書籍・雑誌

2019年3月13日 (水)

県立大学蔵書焼却事件住民訴訟の成り行き

高知新聞等で暴露報道された高知県立大学による数万冊の蔵書焼却事件は、県が購入した時には3億円以上もした貴重な図書だった。

これを何の適法な手続きもせずに焼却したり古紙として処分されたのである。県民の誰もが驚愕したであろう。

 

だが、公の財産のこれほどの破却という犯罪について、反省とか残念とかいうだけでだれも法的責任が問われないまま終わろうとしている。

私は県の監査委員会に住民監査請求したが、にべもなく却下され、やむなく住民訴訟を提起した。

 

この事件の核心は、第一に国の法律(地方独立行政法 不要となった財産は元の地方自治体に返還する義務)に違反していること、第二にこの蔵書はもともと高知県が購入したものであるが、行政法人になった県立大学に譲渡された。この場合譲渡契約があり、それによると10年間大学は使用目的に沿って譲渡された財産を供用する義務があり、これに違反した場合は損害賠償や違約金の支払いが課されていた。

大々的に報道した高知新聞などは、このような重大な法的責任(国の法律違反、譲渡契約違反)について一言も語らない。

 

高知県知事尾﨑は、まるで第三者のような顔をして論評しているが、それどころではない。

県立大学が大学法人になって高知県から自由に成ったと思っているようだが、前掲の国の法律では、従来と同じ程度に大学運営について監督責任、業務指導責任が明記されている。不要となった財産の処分業務についても知事は大学に対して直接指揮監督上の責任がある。

 

本件の裁判はこれらの知事の法的責任について争われているのである。

 

平成30年行ウ第7号 損害賠償請求事件

原告 澤山保太郎

被告 高知県知事 尾﨑正直

 

  原告準備書面(2)

                平成312月8日

高知地方裁判所 殿

                       原告 澤山保太郎

 

被告準備書面(1)について

 

 

一、「後段請求」(2頁~6頁)について

 

、被告は、「前段請求」については、「一応は住民監査請求を行っている」が、「後段請求」については、「住民監査請求さえ行っておらず、…監査請求前置の要件を満たしていな

い・・」、したがって地方自治法の242条2の第1項の趣旨に反するという。

「前段請求」というのは、国の法律に基づく損害賠償請求であり、「後段請求」というのは訴状の訂正で付け加えた請求で、これは被告高知県と大学法人の間で締結されていた譲与契約書(甲第7号証)に基づく損害賠償のことである。

今回被告は特にこの「後段請求」に力点を置いて最高裁判例を曲解までして原告の主張を非難をしている。しかしこの非難は、最高裁判例が本件に該当すると誤解してなされたものであり、失当である。

 

、平成265日の最高裁第三小法廷の判例(乙第5号証)

 

 この判例の趣旨は、

「支出の名目が会議接待費あるいは工事諸費と特定されているだけで、個々の支出についての①日時、②支出金額、③支出先、④支出目的等が明らかにされていないのみならず、⑤支出総額も5000万円以上という不特定なものであって、・・・本件監査請求において、各公金の支出が他の支出と区別して特定認識できる程度に個別的、具体的に適示されているものとは認めることができない。したがって、本件監査請求は、請求の特定を欠くものとして不適法というべきである。」(①~⑤は原告)という判断にある。

この判断が果たして正しいかどうか最高裁でも意見(少数意見が付記)が分かれていたが、

この判断の基軸となるのは、対象となる事件の特定(本件では大学図書の焼却事件)のうえ、監査請求書に上記①~⓹の具体的な特定がなされているかどうかである。

これらの個々(本件では図書の焼却処分という1個の行為)の事実について具体的な特定がなされているかどうかに照らし合わせて判断すべきであって、その行為についての住民側の法的評価、法的根拠の主張の有無、訴訟段階でのそれら法的根拠等の追加・変遷などは、監査請求前置の可否の判断には無関係であるということである。

 

、本件監査請求

 

上掲最高裁判例に照らしても本件監査請求の内容では、何の問題もない。

請求書本文と証拠として提出した新聞などによって事件は特定されているし、最高裁判例の当該財務会計行為の事実の特定①~⑤のうち⑤の財産管理の性質上支出金額は出ていないが、それ以外はすべて請求書及び提出した新聞記事等で適示されている。

 の日時(平成25年度以降4年間29年度まで 学長声明)、②の損害の財産の規模(図

3.8万冊 学長声明 )、③の処分先(高知市清掃工場 高知新聞)、④の目的(除却 高知新聞、学長声明)⑤の除却(焼却)の費用は高知県の出費ではない。

 

、被告が問題にしているのは、監査請求対象の財務会計行為(本件では財産の管理を怠る)事実関係ではなく、その行為の依拠すべき法的根拠となる譲渡契約書についてであ

る。

この契約書は確かに本件住民監査請求書では問題としていない。むしろ、住民(原告)側から出した請求について監査委員側が検討して出してきたもの(甲第2号証)である。すなわち「県と高知県公立大学法人との間で平成23年4月1日付で締結されていた県有財産譲与契約書」のことである。

これは、原告の請求の指摘する法的根拠以外の他の根拠(証拠)にも監査が及ぶことをしめすものであり、事実上それについて監査が実施されたのである。

原告の請求によって特定の証拠について監査が実施されたものを、監査がされていないと不平を鳴らすというのは一体どういうことなのであろうか、正気の沙汰とは思えない。

 

、地方自治法第242条2の第1項(住民訴訟)の冒頭の規定では、住民は、監査請求をしたうえで住民訴訟に及ぶことができるが、それは「監査委員の監査の結果」等に不服があ

