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2019年9月

2019年9月28日 (土)

高浜原発の裏金露顕

福井に原発を導入した巨額の裏金の存在が国税調査から発覚した。

60年代、私は解放同盟中央本部の西岡智中執の供をして若狭方面のオルグ活動をやった。部落はどこも貧しく生計を立てるだけで精いっぱいの所ばかりであった。夜西岡さんと一緒に寝るとき断崖の下に打ち寄せる寂しい波の音が今も耳朶に残っている。

その福井の寒村が瞬く間に原発の侵出によって様変わりをしてしまった。
湯水のような金によって席巻されたのである。
電力会社は地元のフィクサーを使って請負業者から「手数料」を取っていたのである。電力会社から出る金は全部国民の電気料金だ。受け取った連中には全員背任罪を適用すべきだ。

社長の記者会見では、このフィクサーは「人権問題」で社長らに講釈をたれに会社へ来ていたともいう。何かえせ人権団体を名乗っていたのかもしれない。こういう政治的ボスが多くの市町村、都道府県でも暗躍している。

なかなか尻尾をつかむのは難しいが、市民オンブズマンの主な仕事はこれを追及することだ。
しかし、国民は、今回の高浜の腐敗の露顕で原発推進の実像を知ることができる。

電気料金→電力会社→下請け業者→フィクサー→政治家・地元有力者・電力会社これらの金の流れを統御しているのは、電力会社である。そうでなければ最後に自分のところにその金の一部が還流するはずがないし、第一下請けの工事費に巨額の水増しをしなければ、この金の流れは生じない。

社長らがしらばくれているが、業者からフィクサーに巨額の金が渡っていた事実は、工事費の背任的水増しなしには考えられない。

室戸市の業者が実際の工事費は1億円程度で仕上げ、市役所からはその倍の請負金をせしめる、というのと同じようなことだ。

福島の刑事裁判で無罪放免が出た直後、時や好しと無罪放免を目論んでの関電の収賄・背任事件の発表。国や行政がやることには、裁判官も検察官もいくら訴えてもとりあわない、良心のひとかけらも持ち合わせではない。

原発のことに関しては、人民は自らの実力で解決する以外にはないだろう。

金権腐敗の日本では、原発や高レベル放射性廃棄物の処理については、民主的な手続きを待ってはいられない。地震津波の脅威は切迫しており、猛毒の核燃料を抱えた原発や六ケ所村の再処理工場は必ず挫滅する。このような日本列島ばかりか世界人類まで破滅させる絶望的状況においては、心あるプロレタリア烈士は結集して武装蜂起など、なすべきことを準備すべきである。

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2019年9月24日 (火)

福島第一原発の事故責任

高知新聞の9月20日付長官の判決文についての社説の冒頭に「原発とは根拠もなく安全性や経済性を強調し、想定しない過酷事故を起こしても、だれも責任を取らなくてもいい事業なのだろうか。」という不可思議な文章が出ていた。

①「想定しない過酷事故」であったのだろうか。また②「想定しない過酷事故」であれば、刑事責任を追及するのは困難であろう。

①想定
東電では大津波が来る可能性というのは、社内ですでに大問題になり正規の幹部会議でも対策まで議論されていた。
想定は十分にされていたのである。政府の地震調査研究本部の長期予報がでたのを最高幹部はみな知っていた。

地震本部というのは、日本の主な地震学者の大半が参加しているという。地震本部や中央防災会議の学者が提起した警告を無視した東電の幹部が刑事責任を問われるのは当然であろう。

日本の一流の地震学者たちの地震の予想を、無視してきたのは何も東電だけではない。日本の電力会社と原子力規制委員会が今もなお頑強に抵抗し地震動について現実に合わない独自の計算式を固守して日本の原子力施設を累卵の危険の上に放置してやまないのである。

悪名高いいわゆる入倉・三宅方式である。北米の過去の地震から導き出したという計算式は、日本の現実の地震動を過小評価するものであり、電力会社のお気に入りでクリフエッジを極力低くし耐震設備に金をかけなくてもいいような結果を保証してきた。

