文化・芸術

2020年10月12日 (月)

宦官総理の学術会議への干渉

宦官総理の陰湿な民主主義への攻撃は学問の世界にも容赦がない。
人事に関する決定であって学問への干渉ではないという。

大学教授や学長の任命・選任も内閣がやりだすかもしれない。
思想や学説が気に入らぬ教員を学園から排除しても人事であり学問への干渉ではないことになる。

学問や教育の世界での人事上の、排除を含む差配は個々の学説や思想を超えてその学問を根元から絶やすことにつながる。だから人事が最も恐ろしい学問への干犯の手段となる。この学問の世界への人事権をかざした学問への乱入は戦前に無数にあり洋の東西を問わず枚挙にいとまがない。

そしてそもそも学問とは何かだ。
宦官たちははっきり言わないが橋本徹というはっしゃぎコメンテイターはずけずけ言う。
即ち政府が狙った軍事研究を日本学術会議が拒否したことだ。
橋本は言う、軍事研究も学問だ、この学問を禁じるのは政治だ、と。

だが、私は、軍事研究は学問であるとは思わない。
軍事研究とは、敵国を攻撃するのも防御するのも結局は人殺しの技術研究だ。
人殺しの技術研究は、学問とは言えない。戦略戦術の研究、武器の開発研究などでは科学や学問研究の成果を応用するが、それはあくまでも人を殺す技術や道具の開発研究であって学問ではない。漁師が海で使う釣り針を工夫し研究するからといって学問をしているとは言わない。

クラウゼヴィッツの「戦争論」や中国の「孫子」は学問体系ではない。それらを研究するのは学問といえるが、戦略戦術を考え出したり戦闘の経験を集成しても学的体系をなさない。

それらはいかにち密に論じたててあっても兵法書の範疇を超えることはない。
兵法は戦闘(戦争)についての特定の思想であって学問ではない。
いやしくも学者たるものが、また平和憲法下の政府機関たる学術会議が人殺しの技術や殺人の武器の開発の研究ができるわけはない。

学問をしたことがない者が学問をする者に言いがかりをつけ、まして、人事権を振りかざし学者を膝下に置こうとするなどもってのほかだ。

だいたいこの宦菅や橋本らの手合いは、長年行政にたづさわってきたが、行政そのものが学問だという観念がないのであり、行政法学の概説書の一冊もまともに読んでこなかったのであろう。

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2020年1月24日 (金)

県立図書館の高松控訴審の控訴人(澤山)の最終陳述

県立図書館の高松控訴審の控訴人(澤山)の最終陳述を掲載します。
数万冊(3億円以上)の大事な図書を焼却するという暴挙に対して、誰もその責任が問われず一銭の償いもされない、このような異常な状況を突破するために住民訴訟を提起した。

県側は、屁理屈を並べて抗弁し、高知地裁はこれを丸呑みして訴えを棄却した。このような無法な行為を裁判所が認めるとすると、法律も裁判所も国民には不要ということになる。


 令和元年(行コ)第25号 損害賠償控訴事件
 控訴人 澤山保太郎
 被控訴人 高知県知事尾﨑正直

高松高等裁判所殿
                  令和元年12月25日     
                  控訴人 澤山保太郎
   
   控訴人準備書面(1)上

控訴人は、準備書面(1)を上下に分けて陳述する。
答弁書について

一、本件図書は「出資等に係る不要財産」に該当しないのか
被控訴人の主張の中核は、本件図書数万冊が1冊1冊に分割されて帳簿に登録されていて県条例が定める50万円以上の価格に当るものはない、したがって地方独立行政法人法の第42条第1項がいう「出資等に係る不要財産」に該当しない、というものである。

この主張は何度も繰り返され答弁書3頁に2か所、4頁に1か所、5頁に1か所、被控訴人の主張はもっぱらこの抜け道に依存しこれを金科玉条にしている感がある。

たとえば、答弁書2頁~3頁で、控訴人の主張(大学法人の日常業務を指揮監督する立場にある高知県が法令に基づいて所定の手続きを大学法人に取らせ数万冊の図書を回復する義務がありそれをしなかった怠る事実の違法性を指摘)に対してまともに答えず、「出資等に係る不要財産」に該当していない話で反論したつもりである。

このことは、1冊1冊ではなく本件蔵書の処分額(処分時の時価)と冊数は明示されていてこれが裁判所によってまともに財産として認定されたなら、怠る事実の違法性も直ちに明らかとなるということである。控訴人は、怠る事実について他に何の反論もしないからである。帳簿価格50万円・・・の話は、購入に数億円もかかった数万冊の書籍を、要らないとして、紙くずとして㎏単位で焼却処分した犯罪行為を許した、その責任を逃れる、脱法の口実を発見したということだろう。

しかし、

1、本件図書はなるほど購入時に1冊1冊購入され帳簿に載せられたものであろう。
しかし、問題は処分時にどのように扱われたのかである。処分時には紙くずの塊として把握され業者に渡された。受け渡しの書類(伝票甲  号証)にそのように記載されている。
少なくとも数千万円以上のものが0円で引き渡され、重量で計量されたのである。

本件書籍は1冊1冊ではなく、2万5千余冊が一塊の紙料として扱われた。
 原判決も、「複数の図書をまとめて除却処分した」ことを認めている。
 
2、しかし、その処分の直前までは、中古品として1冊1冊の値踏みがなされ、総額2972万余円と計上された。大学法人の除却の決裁は14たびに分けて行われた。何十冊、何百冊、とまとめて除却が決定され、そのたびに「資産登録価格」が計上された。(甲第3号証の1~14)

「資産登録価格」は帳簿価格である。控訴人の請求額の一部の2972万2479円は、甲第3号証の「資産登録価格」を集計したものである。本件処分対象の相当冊数がそれぞれまとめて帳簿価格に明示されているのにそれを没却して法廷に証拠として出されてもいない個別の価格をのみ取り上げるのは、理不尽であろう。

 図書又は書籍、図書館などでは蔵書とも呼ぶが、1冊1冊として扱うこともあり、また、蔵書(図書、書籍)として集合的、総体的に取り扱う。さらには幼児用の蔵書とか歴史学上の蔵書とか、工学系統の蔵書・・・などいろいろな蔵書学上の分類による種々の取り扱いがある。その蔵書は1冊1冊の値段を見ることもあるが、ある一定のまとまった蔵書の価格を総体として計算し資産として帳簿に記載することもある。

高知県立大学・高知短期大学図書管理細則(甲第6号証)第17条3項では、「図書資産台帳の金額と財務諸表の図書資産の金額とは、常に一致させるものとする」と規定されているが、これらの金額は、数万冊以上の蔵書を一定の金額に収斂して掲示するものである。

図書資産台帳や財務諸表は帳簿であり、そこに表示されたものは帳簿価格であって、図書又は蔵書の価格は、帳簿に個別に記載されもするし、集合的に蔵書として総体的にかまたはその1部が集合的に記載されるのである。
本件では、甲3号証にみる通り処分対象図書が総計何百何千冊とひとまとめにされその都度価格の合計が記録されていた。むしろ本件処分を決定する段階では、書籍の個別の価格は問題になっていなかった。

3、被控訴人は原判決を根拠に、何か蔵書という言葉は法律用語ではなく、「蔵書なる概念は極めて不明確であり、公共団体の財産管理においては到底使用できないものである。」(答弁書7頁)などという。しかし、図書館の財産である書籍の管理・整理はまさに蔵書学(図書館学)という学問分野であって、世界中の図書館で図書(蔵書)という財産が系統的に管理されている。高知県のオーテピアという図書館でも蔵書学・図書館学の書架がある。蔵書についての原判決や被控訴人の独自の見解には、何の合理的な理由もなく、何か理解しがたい偏奇を感ずる。蔵書が嫌なら図書とか書籍と言い換えてもよい。

本件の場合学長の謝罪文(甲4)や、県庁のホームページや高知新聞(甲5)などで本件に関連して蔵書と呼ばれているのは、明らかに複数書籍の集合名詞としてである。
 蔵書は本の集合として使われるがまた図書館や個人の書斎に所蔵されているものは1冊でも蔵書と呼ばれる。

4、蔵書という言葉に限らず、日本語の普通名詞の多くには、単複の区別がない。1個でもリンゴであるし、木にたわわになっている数十個のリンゴもリンゴである。

  人、車、お菓子、ボール、パソコン、花・・・・無数の物の名前・・それらは集合的に使われたり単数として使われたりする。被控訴人や原判決が、蔵書を意味がつかみがたい曖昧な言葉、「不明確」な言葉、果ては法律用語ではないなどと非難するが、それでは他の日本語はどうなる。花は1本1本値段がつけられる。また花束としていくつもの種類の花がまとめて売られることもある。花を束にして値段をつけることを非難できるだろうか。蔵書をして被控訴人のように非難するなら、ほかの日本語も同様に非難される。それでは、裁判で日本語の普通名詞を使えないことになり、事実を認定することも否認することもできない

 5、図書館の蔵書の価値

被告や原判決は、本件処分対象の書籍には1冊50万円を超える本はありえない、という。帳簿価格は1冊1冊だ、という。しかし、
個人が購入し個人が所蔵している書籍と図書館所蔵の書籍では、その使用価値が全然相違する。例えば1000円で購入した書籍は、個人の場合は一人だけの使用価値であるが、図書館の購入に係る書籍は、100人~1000人・・・が次々と繰り返し読み継がれ利用される。1000円の価格が100万円以上の使用価値が出てくる。
  図書館の1冊の本は、普通の本の価格では量られない高い有益性を持っている。