る場合である。原告は一つには上記の譲与契約書についての監査委員の監査の結果につい

て不服であったので訴訟に及んだのである。

住民訴訟の前提というのは地方自治法の規定を厳密にいえば、単に住民が監査請求をした

というだけではないのであって、①住民の監査請求提出②監査委員の監査③監査の結果の

通知および公表、④住民側の監査結果への不服による提訴、の全過程を言うのである。

また、住民側の監査請求に具体性を欠くとか、証拠が十分でないとか、ということだけでは

監査委員はこれを却下できないし、裁判所も同様である。

地方自治法242条1(監査請求)の第6項の規定では、住民に証拠の提出や陳述の機会を与える義務が明記されている。

本件のようにそのような機会も与えない義務不履行、監査委員の眼をすらも通してもいないと思われる(事務局員での取り扱いのみ)監査の違法な実態を考慮するならば、たとえ事実の適示に不備があったとしても前掲の最高裁判例のような荒っぽい判断は許されない。

 

、なお、訴訟段階で監査請求と同一の特定の事件について、新たな証拠、新たな違法事由を取り上げたからといって、元の監査請求が不適法になるわけはない。またそれによって

請求金額が監査請求段階のそれと相違したからといって監査請求前置主義に違背すること

はあり得ない。このことは、原告準備書面(1)で最高裁判例を挙げて主張したとおりであ

る。

今回の被告準備書面6頁の上段でも

「昭和62年最判はあくまで住民監査請求を経た特定の財務会計行為について、住民監査請

求時に指摘していない違法事由を住民訴訟の段階で新たに追加して主張することを許容す

る旨判示するもの・・・」と被告もその趣旨を了解しているようである。

原告は監査請求から現在の訴訟に至るまで、被告が、特定の期間に、特定の公の財産を、違

法な手続きで、没却された事実について、これの回復措置行為を怠った、という事実につい

て問題にしており他に財務会計行為上の何の事実も付加していない。

 

二、被告の本案の主張について

 

本件事件は、高知県立大学が図書館移転の際に新館に収容しきれない図書数万冊を焼却したという不祥事は紛れもない事実であり、公共の、特に学問研究に必要な図書を焼却するという野蛮な行為について多くの県民が開いた口が塞がらないほどに驚いた事件である。

しかるに被告は、本法廷においてこの所業について一言の反省の言葉、謝罪の言葉もないばかりか、傲然と開き直ってやまず、姑息な弁解が続く。

 

1、蔵書の処分の実態

 

その姑息な弁解の第1が、地方独立行政法人法第6条第1項の規定をめぐるものである。

そこには、不要となった財産の設立団体への「納付」の義務が定められているが、その財産については条例で定める重要な財産となっている。

それに関する県の条例では、50万円以上の財産となっていて、本件処分対象となった図書は150万円を超えるものはないので不要財産の「納付」の義務はない、というのである。

この主張は法の規定の潜脱を意図する姑息な弁解というべきであろう。

数万冊の処分した蔵書を1冊1冊に分割するというのである。

あたかも原告や本件処分を悔しがる県民のように本件処分の書籍を11冊大事に管理してきたかのような口吻である。

確かに、図書は購入する段階では、1冊づつ購入され登録される。本件処分段階においては、まったくそうではない。

 購入:個別冊子として登録 ⇒②管理:蔵書 ⇒③処分:機密書類(重量㎏)

 

 の段階以外では、図書館では一般的に図書、蔵書と集合的にとらえられている。

本件について新聞や学長声明、県庁のホームページや県議会資料(乙4号証)などでは「蔵書」と表現され、本件についての第三者検証委員会の名称も「高知県立大学永国寺図書館の蔵書の除却検証委員会」となっている。本件大学法人の図書管理規則でも「蔵書」と規定されている。図書館などで蔵書とは一般的に相当量の書籍の集合体である。

3万8000冊の処分された蔵書のうち焼却されたのは2万2千冊余であるが、それらが焼却場に行く前の処分を決定する大学の決裁文書では、11冊の本でも蔵書でもなく、「機密書類」として一括(実際には12回に分割)され重量kgで測られる紙に転化していた。。焼却炉に入れられる前に巨億の価値がある蔵書が無価値物体にされたことが問題になっているのである。被告は、購入時の本の取り扱いを主張しているが、問題は管理段階の本の集積(蔵書)の把握の意識であり、特に本件で問題となるのは処分時の認識のありようである。1冊1冊選び出した対象書籍の数万冊の束は除却の対象として全体として集合的に、文字通り十把一絡げに把握され処分された。大学も検証委も本件被処分書籍を「蔵書」としてそう認識していた。

 

ここで問題なのは、図書館所蔵の本を1冊1冊の個別のものと見るか集合的なものと見るかではなく(見方によってどちらでも見られる)、取り扱いの各段階において大学がこれら書籍をどのように位置づけるべきだったのか、またどのように位置づけたか、である。

農産物や水産物も育てたり収穫(捕獲)したりするときには個体として扱うが、処分するときには集合体としてみ、扱う場合が多い。キャベツでもナスでも育成や収穫するときには1個1個だが、販売時には箱に詰められ集合体として出荷される。

なお、被告の今回の準備書面でも原告と同じ認識で本件蔵書処分を集合的に把握して遂行したことを吐露している。すなわち

「・・・業務効率化の観点から、適切なタイミングである程度まとめて除却手続きをとることは当然であり、・・・」(8頁)といっている。

 

2、図書の財産的重要性

 

学術研究・教育機関である大学、とりわけ大学図書館では、図書が最も重要な財産である。県立図書館もそうであるが高知県の大学の所蔵図書は極めて貧弱であり、学術上専門図書の集積は劣悪であって私が専攻してきた日本史学の分野でも県内図書館では満足に重要書籍や論文を見ることができない。全般的に大学が学術的文献の収集に熱意があるのかどうか疑わしい。今回の大量の焚書が大学図書館自体によって行なわれたというのも書籍収集の重要性について正しい認識が欠落しているところから生まれたと感ずる。