地震本部が2008年に出したいわゆる「新レシピ」は日本国中どこでも取り入れられているが、原発だけがこれを適応させない。電力会社や規制委(規制庁)は治外法権のように日本や世界の科学の成果も世間の声も聴かない。

新聞やテレビは、まさにこれを大問題にしなければならないのである。熊本地震でも、入倉・三宅の計算式は非現実的で「新レシピ」が現実をより正確に反映していることが実証されている。

日本の地震学のアカデミズムが阪神淡路の大震災の反省から総力を挙げて立ち上げた地震調査推進本部の見解を「信頼性がない」とか言ってこれを無視して大事故を起こした、これをどうして「想定しない過酷事故」といえるであろうか。

地震本部の学者を会社に呼んで、その見解を詳細に説明してもらうというのが会社経営者の筋であろう。島崎という地震学者が規制委の委員長までして玄海原発の審査にもあたった。しかし退職してから、入倉・三宅方式では原発の地震動の計算は過小評価になるといって猛烈に規制委を批判している姿は、それを物語る。

規制委に在職中は電力会社の味方をし、やめてからそれを批判している。
むしろ圧力を加えて、規制委が地震本部の見解に従わないようにさせたのは電力会社、東電そのものであろう。

地震動の計算式は三通りあり、a入倉・三宅式、b武村式、c松田式である。武村式は反原発側の想定に近く地震動の値が現実に近く大きく出るが、まだ未完成だという。

地震本部の出した「新レシピ」は松田方式であり、入倉方式と武村方式の中間を行くとみられている。

玄海原発の活断層の評価にこの松田方式で計算してもらったところ、これでも原発の基準地震動を超える結果が出た。

伊方や川内、若狭湾の原発などもこの「新レシピ」でアウトになるという。判決文では地震本部の長期評価は信頼できないと東電の被告らは言ったというが、それどころか信頼させないぞ、全国都道府県がそれを受け入れても原発だけは受け入れないぞという行動をとったのが被告らであろう。今もそうだ。実際には何千ガルもの地震が起こっているのに原発の地震動の設定はせいぜい5,6百ガルどまりだ。特に六ケ所村など東北の原子力施設は450ガル程度の低水準だ。

②会社の幹部など個人に刑事責任を負わせるのは困難だという意見も出ている。
だから、組織罰の規定を設けるべきだという。それも必要であろう。個人と組織の両罰にするべきだ。
だが、会社の責任者、組織の責任者の罪を問わないでは、かえって企業の犯罪は抑止されず増大するだろう。

 組織は個人、複数の個人が動かしている。東電の幹部は、津波が施設の高さ10メートルを超える危険性を知っていたし、知る立場にあった。原発を止めることへの躊躇があったというが、止めても止めなくてもしなければならないことがあったはずだ。 

非常用発電機を高所に移動させるとか、使用済み燃料を移転しておくとか、最低限のことでさえ、しなかったのである。自ら警告に呼応し対策の陣頭に立つべきものが、幹部社員の意見(15.7メートルの津波予想まで計算していた)をも封殺して大惨事を招いたのであるから、未必の故意の典型例だ。東電への今回の判決の評価に、新聞やテレビにこの 未必の故意 という言葉が一つも出てこないのが不可解だ。  
  

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2019年9月21日 (土)

福島第一原発の判決文

朝日新聞の判決文要旨を読んだ。驚くべき変身だ。
フクイチの事故の前まで原発安全神話が原子力村(原子力マフィア村)から裁判所まで日本中支配的であった。

しかし、今回の東京地裁の基調は、原発は安全なものではない、絶対的に安全を確保などは求められていなかったなどという。すなわち、こうだ。

「法令上の規制や国の指針、審査基準のあり方は、絶対的安全性の確保までを前提とはしていなかった。」
チェルノブイリの事故が起こっても日本の原発は大丈夫だ、100パーセント事故は起きない、などと言っていた。全部嘘だったのか。原発は絶対に安全というものではない、国民は気をつけろという程度のものだったというのであろうか。

また、判決は言う

「原子力安全委員会が06年9月に策定した指針は、必ずしも地震や津波によって施設の安全機能が損なわれる可能性が皆無、若しくは皆無に限りなく近いことまでを要求しているわけではなかった。」
そうすると原子力安全委員会の指針は、地震や津波によって原発施設が損なわれるかもしれない程度の、手抜きした指針を出していたということなのか。

