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2020年1月

2020年1月24日 (金)

県立図書館の高松控訴審の控訴人(澤山)の最終陳述

県立図書館の高松控訴審の控訴人(澤山)の最終陳述を掲載します。
数万冊(3億円以上)の大事な図書を焼却するという暴挙に対して、誰もその責任が問われず一銭の償いもされない、このような異常な状況を突破するために住民訴訟を提起した。

県側は、屁理屈を並べて抗弁し、高知地裁はこれを丸呑みして訴えを棄却した。このような無法な行為を裁判所が認めるとすると、法律も裁判所も国民には不要ということになる。


 令和元年(行コ)第25号 損害賠償控訴事件
 控訴人 澤山保太郎
 被控訴人 高知県知事尾﨑正直

高松高等裁判所殿
                  令和元年12月25日     
                  控訴人 澤山保太郎
   
   控訴人準備書面(1)上

控訴人は、準備書面(1)を上下に分けて陳述する。
答弁書について

一、本件図書は「出資等に係る不要財産」に該当しないのか
被控訴人の主張の中核は、本件図書数万冊が1冊1冊に分割されて帳簿に登録されていて県条例が定める50万円以上の価格に当るものはない、したがって地方独立行政法人法の第42条第1項がいう「出資等に係る不要財産」に該当しない、というものである。

この主張は何度も繰り返され答弁書3頁に2か所、4頁に1か所、5頁に1か所、被控訴人の主張はもっぱらこの抜け道に依存しこれを金科玉条にしている感がある。

たとえば、答弁書2頁~3頁で、控訴人の主張(大学法人の日常業務を指揮監督する立場にある高知県が法令に基づいて所定の手続きを大学法人に取らせ数万冊の図書を回復する義務がありそれをしなかった怠る事実の違法性を指摘)に対してまともに答えず、「出資等に係る不要財産」に該当していない話で反論したつもりである。

このことは、1冊1冊ではなく本件蔵書の処分額(処分時の時価)と冊数は明示されていてこれが裁判所によってまともに財産として認定されたなら、怠る事実の違法性も直ちに明らかとなるということである。控訴人は、怠る事実について他に何の反論もしないからである。帳簿価格50万円・・・の話は、購入に数億円もかかった数万冊の書籍を、要らないとして、紙くずとして㎏単位で焼却処分した犯罪行為を許した、その責任を逃れる、脱法の口実を発見したということだろう。

しかし、

1、本件図書はなるほど購入時に1冊1冊購入され帳簿に載せられたものであろう。
しかし、問題は処分時にどのように扱われたのかである。処分時には紙くずの塊として把握され業者に渡された。受け渡しの書類(伝票甲  号証)にそのように記載されている。
少なくとも数千万円以上のものが0円で引き渡され、重量で計量されたのである。

本件書籍は1冊1冊ではなく、2万5千余冊が一塊の紙料として扱われた。
 原判決も、「複数の図書をまとめて除却処分した」ことを認めている。
 
2、しかし、その処分の直前までは、中古品として1冊1冊の値踏みがなされ、総額2972万余円と計上された。大学法人の除却の決裁は14たびに分けて行われた。何十冊、何百冊、とまとめて除却が決定され、そのたびに「資産登録価格」が計上された。(甲第3号証の1~14)

「資産登録価格」は帳簿価格である。控訴人の請求額の一部の2972万2479円は、甲第3号証の「資産登録価格」を集計したものである。本件処分対象の相当冊数がそれぞれまとめて帳簿価格に明示されているのにそれを没却して法廷に証拠として出されてもいない個別の価格をのみ取り上げるのは、理不尽であろう。

 図書又は書籍、図書館などでは蔵書とも呼ぶが、1冊1冊として扱うこともあり、また、蔵書(図書、書籍)として集合的、総体的に取り扱う。さらには幼児用の蔵書とか歴史学上の蔵書とか、工学系統の蔵書・・・などいろいろな蔵書学上の分類による種々の取り扱いがある。その蔵書は1冊1冊の値段を見ることもあるが、ある一定のまとまった蔵書の価格を総体として計算し資産として帳簿に記載することもある。

高知県立大学・高知短期大学図書管理細則(甲第6号証)第17条3項では、「図書資産台帳の金額と財務諸表の図書資産の金額とは、常に一致させるものとする」と規定されているが、これらの金額は、数万冊以上の蔵書を一定の金額に収斂して掲示するものである。

図書資産台帳や財務諸表は帳簿であり、そこに表示されたものは帳簿価格であって、図書又は蔵書の価格は、帳簿に個別に記載されもするし、集合的に蔵書として総体的にかまたはその1部が集合的に記載されるのである。
本件では、甲3号証にみる通り処分対象図書が総計何百何千冊とひとまとめにされその都度価格の合計が記録されていた。むしろ本件処分を決定する段階では、書籍の個別の価格は問題になっていなかった。

