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2016年10月13日 (木)

「革共同私史」について【訂正】

News & Letters/524

橋本の「革共同私史」についての私の現行中
柏木論文は「共産主義者」24号に掲載されたものです。

  【補充】 私の党派闘争

私の党派闘争は、そもそも解放同盟内では、狭山事件の関係から急速に革命的共産主義運動を根付かせることが困難であることから、解放同盟から脱却して直接全国の部落青年に呼びかけ独自に一革命戦線として独自の解放運動を構築するところから始まった。

そのときの同志は大阪寝屋川市国守部落の西方寺僧侶斉藤あきのり君(故人)ら数人であった。解放運動の一党派として全国部落研とか関西部落研を名乗って主として狭山闘争を全国に呼びかけた。狭山闘争以外にも豊中高校、向陽高校(和歌山)の差別糾弾、差別映画橋のない川上映阻止闘争などいくつもの激しい糾弾闘争を繰り広げた。

この様な糾弾闘争は中核派とは無縁の地で闘われたが、やがて中核派の一戦線として位置づけられた。これは学生運動や労働運動、反戦青年委員会などを主として組織していた中核派には全く異様な存在であったであろう。中核派や新左翼には旧社会党や共産党が重視していた部落解放運動は無縁のものであったからだ。

しかし、日本の反体制運動では戦前から左翼3団体の1つとして全国水平社の激しい闘いの戦線が繰り広げられてきた。共産党はこの戦線を民主主義革命→社会主義革命の二段階革命戦略に巧みに組み込んでいたのである。

新左翼の経済論は、戦前の労農派系統であり、農業問題や部落問題など封建遺制による差別問題は資本主義の発展の過程で自然に解消するものという軽い位置づけであった。
だから、この新左翼の戦線に封建遺制の差別問題を持ち込むこと自体が大いなる私の党派闘争の始まりであった。

私は、その党派闘争の理論を宇野学派の経済論(帝国主義段階論)でもって部落問題を位置づけた。それは私の卒論であったが、その序文が立命評論に掲載された。立命評論のその号は多数回印刷が繰り返されたという。資本主義の帝国主義段階では、一方に金融資本が確立されると同時に、本来資本主義の発展と共に解消されるはずの地主・小作関係や過小農の広範な存続、そして部落問題など封建遺制が解消されず、むしろ新たな論理でもって再編されるというものだ。従って部落問題も二段階革命路線で解決できるのではなく、帝国主義打倒のプロレタリアートと同一の戦略課題を持って戦列を組んで社会主義革命的に解決する道しかないのである。

洗練された都会型の学生運動をやってきた連中にこの様な理論が素直に受け入れられるはずはなかった。基幹労働部門のプロレタリアの決起による革命を目指すという思想は、部落民ら底辺の人民はルン・プロとしか見えないのである。

その中で、狭山闘争は全国的に広がり、全国の部落青年は戦闘化して荊冠旗を掲げて「糾弾・奪還」の声が日比谷公園にこだましだした。解放同盟の本隊も危機感を抱いて狭山闘争の主導権を取り返そうとして大動員をかけだした。部落の青年を取られてはまもなく解放同盟本隊もトロッキストに乗っ取られると恐れたのであろう。
危機感を抱いたのは解放同盟中央〔特に上田卓三〕だけではなかった。中核派関西地方委員会にもいた。それが橋本その人だ。

「共産主義」24号の柏木論文や「前進」の秋口論文もその当時出てきた。まさに資本主義の発展の中で部落民はプロレタリア化し部落問題が解消されると読める内容の論文が出てきたのである。これは同時期に「共産主義」や「前進」に私が書いた論文とは全く違う内容であった。私を含め当時の部落研の主な活動家は、討論を重ね、柏木論文や秋口論文を部落解消主義として厳しく非難をした。部落解消主義では解放運動は戦えない。

しかし、橋本らは後に、腐敗分子として暴力的に排除した与田らを使って部落研の分裂策動を初め、又関西地方委員会を反澤山で固め、一切の論争を封じ澤山及びその同調者を排除した。それだけでは飽きたらず、橋本は、澤山をこの世から物理的に抹殺するために白色テロルを組織し、それを実行した。白昼、無防備の澤山に多数の者を襲撃させ鉄パイプで全身をめった打ちにし、地面を血の海にした。革命的な部落解放運動を撲殺するこの橋本企画の蛮行は長く歴史に印刻されねばならない。

今私は、この蛮行について個人的な恨みを持っているわけではない。この反革命的蛮行がもたらしたのは、今日の部落解放運動の惨憺たる有様だ。腐敗分子与田らが率いた解放運動も同対審答申路線を一歩も乗り越えることが出来ていない。第一、同対審答申とは何かも知らないだろう。全文数百ページの答申を読んで分析した者はほとんどいない。だが現実に解放運動の大勢は同対審答申路線のなかに埋没し、腐敗し、解体して、部落差別のほうが「解放」されている始末だ。

狭山闘争も解放同盟の枠を越えることは出来ない。単なる冤罪問題の再審請求運動に過ぎなくなっている。師岡先生を初め解放同盟の論客・弁護士先生らはそもそも寺尾判決の恐ろしい論理を見抜けなかった。客観的事実と自白が矛盾する、だが矛盾するが故に真実だ、と言う恐るべき「弁証法」を刑事裁判に持ち込んだ寺尾の差別論理、これを認識しなかった。

自分は今解放運動について偉そうなことは言えないが、橋本利昭らの74年12月14日京都長岡での白色テロルがなければ、解放運動の戦線だけは、革命的共産主義運動の拠点として今も息づいていたに違いないと考え、切歯扼腕する思いである。

この白色テロルから程ない時期に私が聞いたところでは、解放同盟中央本部の私の師匠格にあたる執行委員らが革共同中核派の幹部と会って、このテロを厳しく糾弾したところ、涙を流して自己批判をしたということである。真偽は分からないが、実行犯である橋本らは今回発表された「革共同私史」では「共産主義者として正しかった」と確信していると居直っている。

少数派が多数派により不当な弾圧を受け、生きることが出来ないので暴力で反抗したというなら、その暴力もある程度容認される余地もあるが、党内の多数派が、無武装の少数派を暴力でたたきのめす、殺しても構わないというやり方が橋本のおはこであるが、この様な考えの者が権力を握った場合どういう社会が現出されるであろうか。
反スターリン主義は戦略戦術の問題より以前にスターリンの反対派に対する血なまぐさい党内粛正を問題にしているのである。

少数意見の者を暴力で圧殺しても共産主義としては正しいというのは、二律背反である。何故なら革命によってヒューマニズムを回復しようとするのが共産主義でありマルクス主義であるからだ。

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