まるで反対だ。原発は安全ではない、普通の稼働でも危ない、地震や津波にはもたないと我々は批判してきた。
国や電力会社は絶対大丈夫だ、裁判所もこれまでどんなに国民が追求し批判しても大丈夫だ、理由がないといって電力会社の安全性を支持してきた。今回の判決ではコロッと立場を変えた。原発は安全ではないという。

変えた理由は、フクイチの事故をまともに突き付けられ、これまでの論理では被告を擁護できないし、原発を擁護できないからである。

判決は言う。

「結果の重大性を強調するあまり、その発生メカニズムの全容解明が今なお困難で、正確な予知や予測に限界がある津波という自然現象について、想定しうるあらゆる可能性を考慮して必要な措置を講じることが義務づけられるとすれば、法令上は原発の設置、運転が認められているのに、運転はおよそ不可能ということになる。」

法令上認められているものは、どんな危ないものでも運転してもよいのか。だが法令は「想定しうる」危険性に万全の対策を

講じることを求めているのである。いい加減な対策でよいという法令などはない。
事故を未然に防ぐ対策ができないなら運転してはならないのは当然である。
日本のような地震や津波、火山の爆発、風水害、ブラックアウトが日常茶飯事の列島で原発を稼働させることが許されない

ということがどうしてわからないのだろうか。
いずれにしても、ある時は国民の指摘、批判を拒絶するために原告に冷然と 原発安全論 をくらわし、またある時は、原発事故に関して責任追及があれば、原発安全ない論 を展開して法廷に煙幕をしいて黒衣を翻して去っていく。

裁判官が、閻魔大王(プルートン)につかえ、あわれな亡霊どもをいたぶる冥途の鬼神のように見える。

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2019年9月20日 (金)

福島第一原発刑事裁判判決

少しは期待していたがやはりだめだった。

1、裁判所は行政権力の番犬になっている。三権のうち、行政権力が圧倒的で、立法府がそれを粉飾し、司法は犬力機関にすぎない。

行政権力への忖度、追従、加担、屈従、一体化・・・に精を出す。民間人同士の争いには裁判官もかなり真面目に取り組んでいるようだが、権力が訴えられた裁判では、番犬の本性をむき出し国民に対して吠え、牙をむいて噛みついてくる。
身分を保証されている裁判官がなぜこのようなていたらくに墜落したのか。

2、原発へ15.7メートルを超す大津波襲来の長期評価が出ているにもかかわらず、社員がそれに対応しようとしていたにも関わらず、対策を放置したということについて、その長期予想は信頼できなかっただとか、合理的な疑いがあるという判断で当時の東電の最高幹部を無罪放免にした。

①実際、地震予報、津波予報は絶対的な確実性はない。あくまでも可能性であり、恐れである。絶対的な確実性をもって地震を予想することは人間にはできない。しかし、地震学の権威ある科学者が集まって政府の見解として予報を出したということは軽視することはできない重みがある。

②その時東電は福島第一原発に10メートルの防潮堤しか用意していなかった。10メートルで大丈夫だと考えた根拠は何であったのか。政府の予想がにわかに信じがたいとしても10メートルと15.7メートルについて東電は10メートルの防潮堤を選択したわけだから、その根拠を説明する必要がある。

③戦陣にあって、相当勢力の敵が襲来してくる可能性があるという有力な情報をキャッチした将軍は、その情報を軽視したり無視したりするであろうか。最悪の場合に備えて最大限の準備をするであろう。
万が一にも事故があってはならないという指揮官、経営者としての責任感があれば、権威ある政府の警告を軽んずるはずはない。

④判決には「絶対的な安全性を確保」するとことは求められていないなどという判旨があったとのことだが、一触で人類が滅亡するかもしれない原発には、絶対的な安全性の確保が必要であり、それができないなら原発を建設し稼働させてはならないのだ。
司法官僚化した裁判官には、福島原発事故を見ても原発事故の恐ろしさ、悲惨さが分からないのである。

