宦官総理の学術会議への干渉
宦官総理の陰湿な民主主義への攻撃は学問の世界にも容赦がない。
人事に関する決定であって学問への干渉ではないという。
大学教授や学長の任命・選任も内閣がやりだすかもしれない。
思想や学説が気に入らぬ教員を学園から排除しても人事であり学問への干渉ではないことになる。
学問や教育の世界での人事上の、排除を含む差配は個々の学説や思想を超えてその学問を根元から絶やすことにつながる。だから人事が最も恐ろしい学問への干犯の手段となる。この学問の世界への人事権をかざした学問への乱入は戦前に無数にあり洋の東西を問わず枚挙にいとまがない。
そしてそもそも学問とは何かだ。
宦官たちははっきり言わないが橋本徹というはっしゃぎコメンテイターはずけずけ言う。
即ち政府が狙った軍事研究を日本学術会議が拒否したことだ。
橋本は言う、軍事研究も学問だ、この学問を禁じるのは政治だ、と。
だが、私は、軍事研究は学問であるとは思わない。
軍事研究とは、敵国を攻撃するのも防御するのも結局は人殺しの技術研究だ。
人殺しの技術研究は、学問とは言えない。戦略戦術の研究、武器の開発研究などでは科学や学問研究の成果を応用するが、それはあくまでも人を殺す技術や道具の開発研究であって学問ではない。漁師が海で使う釣り針を工夫し研究するからといって学問をしているとは言わない。
クラウゼヴィッツの「戦争論」や中国の「孫子」は学問体系ではない。それらを研究するのは学問といえるが、戦略戦術を考え出したり戦闘の経験を集成しても学的体系をなさない。
それらはいかにち密に論じたててあっても兵法書の範疇を超えることはない。
兵法は戦闘(戦争)についての特定の思想であって学問ではない。
いやしくも学者たるものが、また平和憲法下の政府機関たる学術会議が人殺しの技術や殺人の武器の開発の研究ができるわけはない。
学問をしたことがない者が学問をする者に言いがかりをつけ、まして、人事権を振りかざし学者を膝下に置こうとするなどもってのほかだ。
だいたいこの宦菅や橋本らの手合いは、長年行政にたづさわってきたが、行政そのものが学問だという観念がないのであり、行政法学の概説書の一冊もまともに読んでこなかったのであろう。
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