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2019年9月21日 (土)

福島第一原発の判決文

朝日新聞の判決文要旨を読んだ。驚くべき変身だ。
フクイチの事故の前まで原発安全神話が原子力村(原子力マフィア村)から裁判所まで日本中支配的であった。

しかし、今回の東京地裁の基調は、原発は安全なものではない、絶対的に安全を確保などは求められていなかったなどという。すなわち、こうだ。

「法令上の規制や国の指針、審査基準のあり方は、絶対的安全性の確保までを前提とはしていなかった。」
チェルノブイリの事故が起こっても日本の原発は大丈夫だ、100パーセント事故は起きない、などと言っていた。全部嘘だったのか。原発は絶対に安全というものではない、国民は気をつけろという程度のものだったというのであろうか。

また、判決は言う

「原子力安全委員会が06年9月に策定した指針は、必ずしも地震や津波によって施設の安全機能が損なわれる可能性が皆無、若しくは皆無に限りなく近いことまでを要求しているわけではなかった。」
そうすると原子力安全委員会の指針は、地震や津波によって原発施設が損なわれるかもしれない程度の、手抜きした指針を出していたということなのか。

まるで反対だ。原発は安全ではない、普通の稼働でも危ない、地震や津波にはもたないと我々は批判してきた。
国や電力会社は絶対大丈夫だ、裁判所もこれまでどんなに国民が追求し批判しても大丈夫だ、理由がないといって電力会社の安全性を支持してきた。今回の判決ではコロッと立場を変えた。原発は安全ではないという。

変えた理由は、フクイチの事故をまともに突き付けられ、これまでの論理では被告を擁護できないし、原発を擁護できないからである。

判決は言う。

「結果の重大性を強調するあまり、その発生メカニズムの全容解明が今なお困難で、正確な予知や予測に限界がある津波という自然現象について、想定しうるあらゆる可能性を考慮して必要な措置を講じることが義務づけられるとすれば、法令上は原発の設置、運転が認められているのに、運転はおよそ不可能ということになる。」

法令上認められているものは、どんな危ないものでも運転してもよいのか。だが法令は「想定しうる」危険性に万全の対策を

講じることを求めているのである。いい加減な対策でよいという法令などはない。
事故を未然に防ぐ対策ができないなら運転してはならないのは当然である。
日本のような地震や津波、火山の爆発、風水害、ブラックアウトが日常茶飯事の列島で原発を稼働させることが許されない

ということがどうしてわからないのだろうか。
いずれにしても、ある時は国民の指摘、批判を拒絶するために原告に冷然と 原発安全論 をくらわし、またある時は、原発事故に関して責任追及があれば、原発安全ない論 を展開して法廷に煙幕をしいて黒衣を翻して去っていく。

裁判官が、閻魔大王(プルートン)につかえ、あわれな亡霊どもをいたぶる冥途の鬼神のように見える。

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