もはやこの裁判官、そして日本の裁判所は、人間の感性、人間の血が通っていないのであり、権力をふるう番犬なのである。

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2019年9月19日 (木)

汚染水の廃棄

大阪市長や知事が、福島第一原発で毎日発生しづける汚染水を浄化して、
大阪湾に投棄してもいいなどと言っている。この汚染水はいくら浄化しても放射性のトリチウムだけは除去できないことが分かっている。だから松井市長らは放射性トリチウムの汚染水を大阪湾に垂れ流してもいいというのである。こういう人間たちは、放射能よりも恐ろしい。

六ケ所村を含む全国の原発、とりわけ加圧式原子炉系の原発は、空気中や海洋へのトリチウムの放出が顕著であり人間はもとより周辺の生態系に深刻な悪影響を与えてきた。トリチウムは白血病を誘発すると考えられる。

加圧式の玄海原発の周辺住民の白血病の発生率が異常に高いという論文(森永徹医学博士「玄海原発と白血病の関連について」)は有名である。

毎日海や空中に放出される大量のトリチウムが原因であると推定されている。
大阪の市民は、大阪の行政府が放射能のような猛毒の人間によって権力が握られているということを知るべきであろう。

トリチウムは、およそ200年を経過すれば放射能の威力はほとんどなくなると計算されている。(半減期は12.3年)

「脱原発を目指す首長会議」は先月8月18日青森でフクイチの汚染水について、トリチウムの放射能が雨水と同程度にまで減衰するまで保管し、それから放水するべきであるとの声明を発表した。

100年か200年ぐらいであれば、なんとかこの汚染水を管理・処分できるであろう。
だが、松井市長や橋下元大阪府知事のような政治勢力、今回の凶悪な安倍政権のような
連中の害毒は、なかなか減衰しがたい。大阪湾や道頓堀に放射能をまき散らすという手合いは放射能よりも悪質なのである。

森永徹博士の論文は2015年7月日本社会医学総会で発表されたもので、疫学的統計に基づいて推論していて何人もその結論を否定することはできないだろう。

(付記)
この論文は権威ある雑誌などに掲載されていず、科学的論文とは言えないなどと軽んずる連中がいて、私がこれを論文と呼んだことで九州の活動家から不興を買ったがこれは原発問題では第一級の論文であるといわねばならない。

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2019年9月12日 (木)

香港人民の決起

香港の学生・労働者市民、そして中高生達の粘り強い戦いには
本当に頭が下がる。世界史的な素晴らしい戦いだ。

その特色は、前衛党的な政治的党派が存在していない、まさに自然発生的な民衆の革命的行動だ。
アメリカの革命思想家ラーヤ・ドウナエフスカヤの思想を地で行く。
直接的には、中国スターリン主義体制への反乱であるが、それにとどまらない。
やがて、香港を支配している自由主義(資本主義)体制に対しても根底的に反乱しだすだろう。
戦術的にはデモや集会、官憲との乱闘だけに終わらず、市民の投票による人民議会の樹立、
そして言論集会の自由など暫定的憲法を制定し、・・・・プロレタリア革命に進むべきだ。

プロレタリア独裁権力は、反革命的内乱を企てる者以外で徹底した民主主義(行政だけでなく生産現場に至るまで市民のあらゆる所で)を施行し、福祉や教育を無償化する・・・・・。1871年のパリコミューンの再来を2019年香港にみる。

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2019年9月 8日 (日)

続メガソーラー

先日9月5日、県庁で羽根のメガソーラ開設事業で砂防指定区域をめちゃくちゃにする事にかかわった土木部の防災砂防課及び治山林道課の課長と面談し、以下の文書を手渡した。
羽根のメガソーラーは、面積38ヘクタールでそのほとんどは砂防指定地である。

室戸市羽根町の里山(砂防指定地)の開発について
緊急要請及び質問書

 

                    2019年9月5日
高知県知事尾﨑正直殿
 
                    澤山保太郎ほか市民有志

 

ご承知の通り室戸市羽根町の里山でのメガソーラー設置事業はすでに完了し売電業務も開始されています。私どもは、大阪市の業者株式会社サンユーらによる開発行為が重大な環境破壊の様相を呈していることを指摘し貴庁に厳しく取り締まるように要請をしてきました。