地方独立行政法人法の第6条4項で取り上げられている高知県条例(「高知県公立大学法人に係る評価委員会及び重要な財産に関する条例」 乙1号証)について被告は、原告の主張が県の「条例制定者の意志」に反しているかのごとく主張している。しかし、問題はこの条例の9条の第1項の50万円以上の重要財産の限定が、数万冊巨額の図書館蔵書の処分を可能とさせる根拠として使われることを想定していたであろうか。また國の法令制定者の意志に沿っているであろうか。

 

そもそも不要財産の処分については前掲法6条第4項だけでなく42条2第1項の二つの規定がある。6条第4項の規定には、不要財産の処分については42条2に基づく手続きの指定と不要財産について設立団体の条例の定めの二つの条件が付けられているが、42条2第1項には不要財産の「納付」義務がうたわれているが、不要財産それ自体には何らの条件も付されていず、第2項以下でその納付手続きが規定されているだけである。

一つの法令で条件が付された前条と無条件の後条が並立した場合国民はどう考えるべきであろうか。前条は義務負担者にゆるく、後条は厳しいが県民には有益である。しかも前条は後条にその実施をゆだねている。県の条例の定めは後条にまで及ぶであろうか。

図書の中では、金額に換算できないほどの貴重な価値があるものがたくさんある。

国の法令や地方自治体の条例がそのような貴重な財産をでたらめな公務員の恣意的な処分判断から守ることができないはずはない。

また、例えば、本件数万冊の書籍を第三者に譲渡してその収益が数千万円、あるいは数億円あって場合でも、被告はこの金を高知県に報告したり返納したりする必要はない、というのであろうか。

 

3、本件譲与契約違反について

 

被告準備書面では、原告が本件譲与契約を取り上げたことを何か「仮定的あるいは予備的主張」と貶めているようであるが、そのようなものではない。

主張」と受け止めているようであるが、そのようなものではない。

本件請求には二つの法的証拠を挙げていて一つは国の地方独立行政法人法と今一つは本件契約書である。本件訴訟の本筋である。

本件処分行為が本件譲与契約書の主な各条項に違反又は該当する事実は次のとおり。

 第7条・8条 譲与物件を特定始期から指定用途に供すること

 第12条 譲与物件の所有権移転等の禁止

 第13条 県の実地調査

 第14条第1項 違約金

 第15条 契約解除  

 第16条 原状回復義務

 第17条 損害賠償

 第19条 契約解除と特別違約金

 

(1) 第7条は譲与物件を指定用途に供する義務の規程であり第8条は、その実施始期    を定め、それ以降の指定用途の供用を定めたものであって、1個の規程とみなされる。

  第7条の指定用途の供用には期間の限定はないからいつでも自由に処分できるとはならない。物品の耐用年数や使用価値の寿命が限度となると考えられる。

(2) 第13条の実地調査の規程のほかに、県は、前掲の高知県公立大学法人については評価委員会を設置しその業務を評価する組織を作っているが、本件について被告も評価委員も調査した記録はない。

(3)第15条の契約解除の理由は少なくとも第7条、第12条第1項に違反している事実がある。本件譲与契約の締結後数年しか経っていないのに、蔵書について大規模な指定用途の解除を勝手に行ったのであるから契約解除の理由となる。

(4)違約金とは別に損害賠償の義務がある。

 

4、第12条の所有権移転について

 

 被告は、本件処分は譲与契約書第12条には違反しない、所有権を第三者に移転していない、したがって第14条等の違約金の支払い義務もなく、契約の解除ということもない、という。しかし、被告の11頁下段~12頁での主張では

 「本件除却に関する決裁をした時点において、同法人は当該対象書籍について所有の意

志を有さなくなったものであり、その時点で所有権を放棄している・・・」といい、

 また、「「引き渡しを受けた廃棄物収集運搬処理業者や清掃工場」が「それぞれの役割に

応じて当該対象書籍を事実上占有していた・・・」ことを認めている。

そうするとこの①,②は、民法第239条の規定にぴったり当てはまり所有権の実質的移転が達成させたものと考えられる。むろん被告が心配するように、処理業者や高知市の清掃工場にはそれぞれ法令の規制や施設の規則等があるからこれら廃棄物を自由に使用したり転売したりする恐れはあり得ず、焼却して灰にするか溶融して再生するしかない。

一般に産業廃棄物とは違って紙類などの一般廃棄物は、回収・処理業務をしている市町村の所有物に転化しているといわれそれを条例化しているところもある。

 

5、その他の被告の主張について

 

1)被告が、不要財産が発生したからといって直ちに賠償責任や違約金の支払いの義務の発生、また契約解除等がなされるものではなく、所定の手続きを履践しなければならない、

というのはその通りであり、原告はこれらの手続きが行われていないことを問題にしてい

るのである。

確かに不要財産に関する設立団体への「納付」の手続きは法人の側から始まる。

だが、本件大学法人の設立者である高知県知事は、法律(地方独立法人法)上、本件大学法人に対して直接または間接的に人事、財務も含む業務運営上の全面的な権限と責任を持っている。その主なものを挙げると、

第7条:法人の定款の制定、11条:法人の事務処理のための県庁内に評価委員会の設置、14条:法人の理事長、監事の選任、17条、それらの解任、25条~30条:不要財産の処分計画を含む日常業務計画の策定と業務の評価、業務改善・組織の存廃などの措置命令、30条:業務の検討、所要の措置命令、34条:法人財務諸表、決算の承認、36条:会計監査人の選任(39条その解任)、46条:財務会計事務の規則制定、121条:業務について報告を受け、検査の実施、122条:措置命令、…等々である。

