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2019年9月 6日 (金)

政治的中立


愛知県の展示会で慰安婦像と思われる少女像が出品されたことで河村名古屋市長ら嫌韓族が騒ぎ出し展示会がつぶされた。

地方自治体が、政治的な表現を公的な施設でどこまで受け入れるのか難しいという問題がある。金は出すが口は出さないとか愛知県知事の発言もある程度理解できる。

しかし、知事や市長村長の政治的中立というのは、あり得ないと私は思う。首長は政治家なのだ。公的施設の利用や行政の在り方にその政治的信念が反映するのはやむを得ない。
私は東洋町長在任中に、女性職員二人を東京の慰安婦問題の集会に派遣したことがあった。町長のメッセージを持たした。

若い職員に日本の侵略戦争の真相を知ってもらう必要があると考えたからである。また、高知の西の方の大月町に使用済み核燃料の貯蔵受け入れの話があった時にバスを1台出して町長自身を含め職員や住民をその地元の集会に参加させたこともあった。

また、核武装を唱えるある新しい政党が東洋町の施設で講演会を開きたいので会場を貸してくれという申し出があったが、これを私は拒絶したことがあった。その政党の女性活動家が政治的中立性がないなどと執拗に食い下がってきたが、絶対に施設は貸さないと峻拒した。私は政治的中立性ではなく、私の政治的信念を通すことが大事だと思ったし、それで正しいと思う。
もしNUMOが東洋町に再び現れて高レベル放射性廃棄物の説明会をやりたいと申し込んできても、公的施設の利用は認めなかったであろう。

「金は出すが口は出さない」という知事の発言は、そういう形で少女像を守ろうとするぎりぎりの政治的表現であろう。
人は、どちらの見方にもならない、天にも地にも所属しない空中を漂う存在ではありえないのである。

横浜市長のカジノ「白紙」の発言も「推進」の別の表現だったわけだ。
「政治的中立」の主張は、政治的に抑圧されて公共の施設の利用や道路での示威行動を拒絶されたり、著作物の出版が禁止されるるなど表現の自由がうばわれるときに被抑圧市民の人権を守る戦いの武器である。

戦争を憎み、核兵器や原発を憎み、人権を守ろうとする者には、一本の道しかなく政治的中立などは存在しない。
たとえその者が知事や市町村長であってもだ。

もちろん、首長の場合、自分の信念と相違するからといって、あるいは自分に不利益になるからといって、何でもかんでも反対したり禁圧するというわけにはいかない。その判断は憲法など法令の趣旨やその自治体の条例や慣例、またひろく人倫の公序良俗に依拠し説明できるものでなくてはなるまい。

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