3、被控訴人は原判決を根拠に、何か蔵書という言葉は法律用語ではなく、「蔵書なる概念は極めて不明確であり、公共団体の財産管理においては到底使用できないものである。」(答弁書7頁)などという。しかし、図書館の財産である書籍の管理・整理はまさに蔵書学(図書館学)という学問分野であって、世界中の図書館で図書(蔵書)という財産が系統的に管理されている。高知県のオーテピアという図書館でも蔵書学・図書館学の書架がある。蔵書についての原判決や被控訴人の独自の見解には、何の合理的な理由もなく、何か理解しがたい偏奇を感ずる。蔵書が嫌なら図書とか書籍と言い換えてもよい。

本件の場合学長の謝罪文(甲4)や、県庁のホームページや高知新聞(甲5)などで本件に関連して蔵書と呼ばれているのは、明らかに複数書籍の集合名詞としてである。
 蔵書は本の集合として使われるがまた図書館や個人の書斎に所蔵されているものは1冊でも蔵書と呼ばれる。

4、蔵書という言葉に限らず、日本語の普通名詞の多くには、単複の区別がない。1個でもリンゴであるし、木にたわわになっている数十個のリンゴもリンゴである。

  人、車、お菓子、ボール、パソコン、花・・・・無数の物の名前・・それらは集合的に使われたり単数として使われたりする。被控訴人や原判決が、蔵書を意味がつかみがたい曖昧な言葉、「不明確」な言葉、果ては法律用語ではないなどと非難するが、それでは他の日本語はどうなる。花は1本1本値段がつけられる。また花束としていくつもの種類の花がまとめて売られることもある。花を束にして値段をつけることを非難できるだろうか。蔵書をして被控訴人のように非難するなら、ほかの日本語も同様に非難される。それでは、裁判で日本語の普通名詞を使えないことになり、事実を認定することも否認することもできない

 5、図書館の蔵書の価値

被告や原判決は、本件処分対象の書籍には1冊50万円を超える本はありえない、という。帳簿価格は1冊1冊だ、という。しかし、
個人が購入し個人が所蔵している書籍と図書館所蔵の書籍では、その使用価値が全然相違する。例えば1000円で購入した書籍は、個人の場合は一人だけの使用価値であるが、図書館の購入に係る書籍は、100人~1000人・・・が次々と繰り返し読み継がれ利用される。1000円の価格が100万円以上の使用価値が出てくる。
  図書館の1冊の本は、普通の本の価格では量られない高い有益性を持っている。

6、たとえ1冊1冊について勘定するということを仮定にしても、「出資等に係る不要財産」に係る高知県の条例(「高知県公立大学法人に係る評価委員会及び重要な財産に関する条例 第9条)の規定においては、たとえ数千円単位の図書であってもそれが数万冊束にして処分され、しかもその1冊1冊でも数千人以上の市民が利用する公益性の高いものであると判断すれば、前掲条例で返納すべき額の規定(50万円以上)のその後の文章に「その他知事が定めるもの」との但し書があり、被控訴人は当然この規定を使って本件処分対象の書籍を救済する義務があった。図書館の1冊の書籍の価値は、本屋の1冊とは違うのである。

ちなみに、本件処分対象となった書籍のうちには、貸し出し中のものまで入っていた。甲第3号証の6には、大学法人の職員のメモ書きが記されていて、「貸し出し中で除却ができない図書が3冊あり・・・」で再度決裁をお願いするなどと記されていた。1冊1冊を吟味して処分を決定したのであれば、このような事態は起こりえない。機械的に(量的に)処分を決定をしていた様子が垣間見える。

 7、被控訴人の蔵書概念

被控訴人は蔵書の意味をどうとらえているのか。答弁書で、
また、①「蔵書」についての明確な定義が存在しない以上、②「蔵書」を単位にした場合には、「帳簿単価」も判然としないことになる。このため③「帳簿価格が50万円以上のもの」に該当するか否かによって権利義務が決せられるという場面においては、「蔵書」の概念を用いるべきでない。という。(答弁書5頁~6頁 ①②③は控訴人)

①「蔵書」の明確な定義が存在しない。
②「蔵書」を単位にすると「帳簿単価」も判然としない。
③帳簿価格が50万円以上のもので権利義務が決せられる場合は、「蔵書」の概念は不可である。ということになる。