不要財産の発生とその処理についても全的に把握し適正な処理を指示できる立場にあった。

不要財産の処分を含め被告は、実質的に大学法人に対しては法人化する以前と同程度の権限と責任を負っている。

 

2)また、高知県には本件処分対象書籍は「納付」もされずその手続きもなされていないから「高知県の財産となっていない。したがって、本件除却によって高知県の財産権が侵害

された事実はないから、…・損害賠償権を有しておらず、・・・」という」

しかし、本件請求は、一つは違約金の支払い(譲与契約書第14条第1項)を問題にし、もう一つは、損害賠償金(譲与契約第17条)を問題にしているものである。

後者については、「納付」によって得るべき数万冊の蔵書という財が得られなかった損金の賠償金である。

もともと本件譲与契約は解除付き契約の一種であって、違反行為があれば譲与そのものがなかったものになるのである。

3)また、被告は、原告の主張によればパソコンなど破損した機器や陳腐化し要らなくなった本など「別紙2」の物品について適当に廃棄したり第三者への譲渡も一切できなくなる

などと非難するが、本件訴訟では、そのようなものは全く無関係であって、十分価値ある数

万冊の蔵書の焼却を問題にしている。汚れたり破損したり時代遅れになった機器類、不要と

なった雑誌や書籍の処分の方法については適法な方法で処分すべきであり、その方法がな

ければ設立者(被告)は大学法人側と協議してそのルールを確定すればよい。本法廷で議論

するべきことではない。

三、本件請求の法的性格

本件請求は、地方自治法第242条2(住民訴訟)の第1項のうち、四号の請求で、その前段の請求であって、違法に公の財産の管理を怠る事実についてそれにかかわる首長高知県知事に損害賠償を請求するものである。

この場合の財産とは上記のとおり高知県公立大学法人に対する違約金の請求権・徴取権、及び同大学法人から「納付」を受けるべき財産に相当する金額(損金)について同大学法人への賠償請求権である。

 

 

 

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2015年10月 9日 (金)

読書感想 「部落解放同盟「糾弾」史」小林健治著ちくま新書

News & Letters/441

この本の著者小林さんが現在の解放同盟とどういう関係に刈るのかわからない。
戦後の解放同盟の糾弾の歴史でおもにマスコミ関係の差別事件への糾弾が描かれている。
しかし、糾弾闘争の歴史を書くのであれば、解放同盟の権力に対する糾弾闘争を主要に書くべきであって、マスコミや各種の著作者の差別用語だけを取り上げて主たる糾弾として描くべきではないだろう。

1、戦後澎湃と上がった解放運動の権力への糾弾闘争は後に「行政闘争」と呼ばれ各地方自治体へ向けられたものである。

 それは、行政や議会側に、同和地区へのあからさまな行政施策の放棄、排除、無視~あからさまな侮蔑に対して激しい憤激の 中で戦われてきた。私がごく若いころ土方鉄さんのもとで解放新聞の編集や取材のお手伝いをしていた頃、京都府連の糾弾闘争に参加した。それは部落の野犬捕獲人のささやかな要求(出勤しても服や私物を置くロッカーもない、なんとかしてくれ)を組合も行政も取り上げないという冷たい仕打ちを訴える糾弾であった。確かそれは市役所か府庁のロビーでだった。

今も覚えているが、府職労の大江書記長も糾弾されていた。京都の同盟員が、同じ労働者である野犬捕獲人が、なぜ差別をされ続けるのかせつせつと訴えていたが、党の方針では絶対に自己批判が許されていないかの書記長もさすがにその訴えに涙を流さざるを得なかった。その涙は、千年もの間差別を受けてきたものの悲痛な叫びが、強固な党派最高幹部の胸をもゆすぶり、してはならない差別をしていた自分たちを責めた、その悔悟の涙に違いない、と私は思った。

解放同盟の糾弾は、厳しいが、人の魂を揺さぶる美しいものでもあった。
全国各地で展開されたこのような行政に対する糾弾闘争を没却しては、解放同盟の糾弾の歴史とは言えない。

2、狭山差別裁判糾弾闘争をどうして書かないのであろうか。

 狭山の闘争は石川一雄さんから始まって67年ごろから私が全国闘争として設定して現在に至っているが、この闘争は、それ自体一個の差別裁判への糾弾闘争であるが、同時にこのような差別的冤罪事件にほとんどまともに取り組もうとしない解放同盟への糾弾も込めた戦いであった。結局解放同盟も組織を挙げてこの闘争に取り組むようになったが、それはどちらかというとこの闘争を放置しておれば同盟組織、少なくとも青年組織が過激派(すなわち全国部落研)に乗っ取られるという危機感があったからである。それは日比谷公園で今は亡き上田卓三さんがその危機感を絶叫していた。このままでは同盟が過激派に乗っ取られる、次の公判には同盟が主導権を取れるよう大動員をかける、という趣旨の演説をした。

全国から集まった多くの部落青年が「糾弾、奪還」を叫んで立ち上がったからである。
狭山の闘争は、解放運動全体を同和予算獲得運動から反権力糾弾闘争に転換させるべき大きな仕掛けでもあった。
小林の著作は、狭山差別裁判糾弾闘争をまったく書かない。

3、小林の記録したマスコミや文人たちへの差別糾弾には相当牽強付会のものがあったようである。

 ①作家筒井康隆の週刊文春誌上での「士農工商SF屋」の表現がやり玉に挙がった。
 版元の文芸春秋社はその「差別性」を認めたが筆者の筒井氏はそれを認めなかった、という。
「士農工商SF屋」がどうして部落差別になるのか全く不可解である。
それはSF屋を貶めることになるが、部落民を貶めることにはなりえないだろう。
士農工商という言葉自身明治か大正ごろに教科書用に作られた造語であり歴史的な概念ではない。

