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2017年8月

2017年8月18日 (金)

反戦の旗

News & Letters/585
安倍は、韓国の大統領らと連帯して、トランプが北朝鮮と戦端を開くことを
押しとどめなければならない。日本の新聞やテレビは、北朝鮮が何をしようとも
日本は一発の弾も外国に向かって撃たないことを政府に求めねばならない。
米朝が開戦しても、日本は戦争に参加してはならない。日本から米軍が出撃
しないよう強く要求しなければならない。今こそ先の大戦の教訓を生かして新聞は
反戦の旗幟を高く掲げるべき時である。第二次大戦の轍をもう一度踏むつもりなのか。
あらゆる言論機関が戦争反対で動くべき時である。
国は、衆参両院の国会を開き、全国の地方自治体も議会を開き、自衛隊が参戦しないように、日本の基地から米軍が発進しないように、決議を挙げるべきである。
 
日露戦争には与謝野晶子が「君死に給うことなかれ」を詠った。
この歌には曲がついていて私はそれを中学2年生の時歴史の授業で
大寺美也子先生から教わり、それからずっと愛唱してきた。
最近島崎藤村の詩集を読んでいて、『夏草』という詩集に日清戦争時と思われる
激しい厭戦詩を発見した。それは1農夫が兵士として中国の戦線に召集をかけられた時の
懊悩の状況を如実に表していた。その一節を紹介する。
      ・・・・・・・ 
       まことのさまを尋るれば 戦(たたかひ)とてもまた同じ
       野末の草に流れゆく 活ける血潮やいかならん
       剣の霜に滅びゆく  人の運命(さだめ)やいかならん
       誰か火に入る虫のごと 活ける命をほろぼして、
       あだし火炎(ほのほ)に身を焚(や)くの
       おろかのわざをまなぶべき
       嗚呼つはものの見る夢の
       花や一時(ひととき)春行かば 
       剣も骨も深草の 青きしげみに埋るらん 
       げに凄まじき戦いの あとにもましてうつし世に
       いや悲しきはあらじかし
 議員や政治家だけでなくあらゆるジャンルの、学者や文化人、詩人、小説家、芸術家、労働者、医者、弁護士、大学、小中高校生老人団体、津々浦々の町内会が一斉に戦争反対を唱えるべきである。
  たとえ国が滅んでも、他国の戦争で滅んではならない。

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2017年8月11日 (金)

北朝鮮と抑止力

News & Letters/584


2017年8月10日 甲浦で稲刈り
北朝鮮の暴発行為はエスカレートの一途である。

しかし、この事件は、大きな真実をあぶり出した。
この真実は多くの平和主義者にはなんとなく分かっていたが、大多数の政治家や国民には全く分からないか 不分明であった。

 それは、北朝鮮の核武装・核ミサイルの無制限な開発によって「核の傘」とか「核抑止力」という想念又は政治思想が全く無力であり虚妄であることを暴露したと言うことだ。

 また、膨大な予算で維持してきた日本の自衛力又は自衛隊が全く無力であり何も出来ないと言うことも実証された。従ってクラウゼヴィッツの『戦争論』も好戦的な半狂人が権力を握る国については無力であることも証明されたと言うべきである。

クラウゼヴィッツの場合、戦争は政治の延長だという理屈であるが、これは政治を行う理性的な人間同士を前提にしている。核兵器を持った狂気の男には通用しない。自分も破滅するが相手も破滅させてやると言う論理、それを現実化できる核兵器の登場は如何なる理性も利害得失も通用しない別世界の、次元の違う非論理の世界なのである。

我々は北朝鮮のキムジョンウンに対抗する手段を持たない。誰も持たない。
ただ、北朝鮮内部でこの世の魔王を消し去る以外には、誰も何も出来ない。

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2017年8月 5日 (土)