6、たとえ1冊1冊について勘定するということを仮定にしても、「出資等に係る不要財産」に係る高知県の条例(「高知県公立大学法人に係る評価委員会及び重要な財産に関する条例 第9条)の規定においては、たとえ数千円単位の図書であってもそれが数万冊束にして処分され、しかもその1冊1冊でも数千人以上の市民が利用する公益性の高いものであると判断すれば、前掲条例で返納すべき額の規定(50万円以上)のその後の文章に「その他知事が定めるもの」との但し書があり、被控訴人は当然この規定を使って本件処分対象の書籍を救済する義務があった。図書館の1冊の書籍の価値は、本屋の1冊とは違うのである。

ちなみに、本件処分対象となった書籍のうちには、貸し出し中のものまで入っていた。甲第3号証の6には、大学法人の職員のメモ書きが記されていて、「貸し出し中で除却ができない図書が3冊あり・・・」で再度決裁をお願いするなどと記されていた。1冊1冊を吟味して処分を決定したのであれば、このような事態は起こりえない。機械的に(量的に)処分を決定をしていた様子が垣間見える。

 7、被控訴人の蔵書概念

被控訴人は蔵書の意味をどうとらえているのか。答弁書で、
また、①「蔵書」についての明確な定義が存在しない以上、②「蔵書」を単位にした場合には、「帳簿単価」も判然としないことになる。このため③「帳簿価格が50万円以上のもの」に該当するか否かによって権利義務が決せられるという場面においては、「蔵書」の概念を用いるべきでない。という。(答弁書5頁~6頁 ①②③は控訴人)

①「蔵書」の明確な定義が存在しない。
②「蔵書」を単位にすると「帳簿単価」も判然としない。
③帳簿価格が50万円以上のもので権利義務が決せられる場合は、「蔵書」の概念は不可である。ということになる。

②「蔵書」の定義が明確ではないのであろうか。蔵書とは読んで字のごとくであり、蔵にしまってある書籍のことだ。国語辞典でも明確だ。
 「蔵書」は何も複数とは限らない。本件の場合「蔵書」と大学など関係者が呼んでいるのは、一定の分類目的(処分目的)の数万冊の書籍のことであるが、被控訴人はそのような集合的なものとしてはどうしても認められないのである。

「蔵書」を単位にした場合「帳簿単価」もわからなくなるとはどういうことであろうか。蔵書は1冊づつ帳簿に搭載されもするし、ある分類によっては集合的にまとめて整理されたりする。購入図書の予算の審議で、例えば歴史関係書籍を何冊購入すると歴史に関する蔵書は、何冊となり、蔵書の冊数だけでなく暦年の予算規模も計算されるやもしれない。被控訴人や原判決の理解する「蔵書」は、常に集合的なものとして「蔵書」をとらえているようだ。
図書館の特定の1冊も蔵書であるが、今日の図書館では蔵書構成(蔵書構築ともいう)という体系的な概念で蔵書を管理しており、図書を集合的に管理している。

全国学校図書館協議会では、毎年小中学校・高等学校別に、全体の蔵書数の最低基準を決めており、また、総記とか哲学、歴史等々分野別にも蔵書比率を決めている。
購入費についても同協議会が毎年基準値を示す。(「学校図書館メディア基準」)

図書館の書籍は蔵書構成として集合的に管理される。これが図書館の財産管理・財務会計行為であって、当然蔵書の管理運営上の権利・義務はここに発生する。
だから、被控訴人が蔵書を集合的にとらえるのは間違いではないが、50万円以上云々の話に付会させるためにどうしてもこの蔵書という言葉をなきものにし、1冊1冊の勘定にしたいのである。

③:帳簿価格は何も1冊1冊の価格を言うだけではない。甲3号証のように一定分量のまとまった図書(蔵書)の価格を記載する場合もある。ある種類の一定分量の図書(蔵書)をまとめてその総額を帳簿に表記してはならないという財産管理上の規則はない。
8、ところで②で被控訴人は本件条例中の「帳簿価格」を「帳簿単価」という言葉にすり替えている。「帳簿価格」は、「帳簿単価」と同一ではない。

 機械の部品を一つ一つ単価で記載する場合もあれば、それらを一定の用途に必要な分量を一括して帳簿価格として記載する場合もある。例えば予算書にしても書籍購入費は一冊一冊単価を載せず、年間数百冊、数千冊を一括してしかるべき金額を計上するであろう。財務会計行為では物品は集合的に集計されて表現されることが多いのである。

 本件の場合、控訴人が個別の書籍の金額を総計して出したのではなく、甲3号証の「資産登録価格」に基づいて主張(請求)しているのであって、これは、大学法人自身が出したものであり、開示された資料に明記されたものである。本件図書の価格についてこれ以外には法廷には何も出されていない。原判決は、確たる証拠もないのに1冊1冊の書籍の価格について被控訴人の主張をうのみにしているだけなのである。そして答弁書は、根拠のないその判決文を金科玉条のように繰り返している。

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2019年11月 4日 (月)

県立図書館焚書事件控訴理由書

県立大学の永国寺キャンパスの旧図書館の蔵書数万冊が焚書に付された事件の
第1審高知地裁の判決は、お粗末な判決文によって原告住民側の敗訴となった。
その判決文がいかにお粗末であるかはわたしの控訴理由書を読んでもらったらわかる。

県立大学の日常業務、図書館の管理、図書の処分に至るまで県知事の監督と指導の下にあった。以前の県直轄運営と同様の知事の責任が地方独立行政法人法に明記されている。
高知新聞は本件について相当な紙面を割いて報道してきたが、ひとつも県の責任を追及しなかった。

不要となった財産は、県知事の許可がなければ、処分できないというのが法の趣旨だ。
この法律について報道機関として新聞として知らなかったわけではないだろう。

最近知事の辞職・代議士転身を機に知事の業績のべた褒め連載をしている関係で、焚書事件の知事の責任をかけないのであろうか。これだけの不祥事を大学関係者にだけに転嫁し、
知事も大学も何の処分も、賠償もしない無責任政治をゆるすということか。

令和元年(行コ)第25号 損害賠償控訴事件
 控訴人 澤山保太郎
 被控訴人 高知県知事尾﨑正直

高松高等裁判所殿
                  令和元年10月31日     
                  控訴人 澤山保太郎
控訴理由書
【控訴理由の要旨】

本件は、平成26年~29年にかけて大学法人が、新図書館建設を機に高知県立大学の永国寺旧図書館に所蔵していた図書のうち2万5432冊を学内手続きだけで除却処分(焼却等)を許した事件である。

一、 本件損害賠償請求は正当である。

数万冊の蔵書を除却した行為は、地方独立行政法人法第6条4項に基づく同法第42条2の1項(不要財産の納付)に違背したことによる損害の賠償、または、本件譲与契約書の第15条の契約解除に基づく第16条(原状回復)の(2)または(3)の規定によっても、損害(契約解除時の時価)の賠償に係る義務を発生させた。

二、 本件違約金支払い請求は本件譲与契約書に規定されていて、不当利得の法理から考えて、地方自治法第242条2の4号の、不当利得返還請求であり正当である。
また、監査請求段階で監査委員が契約書を審査し検討していたと考えられるから監査を経ていると考えられる。たとえ監査請求書に記載されていなくても訴訟段階で新たな措置請求としても適法であるとの判例がある。
また、高額の違約金は、本件除却された数万冊の蔵書を新規に整えようとすれば億単位の資金を用意しなければならないことを考慮すれば不合理とまでは言えない。そもそもこの定めを契約書に主導的に導入したのは、被控訴人であり、その当事者が今なおこれを維持し続けながら、自己の決定したその契約条項を非難するのは筋が通らない。

三、 損害賠償請求権と違約金支払い請求権は性質は違うが同じ一つの事件に基づくもので、これを一つの訴訟に合併して民衆訴訟たる住民訴訟でその行使を求めるのは法律(行政事件訴訟法)上、正当である。
原判決も何のさわりもなく「本案」について検討し判断している。

【控訴理由各論】

【一】 本件損害賠償請求について

一、地方独立行政法人法42条の2第1項の規定
原判決は、本件図書の焼却による損害につき2972万2479円の損害賠償請求は、監査請求前置の要件を満たしていたとしたが、これを棄却した。
その理由は、
本件図書は、もともと高知県の所有に属していたことがあったとしても、本件譲与契約に基づき、独立した法人格を有する本件大学法人の所有に移転しているから、高知県の所有物ではなく、本件除却処分によって高知県の権利が直ちに侵害されたということはできないのであって、権利の侵害がない以上は不法行為が成立する余地はない。 (原判決15頁下段)

大学法人の本件蔵書が本件譲与契約により高知県から大学の方に所有権が移転したことは事実であるが、しかし、この譲与契約は条件付きの契約であり、指定用途以外の用途に使うなど条件に違反した場合解除されるものである。原判決はそのことを無視している。
そしてまた、地方独立行政法人法42条の2第1項の法律は、原判決が言う通り、不要となった出資財産を地方公共団体に返納し有効活用などを図るために新設されたものであるが、本件大学法人が不要になったからと言って学長などの判断で財産を勝手には除却することは許されていない。本件の場合は本件契約と前掲法律に違反した段階で、大学側の所有権は失われ高知県に移転するものである。少なくとも所有権が高知県に戻される権利が侵害されたといえる。移転の手続きをしなかったことを理由に不法行為が宥免されるものではない。原判決はまた、地方公共団体へ納付すべき不要財産であったとしても、当該地方公共団体の長の認可を受けて当該地方公共団体へ財産を引き渡すといった所定の手続きを履践しない限り、当該不要財産の所有権は移転しないと解するのが相当である。
と判旨した。知事が認可し、「所定の手続き」をしなければ所有権は移転しない、というのは所定の手続
きをしなかった怠る事実を開き直るもので、国の法律を遵守しないという意思表明である。