せいぜい中国あたりの儒教の本に中国の階級制度として載っているものである。日本には士農工商という身分制は存在していなかったのである。たとえば土佐の憲法といわれる元禄大定目やそれ以前の長宗我部百箇条に出てくる身分はせいぜい侍と百姓、町人程度であり、士農工商などという架空の身分制度は存在しない。農民が工商の上に立つなどあり得ない話だし、侍が士であったためしもない。士農工商の士というのは士大夫(貴族)のことであって武器を操り戦争することを生業とする武士(兵)ではない。

そんな日本では架空の身分制士農工商○○を自己を卑下するために使ったからといって何の問題がある。
士農工商○○の ○○は必ず穢多非人だと勝手に決め込んでいるが、それは教科書用の差別的造語をむしろ宣伝するようなものだ。日本の中世封建社会で穢多非人への激しい差別があったことは事実であるが、明確に法制化されたものではない。
だから、前近代社会では穢多に対する差別は当然であるのではなく、封建社会においても、一部の住民を穢多非人と侮蔑し差別迫害を加えた幕府や諸藩の仕打ちは、許されないのである。

筒井氏が糾弾を拒絶したことは正当である。

②「特殊部落」

 特殊部落という言葉を使ったということでたくさんの者が糾弾を受けている。
確かに特殊部落という言葉は明治以降に主に権力側によって旧穢多・非人に対して使われてきた。
その場合は明らかに差別性をもっていて糾弾に値する。私が糾弾した明治初年の土佐の漁業を記録した官制の記録では、私の村を含め土佐湾沿岸の「特殊部落」の光景や人物を一つ一つ取り上げ、そこの住民に侮蔑の記述を繰り広げ「特殊部落」が行政の妨げだなどとも書いていた。私はその資料の一部を図書館で発見し、高知県連らと一緒に副知事以下の県庁職員や県漁連の幹部を呼んで大衆的な糾弾を行った。その前代未聞の膨大な差別記録は、光内聖賢さんと相談して、人権センターの一室に保管することにした。いまでもそこにあるはずだ。
しかし、飛鳥田社会党委員長の「社会党は特殊部落」だとか、国会や芸能界などを特殊部落だという表現には、部落差別の意図も響きも何も感ぜられない。それは国会や芸能界は特殊な部落、特殊な集団だというにすぎない。

「特殊部落」という言葉が戦前に同和地区をさしてつかわれた歴史的事実はあるが、部落という言葉が普通の単語、集落を部落と表現し使用する以上、特殊な部落「特殊部落」はすべて同和地区を指していると決めつけるわけにはいかないであろう。
まして、社会党を特殊部落といっても、醜い派閥抗争の社会党の実態を指しているのであり、それを同和地区の実態と並べて連想することはありえない。
「特殊部落」という言葉が差別性を帯びるのはあくまでもそれが同和地区を指していること、さらに侮蔑的にさしていることによってである。それが有名な水平社宣言の差別の規定の趣旨だ。

③解放同盟の弱体化の今日の惨状の原因について

この本の筆者は解放運動の衰退の現状を嘆く。まともな糾弾闘争もできない現状。同盟員の激減。
しかし、筆者が解放出版社などに勤め出版物の差別表現に対する糾弾闘争に明け暮れていた当時、すなわち解放運動が勢威旺盛な時代にすでに解放運動の鋭意は失われていた。
それは、解放運動の大勢が政府が出す巨額の同和予算に押し流され鼻まで浸かって窒息状態になっていたからである。

だから、それより十年も前に私が解放同盟を見限り、それから逸脱し、新しい解放運動を建設するために狭山闘争で全国を行脚した理由だ。要するに解放運動はその目的を達成しさまざまな利権の山の中、大満足のなかで実質的に息を引き取っていた。狭山闘争も現在続行中であるが、差別糾弾の影は消え普通の冤罪事件、公正裁判要求運動に成り下がって久しいのである。寺尾判決に対する同盟の糾弾文章(おもに師岡先生の作文)」も寺尾判決の差別性をなんら暴くことはできなかった。

解放運動を刷新する唯一の闘争は私が率いた狭山闘争をはじめとする【解放運動は武装闘争である】という路線闘争であり、全国の部落青年を革命派に転換しつつあったが、それも中核派(主に関西の橋本利昭ら)の策謀によって暴力的に「打倒」された。「打倒」する理由を私に面と向かって言ってきた者はその当時からいまだに誰もいない。「前進」に載った部落問題をテーマにした秋口論文を私が「解消主義的」だと批判したことが「打倒」の理由ということか。路線上の対立で人殺し(殺人未遂)を平気でやる連中には本当に恐れ入る。その後の革命派の「部落解放運動」は実質的に部落解消主義的であり悲惨なものだ。実力闘争を基本に据えた糾弾闘争などとんでもないという状況だ。

だから糾弾闘争もろくにできない今日の解放運動の体たらくは、解放同盟本隊がさまざまな特権を得て現状大満足を達成しこの本の筆者が言うとおり差別を感ぜられなくなったこと、それに代わる新しい勢力がほとんど存在しないことに原因がある。
差別の諸相も変わってきているが、部落差別は潜在し、週刊新潮など週刊誌などの橋本徹攻撃のようにヘイトスピーチ的差別攻撃もあらわになってきているが、全国水平社的な鮮烈な解放運動勃興の兆しは見えない。

ちなみに、私はいくたびも首長選挙に出たが1勝しかできなかった。それは私の文字通り不徳の致すところであり力量(財政も含めて)のなさが主な原因であるが、厳しい部落差別の現実も言わなければウソになるだろう。どこの馬の骨か、これがこの近辺の寒村の価値判断に牢固としてある。この骨品制の壁を突き破ったのは一度だけであった。

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2014年3月26日 (水)

高知家

News & Letters/350

「高知家」とはどう読むのであろうか。

こうちや か、こうちけ、か、こうちか か?