②「蔵書」の定義が明確ではないのであろうか。蔵書とは読んで字のごとくであり、蔵にしまってある書籍のことだ。国語辞典でも明確だ。
 「蔵書」は何も複数とは限らない。本件の場合「蔵書」と大学など関係者が呼んでいるのは、一定の分類目的(処分目的)の数万冊の書籍のことであるが、被控訴人はそのような集合的なものとしてはどうしても認められないのである。

「蔵書」を単位にした場合「帳簿単価」もわからなくなるとはどういうことであろうか。蔵書は1冊づつ帳簿に搭載されもするし、ある分類によっては集合的にまとめて整理されたりする。購入図書の予算の審議で、例えば歴史関係書籍を何冊購入すると歴史に関する蔵書は、何冊となり、蔵書の冊数だけでなく暦年の予算規模も計算されるやもしれない。被控訴人や原判決の理解する「蔵書」は、常に集合的なものとして「蔵書」をとらえているようだ。
図書館の特定の1冊も蔵書であるが、今日の図書館では蔵書構成(蔵書構築ともいう)という体系的な概念で蔵書を管理しており、図書を集合的に管理している。

全国学校図書館協議会では、毎年小中学校・高等学校別に、全体の蔵書数の最低基準を決めており、また、総記とか哲学、歴史等々分野別にも蔵書比率を決めている。
購入費についても同協議会が毎年基準値を示す。(「学校図書館メディア基準」)

図書館の書籍は蔵書構成として集合的に管理される。これが図書館の財産管理・財務会計行為であって、当然蔵書の管理運営上の権利・義務はここに発生する。
だから、被控訴人が蔵書を集合的にとらえるのは間違いではないが、50万円以上云々の話に付会させるためにどうしてもこの蔵書という言葉をなきものにし、1冊1冊の勘定にしたいのである。

③:帳簿価格は何も1冊1冊の価格を言うだけではない。甲3号証のように一定分量のまとまった図書(蔵書)の価格を記載する場合もある。ある種類の一定分量の図書(蔵書)をまとめてその総額を帳簿に表記してはならないという財産管理上の規則はない。
8、ところで②で被控訴人は本件条例中の「帳簿価格」を「帳簿単価」という言葉にすり替えている。「帳簿価格」は、「帳簿単価」と同一ではない。

 機械の部品を一つ一つ単価で記載する場合もあれば、それらを一定の用途に必要な分量を一括して帳簿価格として記載する場合もある。例えば予算書にしても書籍購入費は一冊一冊単価を載せず、年間数百冊、数千冊を一括してしかるべき金額を計上するであろう。財務会計行為では物品は集合的に集計されて表現されることが多いのである。

 本件の場合、控訴人が個別の書籍の金額を総計して出したのではなく、甲3号証の「資産登録価格」に基づいて主張(請求)しているのであって、これは、大学法人自身が出したものであり、開示された資料に明記されたものである。本件図書の価格についてこれ以外には法廷には何も出されていない。原判決は、確たる証拠もないのに1冊1冊の書籍の価格について被控訴人の主張をうのみにしているだけなのである。そして答弁書は、根拠のないその判決文を金科玉条のように繰り返している。

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2020年1月 2日 (木)

謹賀新年

新しい年を迎えたが、何の感慨もない。

私は昨年3月29日に何者かによって家が焼かれ、焼け残った離れの一室に新たに物置を手作りで建ててなんとかこの身を収容し生活する場を確保した。

その間、裁判三件を続行し、地元の困った人の手助けをしながらなんとか生きている。これまで絶望的な状況に何度か陥ったことがあるが、最も酷烈な打撃を受けた。

中でも大事な本がほとんど灰燼に帰し、また3台のパソコン全部が焼けて、フロッピーディスクやUSBなど保存していたあらゆるデータが消えたことは、痛恨であった。まるで戦災に会ったようだ。

通報があり駆けつけて燃え盛る火の中に私は入ろうとした。それはフォイエルバッハの原作著作集をそれだけは取り出したかった。
だが、私服の警察数人が私を強力に抑留し一歩も家には入れなかった。年齢も高く、肉体も衰えた。絶望の中から私は立ち直れるだろうか。

わかっていることは、私はオンブズマンを続行すること、部落問題を研究すること、現代の政治問題、とりわけ原発問題にかかわり続けることである。私はケチではないが、質素倹約的生活が好きである。昔の子供の時代のつつましやかな生活が好きなのである。最期は誰にも迷惑をかけずに死ぬことだ。

だが、この汚濁に満ち、人類的危機が迫るこの世界をこのままにしては死ねない、悪党どもを一人でも多く粛清しないでは冥途の旅には出られない、そう思っている。イタリアパルチザンの歌を歌いながら日課の庭内散歩をしている。

新年に臨んで悪政に苦しんでいる人々に少しでもいいことがあるように祈っている。

私には七難八苦がこようともびくともしない。

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