また、周辺住民も里山の乱開発について大きな危惧を感じ貴庁にこの開発を止めることを強く求めてきた経緯もあります。開発された山地の多くは国の法律に基づき県の条例で定めた砂防指定地域に該当しますが、現在の状態はまるで砂防指定地が解除されたかのごときありさまで、貴庁が示した開発の条件は根底から否定されている状況です。

山全体の植生が根こそぎはがされ、赤土がむき出しのはげ山にされた上にパネルが所狭しとばかりに設置されています。その上に排水溝もろくに作られず、施設を設置している地面も各所で崩壊しています。これで砂防管理地といえるでしょうか。

そもそも国の砂防法第二条では、砂防指定地では、砂防設備が必要な土地、あるいは砂防のため一定の行為が禁止、または制限される地域であると規定されています。開発行為を許可することによって幾多の砂防設備が必要になるというのは法の想定しないことです。

また国の法律第五条では、都道府県知事の義務が規定されていますが、砂防地として指定された土地を「監視」し、砂防施設を「管理」し、その施設工事を「施工」しその施設を「維持」する義務が規定されているだけであって、砂防指定地域のほとんど全域を業者の思うままに開放して、森林を丸裸にするなどということは正気の沙汰とは思えません。

私どもは、この様な無茶苦茶な乱開発を許すことはできないし、発電(売電)事業を直ちに中止し、砂防指定地にふさわしい土地に戻すなど適切な措置が講ぜられることを求めます。

質問事項
  1、貴庁は、当該開発地の砂防指定をいつ解除したのか。
  2、開発許可をしたときにつけた条件は何か、これが守られているのか
  3、排水溝の整備など濁水流下防止、施設内の土砂崩れ防止施設の構築などができている のか。
  4、当該山地の樹木の皆伐を許可したのか。樹木の根株の引き抜きをも許可したのか。
  5、本件開発許可について業者に応対した県の幹部は誰であるのか。

             (この質問書に2週間以内にお答えください)

 

 

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2019年9月 7日 (土)

メガソーラー

原子力をやめて再生可能エネルギーが開発されるのはいいことだ。
だが、最近、メガソーラー設営はしばしば環境破壊や景観を台無しにするなどの弊害が現出している。

中でも室戸市羽根町の赤木谷山で展開している大阪の業者によるメガソーラー開設事業は他とは比較にならないほどひどいものだ。

国が指定した砂防指定地の広大な山地。その大半の植栽を丸裸にし、満足な排水施設も設けないでパネルを張り巡らした。砂防指定地では、知事は、風水害や震災にそなえて砂防施設を設置するだけでなく、竹木の伐採や土地利用なども制限しなくてはならない。

そんな義務はほとんど放擲されている。業者はやりたい放題だ。アマゾンの火事のようだ。これを許した県庁(尾﨑知事)の責任は重大だ。

政治的な責任だけでは収まらない。職権乱用など刑事責任も問題になってくるだろう。県勢を最低に落とし込み、あまつさえ県民のふるさとの山を業者のなすがままに解放し、それで国政に転出するのか。

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2019年9月 6日 (金)

政治的中立


愛知県の展示会で慰安婦像と思われる少女像が出品されたことで河村名古屋市長ら嫌韓族が騒ぎ出し展示会がつぶされた。

地方自治体が、政治的な表現を公的な施設でどこまで受け入れるのか難しいという問題がある。金は出すが口は出さないとか愛知県知事の発言もある程度理解できる。

しかし、知事や市長村長の政治的中立というのは、あり得ないと私は思う。首長は政治家なのだ。公的施設の利用や行政の在り方にその政治的信念が反映するのはやむを得ない。
私は東洋町長在任中に、女性職員二人を東京の慰安婦問題の集会に派遣したことがあった。町長のメッセージを持たした。

若い職員に日本の侵略戦争の真相を知ってもらう必要があると考えたからである。また、高知の西の方の大月町に使用済み核燃料の貯蔵受け入れの話があった時にバスを1台出して町長自身を含め職員や住民をその地元の集会に参加させたこともあった。

