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2016年9月

2016年9月25日 (日)

自衛隊

News & Letters/520

 周辺を見るといつの間にか、自衛隊は違憲だ、という人がいなくなった。
 必要最小限の自衛のための武力を持つのは憲法も禁じていない、とか侵略軍に攻められたら、どうするんだ、とか結局安倍晋三と同じ論理を使うのである。

しかし、自衛隊は明らかに憲法9条に違反するのである。

戦前よりもはるかに強大な火器を持つ軍隊の存在が現憲法で許されるはずはない。
そして、それでは、憲法が間違っているのか。否である。

憲法9条は正しい。国が軍隊を持つことも、戦車や大砲や戦艦、爆撃機、鉄砲・弾薬を持つことを9条は否定していてこれは完璧に正しい。国際紛争をこれらの武器や軍隊を使って解決することも一切禁じている。これも全く正しい。

その軍隊や武器でもって他国を威圧したり、他国の政治的軍事的勢力を抑止したりすることも禁じられている。

これらは全く正しい。憲法9条は文字通り正しく守られねばならない。

そんな考え方は、非現実的だ、理想論だ、あるいは非国民だ、などという。しかし、何人もそのような非現実的だといわれる憲法を我々が持っているという現実、その憲法9条を掲げてこの70年間非戦状態、国際平和状態を維持してきたという現実をも直視するべきである。この70年間自衛隊は戦争行為に関しては不要だったのである。

災害対策では自衛隊はしばしば出動し活躍もしてきたから自衛隊は国土災害救助隊とかいう名称で武器をクワやブルドーザーに替えて存続させたらいい。
敵に攻められたらどうするのだ、国民を見殺しにするのか、というだろう。

周辺に敵など存在しない。中国や朝鮮が日本に攻めてくる恐れはほとんど0だ。それにたくさんの原発施設を持つ日本では、とても他国と戦争を構えることはできない。通常兵器でも原発は攻撃可能であり、防衛するすべがない。新潟や福井の原発をやられたら日本は壊滅的打撃を受ける。
・・・・・
問題なのは、日本に、または日本人に、武装させた場合の危険性なのだ。安倍晋三や稲田ともみさん、櫻井よしこさんらのような悪魔的な侵略思想を持った連中がいっぱいる。狂人に刃物を持たしていいのかというのが近隣アジアや世界の大心配であり脅威なのである。「敵」がどうのこうのではない。己の過去と現在が「敵」の恐怖となっていることを忘れてはならない。

殺しつくし、焼きつくし、犯しつくす、三光作戦をやって数千万人の無辜のアジア人民を平然と殺してきた、そんな民族には鉄砲ではなく、憲法9条の荒縄が最も必要なのである。憲法9条は我々の理想というよりも魔性を持つ日本人を縛る縛(いまし)め、捕縄なのである。憲法9条にはそれを実施する法令がないし、それに反することをする者への罰則規定が不備である。

早急に法令を整備しこの国是を死守しなければならない。
自衛隊の兵士とプロレタリアートが手を結び、すべての軍備を解除し、国土防災の平和部隊として自衛隊が再編されねばならない。自衛隊違憲論は、今こそ必要である。

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2016年9月18日 (日)

沖縄の裁判

News & Letters/519

マルクス主義の国家論からすれば、国家は公共性を被った暴力装置である。
その暴力装置は、軍隊であり、警察であり、行政機関・・・・、監獄、そして裁判所だ。
裁判所は、三権分立で独立した法の番人であり裁判官は憲法と己の良心にのみに拘束されて
自由な判断を下すもの、という建前になっている。
普段は、そのような公正中立、公共への奉仕という仮面が、本当のようにふるまう。
裁判も時々そんな感じでいい判決が出るときもある。裁判官も漫画「家裁の人」のような立派な人がいるということは確かだ。

福井地裁や大津地裁の原発裁判の裁判官も健在だ。
しかし、場面が違えば、裁判所も国家権力の暴力装置であることの馬脚を現してくる。
私が知る限りその場面はおよそ3つある。沖縄であり、部落(狭山事件)であり、そして住民行政訴訟だ。

今回の福岡高裁那覇支部の裁判長の下した判決は、憲法に照らしてとか、法令に適合するかとかいう判断基準をかなぐり捨てて支配権力の政策の支持をあからさまに表明し、裁判所本来の国家の暴力性の発動の結果であった。

