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2018年5月

2018年5月22日 (火)

カンヌ映画賞で万引き家族

News & Letters/634
安倍自民党政権下の貧しい日本の家族の実像が描き出された作品に
最高級の賞が与えられた。賞が与えられたということが大事ではない。
その内容、訴えるものが大事だ。私はその映画を見ていないが、報道である程度わかる。
深刻な悲喜劇だ。私の住む周りにも大勢の貧困家庭が不安な毎日を暮らしている。
生活保護世帯はその貧困層の中で数十%にすぎない。あとは放置されている。
政府の生活保護費の段々の削減はその生保家族をも追い詰めている。
市営住宅の家賃が払えない、国保税が払えない、固定資産税が払えない、という人々が私のところに相談に来る。
生保を申請しても、葬式代にも足らないわずかばかりの貯金を暴かれて拒絶される。
このような実態に私は日ごとに立ちあっている。
  み吉野の 吉野の鮎
   鮎こそは 島辺もえき
     ゑ苦しえ 
   なぎのもと せりのもと
    吾は 苦しえ
という日本書紀の民謡の声が寒村の私の村に高く低くうなっている。
  ところで、私が調べたところ室戸市も税収が11億円程度なので必要経費の大半は国の地方交付税交付金に頼っている。高知県も、県下の市町村は総てこの交付金にすがってくらしているのだ。
この交付金は国に申請するときには、高齢者への手当てに何億、子供たちの世話に何億、道路1キロメートルにつきいくら・・・・
という風に事細かく計上して出されている。だが、政府がそれを認めて交付するときには、総額幾らでおりてくるから、もらった都道府県や市町村は何に使ってもおとがめはない。
しかし、例えば高齢者のお世話に年間7億円必要だと申請してもらっておいて、実際にはその半分ぐらいしかお年寄りに使わず、他に流用しているのが実情である。
また、生活保護費の4分の3は国や県が出すことになっていて、4分の1は市町村が負担することになっているが、その市町村の負担分も地方交付税交付金でもらって賄っている。
室戸市の交付金の内訳では、生活保護費は4億円申請しもらっているが、生保費には3億円程度で済んでいる。
残る1億円は、どこへ行ったのか。生保家族以外の極貧層はその数倍存在していると考えられるから、少なくともその人々を支えるためにせめて残りの1億円は使うべきではないか。地方交付税交付金では、農林水産業に2億5000万円ほどおりてきているが、予算書を見ても1億5000万円ほどしか使われていない。残る1億円はどこへ行ったのだ。不漁や台風の被害で農漁民はあえいでいるのに。
室戸市長は、ウミガメ水族館の建設で3億5000万円業者にわたした。たった3カ月の工期を16ヶ月延ばし、ほとんどの工事を下請けにやらせた。下請けの契約金は、たったの1億8800万円程度だから、その差額は1億6000万円である。
このような巨額利権に絡む無駄な事業がどんどん遂行されてきた。
そのような多額の無駄事業のために地方交付税交付金はおりてはいない。
地方交付税の申請では、お年寄りや子供や地域改善のためのお金が必要だといっておりながら、いったん入るとその情報は深く秘匿し、室戸市の場合50億円近いその交付金を湯水のように特定業者どもに注ぎ込む。
このような地方交付税交付金をめぐる国家・地方がらみの大詐欺事件は室戸市だけではない。
そして悲しいかな、多くの貧困層は選挙になるとオウンゴールよろしく、自分たちにあたがる金を剥ぎ取り他に流用する
政治グループに投票してやまないのである。
是枝監督に頼みたい、このような悲喜劇を映画化していただきたい。二度目の賞は確実と思われる。
 

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2018年5月20日 (日)

正義論

News & Letters/633
正義は勝つ。だが滅多に勝つことはない。
むしろ正義は負ける、極めてまれに勝つこともある、というべきだ。
我々の多くの戦いは敗北であった。勝ったのはごくわずかだ。
負けても負けても闘い続けるうちに、ひょっとして正義が勝つときがある。
イエスキリストも最後には刑死した。
西郷隆盛も、坂本龍馬や中岡慎太郎も最期は敗滅した。
反原発の裁判も、オンブズマンの住民訴訟もほとんどは敗北だ。
選挙もそうだ。正義が必ず勝つのであれば、安倍や麻生などはとっくに国会から消えているだろう。
もとより、われわれの正義と右翼反動どもの正義とは異なる。
自民党などの掲げる正義は嘘だ、不正義だと我々は考える。
それでは、現代の正義とは何か。
私のようにマルクス主義を正義と考える人は少なくなった。
国民的には憲法が現代の正義だというのが一番妥当だろう。
 