また、核武装を唱えるある新しい政党が東洋町の施設で講演会を開きたいので会場を貸してくれという申し出があったが、これを私は拒絶したことがあった。その政党の女性活動家が政治的中立性がないなどと執拗に食い下がってきたが、絶対に施設は貸さないと峻拒した。私は政治的中立性ではなく、私の政治的信念を通すことが大事だと思ったし、それで正しいと思う。
もしNUMOが東洋町に再び現れて高レベル放射性廃棄物の説明会をやりたいと申し込んできても、公的施設の利用は認めなかったであろう。

「金は出すが口は出さない」という知事の発言は、そういう形で少女像を守ろうとするぎりぎりの政治的表現であろう。
人は、どちらの見方にもならない、天にも地にも所属しない空中を漂う存在ではありえないのである。

横浜市長のカジノ「白紙」の発言も「推進」の別の表現だったわけだ。
「政治的中立」の主張は、政治的に抑圧されて公共の施設の利用や道路での示威行動を拒絶されたり、著作物の出版が禁止されるるなど表現の自由がうばわれるときに被抑圧市民の人権を守る戦いの武器である。

戦争を憎み、核兵器や原発を憎み、人権を守ろうとする者には、一本の道しかなく政治的中立などは存在しない。
たとえその者が知事や市町村長であってもだ。

もちろん、首長の場合、自分の信念と相違するからといって、あるいは自分に不利益になるからといって、何でもかんでも反対したり禁圧するというわけにはいかない。その判断は憲法など法令の趣旨やその自治体の条例や慣例、またひろく人倫の公序良俗に依拠し説明できるものでなくてはなるまい。

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2019年9月 3日 (火)

憲法第26条 義務教育

憲法第26条の規定は、

①子供たちが教育を受ける権利

②普通教育を子供たちに提供する保護者の義務

③義務教育の無償をうたっている。

③の無償は当然として、問題はこの教育が子供を学校に強制的に入学・通学させるということを意味しているか、である。

私は、子どもたちを朝から夕方まで学校に閉じ込めて教育を強制するのは憲法の趣旨ではないと思う。

不登校の問題、いじめ(差別)の問題、子供たちの自殺、知識の詰込みや試験、競争など子供たちのストレス。私は自分自身が振り返ってみてぞっとする。憲法23条には学問の自由も保障されている。小さな子供たちにも学問(学習)の自由は保障されねばならない。Compulsoryな教育ではなく、自由な学習が子供たちに保障されるべきである。

私は現在の小中学校の「義務教育」制度はいったん廃止すべきであると考える。どこで勉強してもかまわない、家や図書館で一人でまた友達と一緒に勉強してもいい、もちろん親や兄弟でもいいし自由に家庭教師についたりや塾に通うのでもいい、また、現在のような小中学校も存在させ希望する生徒を受け入れることもできる、特に音楽やスポーツなどのクラブ活動では学校があるといいだろう。そういう多様な教育環境(憲法が言う「普通教育」)が用意され、その学校で一応卒業資格のテストがあってもいいだろう。

学校があっても出欠を取らず、自由出席にすべきだ。
高校・大学へ入学する試験はあるからそれのための学習の場は、自由に選択できるようにすべきだ。

憲法第26条は何も牢獄のように子供たちを集め特定内容の学校教育を強制している趣旨ではない。

明治5年の学制の施行はそれなりの意味があったかもしれない。
しかし、子供たちへの圧迫は幾世代にもわたりその害悪はかりしれない。権力がこの教育制度を使って天皇制を叩き込み国民を侵略戦争に洗脳したのはその害悪の象徴だ。
現行憲法下でもそれは基本的に変わらない。教育現場に日の丸を持ち込み昔の教育勅語的教育をまで強制しようとする。

教室の授業の思い出は常に陰鬱であった。常に沈黙しておらねばならなかった。多くの部落の子は学校で始めて差別を体験する。

おそまきながら、今、憲法の趣旨を捻じ曲げて子供たちを苦しめてきた「義務教育」を考え直し、自由な学習の場、楽しい少年時代を子供たちに提供するべきであると思う。学問の自由の権利は学者先生だけでなく子供たちにもある。

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