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2018年1月16日 (火)

原発裁判

News & Letters/614
国民による原発裁判は種々の方法、論理で戦われている。
地震(火山)や津波による原発施設の破壊の危険性が主な理由である。
このような裁判では、専門家が主体となり市民がそれらに依存し、応援するしかない。
民衆訴訟といっても法廷は弁護士や専門家の独壇場である。
住民は厳密に彼らの弁論を理解できるか、ほとんどできないであろう。
弁護士や専門家は時に高圧的に原告である住民の意見を平然と無視する。
 
原発が人類にとって最も危険であり許容できないものである最大の問題は、
その稼働中の事故や被爆の問題よりも遥かに深刻なのは、放射能の塊であるその廃棄物の生産である。
この使用済み核燃料の安全な処理方法は、原発稼働や原爆製造が始まってから今日まで全く確立されていない。そして、原理的に処分方法は確立できない。プルトニウムやセシウムなど放射性核種は元素であり、これを分解して無害化することはできない。

何万何十万年かけて自然消滅するまで安全に保管しなければならないが、数千年の歴史しかない人類がそのような気の遠くなる未来まで責任をもって管理できるか、ありえないことだ。これはだれにでもわかる話だ。

しかも現在、それの最終処分場は日本のどこの市町村でもそれを受け入れるというところは存在しない。
原発が欠陥商品であることの証左は、しかも致命的な欠陥を持つ商品であることは自明のことであり、それこそが原発の最大の問題である。どんな優秀かつ安全な高性能の原発もこの猛毒の廃棄物生産という欠陥から逃れられない。
原発裁判は、この核廃棄物をめぐって行われてしかるべきである。稼働中の原発の事故をあれこれと追及する付け足しに廃棄物問題を出すのではなく、裁判の主要なテーマとして取り上げ闘われる必要があると私は考える。
 
そうすれば、論理は単純かつ明快であり、専門家や弁護士と同列になって住民が訴訟の中心となれる。
その裁判の主張は、
①いかなる原発も猛毒の使用済み核廃棄物を生産する。
②これの安全な処理方法は存在しないし安全な管理方法も存在しない。処分場を受け入れる市町村はどこにもない。

③電力会社や政府は、②の主張について合理的な反論をしなければならない。
結論:
④この核廃棄物の安全な処理ができるまで原発の稼働はやめるべきである。
 
しかも政府が最近地図で処分場候補地として示したように全国ほとんどどこでも国民は原告適格となっている。

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