高知県知事が何かしら唱えだして、広報誌やあちこちの看板で「高知家」が氾濫している。高知県民が一家の家族のようになって(大家族)、産業を興し助け合って生きていこうというのであろうか。

しかし、血族でないもの達が集まって血族的一家を名乗るというのは、あまり芳しくない。封建時代には血族の大家族が大きければ大きいほど強勢であった。金枝玉葉の血脈こそ神聖なのであった。その時代が去って、それを今もなお公然と追求している団体が二つある。天皇一族と、そして、暴力団だ。天皇族は我々の日常生活からはるかに遠い。しかし、暴力団は我々のすぐそばにうごめいている。

彼らは血族ではないが、血族となる誓いをし、親子、兄弟の酒杯を挙げ縁を結ぶ。
何百人、何千人の組員が一家の擬制的な血族集団、「大家族」となるのである。

そもそも日本の家制度は封建の身分制時代の社会の基礎であった。近代になってもなお強く日本の隅々に残っていた。家父長制のもと、人は悲惨な生活を強いられた。
伊藤左千夫の「野菊の墓」という小説を知っているだろう。高校1年生のとき、痛切な恋物語を私は何度も何度も読んで泣いたものだ。その墓は日本社会の家制度の残酷さの象徴であろう。

だが、やくざ達は、この封建のしがらみをその紐帯の基本に据えて固く結ばれようとする。
尾崎知事が統治する高知県にも、暴力団の影は消えない。

その県行政や市町村行政の土木事業に陰に陽に暴力団はうごめいている。土電事件だけではない。暴力団を利用しようとする社長さん達がまだうようよしているのだ。
名だたる親分が、県や市から指名を受けている会社に出入りしている。

暴力団の暗躍が活発なこの高知県で「・・・家」を喧伝する知事の感性はどうなっているのであろうか。高知県とか、高知県民でいいではないか、何も暴力団の向こうを張るかのように「高知家」などという一家を立ち上げなくてもいいであろう。

地縁・血縁で利害関係を結ぶ社会やそれを支える家制度は一度は完全に解体されなければならない。

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2013年2月 8日 (金)

続々「橋下徹現象と部落差別」について

News & Letters/331

3、糾弾闘争

「新潮」ら週刊誌が橋下徹攻撃に名を借りて全面的な部落差別攻撃を仕掛けてきたが、橋下はこれを個人の出自や血脈への攻撃だとしてその卑劣な手法に反撃をした。
しかし、決してこれを部落差別攻撃とはみなさなかった。

この本では、橋下のこうした対応を評価し称揚している。せいぜい個人への部落差別攻撃を「きょうだい」への攻撃として全体化することができなかったというに過ぎない。
しかし、今回の「新潮」者らの攻撃の場合は、個人への攻撃を超えて被差別部落全体への直接的な差別攻撃の様相を呈しており、「独裁者」、「裏切り」、「うそ」つき、「博徒」、「爬虫類のような目をしている」、「血も涙もない人間」という個人攻撃がすべて「橋下の生い立ち」としての被差別部落との関連性、「路地二つを、橋下はルーツにもっている」(以上「新潮45」2011年11月号)という事実、その悪い本性がすべて被差別部落ににつなげられているのである。被差別部落が悪の温床という宣伝なのである。

もちろん、橋下徹個人に対しては、この攻撃は、第1に誹謗中傷であり、第2に個人のプライバシイへの攻撃であり、そして第3に橋下及びその家族や地区の人々に対する部落差別攻撃であることは言うを待たない。最高裁の判例でも公的人間についてもそれがいかに真実であっても人身攻撃は許されないことになっている。橋本は当然裁判で相手を訴える権利がある。

しかし、橋下も、この本の著者らも、裁判闘争を否定する。
引用された橋下のツイッタ―によると
「今回の週刊朝日は、個人の人格否定、危険な人格の根拠として,血脈を利用しようとした。この「ロジック」が問題なんですよ。・・・・事実誤認でもプライバシーの問題でもない。ましてや記事の全ての発行を許して、、裁判で決着をつける問題でもない。表現にも許されない一線がある。その表現を許せば、回復できない著しい被害が生じるときには、表現自体が許されない。こんなの悠長に裁判なんかやってられない・・・。」(178頁)という。

またこの本の著者も橋下のこの考えに同調して「差別行為が行われたときに、法的に裁判に訴えて法廷で決着をつけるという、差別問題の解決にはあまりなじみのないやりかたではなくて、権利が侵害されたときに、法律上の手続きによらないで、直接自らの力で権利を守り実現する自力救済行為というやりかたー「糾弾」というのは、そうした自力救済行為として認められているという判決があることは前にいったが―、そういう闘いかたを選んでこそ、差別をめぐる係争の解決ができる、ということが示されたということにほかならないわけだ。」(230頁)といい、そもそも「差別事象は、いったんおこなわれたら、それによって受けた損害を回復することが法的にはできない。」(54頁)とか、差別に対しては糾弾という自力救済の方法で「社会的に」解決するしかないというのである。
糾弾によって相手が謝罪したり反省したりして解決出来たと考えているようであるが、今回の橋下の糾弾によって、何か解決したであろうか。

確かに、週刊誌らはこれ以上部落差別キャンペーンはやらないということになった。しかし、大々的に売りさばいた週刊誌や月刊誌はばらまかれたままだし、新聞等の雑誌の広告でのえげつない差別見出しは1枚も回収されていない。差別キャンペーの大きな効果は、糾弾によって解消されていない。