吉田松陰の言葉に
  生もまた我が欲するところなり
  義もまた我が欲するところなり
  二者兼ぬるを得べからざれば
  生を捨てて義を取らんものなり
 
正義を奉じて生きるものは、必ず生(安楽)と正義との選択の岐路に立つ時がある。
松陰は、正義を取れば、ほとんど死(敗北)が待っていると考えるべきだというのである。
正義を取って闘うものは、その信念と闘争に生を賭けることに精神の満足を得るのであり
即ち正義の追及に幸福を覚えるのである。
松陰は刑死するとき、その時、至福の境地にあったから、慫慂として断頭台に臨んだのであろう。
正義はほとんど勝つことがない。だが、我々は正義のために人生をかけて進んでやまない。

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2018年5月 6日 (日)

憲法の覚悟

News & Letters/632
憲法9条は文字通り死守されねばならない。
憲法9条は非現実的だとか、専守防衛の自衛隊の存在は合憲だ、
自衛隊が違憲だというのは一部の学者だけだ、など左翼という人士まで
そういうでたらめな意見を発表し続けている。
自衛の権利は自然法でも認められているから自衛隊は合憲だという者もいる。
だが、だれがどう見ても自衛隊は武装した軍隊であり、戦前の旧軍隊よりも
強力な火力を持っている事実は何人も否定できず、憲法9条に真っ向から矛盾することは火を見るより明らかだ。
この矛盾をなくするために改憲だというのが安倍たちの論拠だ。
自民党や野党といわれる連中も憲法9条違反の罪科を課されるべきだ。
それでは、外国が攻めてきた場合どうするのだ、というだろう。
憲法ができた当時も当然同じ疑問が出された。それでもなお、制定時の政党や国民は
現行の9条を掲げた。当時の政治家たちが何故非武装不戦の憲法を選択したのか。
それはただ単純にアメリカに強要されたからなどとは言えない。
新憲法を制定する国会審議で9条の条項を改変し、軍隊を保有する憲法にすることは可能であった。
可能であったがしなかったのだ。なぜだ。
それは仮に他国から侵略を受ける事態が発生しても構わない、国が他国により滅亡に追いやられても構わない、という覚悟があったからであろう。
戦争によらず武力によらず他国を信頼して交渉や対話を通じて国を守る、ということには限界があることは容易に想像できたはずだ。それでも9条を選んだのは、なぜか。
回答。他国の侵略によって植民地にされても耐えて生きていこう、いつかはその侵略を克服できるまで耐え忍ぼう、むしろ軍隊を持ち、戦争を外交の手段として再び他国を侵略し人に多大の犠牲を強いるよりも耐え忍ぶ方を選択する、という覚悟があったはずである。
安倍自民党らの北への制裁・武力行使一辺倒を批判し、対話路線が大事だという主張もなるほどと思うが、それだけでは憲法9条の精神は反映されない。例えば、どういう状況であろうと日本政府や国民が北朝鮮への医療や薬剤を無償で提供し続けるということをしたれどうだろう。われわれは朝鮮人民には天文学的巨額の血の負債を背負っている。
南北分裂の民族の悲劇の根因も日本の植民地支配だ。恒常的に医療や食料、衣服など北朝鮮人民の生活の糧になるものを提供し続ける方が、「対話」よりいっそう日朝の平和に効果があると思う。
相手が核を持とうがミサイルを持とうが、我々はなすべきことをする以外に道はない。するべきことをしなければだれも信用してくれない。
北の脅威に対しては砲弾ではなく、医薬品や食料で応戦してみろ。憲法の覚悟は、はいつくばっても相手の心をつかむ行為を促している。
拉致被害家族の願いに応ずるのも、武装対決や経済封鎖ではなく、朝鮮へのわれわれの朝鮮半島植民地化への償いの行為だ。

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