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2021年7月

2021年7月28日 (水)

暑い夏

暑い夏がやって来た。五輪のさなか、コロナのパンデミックはますます増大している。東京の罹患者数は驚異的だ。

日本全体が東京化する可能性もある。このパンデミックは地球の生態系破壊・崩壊の結果であろう。CO₂の高濃度、温暖化・異常気象による豪雨洪水、高温、山火事、原発爆発、放射能の蔓延、・・・産業革命以降世界の資本主義の発展によって地球環境そのものが破壊され食い尽くされてきた。

グレタ・ツーンベルクさんの叫びがむなしく響いている。大人たちは、オリンピックの騒ぎをやめようとしない。
地球が破滅に瀕しているその間、人類の人口の数パーセントの栄耀栄華のために、残りの90%以上の人類が飢餓や貧苦の中にあえいできた。

その元凶は資本主義(帝国主義)なのだ。常に発展と成長を願い、利潤追求を唯一の使命とする資本主義(帝国主義)をやめない限り地球は救えない。

今資本主義が問われれている最中に大河ドラマで渋沢栄一が登場している。日本資本主義発祥のリーダーをたたえるときであろうか。

資本主義は商品生産の原材料の確保のため発展途上国を徹底的に食い物にし、原材料と製品の市場をめぐって二度の世界大戦を含め数多くの戦争を繰り広げ夥しい血を地上にしみこませてきた。資本主義は、あらゆる鉱物を掘りつくし、世界中の熱帯雨林を滅却し、川も海も大気までも汚染し今や人類の生存そのものでさえ脅かしている。

二酸化炭素だけではない、凍土が解けシベリアのメタンガスが噴き出した場合にはもはや防ぐ方法はない。爆発的な大気の温暖化(過熱化)が起こるのは、もうまじかではないか。グレタさんの悲痛な叫びが聞こえる。

飛行機をやめよ、自家用車をやめよ、新幹線を止めろ、これらの製造をやめよ。バスや電車を無料にせよ。原発や石炭火力発電をやめよ。武器の製造・販売をやめよ。人は、夕食をやめて朝と昼の二食制にせよ。肉食を大幅に制限せよ。電気の使用量を半減せよ。廃材の利用・断熱材の採用を・・・・ドラスチックな生活の変革が必要なのである。

太陽光発電にしても原発や化石燃料の発電よりはましであるが、パネル製造のためにまた使用済みパネルの廃棄のために膨大な二酸化炭素を発生するし、電気自動車も高性能のバッテリーの製造のために多大な資源と二酸化炭素発生を必然にする。

一番大事なことは、人間が自然に適応し、資源をできるだけ使わないようにすることが肝心なのである。
食事を朝夕二食にすれば食費が大幅に削減され血液検査の結果が驚異的に改善し、免疫力が飛躍的に高まり病体が健康体に転化する。

国民経済的には、食糧事情は好変し、余剰食糧は途上国の人類を救済するだろう。
そして何より、二酸化炭素や放射能の源泉である資本主義を廃止せよ。

ここ数年のうちに、二酸化炭素を大幅に削減し0にするために人類はあらゆる努力を惜しんではならない。資本主義に依拠するあらゆる政治勢力をこの世よから一掃しなければ、人類は資本主義とともに滅亡する。シベリアのメタンガスが噴き出したら、人類は死滅する以外にない。

資本主義をやめてどうするのか。
共産主義とか社会主義とか言われる国があるが、これらの国は全く共産主義でも社会主義でもない。ロシアも中国も北朝鮮も国家資本主義的な全体主義国家に過ぎず、資本主義の異形である。国家資本主義では、生産手段は国有化されるが、国有化だけでは社会主義ではない。

社会主義(共産主義)は疎外された労働が止揚され、搾取のない、自由な社会でなければならない。あくなき成長戦略は廃止され、グローバル・サウスという発展途上国への植民地主義的支配と搾取による人間の奴隷化、地球資源の収奪・枯渇化をやめさせなくてはならない。

先進国の一部富裕層の資本主義的略奪を止めるためには、今の政治手法・制度では、不可能である。今の国会や地方議会では何の役にのたたない。これらは金権腐敗勢力化しているか地域利権代表化している。二酸化炭素や放射能で追い詰められた地球を救済しようという意思もなければ何の知性もない。

現代社会を変革し、地球規模の環境破壊を阻止するために街頭に出て戦う者たちの直接民主主義が必要だ。
学生や労働者が再び学園から職場から街頭に出て赤旗をへんぽんと翻して前進する必要がある。

全国各地にパリコミューンが必要だ。直接民主主義でなければ地球を救えない。
ジャンヌダルクのようなグレタさん、彼女にすべての青少年が、大人や年寄りが、呼応しなければならない。

帝国主義に発展した腐朽しきった資本主義(国家資本主義化したスターリン主義も含め)を直ちに打倒せよ。

   Down with Imperialism , Down with stalinism !