糾弾はもちろんしなければならない。差別者が振るえ上り、心から反省するまで糾弾の手を休めてはならないだろう。しかし、それをやったからといって何故裁判闘争を否定する必要があろうか。これまで解放運動は相手が仕掛けてきた不当な裁判に応訴し裁判闘争をやってきたが、こちらから差別事象について提訴して闘ったことは聞いたことがない。
しかし、裁判闘争の分野は糾弾闘争の一環として当然取り組むべきものであった。
差別は「社会的に」解決し「法的に」は解決できない、などという根拠のない駄法螺はおいておけばよい。何のためにこんなことを言うのかいぶかしい限りだ。

憲法で保障された人権を踏みにじられたもの、虐げられた者らが、その回復のために裁判に打って出るのは、それこそ裁判に最もふさわしいことだ。糾弾闘争は差別者に対して社会的に提起され裁判所でも差別反対の荊冠旗が翻らねばならない。

訴状の形式は損害賠償や謝罪広告を要求するということになるであろうが、法廷で不当な差別を糾弾し、部落大衆が天賦人権を等しく共有するという権利を確認しなければならない。全ての個別差別事象は、差別の当事者への糾弾だけではなく裁判闘争として普遍化させ裁判所を人権の砦として鍛えなければならない。

これまで差別者は個別的な糾弾で謝罪し反省の格好をしておれば許されてきた。
今回の週刊誌の差別キャンペーンでは、それらの謝罪や反省が心からのものではなく、糾弾の嵐が過ぎるのを待つほう被りに過ぎないことを露呈した。

糾弾闘争を民亊・刑事事件として裁判官や司法当局に部落大衆の怒りや悲しみをぶっつけ、部落大衆の法的地位を明確にさせることは極めて重要な戦線の拡大である。
身分差別は一般社会に根付いているのであるが、それは、元々は権力機構の中に胚胎したものだからだ。

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2013年2月 6日 (水)

「橋下徹現象と部落差別」という最近の本について

News & Letters/329

「橋下徹現象と部落差別」

解放運動の関係者と思われる二人の方が、2011年、12年に渡る「週刊新潮」らの橋下大阪市長への部落差別攻撃について論じている。
全体として言わんとする方向性にはうなづけるものが多い。しかし、かなり問題を含んでいる。摘記してみる。

1、橋下は、「新潮」らの攻撃を部落差別攻撃ととらえているのか。
 回答:とらえていない。橋下が問題にしたのは、出自をほじくり出して攻撃するその卑劣な手法が許せないというのである。この本が引用する記者会見での橋下は、
「僕は公人なので、両親、先祖について必要に応じて報じられるのも仕方がない。虚偽の事実でない限りは名誉棄損にはならない、・・・当該地域が被差別部落という話について、それが僕の人格を否定する根拠として、先祖、実父を徹底的に調査するという考え方を問題視している。
・・・血脈、DNA、先祖、実父という発想のもとで、どんどんぼくと無関係の過去を無制限に暴きだしていくということは、公人であったとしても、認めることができない・・・・。」と言っている。(22頁)
出自を調査しそれを暴きだすという手法を問題にしているのであって、被差別部落に対する攻撃を問題にしている訳ではない。

著者らは「橋下の人格が悪いのは部落の『血脈』を引いているからだ」という主張のもとに、個人の出自を暴くという行為が問題であるとされたわけだよ」(203頁)とか、
「橋下は、これが部落差別による個人攻撃であるという、問題の本質を一点にしぼって明らかにし・・・」と橋下を称揚する。

しかし、「新潮」など週刊誌の攻撃は部落差別攻撃が主眼であって、決して橋下への個人攻撃ではない。橋下自身は出自による個人攻撃だととらえ、その出自攻撃の手法を問題とした。著者らはその出自が部落差別であるとするが、個人への出自攻撃だとする点では橋下と同列である。

週刊誌の論調は、橋下のゆがんだ性格(非寛容な性格)、橋下の本性→橋下家のルーツ→被差別部落という流れであって、個人の性格からその先祖・出自、そしてそこから部落差別に向かっている。部落差別キャンペーンが週刊誌らの最大の目的であるし、結果としてもそうなった。今日、橋下徹ほどの人間をその出自を暴いたとして何の影響があるであろうか。権力の頂点に立ちマスコミの寵児となった男の出自が何であれ、本人も一般市民も蚊に刺されたほどの痒みしかないだろう。

少なくともこう考えるべきだ。
確かに週刊誌は、個人攻撃の手段に部落問題を用いたのかもしれない。そうとしても、主客転倒してもちいられた手段の方が大きな問題となる場合があるのだ。

        (以下続く)

            2、部落民について
            3、糾弾と裁判について

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2012年11月15日 (木)

週刊朝日の橋下市長へのお詫び

News & Letters/319

朝日新聞11月13日朝刊に新聞社として、週刊朝日の橋本市長攻撃記事についての
見解が掲載された。

一応の総括はなされている。問題は何故今回のような事件が起こったのかだ。
朝日の「報道と人権委員会」の見解も総括が浅い。部落差別攻撃をしたという自覚が欠如している。今回の記事は、部落差別の原型を見るような差別事件なのだ。

それは単に地区名を公表した、とか、記者の認識不足や勉強不足だった、ではない。
執筆者や記者・編集部の悪意が露呈されている。
その原因について以下箇条書きしてみる。

一、第一には、部落解放運動の低迷だ。

世は格差社会が深刻化していて、部落差別も依然として根強く残っているときに、
解放運動はさまざまな不祥事などで低迷している。
 この事件だけではないが、差別に対して憤りが見られない。火の出るような糾弾闘争が見られない。部落民の糾弾闘争が、それだけが、依然として差別者に対する差別
キャンペーンの社会的抑制として機能してきたのである。今度の事件はそのたがが
 外れた一事例だ。週刊朝日社ー朝日新聞社屋が荊冠旗で埋められるほどの大闘争
が巻き起こってしかるべきである。今回の朝日、先行した新潮社らの編集部はこの解 放運動の低迷をしっかり見定めている。