控訴人が問題にしているのは、これら「所定の手続き」をしなかったことの、被控訴人の責
任でありそれが問われているのである。本件怠る事実の違法性の怠りは二通りある。
第一の怠りは、本件図書の除却処分が行われる前に、大学法人の日常業務の監督機関である高知県が法令に基づいて大学法人が正規の手続きをして本件図書を返納するという手続きをさせなければならない義務があった。それを怠った。

第二の怠りは、除却(焼却)後の損害の回復措置を怠ったのである。
法令がいくら定めても、これを無視し実行を懈怠しすれば、法令が守ろうとする国民の財産がどうなってもいいのか、ということである。
独立行政法人になったとしても出資団体である被控訴人は、従来通りこの大学法人への日常業務の監督・指導、不要な財産の処分を含む事業計画策定や毎年の予算措置の決定、人事権行使など強い権限を持っている。(地方独立行政法人法第7条、11条、14条、17条、25条~30条、34条、36条、39条、46条、121条、122条・・・)
本件不要図書の処分についても新図書館建設などに関与し、数年以上にわたり被告は成り行きを注視していたはずであるから、焼却される前に大学法人とともに県議会にかけるなどを含め不要財産の返納の「所定の手続き」の履践をしなければならなかった。
原判決は、まさに被控訴人の懈怠の違法事実をもって被控訴人を宥免しようとするのであって、違法行為があってもそれを既成事実として義務を行使できない理由にするようなものである。それは、水防隊員が警報が出ているにもかかわらず水門を閉じなかったので浸水被害を被ったという場合、水門が開いていたので浸水が起こったといって自己の責任を逃れようとするのと同然である。
そして、被控訴人は事前の所定の手続きを怠り、さらに焼却処分という重大な結果についても、事後の適正な手続きを怠り、損害の回復措置を何も取らなかった。
監査請求や本件訴えの趣旨は事件当時所有権があったかどうかではなく、本件図書の所有権の回復措置を取らず、またその回復されるべき所有権を失ったことへの回復措置も取らなかった違法があるとしているのである。
無能ならともかく、無為無策で、というより無為無策を理由として本件請求を逃れさせようとするのは、あまりにも理不尽な判決である。

二、高知県知事の認可

原判決は続いて
高知県が本件図書の所有権を有していないとしても、高知県には、同法42条の2第1項に基づき、本件図書の納付を受けるべき権利があり、これが侵害された不法行為が成立するといえるか と自問する(原判決17頁上段)
この自問についても上記と同様あっさり
高知県知事の認可がなされていない本件では、納付義務に対応する履行請求権は発生していないというべきであるから、本件除却処分が高知県の権利を侵害するものとはいえない。
(原判決17頁中段)という。

しかし、独立行政法人法第6条の4項及び第42条の2第1項の趣旨では、大学法人側が、当該図書を不要と認定した段階で納付義務が生ずるのであり、同時に高知県側の納付される権利が生ずるのである。そして大学法人側は「遅滞なく」所定の手続きを経て不要財産を納付しなければならない。
知事の認可や県議会での議決は「所定の手続き」であってそれによって、納付義務や権利が左右されるものではない。本件図書は、もともと購入するのに3億円を超える費用が掛かっているものであり、これが返納されることについて異議を唱える者はいない。
法は大学法人が不要と認定した財産でもこれを勝手に廃棄などの処分をさせず購入費を負担した地方公共団体が別の方法や場所で有効活用を図ることを企図したものである。

三、法の適用があるのか

原判決は、さらに不要財産について高知県に返還する上掲法令が本件図書に適用されるのかについて判断する。前掲独立行政法人法の第6条の第4項では返納する財産は、「重要な財産であって条例で定めるもの」とされており、県の条例では、それは「帳簿価格が50万円以上のものその他知事が定める財産」であると規定されている。そこで図書は、数量的には1冊1冊計算されるものであり、1冊50万円を超えるものは本件に存在しないから、法の適用はない、と被控訴人の主張を全面的に採用する判示をした。その判断の根拠は次の通りだ。

原告の主張する蔵書は法律上の概念ではなく、その概念の広狭は主観的なものとならざるをえず、極めてあいまいなものであって、法律効果の発生の有無を規律する法律要件の判断に持ち込むのは不適切である。 (原判決17頁下段)とまでいう。

控訴人が本件図書を「蔵書」というのは、「社会通念に従った一般的な理解」に基づくものではないということになる。
「蔵書」という言葉は法律上の概念ではない、法廷では使えないということのようである。
物品の名前において「法律上の概念」に該当するものとはどんなものであろうか。
「蔵書」は相当な数の書籍が図書館などに所蔵されているものの集合名詞であり、また、1冊でも「蔵書」といえる。集合名詞でもあり個別名詞でもある例えば国民とか、果物とか、山とか川とか、図書とか、それに類する日本語の名詞は無数にある。日本語の名詞には複数形はないから集合名詞が単体を指すことを兼ねる。
どういうものが法廷で使えるのか使えないのか、裁判所は「法律要件の判断」に使ってもよいという法廷用語の一覧表を示すべきであろう。原判決の基準でいえば固有名詞以外ほとんどの名詞が使えないだろう。

本件「蔵書」は、本件にかかわって新聞でも大学でも、記事や法令などにおびただしく使われてきた。本件大学法人もその図書管理規則で「蔵書」と規定され、本件についての第三者検証委員会でもその委員会の名称にも「蔵書」が使われているし、本件にかかわる学長声明や県庁ホームページ、県議会資料でも標題に「蔵書」が使われている。

また、「蔵書」は図書館・情報学の分野では、学術用語として中核的な概念である。
普通の言葉であり学術用語でもある言葉が「法律効果の発生の有無を規律する法律要件の判断に持ち込むのは不適切」というのはどのような法令、判例に基づいているのか。
そのような言葉の分類を判決文で示したのは日本裁判史上初めてのことだろう。
確かに、被控訴人や原判決のように図書館所蔵の書籍を一冊一冊に分割しなければ相手の批判を防御できないという者には、都合の悪い「不適切な」言葉かもしれない。しかし、そのために、判決文で法律上の文書での言葉を恣意的・独断的に限局したり気に入
らぬ言葉を「不適切」だとして排除するのは国民の裁判を受ける権利を脅かす行為である。本件において数万冊の旧図書館所蔵の蔵書が焼却されたことは明らかである。
本は購入されたり寄付されたりして図書館に収容された段階で蔵書となる。これが社会通
念であり、学術的概念である。蔵書は体系的に整理され開架や書庫に保管される。
元は数億円かかった数万冊の蔵書を購入前の一冊一冊に分割して法の適用を逃れようというのは、法網を潜脱しようとする明らかな脱法行為である。

収容時は本は蔵書とされる。そして本件処分時でも蔵書としてまとめて除却された。
原審での被控訴人準備書面(1)8頁でも、「業務効率化の観点から、適切なタイミングで
ある程度まとめて除却手続きをとることは当然であり・・・」と言っていた。
図書館の相当な冊数の本を「蔵書」としてまとめて把握し処理するのは当然だ。
四、焼却以外に他の選択肢はなかったのか本件図書を蔵書として集合的に扱うことに異議が出たとしても、被控訴人は、図書の焼却処
分という野蛮な選択肢をとるとは考えられないし、してはならない。

いうまでもなく図書は大学にとってはもとより県民にとっても重要な財産である。
法の趣旨に照らすと、図書館の蔵書が重要な財産であるから、大学で整理され不要とされた
としても貧弱な図書しかない市町村立の図書館にとっては宝物である。被告は返納された
蔵書の活用法は知っているはずであった。本件大量の書籍は、たとえ原判決や被控訴人が言
う通り一冊一冊が50万円未満であったとしても、県の条例(「高知県公立大学法人に係る
評価委員会及び重要な財産に関する条例」)第9条での規定では、別途の規定も用意されて
いる。帳簿価格50万円以上の規定の後に「その他知事が定めるもの」とあり、数万冊の蔵
書は、この範疇に入るべきものであった。

高知県下には東洋町のように今でも図書館のないところさへある。公立小中学校、県立高校の図書室の貧弱な蔵書、貧弱な図書購入費の予算を被告は知る立場にある。
全国最下位の貧乏県の知事が数万冊のまだ上等の図書を焼却することに同意するはずはないのである。原判決は、
本件図書は、比喩的な意味で、高知県民の知的財産というべきものであり、これを喪失させた本件除却処分に対する厳しい批判が向けられていることは顕著な事実ではあるが、損害賠償請求権の存否という法的判断は、法人としての高知県に属する財産権が侵害されたか否かという観点からなされるべきものであって、本件除却処分の当否の判断とは区別して論ずべき問題である。 (原判決15頁中段)という。
高知県知事というのは高知県民の代表であって、その県の知的財産が理由なく喪失させられた、その管理責任が大学法人と県知事であることは明らかであり、そしてその責任遂行の根拠の法令もあり手続きも定められている。何も法的判断と県民の思いを区別したり乖離させることはない。被控訴人や原判決がそれを乖離させようと努力する気持ちはわかるが、裁判はえこひいきの利権の場ではない。

被控訴人は、県下の市町村や小中学校、高校の図書館や図書室にどれだけの蔵書があるのか
知っていたし、それらを充実させる予算措置の必要性、にもかかわらず些少な予算措置しか
できないことの悔しさも持っている人物である。知事の避けられぬ裁量権行使に原判決が
言うように一冊がそれぞれ50万円に満たぬからと言ってそれを理由に数万冊を灰にして
しまう選択肢があるであろうか。それとも、たとえ一冊一冊が50万円未満であっても県条
例の規定にある「その他知事が定める財産」としてこれを認定し、除却せず、返納させて活
用させるという方向の選択が、知事の本件についてのコメントからも、確実にあったといえ
るのではないか。

