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2017年1月 6日 (金)

クラゥゼヴィッツ「戦争論」

News & Letters/544

本多延嘉氏の暴力革命論は、結局クラウゼヴィッツの『戦争論』に行き着く。本多氏はクラウゼヴィッツの『戦争論』を高く評価する。
本多氏の共産主義者第23号の論文(「戦争と革命の基本問題」)はクラウゼヴィッツの焼き直しであろう。

ナポレオン時代のこの『戦争論』については、今も世界中の軍人や政治家がほめそやす。
それを最も称賛したのはヒットラーである。問題は、エンゲレスとレーニンがこれを高く評価している点である。

マルクスがこれをどう評価したかについては、私は未だ知らない。
結論から言うと、反戦運動をしてきた私は学生時代からこのクラウゼヴィッツの戦争理論を評価しない。

なぜか。この書は、徹頭徹尾戦争肯定論である。戦争(暴力)は政治の継続であるとしたが、逆に言えば政治は戦争の継続という位置づけだ。
それは外敵だけでなく内部の敵対勢力・民衆にも向けられた国家の暴力の正当化の論理である。

マルクス宛の手紙ではエンゲレスの評価は、この戦争理論はあたかも商取引と同じであると理解しているから、プロレタリアートの理論として評価しているようには見えない。レーニンの評価は、戦争は政治の継続であるというクラウゼヴィッツの主張を特に評価している。

レーニンは経済学や軍事的戦略家としては素晴らしい能力を発揮した。しかし、マルクスの経てきた哲学(特にフォイエルバッハを媒介としたヒューマニズム)の思想は探求した後がない。だから我々は、マルクス・レーニン主義であって、レーニン主義ではない。

レーニンはパリコミューンの総括で、二つの欠点を挙げた。その一つが武装したプロレタリアートの「寛大さ」であった。

確かに反革命のヴェルサイユの政府を打倒しなかったのはパリの労働者の最大の失敗であるが、しかし、それはプロレタリアートの「寛大さ」とは関係がないと思う。プロレタリアートの「寛大さ」はプロレタリアの本性であり、革命の性格から発したものである。
クラウゼヴィッツは、近代戦争の性格は、いろいろな事情で緩和されるとしても原理的には敵勢力のせん滅にあると主張する。皆殺し理論だ。

反戦の旗を掲げてきた我々は、クラウゼヴィッツの『戦争論』とは全く違った想念で現代の戦争に立ち向かってきた。
国のため、民族のための一切の戦争を認めない。外敵に侵入されるときブルジョワジーは敵に国土と人民売り渡すことも辞さないだろう。

自国のブルジョワジーであれ、他国の外敵であれ、われわれは、それらを撃退するプロレタリア革命を遂行するだけである。
プロレタリア革命を達成するには、それだけに頼ることはできないが平和的手段が使える場合は、できる限りそれを使わねばならない。

しかし、結局は武装闘争の修羅場をくぐらねばならないということは片時も忘れてはならないし、その準備を怠ってはならない。

ドイツの戦争扇動詩人シラーの熱情が込められたクラウゼヴィッツの『戦争論』(その行き着くところはヒットラーナチスであり、軍国日本)の根底的拒否がマルクス主義の出発点でなければならない。クラウゼヴィッツの戦争肯定論に根差した本多氏の暴力革命論もきっぱりと拒絶されねばなるまい。

クラウゼヴィッツの戦争理論についてさらに考究して行く。

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