせた罪に対して許しを乞うた証だ。

その証が認められたからこそ今我々が生きている。憲法9条は信頼回復の方策であり、そのおかげで国際社会で認められ、戦後を復興してきた。それを、憲法9条をないがしろにしては、日本人民は生き永らえる権原はない。

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2016年5月 5日 (木)

続高知新聞「自民党改憲案」下

News & Letters/483

前回、高知新聞は民主主義の原理が「欧米などの民主主義国」特有の「価値観」であるかのような表現をし、自民党改憲案が安倍が標榜する「価値観外交」から外れ欧米民主主義国の「普遍的価値観から外れた「異質な国」と見られる恐れ」を危惧していた。

しかし、自然法(自然権)思想を築いた思想家は確かに欧米の人間であるが、その法源は聖書、イエス・キリストの言葉にあるとしている。イエス・キリストはいわゆる欧米の人間ではない。

天賦人権は、人類の発生から始まっている。古代の奴隷にも、現在の日本国民にも生まれながら備わっているものである。
江戸時代の思想家安藤昌益が「自然真営道」で描いた世界が天賦人権の平和と自由の世界に他ならない。
決して安倍や高知新聞が言う欧米民主主義国だけの「価値観」などというものではない。


1、 高知新聞の限界は、5月3日の社説、憲法9条をめぐる議論に露呈された。
 社説は、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。」という文言を自民党が「ユートピア的発想」として捨てたことに関して、「理想論といえばその通りかもしれない」とか、「平和への志」という評価をする。しかし、この憲法前文の文言は、単なる「理想論」や「志」というものではない。
 それは、非武装非戦主義を現実の国際社会で戦略として打ち出したものであり、極めてポリチカルな方針なのである。

 実際にその非武装非戦主義で激動の戦後70年を通そうとしてきたのである。現実には非武装という点は完全に崩れたのであるが、少なくとも憲法上はそうであった。自衛隊という軍隊がなくとも米軍以外は誰も日本を攻めたり占領しようとはしなかっただろう。

2、社説は「今や世界有数の実力を保有し、災害時などに活躍する自衛隊を憲法でどう位置づけるかは、改めて議論してよいだろう。」という。これは要するに自衛隊の存在を前提として憲法改正の議論をするlべきだということになり、問題はただ自民党が目指す集団的自衛権の行使を認める所までそれを発展させるかどうか、という事に絞られる。
 高知新聞は、専守防衛の線での自衛隊の存在を憲法改正で積極敵に認めろという事になるであろう。
 自衛隊の存在と現行憲法9条の第2項第3項は明らかに矛盾するからである。
 その矛盾を高知新聞は、現状の是正ではなく、憲法の是正の方向に誘導しようという考えである。

3、憲法9条の内容はおおむね3つに要約される。

① 国際紛争の解決のために国権の発動として永久に戦争をしない。そのため武力による威嚇、武力行使はしない。

② ①のために陸海空その他の戦力はこれを保持しない。

③ 国の交戦権は、これを認めない。

②、③の条項は、戦争放棄の①の条文を担保するために設けられたものであり、①②③は一体のものとしてきりはなすことはできない。憲法9条は、「理想」とか理念とかではなく、リアルポリッティクスの政治的方針であり、憲法制定当時に日本国民は選択的に、日本はこれでいくと決心したのである。

 なぜ非戦非武装の道を選んだのか。
 それは憲法前文にも書いてある通り、「日本国民は自ら進んで戦争を放棄し、全世界に正義と秩序とを基調とする永遠の平和」を実現しようとしたからであり、それは何よりも「政府の行為により再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」し反省したからである。

 のちのちの日本人が憲法9条の非戦非武装の規定の理由とその決意を忘れないようにそのことを憲法前文に書き記したのである。アジア太平洋戦争の原罪を背負いその償いの勤行として9条は設定された。このことを忘れてはならない。

 この9条によっていかなる苦境、如何なる苦難があろうともわれわれは覚悟してこれを憲法に入れた。その我々の苦難などは、先のアジア太平洋戦争で犯した罪、未曽有の不幸と悲しみをアジアの人民に与えた事実に比べれば、些々たるものに過ぎない。

 自衛、自国防衛の戦争も許されないというのが憲法9条の定めだ。それはそもそも、日本の生命線だ、自衛の戦争だとかいって、中国や朝鮮、台湾は元より旧満州やモンゴル、インドネシアやフィリピン、ビルマ、インドにまで自衛戦争を拡大した。軍略上は、先制攻撃こそ最大の自衛であって、世界を平らげるまでは、安心できない。

 緊急事態は、何も外から急に迫ってくるのではない。盧溝橋事件などに見るとおりほとんどすべては日本軍がでっちあげて全面戦争に発展させた。歴史は繰り返す。
 昔は軍部や警察が怖かったから、何も言えなかったが、今は何を恐れる?死は何も怖くはないぞ。日本国憲法を踏みにじり祖国を再び敗亡の惨禍に引きずり込もうとする連中に何の遠慮がいるものか。 

4、自民党案の9条には確かに「戦争放棄」がはめられている。しかし、それには、アジア太平洋戦争の反省はひとかけらもなく、したがって、その9条の第2項の自衛権の規定、次条9条の2の第1項第2項の国防軍規定、さらに98条、99条の緊急事態宣言等によって、形ばかりの戦争放棄条項も完全に換骨奪胎されるのである。
 