知事でなくても普通の人間であれば、県民の膨大な知的財産を焚書に付する選択はあり得ない。被控訴人が本件について正常な判断と手続きを怠ったのは、大学法人に対する自己の管理責任や財産の譲渡契約について自覚せず、県立大学が地方独立行政法人になったから無関係であるという本件には致命的な錯誤をしていたからであろう。
五、高知県知事の裁量権
原判決(19頁)はさらに本件契約第12条1項(譲与物件の譲渡禁止)の違反による契約解除について控訴人の主張を退ける。その理由は、解除権の行使は高知県の「裁量」であり、義務付けられていない、高知県が契約を解除した事実はないという。
すなわち、
本件譲与契約15条は、債務不履行解除について定めた規定であるが、同規定によれば、
同解除権の行使は高知県の裁量に委ねられているのであって、その行使を義務付けられる
との根拠はないところ、高知県が本件譲与契約を解除したとの事実は認められないもので
ある。(原判決 19頁中段)
本件譲与契約は解除条件付きの契約であることを被控訴人も原判決も取り上げていない。解除条件にあたる行為によって直ちに譲与契約は無効となり所有権は自動的に元の持ち主に返る。所有権が復帰することについて特段の手続きはいらない。
譲与物件である本件数万冊の蔵書の処分については第8条、第12条の1項が根底から踏みにじられたのであるから、解除の要件は十分であった。
本件契約第12条の1項は、同契約第8条(譲与物件の指定用途供用)を担保する条項であり、知事の許可も得ず本件図書の焼却処分を強行した行為は、第8条、第12条の1項に違反し、本件契約第15条の契約解除に該当する。解除の要件がそろった時、これを解除しないという選択肢は存在しない。知事の解除についての規定である第15条には、
…するときは、…契約を解除することができる、という表現があるが、権力機関の場合にはこれはただに何かの行為が出来るという権能を示すだけでなく、要件が満たされた場合にはその権能を行使しなければならない義務規定である。要件が満たされているのに、権限を行使しなければ、国民や自治体の財産や生命などに被害が発生し職務怠慢として処罰の対象になるものである。
そのことは地方自治法(第2条第14項)、地方財政法第3条第2項、同法第8条によって、最小の経費で最大の効果をあげること、あらゆる資料に基づいて財源をとらえること、良好な財産の管理及びその効率的な運用が義務づけられていることからも、本件契約を解除して自己の出資に係る財産を取り戻す義務があった。裁量権でその他の選択肢はあり得なかったのである。
契約違反行為が現出した段階で知事の認定があろうがなかろうが、廃棄処分を決定し指定された用途に供用しないと大学法人側が決定した段階で直ちに何らの「催告することなく」契約解除となり、譲与物件の所有権は元に戻るから、本件除却処分は、本件図書に関する所有権侵害事件となる。
被控訴人が本件契約の解除権を行使しなかったのは事実であるが、それは単に被控訴人の懈怠又は重大な過誤によるものであって、それを理由に責任を逃れることはできない。
六、除却処分と契約解除
原判決は、
本件除却処分が既になされてしまった後に解除したとしても、高知県に所有権が復帰するものとはいえないし、解除する前の本件除却処分の時点で既に高知県の所有権が侵害されたというのは論理的でない。したがって、原告の上記主張は、前提を欠くものであって、採用することができない。(原判決19頁中段)という。
しかし、本件図書については、廃棄処分の決定 ⇒ 廃棄(除却又は焼却)実行であり、廃棄すると決定した段階で本件契約の第8条(指定用途供用義務)に違反する。高知県に返納せず廃棄処分業者への引き渡し・高知市焼却場に所有権を移転する(第12条所有権移転禁止違反)前に、指定用途供用義務の第8条に違反し、それによって第15条(契約解除)に該当する。除却処分ももとより解除条件に該当するが、除却する前に供用廃止を決定したことで解除条件を成就するから、この時点で本件図書の所有権は高知県に返っている。本件大学法人は、高知県の所有権のあるものを除却・滅損したことになるのである。
原判決は、本件除却処分が既になされてしまった後に解除したとしても・・・ というが
大学法人側が除却を決定し本の選考をする期間に被控訴人には対応する時間が十分あった。被控訴人は国の法律により日常的に大学法人の業務を監督し指揮する責任を負っていた。
民法128条の規定では、解除条件の成否未定の間は、条件が成就した場合にその法律行為から生ずべき相手側の利益を害することはできない、とされている。
また、契約未解除での除却処分は、高知県の得られるべき利益(数万冊の図書の返納、所有権)を侵害することは明らかである。この場合、本件図書の所有権は、高知県に返ったものと判断される。
民法第127条の第3項によれば、当事者の意思で、解除条件が成就した場合、その効果をそれ以前に遡ぼらせることも可能である。被控訴人が、本件図書の所有(契約前の原状に戻す)を申し出て大学法人がその申し出を拒絶することは想像できない。
それは、本件契約書の両当事者は、地方独立行政法人法など関係法令を遵守するものであるから、本件のような「不要財産」となったものは、法律の通り元の出資者に納付するということをあらかじめ互いに了解していた。したがって、民法第127条第3項の条件成就の時点以前に遡って解除の効力を生じさせるという当事者の意思は明らかであり、これを否定することは許されない。仮に除却後に解除したとしても解除の効力は始原に遡及し本件図書の所有権は高知県に戻っていたというべきである。

【二】本件違約金について

一、監査請求前置について
 原判決は、本件監査請求は高知県知事が本件図書を除却処分をした本件大学法人に対して損害賠償請求権を行使することを求めるであるから、本件譲与契約上の大学法人による義務違反による違約金支払い請求権を行使することを求めるのは、控訴人の監査請求書の中に入っていず、したがって監査請求前置主義に違背する。その理由として、
損害賠償請求権と違約金支払い請求権とは、法的性質を異にするまったく別個のものである、という。すなわち、
本件監査請求は、本件除却処分に関して高知県知事が「適切な措置」を執ることを請求するものであって、高知県の財産とされるべきであった本件図書等が違法に焼却されたことにより高知県が被った損害に関して、高知県知事が本件大学法人に対する損害賠償請求権を行使していないことを財務会計行為上の行為として・・・・。
一方、違約金請求については、本件図書の所有権を廃棄物収集運搬処理業者等へ移転したという本件譲与契約上の義務違反行為に関し、高知県知事が、本件譲与契約14条項に基づく違約罰としての違約金支払い請求権を行使していないことを財務会計上の行為として主張するもの・・・・。
両者に係る請求権はその発生根拠や法的性質を異にする全く別個のものであることは明らかである。という。
しかし、両者が性質の違う別個請求権であることは、その通りであるが、一つの事件から複数の請求権が発生しているものはそれぞれ別々に訴訟にかけなければならないという理由が不明である。両者の性質が違うという事実を摘記すれば理由の説明もなく却下の理由になるのであろうか。
本件訴訟は、法的には国の法律である独立行政法人法と本件譲与契約書の二つに基づいている。監査請求の段階では、とりあえず前者の国の法律に基づいて請求がなされた。
監査委員は、理由をつけて本件監査請求を却下しそれを控訴人に通知してきた。
その通知書に記載された理由というのは、本件譲与契約書に基づき、本件図書は大学法人に所有権が移っているので、高知県とは無関係だというものであった。(甲1、2号証)

してみると監査委員は、少なくとも本件譲与契約書の内容を吟味したことは間違いない。
その契約書には、契約違反の場合、大学法人は損害賠償だけでなく違約金の支払いも、また、
契約解除の条項も入っていた。監査委員の監査は何も住民の請求したことのみを監査するというものではない。住民の監査請求の一端の事実を契機として当該事件に関するその他の違法性にも調査し監査が及ぶことは当然である。
本件についての監査は本件譲与契約書を取り上げた以上、その内容として損害賠償のみならず違約金についても監査が及んだものと考えるが、所有権が移転しているということで監査請求は却下された、というものである。