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2021年7月16日 (金)

無答責

7月15日高知新聞朝刊に奈半利町のふるさと納税にまつわる汚職事件の裁判のことが、また大々的に報道されている。
汚職事件はすべて、元課長補佐柏木雄太とその一族のせいだ、というストーリーにすり替えた。

図解入りで大変上手な筋書きだ。だが巨額の税金がからむこの犯罪事件が奈半利町役場で行われたこと、そこには町長や副町長をはじめ大勢の町職員がいたのであり、他の誰もこれを阻止しせず、大賛成し後押しをしていたということも事実である。

課長補佐に町の事業について何の決裁権があるであろうか。些細な事務上の決済権であり、巨額の金がかかわる事案についての決済権限は町長や副町長、課長らにある。今この連中は何食わぬ顔で被害者面をしてせせら笑っている。

巧妙な高知新聞は、この事件で特定地域への差別キャンペーンをしていることを表面に出さないが、暗々裏にそれが狙いだ。
役場を「犯罪」の巣にしたのは、町長ら幹部職員ではないか。それを糾問せずに特定地域の人々を実名入りで追及する。

贈収賄事件だという。しかし、「贈賄」側は、仕事をもらったいわば利益の分け前を要求されて支払ったのであって、仕事をもらうために自分の金を出したのではない。商売の仲間が分け前を分配しあったのである。また、課長補佐にはもともと明らかになったような巨額の金を自由にする権限はなかった。

彼は、注文先を親族に固定したのであるが、ふるさと納税の事業で特定の商人を固定的に扱っているのはどこも同じだ。その商品にどのような値段をつけるかも、担当職員と商人との話し合いや「談合」で自由に決められている。商人を誰にするか、商品の値段をどうするかについては何の法的規制もない。ふるさと納税事業では役場が商取引の仲介役になる。仲介人になる職員には大きな裁量権が与えられる。

奈半利の事件は、個人の「犯罪」というよりも、制度から必然的に胚胎する事象であり、役場に集まる公的な税金を原資とした商取引を役場でやらせるという制度設計が根本的に誤っていたのである。

この事件を「犯罪」として決めつける根拠があるのか非常に疑わしい。
また、今も狭山事件のように社会的に大きな犯罪が起こった場合、その犯人にはその事件の周辺の被差別部落民が選ばれる。

本当に責任ある者が無答責として免罪される。天皇の戦争責任から、総理大臣や政治家、幹部公務員らの無答責がこの日本を覆っている。
そしてこの世の不正が蔓延するときには、必ずそれを背負わされる特定集団への差別が強調されるのである。

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2021年7月15日 (木)

高知新聞7月14日号「性差の歴史をひもとく」について

この記事は、横山百合子千葉県歴史民俗博物館教授の講演会の様子を解説したものである。

女性差別問題についての歴史については、私もあまり勉強していないが、記事に男女差別ではなく「男女区分」とか「ジェンダー区分」とか表現している。性差別ではなく、「性差」という。何か生物学的な話のように聞こえる。

差別という言葉を避けているのには違和感を感ずる。横山女史の講演そのものではなく新聞の解説記事だから講演者本人の選択かどうかはわからない。中世の遊女や江戸時代の吉原の遊郭の女性に言及しているが、朝鮮の慰安婦問題は避けられているようだ。

だが、女性差別は洋の東西を問わず基本的には慰安婦問題と同じ根源性を持つように思われる。

侵略者(主に男性)による非侵略者への圧伏は単に領土や権力の奪取にとどまらない。
侵略行為には被侵略側の女性に対する強奪・略奪結婚も含まれる。それこそが女性差別の根源であろう。朝鮮半島を経由して日本にやってきた北方騎馬民族も主に男性で構成されていたと考えられる。

侵略者たちは、現地の女性を求め強姦し、その女性を略奪し妻にする。
男女の生物学的区別だけでは差別は生まれない。その区別に征服・被征服の関係が根底的、基底的に作用したのだから、原住民の女性側は男性に対し奴婢的に隷従するということにされたもの考えられる。

すなわち異民族による暴力によって女性差別は発生したのだ。
そしてこの関係が封建時代以降階級支配の一環として制度化され今日まで続いているのである。女性が低賃金で非正規労働者扱いにされ、生活のため売春行為に追い込まれるという現代の社会制度を存続していて、なお男女共同だとか美辞麗句を並べても何になる。

日本軍による慰安婦問題(侵略戦争と植民地支配の結果)を直視せずに日本における性差別を論じても空虚であろう。
女性差別問題には部落問題と同じく、歴史的な暴力的階級支配がある。と私は思う。

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2021年7月 6日 (火)

コロナ対策とオリンピック

野党が主としてコロナ対策かオリパラの開催かを都民に訴えた。

それはコロナ対策か経済かでも問われたが、広く例えば原発か電気かであり、大きくは戦争と大東亜共栄圏というもので、目的や「理想」のために犠牲を甘受するかというものである。

大東亜共栄圏を構築するために、巨大な戦費と膨大な人命、文化の破壊をやってもいいのか、日本を降伏させるために原爆を使っていいのか、美しい目的のために犠牲を覚悟してもらうという思想がオリンピックとコロナの問題である。

この古くて新しい難問にこたえねばならない。

回答。

 手段(犠牲)が悪ければ目的も悪い。犠牲を必要とする目的の達成はいかに美しくてもその犠牲が目的を汚しそれを破壊する。

 何故なら目的に達する道程(手段)もまた目的に含まれるからであり、美しい目的には美しい手段が必要であって、それと一体でなければならない。

 医療体制が崩壊し甚大な犠牲をもたらす可能性が濃厚なオリンピック、その予想される犠牲にもかかわらず開催するというオリンピックにはスポーツというもの以上の、その美名に核化された何か別の汚れた目的があるに違いない。

それはいうまでもなく、オリンピック関係の巨大な利権であり、日本政府関係者・ガースー総理の政治的目的・権力の存続がかかっているのである。

五つの美輪を無果花(いちじく)の葉とし、その陰の邪悪な目的のための忌まわしい犠牲(感染爆発)の要求なのだ。

美しい目的には清らかな道程(手段)が必要である。手段と目的を切り離してはならない。

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