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2018年3月22日 (木)

裁判闘争での敗北

News & Letters/624
函館地裁の大間原発差し止め裁判、佐賀地裁玄海原発3,4号機差し止め裁判が相次いで敗訴。
国策をめぐる事案で裁判で争って勝つのは至難の業である。
それは、事実や法令をもとに利害をめぐっての争いではなく権力を相手にする政治裁判であるからである。
裁判官の圧倒的多数は権力の側にその意識を保って生活し仕事をしている。
住民訴訟を含む行政訴訟で勝つのは至難の業である。
だから反原発運動では裁判闘争での勝利を最終的勝利目標にしてはならない。
原発を止めさせるのは権力の構成を変革することによるから、選挙も含む大衆的な政治闘争によって決着をつけることである。裁判闘争はその政治闘争の中に位置づけられる。
すなわち、政治闘争を活性化させ、敵の姿を鮮明にし、我々の政治目標がいかに正しいかを明らかにすること、そのことによって大衆的政治闘争の大義を鮮明にし闘争を活性化させる、そのために裁判闘争をするということである。
選挙戦を含む大衆闘争の発展のなかで裁判所の姿勢も変わる。裁判闘争至上主義に陥り、原発のある市町村への大衆的な扇動工作、選挙戦など政治闘争を主体にした反原発闘争の原則を忘れてはならない。
東洋町での経験では、一個の裁判闘争もせず、もっぱら署名活動や宣伝活動、そして選挙戦で決着をつけたのである。裁判闘争で勝てばよし、負けても裁判で明らかになった事実をもとに大衆運動の発展の足場を築きあげねばならない。原発東京都問題は政治決着だということを肝に銘ぜねばならない。
現地の議員選挙、首長選挙に登場することは当然の戦術である。
玄海町議選では永く保っていた反原発1議席も失うようでは、あるいはそれを受け継ぐために立候補の一人も出さなかったでは、その運動の本気度が問われよう。
政治闘争で無力なのに、さなきだに難しい裁判闘争で勝てるわけがない。
このままでは福島のように取り返しのつかない大事故が起こってから初めて原発の恐ろしさが分かった、ということになりかねない。

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