二、監査を経たか

そこで問題なのは
第一に、住民訴訟の前置である監査を経るとはどういうことか、である。
第二に、一つの違法事件で監査段階で住民が問題としなかった違法性について訴訟段階で提起することはできないのか、
第三に、一つの違法事実で根拠の異なる性質の請求はできないのか。
(1) 第一の問題について:
地方自治法第242条の監査請求の条項では、住民監査とは①住民による請求書の提出②監査委員会の受理③監査委員の監査④監査結果の通知のこの過程である。
そしてこの④の監査結果に不服の場合住民訴訟が提起される。あくまでも④の結果に対する評価によって訴訟が行われるかどうかが決まるのである。
本件監査では、④の監査結果の通知の内容を踏まえて訴訟を提起していることは明らかである。請求書段階では、本件譲与契約の違約金については言及していないが監査結果にはそのことを含む契約書を踏まえた審査・ないしは判断が明記されていた。だから違約金問題は監査を経ていたことは明らかである。
(2) 第二の問題について
高知県の許可もなしに本件図書の除却という一個の財産管理上の事件で監査の結果には内包されていたが監査請求書には明記されていなかった請求を、当初の請求と一緒に訴訟で提起するのはいけないのか。それについては最高裁判例が参考になる。すなわち、
原審控訴人準備書面(3)で引用した以下の判例であるが、原判決はこの判例を一顧だにしていない。(平成10年7月3日最高裁第二小法廷判決 平成6年(行ツ53号)
住民訴訟につき、監査請求の前置を要することを定めている地方自治法第二四二条の第一項は、住民訴訟は監査請求の対象とした同法二四二条一項所定の財務会計上の行為又は怠る事実についてこれを提起すべきものと定めているが、同項には、住民が監査請求において求めた具体的措置の相手方として右措置を同一の請求内容による住民訴訟を提起しなければならないとする規定は存在しない。また、住民は監査請求をする際、監査の対象である財務会計上の行為又は怠る事実を特定して、必要な措置を講ずべきことを請求すれば足り、措置の内容及び相手方を具体的に明示することは必須ではなく、仮に、執るべき措置内容等が具体的に明示されている場合でも、監査委員は、監査請求に理由ありと認めるときは、明示された措置内容に拘束されずに必要な措置を講ずることができると解されるから、監査請求前置の要件を判断するために監査請求書に記載された具体的な措置の内容及び相手方を吟味する必要はないといわなければならない。そうすると、住民訴訟においては、その対象とする財務会計上の行為又は怠る事実について監査請求を経ていると認められる限り、監査請求において求められた具体的措置の相手方と異なる者を相手方として右措置の内容と異なる請求をすることも、許されると解すべきである。(甲第11号証 下線控訴人)
最高裁判例に照らせば、監査請求の段階の措置の内容(損害賠償請求)と訴訟段階での異なる内容の請求(違約金請求)も許されるというのである。
(3)第三の問題:
 上掲最高裁判例からすると、根拠が異なり、性質の相違する新たな請求でも問題ないということになる。違約金の請求と損害賠償請求は性質が違っていることは当然である。
地方自治法には、一つの違法行為から性質の違う複数の措置請求を出す場合、それぞれ別個に訴訟を起こさなければならないという規定はない。例えば賠償請求と差し止め請求は別種の請求であるが、その場合でも、一個の訴訟で問題の解決を図ることができる。
普通の裁判でも一つの契約書で1個の違反行為に対し損害賠償に違約金支払いが加重されたからと言ってそれぞれの請求について別個の裁判を起こさなくてはならないのか、他の裁判は構わないが住民訴訟では、いけないというのであろうか。関連する複数の請求の合併は許されないのか。
本件住民訴訟は行政事件訴訟法では民衆訴訟に入る。同法第16条から19条は当事者訴訟についてであるが、同法43条において民衆訴訟にも準用する規定がある。
準用される同法第16条では、関連した請求には訴えの併合が認められている。
本件損害賠償請求と違約金支払い請求は、一個の契約書から出たもので一個の違法行為(除却)から義務付けられたものであり、直接連関している。
被控訴人そして原判決は、独自の独断的見解ではなく法令にのっとった主張や判断が求められる。

三、不当利得返還請求について
原判決のさらなる独自の見解は続く。原判決は
地方自治法第242条の2第1項第4号は、損害賠償又は不当利得返還の請求に限定して普通地方公共団体の執行機関又は職員に対しこれらを行うことを義務づけることを許容しているところ、本件譲与契約第14条2項において、同条1項に定める違約金は、損害賠償の予定又はその一部と解釈しない旨定められていることからしても、本件違約金支払い請求は、地方公共団体と契約を締結した相手方の当該契約上の義務違反に対する違約罰としての違約金の支払いを求めるものであって、その性質は、同号に言う損害賠償又は不当利得返還の請求とは異なるというべきである。したがって、本件違約金支払い請求は同号の要件を充足しない不適法な訴えであるといえるため、この点でも却下は逃れない。
(原判決21頁)

という。原判決は不当利得という概念をどのように理解しているのかいぶかしい。
控訴人は、本件大学法人の本件譲与契約違反による違約金を払わないのは、不当利得に該当すると考える。
学説によれば、不当利得には本件のように、本件大学法人の側が財産の増加など積極的利益はないものの、本来なら減少したはずの財産が減少しなかった場合(消極的利益)も該当するといわれる。高知県側からすれば、本来なら増加したはずの財産が増加しなかったのであるから、不当利得の要件は満たされている。このような意味での不当利得も返還請求の対象となる。本件請求は、地方自治法第242条2の4号請求に何ら違反していない。
本件違約金について付言すれば、契約書に違約金の条項を設けることはよいとして、損害賠償とは別個に巨額の支払い義務が設定されている。それは一つには、本件図書のように過去の購入時、あるいは新規購入には数億円の費用が掛かかるのに、事件時の損害賠償額は数千万円にすぎないというアンバランスを是正する意味があったと推量する。
ただ、被控訴人が、違約金の支払いが高すぎると思うなら本件契約書を是正するべきであって、今なお現在の条項のまま現行の違約金制度を維持する以上は、控訴人としてはこれに基づく請求を維持せざるを得ない。被控訴人自身が定め、これを維持し続けているものを、自らが不合理だといって非難する、その非難をまともに判決文に反映するというのは、常識では考えられない。

四、違約金についての本案についての判断
1、本件譲与契約第12条の1項(譲与物件の譲渡禁止)は第8条(指定用途供用義務)を別の観点から担保し保証するためのものと考えるが、被控訴人はこの禁止規定には「譲与物件の除却処分はふくまない」という。その理由として、耐用年数が10年未満の動産は無数に存在し得るし、その単価も50万円はおろか、
千円にも満たないものは多数あるはずであるが、そのような物件が一切処分できず、仮に、数千円の物件を誤って廃棄したとして、直ちに3億円を超える違約金を支払わされるというのは、明らかに不合理である。という。

それはその通りで、当事者が納得して決め今もそれを守っている事実ではあるが、契約書の規定機械的に解釈運用することは不合理な事態を招く恐れがあるだろう。事案に応じて公平な判断が求められる。しかし、また、数万冊の物件の処分を数千円の物件と同列に扱うのも不合理というべきではないか。原判決は、続けて言う。
本件譲与契約12条1項が定める期間や違約金の額からすれば、耐用年数も相当期間存し、かつ、ある程度の高額資産である不動産や工作機器などを対象としており、地方独立法人がこれを転売するなどして不正の収益を上げたり、同法人の財政的な基盤を著しく脆弱化させたりすることなどを禁じる趣旨の規定と理解するのが相当であり、少なくとも、同法42条の2第1項の手続きすら不要とされる除却処分に関して、法の規定以上に厳格な規律を設け、厳重な制裁を課す規定を設けたものと解することはできない。という。
   (原判決22頁中段)

「法の規定以上に」という文章を除けば、被控訴人の言う通りであろう。
本件譲与契約の12条1項は不動産に限らず「ある程度高額の資産」を対象にしていることは間違いない。元は数億円かかり本件除却処分当時でも数千万円の価値があると大学法人が算定している本件蔵書は、「高額の資産」に該当するのではないか。
法の規定以上、という法とは何かわからないが、地方独立行政法人法をいうのであれば、契約自由の法理からして違約金の金額をどのように設定するかは契約当事者が決めることであって、法はもともとあずかり知らぬことである。ただ、除却・棄損された対象物件の値打ちによって違約金に格差があるべきであろうし、法外な違約金は社会通念上認められないだろう。本件の違約金は、本件譲与契約の第14条の1項(1)の規定に基づくが、数万冊を新規に購入するとなると、3億円を超え、数千万円の損害賠償金だけでは償えないから、本件違約金の額は、さほど法外な金額とは言えない。今になっても契約者双方がこの契約条項を維持している以上、原判決が本件違約金制度をいくら非難しても始まらない。

2、「形式的な所有権の移転」

原判決は、除却処分の過程における形式的な所有権の移転を観念して除却処分を禁じることはもとより想定していないはずであるから、除却処分の手段あるいはその結果として、第三者が所有権を取得することがあったとしても、本件譲与契約12条1項に反しないのは当然である。
という。「形式的な所有権の移転」とはどういう謂いなのかわからないが、「形式的」には一応所有権の移転があったということを認めるようである。本件の経緯からすれば、形式が重要であり、それが整っていれば、実体は大学から業者に渡ったのだから所有権移転は有効と判断される。廃棄物処理業者も高知市の焼却工場も、捨てた無主物を拾ったのではなく、本件大学法人が除却処分として、処分実行の業者として選ばれ、物件を手渡されたのである。形式も実質もきちんとそろっていた。大学法人が明確に相手を定め意図的に、形式だけでなく実質の所有物件を業者に渡したのである。所有権移転というのは形式を整え手続きを踏んで実物を相手に渡したところで完了する。元の所有者は当然所有権を失う。本件の所有権移転はそれに滞りはなく完璧であった。渡された廃棄物は有用なものでも不要なものでも、渡された業者や自治体の所有物となる。特別な約束がない限り灰にするか再生紙にするか受け取った業者や自治体の規則によって処分される。地方自治体では廃棄物の所有権を明確に条例にうたっているところがあり、高知市でも集積された廃棄物が盗難にあわないようにパトロールの費用まで出して所有権を守っている。本件数万冊の蔵書は最終的には高知市(処分工場)に所有権が移転されていたのである。

貴重な蔵書を焼却処分場に持っていきこれを除却するなどというのは指定用途の供用の規則違反でも最も悪質であり、だれか学生や市民に渡すというのならともかく、数万冊を十把一からげに焼却させたというのであるから、所有権移転を通り越してそれをはるかに超える衝撃的かつ無謀な処分である。

