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2015年10月 9日 (金)

読書感想 「部落解放同盟「糾弾」史」小林健治著ちくま新書

News & Letters/441

この本の著者小林さんが現在の解放同盟とどういう関係に刈るのかわからない。
戦後の解放同盟の糾弾の歴史でおもにマスコミ関係の差別事件への糾弾が描かれている。
しかし、糾弾闘争の歴史を書くのであれば、解放同盟の権力に対する糾弾闘争を主要に書くべきであって、マスコミや各種の著作者の差別用語だけを取り上げて主たる糾弾として描くべきではないだろう。

1、戦後澎湃と上がった解放運動の権力への糾弾闘争は後に「行政闘争」と呼ばれ各地方自治体へ向けられたものである。

 それは、行政や議会側に、同和地区へのあからさまな行政施策の放棄、排除、無視~あからさまな侮蔑に対して激しい憤激の 中で戦われてきた。私がごく若いころ土方鉄さんのもとで解放新聞の編集や取材のお手伝いをしていた頃、京都府連の糾弾闘争に参加した。それは部落の野犬捕獲人のささやかな要求(出勤しても服や私物を置くロッカーもない、なんとかしてくれ)を組合も行政も取り上げないという冷たい仕打ちを訴える糾弾であった。確かそれは市役所か府庁のロビーでだった。

今も覚えているが、府職労の大江書記長も糾弾されていた。京都の同盟員が、同じ労働者である野犬捕獲人が、なぜ差別をされ続けるのかせつせつと訴えていたが、党の方針では絶対に自己批判が許されていないかの書記長もさすがにその訴えに涙を流さざるを得なかった。その涙は、千年もの間差別を受けてきたものの悲痛な叫びが、強固な党派最高幹部の胸をもゆすぶり、してはならない差別をしていた自分たちを責めた、その悔悟の涙に違いない、と私は思った。

解放同盟の糾弾は、厳しいが、人の魂を揺さぶる美しいものでもあった。
全国各地で展開されたこのような行政に対する糾弾闘争を没却しては、解放同盟の糾弾の歴史とは言えない。

2、狭山差別裁判糾弾闘争をどうして書かないのであろうか。

 狭山の闘争は石川一雄さんから始まって67年ごろから私が全国闘争として設定して現在に至っているが、この闘争は、それ自体一個の差別裁判への糾弾闘争であるが、同時にこのような差別的冤罪事件にほとんどまともに取り組もうとしない解放同盟への糾弾も込めた戦いであった。結局解放同盟も組織を挙げてこの闘争に取り組むようになったが、それはどちらかというとこの闘争を放置しておれば同盟組織、少なくとも青年組織が過激派(すなわち全国部落研)に乗っ取られるという危機感があったからである。それは日比谷公園で今は亡き上田卓三さんがその危機感を絶叫していた。このままでは同盟が過激派に乗っ取られる、次の公判には同盟が主導権を取れるよう大動員をかける、という趣旨の演説をした。

全国から集まった多くの部落青年が「糾弾、奪還」を叫んで立ち上がったからである。
狭山の闘争は、解放運動全体を同和予算獲得運動から反権力糾弾闘争に転換させるべき大きな仕掛けでもあった。
小林の著作は、狭山差別裁判糾弾闘争をまったく書かない。

3、小林の記録したマスコミや文人たちへの差別糾弾には相当牽強付会のものがあったようである。

 ①作家筒井康隆の週刊文春誌上での「士農工商SF屋」の表現がやり玉に挙がった。
 版元の文芸春秋社はその「差別性」を認めたが筆者の筒井氏はそれを認めなかった、という。
「士農工商SF屋」がどうして部落差別になるのか全く不可解である。
それはSF屋を貶めることになるが、部落民を貶めることにはなりえないだろう。
士農工商という言葉自身明治か大正ごろに教科書用に作られた造語であり歴史的な概念ではない。

せいぜい中国あたりの儒教の本に中国の階級制度として載っているものである。日本には士農工商という身分制は存在していなかったのである。たとえば土佐の憲法といわれる元禄大定目やそれ以前の長宗我部百箇条に出てくる身分はせいぜい侍と百姓、町人程度であり、士農工商などという架空の身分制度は存在しない。農民が工商の上に立つなどあり得ない話だし、侍が士であったためしもない。士農工商の士というのは士大夫(貴族)のことであって武器を操り戦争することを生業とする武士(兵)ではない。

そんな日本では架空の身分制士農工商○○を自己を卑下するために使ったからといって何の問題がある。
士農工商○○の ○○は必ず穢多非人だと勝手に決め込んでいるが、それは教科書用の差別的造語をむしろ宣伝するようなものだ。日本の中世封建社会で穢多非人への激しい差別があったことは事実であるが、明確に法制化されたものではない。
だから、前近代社会では穢多に対する差別は当然であるのではなく、封建社会においても、一部の住民を穢多非人と侮蔑し差別迫害を加えた幕府や諸藩の仕打ちは、許されないのである。