 高知新聞には、自民党改憲案の98条・99条の緊急事態宣言の条項について言及していない。
 この条項は、自民党改憲案の核心に盛られた毒薬であって、これによって自民党は、侵略戦争開始とそのための場内平和のために国民の基本的人権の圧殺を一挙に達成しようとしている。
 なぜ高知新聞はこの条項の存在を問題にしないのだ。

5、最後に高知新聞社説は「私たちは憲法を「不磨の大典」とは考えていない。」、改正はいいが改悪はいけない、などという。
  要するに高知新聞は憲法改正はいいというのである。

 現行憲法は、特にその9条の存在によって「不磨の大典」となっている。
 確かにいろいろ物足らないものもあるであろう。しかし、国民主権と基本的人権がこれほど明確に確立されている憲法はほかにどこにもないであろう。足らないものは法令や判例で補えばよい。イギリスのように判例ばかりで憲法のない国もあるぐ
 らいだ。「…これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」という文言によって現行憲法の不磨性、至高性が明瞭に宣言されている。
 何よりも、国家として戦争放棄、非武装、の徹底した平和主義がその至高性を保証している。

 このような理念を現実の政治的方針として掲げる国はどこにもない。
 その素晴らしい不磨の大典の理念を、日本の昔の暗い「伝統」・・・戦争と圧政と差別と貧困の伝統に替えることは断じて許してはならない。それはダイヤモンドや金玉の宝石を、瓦礫と替えるに等しいのである。

6、自民党の改憲の動機は、表向きは現行憲法はアメリカによる押しつけだから、という事であるが、真実はその逆である。
 アメリカに、より一層隷従するために、アメリカの帝国主義的戦争行為に従軍するために、9条の廃止と国内整備が本当の動機である。そのことは安保法案の国会議論で全部明らかになった。日本のマスコミもわかったはずだ。

 アメリカに随従するために自国民を犠牲に供する。TPP参加も同じ目的だ。
 自民党の改憲策謀は売国行為であり、日本歴史上の恥部である。
 日本人民は、沖縄をはじめ日本を今なお占領し侵略している本当の敵は、アメリカ帝国主義であり、それに隷属を深めるために憲法を投げ捨てようとしている自民党の醜悪な姿を直視するべきである。
 
ただし、付言するが、戦争や武装の放棄は、それはあくまで国家段階のことであって、国民が圧政に対し又は外敵の侵略行為に対し武器を持って立ち上がることは禁止されていない。

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2016年5月 4日 (水)

続 高知新聞の社説 「自民改憲案」中、下

News & Letters/482

 高知新聞の昨日5月2日の社説「自民改憲案」中 は概ねいい内容である。
 個人の尊厳を核とする基本的人権が、自民党によって台無しにされるという指摘はその通りである。

 天賦人権説は人類が到達した最高の民主主義の核心であり、如何なる政体が登場しようとも奪う事の出来ない
 人間の権利を明らかにしたものである。その法源は聖書にあるとされるから神聖(sacred)なのである。

 ジョン・ロックなどの著作では、生存権を基盤とする基本的人権と人民主権は神から託された神聖な信託物なのである。 
 この自然法(自然権)の神髄は、日本国憲法前文の全面に印刻されている。
 前にも書いたように、「国政は国民の厳粛なる信託によるものであり、・・・」という文章の元になる英文は、
Government is a sacred trust of the people ・・・となっていた。

sacred というのは、厳粛と訳されているが、厳粛ならば、solemn とでもいうべきであり、本来 sacred は神聖と訳すべきである。また trust はもちろん動詞ではなく a という不定冠詞がついているから普通名詞で信託物=宝物という意味である。だから、ここの文章は、「国政(行政)は、人民の保有する、神から授けられた神聖なる信託物であり・・・」というのが原義であろう。

自然法の法源が奈辺にあるかは別として人民主権や基本的人権はマルクスやエンゲルス、レーニン、トロツキー、ゲバラ、南アのマンデラ、インドのガンジー、中国の孫文・・・・・にとってもその政治思想の根幹であり大前提であった。
高知新聞は、立憲主義や基本的人権をうたう憲法前文の思想をあたかも「欧米などの民主主義国」特有の価値観であるかのようにして、対中国敵視の安倍の「価値観外交」を批判しているが、それは浅はかな民主主義の理解だ。

日本国憲法前文の「人は生まれながらにして・・・」は、洋の東西を問わず人類普遍の原理であり、欧米のみならずアジア・アフリカ全世界の戦う人民の思想であった。
本来、基本的人権は、日本民族も原始社会から市民社会に移行する後あとまで、常に根源的に保有していたものである。

古代・中世・現代と日本や各国人民のその自然権は圧政者により奪われ続けてきたにすぎない。日本人民は、現行憲法によって、戦後初めてその自然権を獲得した。

安倍政府は、アベノミクスのトリクル ダウン(tricle down 又はtricle upであろう)政策の目くらましによって、国民の頭をまひ状態にして、この自民党憲法草案によって自然権という神聖なる宝を盗奪しようとしているのである。
                    続く・・・・

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