3、解除条件

原判決は、最後に、
本件違約金支払い請求が認められるためには、本件譲与契約14条1項1号より、本件大学法人が第三者に本件図書の所有権を移転し、かつ、高知県が本件譲与契約を解除したことが必要となるところ、前記のとおり高知県が本件譲与契約を解除した事実は認められないのであるから、本件違約金支払い請求権は発生していないといわざるを得ない・・・・。
という。
そもそも本件大学法人の業務への日常的な監督と指導責任について無頓着だった被控訴人が、本件蔵書の管理についても無頓着であり、解除条件が充足しているのかどうかなど本件契約についても無関心であった。契約を解除しなければならない段階でそれをしなかった。
その怠る事実の違法性が問われているのに原判決は、怠る事実を是とし前提にして本件に判断を下すのである。解除することを待って住民訴訟をするというのであれば怠る事実の違法性は没却され百年河清だ。

ちなみに、第14条(2)、(3)には解除条件は付いていない。(3)の違約金規定では第8条の指定用途供用義務違反であるから、金額は少ないが、違反事実の発生と同時に直ちに請求は成立するということになる。14条の3つの各違約金の規定では解除条件があったりなかったりであるが、各場合の義務違反にはさほどの差異は見られず、それぞれでは、当然契約解除になるから、解除条件の記載の存否は問題にされていないと考えられる。
ちなみに契約解除は、譲与契約の全体ではなく、その違反条項の問題の物件に限られると考えられる。


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2019年3月13日 (水)

県立大学蔵書焼却事件住民訴訟の成り行き

高知新聞等で暴露報道された高知県立大学による数万冊の蔵書焼却事件は、県が購入した時には3億円以上もした貴重な図書だった。

これを何の適法な手続きもせずに焼却したり古紙として処分されたのである。県民の誰もが驚愕したであろう。

 

だが、公の財産のこれほどの破却という犯罪について、反省とか残念とかいうだけでだれも法的責任が問われないまま終わろうとしている。

私は県の監査委員会に住民監査請求したが、にべもなく却下され、やむなく住民訴訟を提起した。

 

この事件の核心は、第一に国の法律(地方独立行政法 不要となった財産は元の地方自治体に返還する義務)に違反していること、第二にこの蔵書はもともと高知県が購入したものであるが、行政法人になった県立大学に譲渡された。この場合譲渡契約があり、それによると10年間大学は使用目的に沿って譲渡された財産を供用する義務があり、これに違反した場合は損害賠償や違約金の支払いが課されていた。

大々的に報道した高知新聞などは、このような重大な法的責任(国の法律違反、譲渡契約違反)について一言も語らない。

 

高知県知事尾﨑は、まるで第三者のような顔をして論評しているが、それどころではない。

県立大学が大学法人になって高知県から自由に成ったと思っているようだが、前掲の国の法律では、従来と同じ程度に大学運営について監督責任、業務指導責任が明記されている。不要となった財産の処分業務についても知事は大学に対して直接指揮監督上の責任がある。

 

本件の裁判はこれらの知事の法的責任について争われているのである。

 

平成30年行ウ第7号 損害賠償請求事件

原告 澤山保太郎

被告 高知県知事 尾﨑正直

 

  原告準備書面(2)

                平成312月8日

高知地方裁判所 殿

                       原告 澤山保太郎

 

被告準備書面(1)について

 

 

一、「後段請求」(2頁~6頁)について

 

、被告は、「前段請求」については、「一応は住民監査請求を行っている」が、「後段請求」については、「住民監査請求さえ行っておらず、…監査請求前置の要件を満たしていな

い・・」、したがって地方自治法の242条2の第1項の趣旨に反するという。

「前段請求」というのは、国の法律に基づく損害賠償請求であり、「後段請求」というのは訴状の訂正で付け加えた請求で、これは被告高知県と大学法人の間で締結されていた譲与契約書(甲第7号証)に基づく損害賠償のことである。

今回被告は特にこの「後段請求」に力点を置いて最高裁判例を曲解までして原告の主張を非難をしている。しかしこの非難は、最高裁判例が本件に該当すると誤解してなされたものであり、失当である。

 

、平成265日の最高裁第三小法廷の判例(乙第5号証)

 

 この判例の趣旨は、

「支出の名目が会議接待費あるいは工事諸費と特定されているだけで、個々の支出についての①日時、②支出金額、③支出先、④支出目的等が明らかにされていないのみならず、⑤支出総額も5000万円以上という不特定なものであって、・・・本件監査請求において、各公金の支出が他の支出と区別して特定認識できる程度に個別的、具体的に適示されているものとは認めることができない。したがって、本件監査請求は、請求の特定を欠くものとして不適法というべきである。」(①~⑤は原告)という判断にある。

この判断が果たして正しいかどうか最高裁でも意見(少数意見が付記)が分かれていたが、

この判断の基軸となるのは、対象となる事件の特定(本件では大学図書の焼却事件)のうえ、監査請求書に上記①~⓹の具体的な特定がなされているかどうかである。

これらの個々(本件では図書の焼却処分という1個の行為)の事実について具体的な特定がなされているかどうかに照らし合わせて判断すべきであって、その行為についての住民側の法的評価、法的根拠の主張の有無、訴訟段階でのそれら法的根拠等の追加・変遷などは、監査請求前置の可否の判断には無関係であるということである。

 

、本件監査請求

 

上掲最高裁判例に照らしても本件監査請求の内容では、何の問題もない。

請求書本文と証拠として提出した新聞などによって事件は特定されているし、最高裁判例の当該財務会計行為の事実の特定①~⑤のうち⑤の財産管理の性質上支出金額は出ていないが、それ以外はすべて請求書及び提出した新聞記事等で適示されている。

 の日時(平成25年度以降4年間29年度まで 学長声明)、②の損害の財産の規模(図

3.8万冊 学長声明 )、③の処分先(高知市清掃工場 高知新聞)、④の目的(除却 高知新聞、学長声明)⑤の除却(焼却)の費用は高知県の出費ではない。

 

、被告が問題にしているのは、監査請求対象の財務会計行為(本件では財産の管理を怠る)事実関係ではなく、その行為の依拠すべき法的根拠となる譲渡契約書についてであ

る。

この契約書は確かに本件住民監査請求書では問題としていない。むしろ、住民(原告)側から出した請求について監査委員側が検討して出してきたもの(甲第2号証)である。すなわち「県と高知県公立大学法人との間で平成23年4月1日付で締結されていた県有財産譲与契約書」のことである。

これは、原告の請求の指摘する法的根拠以外の他の根拠(証拠)にも監査が及ぶことをしめすものであり、事実上それについて監査が実施されたのである。

原告の請求によって特定の証拠について監査が実施されたものを、監査がされていないと不平を鳴らすというのは一体どういうことなのであろうか、正気の沙汰とは思えない。

 

、地方自治法第242条2の第1項(住民訴訟)の冒頭の規定では、住民は、監査請求をしたうえで住民訴訟に及ぶことができるが、それは「監査委員の監査の結果」等に不服があ

る場合である。原告は一つには上記の譲与契約書についての監査委員の監査の結果につい

て不服であったので訴訟に及んだのである。

住民訴訟の前提というのは地方自治法の規定を厳密にいえば、単に住民が監査請求をした

というだけではないのであって、①住民の監査請求提出②監査委員の監査③監査の結果の

通知および公表、④住民側の監査結果への不服による提訴、の全過程を言うのである。

また、住民側の監査請求に具体性を欠くとか、証拠が十分でないとか、ということだけでは

監査委員はこれを却下できないし、裁判所も同様である。

地方自治法242条1(監査請求)の第6項の規定では、住民に証拠の提出や陳述の機会を与える義務が明記されている。

本件のようにそのような機会も与えない義務不履行、監査委員の眼をすらも通してもいないと思われる(事務局員での取り扱いのみ)監査の違法な実態を考慮するならば、たとえ事実の適示に不備があったとしても前掲の最高裁判例のような荒っぽい判断は許されない。

 

、なお、訴訟段階で監査請求と同一の特定の事件について、新たな証拠、新たな違法事由を取り上げたからといって、元の監査請求が不適法になるわけはない。またそれによって

請求金額が監査請求段階のそれと相違したからといって監査請求前置主義に違背すること

はあり得ない。このことは、原告準備書面(1)で最高裁判例を挙げて主張したとおりであ

る。

今回の被告準備書面6頁の上段でも

「昭和62年最判はあくまで住民監査請求を経た特定の財務会計行為について、住民監査請

求時に指摘していない違法事由を住民訴訟の段階で新たに追加して主張することを許容す

る旨判示するもの・・・」と被告もその趣旨を了解しているようである。

原告は監査請求から現在の訴訟に至るまで、被告が、特定の期間に、特定の公の財産を、違

法な手続きで、没却された事実について、これの回復措置行為を怠った、という事実につい

て問題にしており他に財務会計行為上の何の事実も付加していない。

 

二、被告の本案の主張について

 

本件事件は、高知県立大学が図書館移転の際に新館に収容しきれない図書数万冊を焼却したという不祥事は紛れもない事実であり、公共の、特に学問研究に必要な図書を焼却するという野蛮な行為について多くの県民が開いた口が塞がらないほどに驚いた事件である。

しかるに被告は、本法廷においてこの所業について一言の反省の言葉、謝罪の言葉もないばかりか、傲然と開き直ってやまず、姑息な弁解が続く。

 

1、蔵書の処分の実態

 

その姑息な弁解の第1が、地方独立行政法人法第6条第1項の規定をめぐるものである。

そこには、不要となった財産の設立団体への「納付」の義務が定められているが、その財産については条例で定める重要な財産となっている。

それに関する県の条例では、50万円以上の財産となっていて、本件処分対象となった図書は150万円を超えるものはないので不要財産の「納付」の義務はない、というのである。