二、新潮社の差別記事への不問

直接的には、先に新潮社の週刊誌や月刊誌の同様の橋下攻撃がほとんど不問に付
せられたことである。朝日がわびるのであれば、新潮社もわびるべきだ。同じように部 落民の出自を取り上げて橋下を攻撃した。これが宥免されるのであれば、週刊朝日も
許されることになろう。だから、週刊朝日はたかをくくって今回の差別キャンペーンを開始してよい、負けてなるものかと判断したのである。

三、新聞や報道機関の退廃的傾向

真実の報道を軸として、人権擁護や国際平和の推進、環境保全の論陣を張るというの
ではなく、第四の権力者として報道機関が世論操作を通じて権力に影響を与え政治的
野望を実現しようとする。そのためにはでっち上げ、隠蔽、虚偽や人身攻撃、集中攻撃
など多彩な卑劣手段を講ずる。客観的な事実の検証も何もない、おのれらの思いつき
  しだいに記事を書く。福島の原発事故の放射能汚染の実態の隠蔽報道や最近起こっ
  た「大誤報」の腐敗事件の連続が端的にその姿を現している。

四、民族排外主義と格差(差別)社会、いじめ事件の増悪。

日本の報道機関による「竹島」=独島、「尖閣諸島」=釣魚島の領有をめぐる排外主義キャンペーン、及び日本社会の格差社会の傾斜発展は著しく国民全体の精神構造を
ゆがめ、社会的少数派、弱者に対する差別意識に攻撃性をもたせつつある。
そして、これは皮肉なことだが橋下自身が率いる日本維新や石原慎太郎、安倍総裁などがその排外主義や差別主義の代弁者となってメディアでもてはやされている。
影の報道機関であるインターネットでもヘイト(憎しみ)サイトが横行し陋劣な差別意識の解放の場と化している。・・・・・

対処の仕方の問題点

1、週刊朝日や週刊新潮は問題記事を載せた週刊誌や月刊誌を回収するべきだ。
2、週刊朝日も週刊新潮も、問題の出版物は廃刊するべきである。
3、社長がやめるよりも編集長や執筆記者がやめるべきだ。
4、この事件に関連して部落問題とは何か広く啓蒙的な記事を新聞等で掲載するべきである。その際、今回の朝日新聞「報道と人権委員会」の見解でかけている重大な問題は次のとおりであるので、総括のしなおしをするべきだ。

* この事件が、人身攻撃についての明白な刑事犯罪であること。

* このような人身攻撃・人格攻撃が狭山事件等冤罪事件の温床となり、ひいては、差別排外主義が戦争やホロコーストなど大量虐殺につながる恐れがあること。

* 単に被差別地区名を公表したからいけなかった、とか、人権への配慮がなかった、とかいうのではなく、週刊誌が地区名を挙げて部落差別攻撃をしたという事実を認めな
ければならない。被差別部落に生まれた事を原罪のように指弾したのだ。

 そしてその差別的攻撃には何の根拠もないこと、部落差別には正当な根拠は何もないということを闡明しなければならない。
差別には正当な根拠がないという事を言わなければならない。身分を明かしたから
悪かったといって謝るというだけでは、むしろその身分差別を強調するに過ぎない。
 それは、松本清張の小説のように暗い事件の主人公の過去の出生・身分あかしと変わらない。

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2008年9月10日 (水)

同窓会

News&Letters117/

高校時代の同窓会に初めて出席しました。
9月7日のことです。
46年ぶりの再会でした。
高校時代のことが思い出されました。

私の高校時代は、精神的には暗い、陰鬱な時代でした。室戸の田舎から大坂のごみごみしたところに出てきた。第1に、この世がこんなに悲惨で汚辱に満ちているということに圧倒されました。
田舎でもつらいことがいろいろありましたが、小中学校の時代では世の中のことは知りませんでした。

何かしら希望がありました。高校になって初めて世の中が見え、その中に置かれた自分が認識されてきました。大坂のごみごみした環境、享楽的な町並みになじめませんでした。私は自動車や電車など機械文明に拒絶反応がありました。
私は、次第に厭世的な気分なりました。

私は高山樗牛の「滝口入道」という小説の世界に耽溺し、また、国木田独歩の「武蔵野」という本を繰り返し繰り返し読んでいました。私は知らず知らず文章を暗唱までしていました。徒然草や方丈記、平家物語などは私にとっては受験勉強ではなく、人生の座右の書でありました。
私は友達と一緒にか単独にか、神社や史跡を訪ね懐古趣味的な心境でくらしていました。・・・・・

そういう毎日を過ごしているうちに60年安保闘争が勃発しました。私は、労働者が街頭でデモをする姿を見て感激しました。血湧き肉躍る思いでした。
国会の庭で全学連の樺美智子さんが殺された事件の衝撃は最大のものでした。
私は高校生の終わり頃には、社会の変革のために生きようと考えていました。

全学連は暗い人生を送っていた私をふるいたたせてくれました。「人知れずほほえまん」という樺美智子さんの言葉を胸に秘め、大学で徹底的に社会運動の勉強と実践をやろうと決意することになりました。

同窓会では、目をつぶると、走馬燈のように半世紀前の時分を思い出していました。
今も、全学連の闘士の心境を維持したいとがんばっているが、私の中には「滝口入道」の主人公である齋藤時頼の厭世的な心境がときどき飛来することもある。一度皆さんも樗牛の「滝口入道」をお読みになって下さい。

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