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2016年9月18日 (日)

沖縄の裁判

News & Letters/519

マルクス主義の国家論からすれば、国家は公共性を被った暴力装置である。
その暴力装置は、軍隊であり、警察であり、行政機関・・・・、監獄、そして裁判所だ。
裁判所は、三権分立で独立した法の番人であり裁判官は憲法と己の良心にのみに拘束されて
自由な判断を下すもの、という建前になっている。
普段は、そのような公正中立、公共への奉仕という仮面が、本当のようにふるまう。
裁判も時々そんな感じでいい判決が出るときもある。裁判官も漫画「家裁の人」のような立派な人がいるということは確かだ。

福井地裁や大津地裁の原発裁判の裁判官も健在だ。
しかし、場面が違えば、裁判所も国家権力の暴力装置であることの馬脚を現してくる。
私が知る限りその場面はおよそ3つある。沖縄であり、部落(狭山事件)であり、そして住民行政訴訟だ。

今回の福岡高裁那覇支部の裁判長の下した判決は、憲法に照らしてとか、法令に適合するかとかいう判断基準をかなぐり捨てて支配権力の政策の支持をあからさまに表明し、裁判所本来の国家の暴力性の発動の結果であった。

日米安保体制での日本における軍事基地は憲法(9条 外国兵を代替的に武装させ戦争行為をさせる)に適合するのか、その軍事基地の大半を沖縄に偏在させることの憲法(第14条など)上の正当性はあるのか、今回の辺野古への移転は環境等の法令・規則に適合しているのか、手続きは適法(前の知事の認可の取り消しが有効)か等が裁判官の判断の基準でなければならない。我々は何も裁判官に、歴代内閣の安保政策への支持表明を期待したわけではないし、普天間と辺野古の比較をしてくれといっているのではない。

今回の判決文の要旨を見ても、憲法第76条3項に定められた裁判官の姿、良心と、憲法と法律にだけ拘束される独立の存在という規定を完全に踏みにじっている。憲法違反の判決というべきである。

最高裁は今回の裁判に備えて、あらかじめ裁判官の入れ替えをやり、最高裁のエリートを今回の裁判に派遣したといわれる。
もはや司法は、日米政府の走狗になって、国辱裁判を恬として恥じない。

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