この主張は法の規定の潜脱を意図する姑息な弁解というべきであろう。

数万冊の処分した蔵書を1冊1冊に分割するというのである。

あたかも原告や本件処分を悔しがる県民のように本件処分の書籍を11冊大事に管理してきたかのような口吻である。

確かに、図書は購入する段階では、1冊づつ購入され登録される。本件処分段階においては、まったくそうではない。

 購入:個別冊子として登録 ⇒②管理:蔵書 ⇒③処分:機密書類(重量㎏)

 

 の段階以外では、図書館では一般的に図書、蔵書と集合的にとらえられている。

本件について新聞や学長声明、県庁のホームページや県議会資料(乙4号証)などでは「蔵書」と表現され、本件についての第三者検証委員会の名称も「高知県立大学永国寺図書館の蔵書の除却検証委員会」となっている。本件大学法人の図書管理規則でも「蔵書」と規定されている。図書館などで蔵書とは一般的に相当量の書籍の集合体である。

3万8000冊の処分された蔵書のうち焼却されたのは2万2千冊余であるが、それらが焼却場に行く前の処分を決定する大学の決裁文書では、11冊の本でも蔵書でもなく、「機密書類」として一括(実際には12回に分割)され重量kgで測られる紙に転化していた。。焼却炉に入れられる前に巨億の価値がある蔵書が無価値物体にされたことが問題になっているのである。被告は、購入時の本の取り扱いを主張しているが、問題は管理段階の本の集積(蔵書)の把握の意識であり、特に本件で問題となるのは処分時の認識のありようである。1冊1冊選び出した対象書籍の数万冊の束は除却の対象として全体として集合的に、文字通り十把一絡げに把握され処分された。大学も検証委も本件被処分書籍を「蔵書」としてそう認識していた。

 

ここで問題なのは、図書館所蔵の本を1冊1冊の個別のものと見るか集合的なものと見るかではなく(見方によってどちらでも見られる)、取り扱いの各段階において大学がこれら書籍をどのように位置づけるべきだったのか、またどのように位置づけたか、である。

農産物や水産物も育てたり収穫(捕獲)したりするときには個体として扱うが、処分するときには集合体としてみ、扱う場合が多い。キャベツでもナスでも育成や収穫するときには1個1個だが、販売時には箱に詰められ集合体として出荷される。

なお、被告の今回の準備書面でも原告と同じ認識で本件蔵書処分を集合的に把握して遂行したことを吐露している。すなわち

「・・・業務効率化の観点から、適切なタイミングである程度まとめて除却手続きをとることは当然であり、・・・」(8頁)といっている。

 

2、図書の財産的重要性

 

学術研究・教育機関である大学、とりわけ大学図書館では、図書が最も重要な財産である。県立図書館もそうであるが高知県の大学の所蔵図書は極めて貧弱であり、学術上専門図書の集積は劣悪であって私が専攻してきた日本史学の分野でも県内図書館では満足に重要書籍や論文を見ることができない。全般的に大学が学術的文献の収集に熱意があるのかどうか疑わしい。今回の大量の焚書が大学図書館自体によって行なわれたというのも書籍収集の重要性について正しい認識が欠落しているところから生まれたと感ずる。

地方独立行政法人法の第6条4項で取り上げられている高知県条例(「高知県公立大学法人に係る評価委員会及び重要な財産に関する条例」 乙1号証)について被告は、原告の主張が県の「条例制定者の意志」に反しているかのごとく主張している。しかし、問題はこの条例の9条の第1項の50万円以上の重要財産の限定が、数万冊巨額の図書館蔵書の処分を可能とさせる根拠として使われることを想定していたであろうか。また國の法令制定者の意志に沿っているであろうか。

 

そもそも不要財産の処分については前掲法6条第4項だけでなく42条2第1項の二つの規定がある。6条第4項の規定には、不要財産の処分については42条2に基づく手続きの指定と不要財産について設立団体の条例の定めの二つの条件が付けられているが、42条2第1項には不要財産の「納付」義務がうたわれているが、不要財産それ自体には何らの条件も付されていず、第2項以下でその納付手続きが規定されているだけである。

一つの法令で条件が付された前条と無条件の後条が並立した場合国民はどう考えるべきであろうか。前条は義務負担者にゆるく、後条は厳しいが県民には有益である。しかも前条は後条にその実施をゆだねている。県の条例の定めは後条にまで及ぶであろうか。

図書の中では、金額に換算できないほどの貴重な価値があるものがたくさんある。

国の法令や地方自治体の条例がそのような貴重な財産をでたらめな公務員の恣意的な処分判断から守ることができないはずはない。

また、例えば、本件数万冊の書籍を第三者に譲渡してその収益が数千万円、あるいは数億円あって場合でも、被告はこの金を高知県に報告したり返納したりする必要はない、というのであろうか。

 

3、本件譲与契約違反について

 

被告準備書面では、原告が本件譲与契約を取り上げたことを何か「仮定的あるいは予備的主張」と貶めているようであるが、そのようなものではない。

主張」と受け止めているようであるが、そのようなものではない。

本件請求には二つの法的証拠を挙げていて一つは国の地方独立行政法人法と今一つは本件契約書である。本件訴訟の本筋である。

本件処分行為が本件譲与契約書の主な各条項に違反又は該当する事実は次のとおり。

 第7条・8条 譲与物件を特定始期から指定用途に供すること

 第12条 譲与物件の所有権移転等の禁止

 第13条 県の実地調査

 第14条第1項 違約金

 第15条 契約解除  

 第16条 原状回復義務

 第17条 損害賠償

 第19条 契約解除と特別違約金

 

(1) 第7条は譲与物件を指定用途に供する義務の規程であり第8条は、その実施始期    を定め、それ以降の指定用途の供用を定めたものであって、1個の規程とみなされる。

  第7条の指定用途の供用には期間の限定はないからいつでも自由に処分できるとはならない。物品の耐用年数や使用価値の寿命が限度となると考えられる。

(2) 第13条の実地調査の規程のほかに、県は、前掲の高知県公立大学法人については評価委員会を設置しその業務を評価する組織を作っているが、本件について被告も評価委員も調査した記録はない。

(3)第15条の契約解除の理由は少なくとも第7条、第12条第1項に違反している事実がある。本件譲与契約の締結後数年しか経っていないのに、蔵書について大規模な指定用途の解除を勝手に行ったのであるから契約解除の理由となる。

(4)違約金とは別に損害賠償の義務がある。

 

4、第12条の所有権移転について

 

 被告は、本件処分は譲与契約書第12条には違反しない、所有権を第三者に移転していない、したがって第14条等の違約金の支払い義務もなく、契約の解除ということもない、という。しかし、被告の11頁下段~12頁での主張では

 「本件除却に関する決裁をした時点において、同法人は当該対象書籍について所有の意

志を有さなくなったものであり、その時点で所有権を放棄している・・・」といい、

 また、「「引き渡しを受けた廃棄物収集運搬処理業者や清掃工場」が「それぞれの役割に

応じて当該対象書籍を事実上占有していた・・・」ことを認めている。

そうするとこの①,②は、民法第239条の規定にぴったり当てはまり所有権の実質的移転が達成させたものと考えられる。むろん被告が心配するように、処理業者や高知市の清掃工場にはそれぞれ法令の規制や施設の規則等があるからこれら廃棄物を自由に使用したり転売したりする恐れはあり得ず、焼却して灰にするか溶融して再生するしかない。

一般に産業廃棄物とは違って紙類などの一般廃棄物は、回収・処理業務をしている市町村の所有物に転化しているといわれそれを条例化しているところもある。

 

5、その他の被告の主張について

 

1)被告が、不要財産が発生したからといって直ちに賠償責任や違約金の支払いの義務の発生、また契約解除等がなされるものではなく、所定の手続きを履践しなければならない、

というのはその通りであり、原告はこれらの手続きが行われていないことを問題にしてい

るのである。

確かに不要財産に関する設立団体への「納付」の手続きは法人の側から始まる。

だが、本件大学法人の設立者である高知県知事は、法律(地方独立法人法)上、本件大学法人に対して直接または間接的に人事、財務も含む業務運営上の全面的な権限と責任を持っている。その主なものを挙げると、

第7条:法人の定款の制定、11条:法人の事務処理のための県庁内に評価委員会の設置、14条:法人の理事長、監事の選任、17条、それらの解任、25条~30条:不要財産の処分計画を含む日常業務計画の策定と業務の評価、業務改善・組織の存廃などの措置命令、30条:業務の検討、所要の措置命令、34条:法人財務諸表、決算の承認、36条:会計監査人の選任(39条その解任)、46条:財務会計事務の規則制定、121条:業務について報告を受け、検査の実施、122条:措置命令、…等々である。

不要財産の発生とその処理についても全的に把握し適正な処理を指示できる立場にあった。

不要財産の処分を含め被告は、実質的に大学法人に対しては法人化する以前と同程度の権限と責任を負っている。

 

2)また、高知県には本件処分対象書籍は「納付」もされずその手続きもなされていないから「高知県の財産となっていない。したがって、本件除却によって高知県の財産権が侵害

された事実はないから、…・損害賠償権を有しておらず、・・・」という」

しかし、本件請求は、一つは違約金の支払い(譲与契約書第14条第1項)を問題にし、もう一つは、損害賠償金(譲与契約第17条)を問題にしているものである。

後者については、「納付」によって得るべき数万冊の蔵書という財が得られなかった損金の賠償金である。

もともと本件譲与契約は解除付き契約の一種であって、違反行為があれば譲与そのものがなかったものになるのである。

3)また、被告は、原告の主張によればパソコンなど破損した機器や陳腐化し要らなくなった本など「別紙2」の物品について適当に廃棄したり第三者への譲渡も一切できなくなる