日米安保体制での日本における軍事基地は憲法(9条 外国兵を代替的に武装させ戦争行為をさせる)に適合するのか、その軍事基地の大半を沖縄に偏在させることの憲法(第14条など)上の正当性はあるのか、今回の辺野古への移転は環境等の法令・規則に適合しているのか、手続きは適法(前の知事の認可の取り消しが有効)か等が裁判官の判断の基準でなければならない。我々は何も裁判官に、歴代内閣の安保政策への支持表明を期待したわけではないし、普天間と辺野古の比較をしてくれといっているのではない。

今回の判決文の要旨を見ても、憲法第76条3項に定められた裁判官の姿、良心と、憲法と法律にだけ拘束される独立の存在という規定を完全に踏みにじっている。憲法違反の判決というべきである。

最高裁は今回の裁判に備えて、あらかじめ裁判官の入れ替えをやり、最高裁のエリートを今回の裁判に派遣したといわれる。
もはや司法は、日米政府の走狗になって、国辱裁判を恬として恥じない。

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2016年9月14日 (水)

玄海原発現地の様子

News & Letters/518

ここ唐津市は、玄海原発のある玄海町をあんこのようにして包み込んだまんじゅうのような形をしている。

原発5キロ圏内(PAZ)だけでも4000人を超える市民が暮らしている。
けれども反原発の市民運動は一部の熱心な活動家以外に目立った動きがない。
市執行部の姿勢もまるで危機感がなく、九電の話をうのみにしてのほほんとした感じである。

最近の市議会での執行部の質疑応答。社民党議員の質問に対して。

総務部長:

 「・・・九州電力によりまして、今回の地震被害等についての説明を受けたところでございます。その資料によりますと、熊本地震クラスの地震が本市近くで発生したとしても、原子力発電施設の耐震性に問題はないのではないかという説明を受けたところでございます。

総務部長:

「今回の地震(熊本地震)につきましては、震度の大きな地震が繰り返し発生している点が特徴的であるというふうにされております。基準地震動レベルの地震が繰り返し発生をいたしましても、原子力発電所の健全性には影響がないと、少ないという風に報告をされています。」

今回の熊本地震は4月14日益城町では、1580ガル、16日の2回目では1362ガルが記録されている。

玄海原発の基準地震動は620ガルに設定されているにすぎない。熊本地震レベルはもとより、福島第1原発2号機では550ガルで配管等がごちゃごちゃになりメルトダウンに至ったのであるから、600ガルを超える地震では、過酷事故が発生することは間違いないであろう。

玄海原発の近くまさに唐津湾などには活断層が幾本か走っていて東大の地震学者によればマグニチュード7・2クラスの地震が起こる可能性も指摘されているという。
熊本地震級(マグニチュード6・5)の地震の半分にも足らない基準地震動の設定で玄海原発や川内原発が持ちこたえるはずはないのである。

九電のでたらめな話をうのみにし、隣県の悲惨な災害の客観的なデータを自分のところの原発に当てはめることすらできない、しないのである。

従って、ここでの避難計画も橋や道路がめちゃくちゃになるという状況は全く想定せず、平常の道路や橋の状況の上にしか想定されていない。巨大な危険物のすぐ近くに住んでいながら、市役所自体が危機感の喪失態と化しているのである。

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2016年9月 1日 (木)

茶の本 岡倉天心

News & Letters/517

福島原発事故は、かつてリスボンの大地震がヨーロッパの思想界に与えたと同じ衝撃を
私たちに与えている。神学の予定調和からヒュウマニズムへの転換。
原発を頂点とする近代科学神話からヒュウマニズムへの転換が必要だ。
ただ単にエネルギー源の選択の問題だけに終わってはならない。

岡倉天心の「茶の本」は、茶道について宗教的・芸術的な説明がなされているが、その中に次のような一説がある。

「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっている間は野蛮国とみなしていたのである。
しかるに、満州の戦場に大々的な殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。
近頃武士道ーわが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術ーについて盛んに論評されてきた。
しかし、茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の道を多く説いているのであるが。

もし我々が文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。我々はわが芸術及び理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。」

我々が世界に対して誇れるのは、武器や強兵でもなく、大量生産大量消費、成長・成長の経済でもなく、平和な文芸にふける静かな世界であって、自然を愛し、上下差別なく人が交わる茶道の世界、岡倉が言う「野蛮国」なのである。

日本が日清日ロ戦争に沸き立ち、軍国主義にひた走る時代に、岡倉天心は堂々と反戦的文明批判を行っていた。

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