筒井氏が糾弾を拒絶したことは正当である。

②「特殊部落」

 特殊部落という言葉を使ったということでたくさんの者が糾弾を受けている。
確かに特殊部落という言葉は明治以降に主に権力側によって旧穢多・非人に対して使われてきた。
その場合は明らかに差別性をもっていて糾弾に値する。私が糾弾した明治初年の土佐の漁業を記録した官制の記録では、私の村を含め土佐湾沿岸の「特殊部落」の光景や人物を一つ一つ取り上げ、そこの住民に侮蔑の記述を繰り広げ「特殊部落」が行政の妨げだなどとも書いていた。私はその資料の一部を図書館で発見し、高知県連らと一緒に副知事以下の県庁職員や県漁連の幹部を呼んで大衆的な糾弾を行った。その前代未聞の膨大な差別記録は、光内聖賢さんと相談して、人権センターの一室に保管することにした。いまでもそこにあるはずだ。
しかし、飛鳥田社会党委員長の「社会党は特殊部落」だとか、国会や芸能界などを特殊部落だという表現には、部落差別の意図も響きも何も感ぜられない。それは国会や芸能界は特殊な部落、特殊な集団だというにすぎない。

「特殊部落」という言葉が戦前に同和地区をさしてつかわれた歴史的事実はあるが、部落という言葉が普通の単語、集落を部落と表現し使用する以上、特殊な部落「特殊部落」はすべて同和地区を指していると決めつけるわけにはいかないであろう。
まして、社会党を特殊部落といっても、醜い派閥抗争の社会党の実態を指しているのであり、それを同和地区の実態と並べて連想することはありえない。
「特殊部落」という言葉が差別性を帯びるのはあくまでもそれが同和地区を指していること、さらに侮蔑的にさしていることによってである。それが有名な水平社宣言の差別の規定の趣旨だ。

③解放同盟の弱体化の今日の惨状の原因について

この本の筆者は解放運動の衰退の現状を嘆く。まともな糾弾闘争もできない現状。同盟員の激減。
しかし、筆者が解放出版社などに勤め出版物の差別表現に対する糾弾闘争に明け暮れていた当時、すなわち解放運動が勢威旺盛な時代にすでに解放運動の鋭意は失われていた。
それは、解放運動の大勢が政府が出す巨額の同和予算に押し流され鼻まで浸かって窒息状態になっていたからである。

だから、それより十年も前に私が解放同盟を見限り、それから逸脱し、新しい解放運動を建設するために狭山闘争で全国を行脚した理由だ。要するに解放運動はその目的を達成しさまざまな利権の山の中、大満足のなかで実質的に息を引き取っていた。狭山闘争も現在続行中であるが、差別糾弾の影は消え普通の冤罪事件、公正裁判要求運動に成り下がって久しいのである。寺尾判決に対する同盟の糾弾文章(おもに師岡先生の作文)」も寺尾判決の差別性をなんら暴くことはできなかった。

解放運動を刷新する唯一の闘争は私が率いた狭山闘争をはじめとする【解放運動は武装闘争である】という路線闘争であり、全国の部落青年を革命派に転換しつつあったが、それも中核派(主に関西の橋本利昭ら)の策謀によって暴力的に「打倒」された。「打倒」する理由を私に面と向かって言ってきた者はその当時からいまだに誰もいない。「前進」に載った部落問題をテーマにした秋口論文を私が「解消主義的」だと批判したことが「打倒」の理由ということか。路線上の対立で人殺し(殺人未遂)を平気でやる連中には本当に恐れ入る。その後の革命派の「部落解放運動」は実質的に部落解消主義的であり悲惨なものだ。実力闘争を基本に据えた糾弾闘争などとんでもないという状況だ。

だから糾弾闘争もろくにできない今日の解放運動の体たらくは、解放同盟本隊がさまざまな特権を得て現状大満足を達成しこの本の筆者が言うとおり差別を感ぜられなくなったこと、それに代わる新しい勢力がほとんど存在しないことに原因がある。
差別の諸相も変わってきているが、部落差別は潜在し、週刊新潮など週刊誌などの橋本徹攻撃のようにヘイトスピーチ的差別攻撃もあらわになってきているが、全国水平社的な鮮烈な解放運動勃興の兆しは見えない。

ちなみに、私はいくたびも首長選挙に出たが1勝しかできなかった。それは私の文字通り不徳の致すところであり力量(財政も含めて)のなさが主な原因であるが、厳しい部落差別の現実も言わなければウソになるだろう。どこの馬の骨か、これがこの近辺の寒村の価値判断に牢固としてある。この骨品制の壁を突き破ったのは一度だけであった。

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