などと非難するが、本件訴訟では、そのようなものは全く無関係であって、十分価値ある数

万冊の蔵書の焼却を問題にしている。汚れたり破損したり時代遅れになった機器類、不要と

なった雑誌や書籍の処分の方法については適法な方法で処分すべきであり、その方法がな

ければ設立者(被告)は大学法人側と協議してそのルールを確定すればよい。本法廷で議論

するべきことではない。

三、本件請求の法的性格

本件請求は、地方自治法第242条2(住民訴訟)の第1項のうち、四号の請求で、その前段の請求であって、違法に公の財産の管理を怠る事実についてそれにかかわる首長高知県知事に損害賠償を請求するものである。

この場合の財産とは上記のとおり高知県公立大学法人に対する違約金の請求権・徴取権、及び同大学法人から「納付」を受けるべき財産に相当する金額(損金)について同大学法人への賠償請求権である。

 

 

 

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2018年8月24日 (金)

高知県の焚書事件

News & Letters/647
高知県立大学(高知県公立大学法人)が3万8千冊もの図書を焼却したというニュースが8月17日に流れた。痛ましい限りだ。これについて大学や高知県の態度は、生ぬるい。反省が十分ではない。
むしろ、開き直りだ。県民の費用で購入した貴重な書籍を大学内部の判断だけで焼却したのである。
昨日8月22日の高知新聞で知事の見解が出ている。第3者のようで大学の処置を
擁護さえしている。「軽率な対応ではない」とか決して「焚書ではない」という。
第1に、大学の図書は、大学の所有物ではない。県民のものである。
その処分は大学だけではできない。大学が大学のものは大学のものだという思いあがった考えが問題だ。
このような考えは市町村にもある。室戸市らが、特養老人施設や保育園を民間団体にただで譲渡したりするなど法令を無視し公共物を私物化する傾向がある。
公費で買った本は1冊といえども県民のものであり、適切な方法で県民に還元するという考えができない公務員がいっぱいいるということが問題なのである。公務員になったら特別な権限を付与されていると思いあがっているのである。
第2に、法令無視だ。高知新聞によれば不要な図書と判断した書籍を大学が専権的に処分を決めて実行したという。
県立大学の図書館の図書は県(県民)の金で購入したものだ。県立大学は学生からの授業料などの収入もあるが基本的には県の予算で運営されていた。もともと高知女子大の附属図書館の蔵書は県の財産だった。
現在は「地方独立行政法人法」の適用を受ける公立大学法人だから、その法律の第42条2の第1項に基づいて不要な財産の処分を行わねばならない。その規定によれば、大学法人は不要な財産を勝手に処分することはできない。
それは、元の高知県に「納入」しなければならないと規定されている。
知事は、この法律に基づいて発言しなければならない。不要とされた3万8千冊の最終的な処分の権限は知事にある。
知事は自己の権限を干犯されていることにも気が付かず、「残念」だなどと第3者ずらしているのではなく、怒りをもって糾弾し責任を追及する立場にある。大学の教授連も除却予定の本を選んで自分のものにしたというが、何の権利があってそのようなことができるのだ。
泥棒ではないか。恥を知るべきである。
確かにこの事態は、昔の言論や文化への抑圧の「焚書」ではない。しかし、現代の「焚書」だ。森友、加計学園にみる通り行政権力の肥大化による大小の行政官僚による公有財産や公費の乱用、私物化の中で起こったのであり、首相や知事など首長が関与しているのである。

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2016年9月 1日 (木)

茶の本 岡倉天心

News & Letters/517

福島原発事故は、かつてリスボンの大地震がヨーロッパの思想界に与えたと同じ衝撃を
私たちに与えている。神学の予定調和からヒュウマニズムへの転換。
原発を頂点とする近代科学神話からヒュウマニズムへの転換が必要だ。
ただ単にエネルギー源の選択の問題だけに終わってはならない。

岡倉天心の「茶の本」は、茶道について宗教的・芸術的な説明がなされているが、その中に次のような一説がある。

「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっている間は野蛮国とみなしていたのである。
しかるに、満州の戦場に大々的な殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。
近頃武士道ーわが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術ーについて盛んに論評されてきた。
しかし、茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の道を多く説いているのであるが。

もし我々が文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。我々はわが芸術及び理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。」

我々が世界に対して誇れるのは、武器や強兵でもなく、大量生産大量消費、成長・成長の経済でもなく、平和な文芸にふける静かな世界であって、自然を愛し、上下差別なく人が交わる茶道の世界、岡倉が言う「野蛮国」なのである。

日本が日清日ロ戦争に沸き立ち、軍国主義にひた走る時代に、岡倉天心は堂々と反戦的文明批判を行っていた。

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2015年9月27日 (日)

楽譜 君死に給うことなかれ

News & Letters/439

今こそ、与謝野晶子の君死に給うことなかれの歌を歌う時である。
私はこれを中学2年の時に、歴史の授業で大寺美也子先生から教わって、その時から現在まで
ずっと歌ってきた。車を運転するときには大概この歌を1番から5番まで歌っている。
戦争法をこの歌で包み込もう。

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2015年8月24日 (月)

心情

News & Letters/433

私は、時々少年時代に覚えた(教えられた)歌を歌っています。

     庭の千草

  庭の千草も 虫の音も
  枯れてさびしく なりにけり
  ああ、白菊 ああ白菊
  ひとり遅れてさきにけり

  露にたわむか 菊の花
  霜におごるや 菊の花
  ああ、あはれあはれ
  ああ、白菊
  人のみさをも かくてこそ
                
 最近特にこの歌の意味が身にしみて理解できるような気がする。
 かつての同志は多くが年老いあるいは死去した。
 私は一人残っても、最期まで闘って生き抜かねばならない。

 また、少年時代には軍国主義教育の名残を持った母親から、母親が覚えている小学校唱歌などを教え込まれたものである。

 楠正成の青葉茂れる桜井の・・・の唱歌や 見よ東海のそら空けて、旭日高く・・・皇国とわに栄えあれ の歌など・・・・

 愛国少年に育てられたのであろう。その愛国の熱が転じてマルクス主義学徒になったのである。  

 
  親が教えてくれた唱歌の中で今しみじみと感ずるのは、南北朝戦乱時の人「児島高徳」という唱歌である。

    船坂山や杉坂と
    み跡慕いて 院の庄
    微衷をいかで聞こえんと
    桜の幹に十字の詩
      天勾賎を空しゅうするなかれ
      時にはんれい無きにしも非ず  
  
 私にとって忠誠を尽くす相手は勾賎や南朝の後醍醐帝ではなく、人民である。
      天プロレタリアを空しゅうするなかれ
      時にレーニン無きにしも非ず

                       墨痕淋漓、桜の大木に私はこう書きたい。

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2013年1月18日 (金)

1月17日

News & Letters/325

1月17日は18年も前、阪神淡路の大震災の日であった。

1月17日は歴史的に見て何かと大きな不幸が起こった。

阪神淡路の大震災、ロスアンジェルスの大地震もそうだった、湾岸戦争もそうだった、江戸の明暦の大火事もその日だった、朝鮮戦争も・・・・、

明治の文豪尾崎紅葉の「金色夜叉」のあの熱海の海岸で、貫一お宮の別れもその日だった。
間貫一:

「今月今夜のこの月は、僕の涙で曇らせて見せる」
と1月17日を呪ったのである。

 無教養な私の亡母であったが、熱海の海岸の別れの日が1月17日であることを 
私に教えてくれた。何故なら、高知県の寒村吉良川で昭和19年のこの日に母は私を生んだのであった。

 私が生まれた事は、この人の世に幸か不幸か。ただ親に感謝し、誠実に生きるのみだ。

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2011年6月14日 (火)

ヴォルテールの詩

News & Letters/251

1755年のポルトガルのリスボン大震災が如何にヨーロッパの思想界を揺るがしたかは、ヴォルテールの

       POEM ON THE LISBON DISASTER 

 という詩や、カンディードという物語に現れていて、とりわけ、「リスボン大震災の賦」とも訳される上の一編の詩には、ライプニッツら当時のヨーロッパ思想界やキリスト教神学への痛烈な批判を超えて、現在の原発楽天主義学者への激しい憤りをも感ずる。

東北の大震災、福島原発事故のあり様を目前にして、現代のインテリゲンチャを自任するすべての人々は、ヴォルテールのこの激しい詩を読むべきではないか。
  以下この詩の冒頭を引用する。
   
  Unhappy mortals !Dark and mourning earth !
  Afrighted gatharing of human kind!
  Eternal lingering of useless pain!
  Come, ye,philosophers,who cry,"All is well,"
  And comtemplate this ruin of a world.
  Behold these shreds and cinders of your race,
  This child and mother heaped in common wreck,
  These scattered limbs beneath the marble shafts -
  A hundred thousand whom the earth devours,
  Who, torn and bloody,palpitating yet,
  Entombed beneath their hospitable roofs,
  In racking torment end their stricken lives.
  To those expiring murmurs of distress,
  To that appalling spectacle of woe,
  Will ye reply:"you do but illustrate
  The iron laws that chain the will of God"?
  Say ye, o'ver that yet quivering mass of flesh:
  God is avenged:the wage of sin is death"?
  What crime,what sin,had those young hearts conceived
  That lie,bleeding and torn, on mother's breast?
  ・・・・・・・・・・・
      ・……
  テレビの前で福島原発の大事故にも動じず、大したことはないを連発する尊敬すべき学者先生方にこの詩をささげる。人民の奴僕にすぎない私にもこの詩の憤りが伝わってくる。

  人の苦しみや悲しみにこたえられない哲学や宗教に何の値打があるであろうか。
  人をたぶらかした原発信仰家の科学者達にこそ 

   God is avenged ,the wage of sin is death.

      でなければなるまい。
   

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