虚偽の哲学「梅原日本学」
『日本思想の古層』(2017年8月10日藤原書店 梅原猛 川勝平太)という本を読んでいる。
川勝氏は梅原猛の哲学を賛嘆して次のように言う、
「・・・日本において信仰が芸術に昇華したことは疑いないところである。芸術は文化の花である。
「花」自体が信仰と芸術の統合シンボルになる。・・・・芭蕉は「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とする。見るもの、花に非ずという事なし。おもふところ、月にあらずといふ事なし。像、花にあらざるときは、夷狄にひとし」(『笈の小文』)と言った。」
梅原日本学という哲学の中核的思想は 草木国土悉皆成仏 という概念であり、それは縄文時代以来の日本の基層をなす文化・信仰である、という。それはそうかもしれないが、「夷狄」を差別・排撃する芭蕉の芸術論を称揚するのとどういう整合性があるのだろうか。
芭蕉の「笈の小文」は上の引用に続いて「心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」
造化とは天地自然のことか。しかし夷狄も鳥獣も草木国土悉皆のうちに入るのではないか。夷も狄も人間である。
梅原人間学は、西洋の哲学ではなく東洋の思想、特に空海の密教を高く評価する。しかし、空海こそは、その有名な「性霊集」でその夷狄である蝦夷を「非人」と激しく非難し断じた最初の人間であった。梅原ら日本の美学をいう連中は、その思想の根底に日本の神道的な聖と俗、貴と賎の感情的概念を持っている。梅原は蝦夷を縄文の血を引くもので、後から入って来て大和朝廷を樹立した朝鮮系の人間集団によってカースト的差別を受けてきたと正しく位置付けていた。(『海人と天皇』268頁)
私は、蝦夷に対する激しい差別と収奪の名残が部落差別の原因だという考えをもって部落史を研究している。だから、梅原の日本学には大いに期待してその著作をよく読ましてもらったが、上に引用した芭蕉の美学論の差別性の無批判的な評価はいただけない。部落問題をまともに考えられない学者は、結局そこで陥穽に落ちてその思想の学問性を崩してしまうのである。
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