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2021年6月28日 (月)

部落差別の解消に関する法律について

2016年12月16日に公布された『部落差別の解消を推進する法律」はこれまでの時限立法(同和対策特別措置法、地対法)と違って目的が達成されるまで続行するという本格的な法律として画期的なものである。

部落差別の存在とその解消をうたったということにおいて明治4年の「解放令」よりも優れたものである。この法律の趣旨が政府や地方自治体など権力機関全般に徹底されること、広く国民の間に広まることがのぞましい。

マスコミがもっと大きくこれを取り上げて議論を深めることが望ましいが、国も県も市町村も新聞やテレビもほとんどこれを取り上げない。
差別の壁は依然として分厚く、誰もこの法律を真剣に読む者もいない状況だ。

しかしまた、この法律が部落差別を正面から禁止し部落大衆の人権をうたっている点は評価するが、この法律に大きな問題があることもしd適しなければならない。第1にこの法律には部落差別とは何かという定義づけがない。一番肝心な言葉の定義づけがないから、適当に解釈する組が出てくるだろう。

第二に、この法律の形は、問題を部落差別をする国民に転嫁し、国民を啓もうするというものであって、国民が「理解」を深めれば解決するとい程度の
問題に矮小化している。部落差別を解消するために必要な教育や啓発をするというのが中心だ。

部落差別はいけない、解消しなければならないということについて鮮明にした点はいいが、差別の原因、差別の解消の対策についての話はお粗末である。
まず何より、差別をしてはいけないという啓発や教育は権力機関そのものにしなければならない。部落差別の原因は権力機関そのものにある。

最近には部落の歴史(その研究)を否定しようという部落問題の学者まで現れているが、歴史を見なければ差別は誰が作ったかわからない。

部落の歴史については一知半解の学者どもがいろいろな珍奇な説を並べてきているが、古代から中世にかけて原住民族であるエミシ系の人間を天孫族中を核とする大和朝廷が征服した民衆のdescent(血統 奥州俘囚 descentoを身分と訳すべきではない)であり、それを天皇族が全国に配流し差別的に中世社会に組み込み検非違使をして統括させたのである。

中世のある時期に、俘囚とか夷俘という呼称をやめろという布令が出て、それから穢多という言葉が出てきた。古代中世の朝廷の理論的指導者であった空海や菅原道真の著作で恐ろしげに描かれたエミシの姿は鎌倉時代以後にエタに対して投げかけられた侮蔑的な描写とは一致している。

それを最近になって部落民を 創られた「人種」 (黒川みどり) などといっているが部落民は大和朝廷的人種とは鮮明に相違する種姓でありそれを差別弾圧してきたのは天皇権力であり、それを鎌倉江戸の幕府の貴族武士が承継してきたのである。縄文の血を色濃く受け継いだエミシ系の人間集団(部落民)はケガレ感などの妄想によって作り出されたものではない。

征服・被征服の階級闘争の火と血によって拉致され抑圧されてできたもので、騎馬民族系征服王朝の天皇・貴族らとははっきり異なる正真正銘の原住異族だ。征服者とはいえよそからやってきた連中が原住民を差別圧迫するなどというのは言語道断だ。
インドのカースト差別と同じように日本の部落差別も同じく種姓差別がもとになっている。アーリア人によるインド原住民の征服を根源としたカーストの差別は日本の部落差別と同じである。

新しい部落差別解消の法律は、意義があるとはいえその本質には階級闘争の勝利と敗北の歴史を押し殺した融和的性格をもつものであって、差別の張本人である権力の姿を隠している。今も昔も融和主義というのは権力の真の恐ろしい姿を隠蔽し戦いをへし折るという役割を果たそうとするものである。

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