続・国民機関説

News & Letters/583
現憲法前文の英語では
 Government is a sacred trust of the people,the authority of which is derived from the
 people,the powers of which are exercised by the represntatives of the people,and
 the benefits of which are enjoyed by the people.
となっている。これは、明らかに1863年リンカーのゲチスバーグでの有名な演説(The Gettysburg Address)の一節 と同じ趣旨である。
  人民の,人民による,人民の為の政府は地上から滅せさせないぞ
 Government of the peoole ,by the people ,fot the people shall not perish from the earth.
だから of the people というのは、by the people とは違って、人民の 保有する政府という意味である。
日本人民は、国政を政治家や官僚に「信託」してはいない。
ただ、それに属する権力の行使は、人民の代表(representatives)が行使することになっている。
人民の代表は、しかし、統治権者ではない。人民に選出された代表にすぎず、権力行使は人民の意思に沿わなけれない。
現在立法府は人民の代表が選出されているが、行政府たる内閣はそうなっていない。
人民の意思を反映するシステムが極めて不十分であるから、行政府は独善的になる。
総理大臣と閣僚は直接国民によって選出される必要がある。
さらに問題なのは司法権力である。これはほとんど全く人民によって選出された代表 representatives ではない。
最高裁長官が行政府によって任命されるシステムでは、行政府の補完物でしかない。
司法権力は憲法前文の趣旨からは完全に取り残され暗闇となっていて、人民圧服の旧体制のままである。
最高裁判事、高裁の判事、地裁の判事はすべて管轄する住民による公選で選ばれるべきであり、その判決文についても、それぞれ管轄地域の不特定の人民の代表によってチェック(審査)され、重大な過ちや故意の誤判について糾弾され責任が問われるがなければならない。
検察においても告訴・告発権(検察権)を人民に与え検事とともに人民も直接裁判所に犯罪を起訴できる制度が必要である。
現行憲法を変えずとも法令で相当改変することができるだろう。人民主権が貫かれねばならない。
天皇が国政を総攬し統治権者という憲法上の建前(国体)であったが、実際は重臣や官僚、軍部が国政を壟断していた。
天皇は国体の一機関と位置付けられ実権は干されていた。
今、憲法上国民が主権者として位置づけられているが、実際は「信託」論により骨抜きにされ、わずかに立法府の選挙の時だけお出ましが許されるというあわれな境遇に祭られているのである。戦後の憲法学者は天皇機関説に代わる国民機関説を東大法学部などすべての大学法学部の教壇から垂れ流してきたのである。

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2017年8月 4日 (金)

国民機関説

News & Letters/582
篠原英朗著の『ほんとうの憲法』は、戦後反改憲派の東大法学部の国民主権論が、戦前の美濃部達吉流の国体論(天皇機関説)の焼き直しであることを暴露した。
しかし、その基軸となるのは、憲法前文の国政信託論であるが、その点では、天皇機関説を攻撃した戦前の右翼と同様に篠原らの現代右翼論客も同じであって、国政は国民が政治家や官僚に信託したという説の上に立っている。
現代憲法学の国民主権論は結局、天皇機関説を→国民機関説に変更しただけなのである。
実態は、国民が主権を行使できるのは基本的に選挙の時だけであって、選挙権を行使した後は、政治家どもに国政は「信託」したことになり、政治家は信託(はく奪)された以上
何をやってもいい。選挙で美辞麗句を並べうそを言って当選して「統治権」を握れば独善的な権力行使をしてもかまわない。
森友学園、加計学園、PKO日報事件などは氷山の一角にすぎない。三権分立などというのはちゃんちゃらおかしい。刑事裁判、行政事件訴訟、原発や自衛隊、安全保障などの裁判では司法が行政権力と一体となって国民の真実、権利を踏みにじる、破たん調の判決文も恥じることはない。
わたしはこれまで、市民オンブズマンとして数えきれないほどの住民訴訟をやってきた。それに対する裁判所の支離滅裂な判決文をいつかまとめて本にしたいと思っている。
日本の地方裁判所(高等裁判所)がいかにでたらめか人が知ればびっくりするだろう。司法が行政権力の藩壁になって原告住民をあざ笑うのである。
戦前の国体と同じく現代の国民主権国家も国民主権は虚構であって実際は
天皇機関説の天皇と同じく粉飾にすぎない。憲法や法令で国民が直接主権を行使できるのは、憲法改正についての国民投票と地方自治法で若干の直接請求権が認められているに過ぎない。
あとは「信託」された政治家と官僚が国政を牛耳っているのであって、その姿は、何ら戦前と変わらないのである。
我々は、三権全般にわたって本当の意味の国民主権の政治のありようを構想し、それを構築しなければならない。

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憲法

News & Letters/581
トーンダウンしたとは言え、安倍内閣が憲法改正・自衛隊合憲・侵略戦争合憲化しようという姿勢は変わりがない。最近『ほんとうの憲法」(篠田英朗著)を読んでみた。
現行9条の規定でも日本が集団的自衛権を含む自衛戦争権を持つことができるという
途方もない見解(牽強付会の説)を主張していて噴飯ものだ。
憲法改正に反対する東大系の憲法学者を非難し戦力不保持の規定について英文を引き合いにして次のように言う。
「land,sea,and air forces as well as other war potentiai」
が「陸海空軍その他の戦力」に対応している。つまり禁止されている「陸海空軍」とは
「war potential」 としての「戦力」に該当するものである。逆の言い方をすれば、
「war potential」ではない陸海空軍は、必ずしも禁止されていない。
 
いったいこんな詭弁を使うものが学者といえるのであろうか。
war potential でない陸海空軍などが存在するのであろうか。
このような愚劣な歪曲をする本であるが、学ぶ面もあった。
それは、次のような指摘である。
東大憲法学者の系譜は、戦前天皇機関説の美濃部達吉の系統でありその第一の弟子宮沢俊義らは戦後憲法学をけん引し会見に反対してきたたが、実は戦前戦中は大東亜戦争賛美の憲法学者であって、ドイツ国法学の影響下にあったこと、即ち国体思想を現代的に国民主権論のなかで保有していることを剔抉している点である。
憲法学者が「国権」とか「統治権」というとき、それは戦前の国体論と同じく官僚国家体制であり、東大法学部系憲法学者はそれを主権者である国民が規制するのが立憲主義だとしている、と批判する。
ようするに観念的に措定した国体を憲法学の中核に掲げているとの批判である。
この指摘は鋭いものである。英米流の憲法解釈を主張するが、篠原は具体的に対置する政治思想は何か何も提示しない。
それは、彼も又国体論者であるからだ。
篠原も東大憲法学者と同じく憲法前文の 国政は国民の厳粛な信託による、という原理を挙げ、国民と政府間の信託契約が立憲主義だいう。
しかし憲法の原文たる英文は、そうはいっていない。前にも書いたように
Goverment is a sacred trust of the people,となっていて、
国政を人民が誰かに信託するとはなっていないのである。正確に訳せば、国政は、人民に所属する神聖なる信託物であり・・・、となる。
trust は動詞ではなく名詞なのであって、その前に sublime(厳粛な)ではなく sacred(神聖な) という形容詞がついている。
sacred神聖なという形容詞は、神(造物主)からの賜りものを意味しtrustが天賦のものであることを示唆する。
of the people のof は よる(by)ではなく 所属を表すもので人民による、ではなく人民に所属する、と訳さねばならない。
和文の憲法も東大の憲法学者もそして篠原もこの信託論によって、日本人民から国政の権限を奪うのである。
 
そして
国体論は、観念の世界の話ではない。それが日本の戦前戦後の政治的実態なのである。
その実態を示すものとして最近読んだ『虚構の法治国家』(郷原信郎、森炎対談集)がある。
日本の国体の中枢である司法権力(警察・検察・裁判所)が戦前の伝統を踏襲し、牢固として人民の前に屹立している姿が描かれている。
人民主権、国政が人民のものであるなら、例えば、犯罪の告発が検察の独占を許さず、誰でもが裁判所に犯罪者を告発し裁判にかけられるようにするとか、裁判官の大半を公選制にするとか、意図的な誤判裁判官に損害賠償請求や罷免請求ができるようにするとか、重要法案について国民投票や、住民投票がどんどん行われようにするなどあらゆる方面で
人民の主権行為を大幅に拡大しなければならない。直接民主主義を主とし、代議制を従とするべきであろう。
 

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