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2015年8月 6日 (木)

革共同の敗北

News & Letters/427
私は今「革共同政治局の敗北」という本をほとんど読んだところである。
衝撃的な内容であるが、私が抱いていた革共同中核派の幻滅的イメージの具体的な姿を鮮やかに見せてくれた。革共同にすこしばかりは関係し「前進」や「イスト」などに論文を書いたこともある私としても第三者的に見過ごすことはできない。
革共同は日本人民の希望であり宝であった。それは憲法9条を人格的に表象した存在そのものであった。
この本の読後感想を書いてみる。
1、この本では革共同の崩壊する内容と過程が現象的に表出されているが、
  その根因的な要素が何なのかはっきりしていない。
  すなわち何故革共同は今日の状況にまで墜落したのかその理由が明確に出さ 
  れていない。清水丈夫や中野洋らの個人的な問題ではない。
2、筆者ら二人は自ら革共同の「左派」だと規定しているが、何を基準にしての左派
  なのかはっきりしない。
3、革共同崩壊の決定的な契機となった6年3・14テロ事件の内容がかなり分かったが、  その舞台の二人の主人公塩川と与田について筆者である水谷、岸元政治
  局員はその二人についてほとんど知らないだろう。
  今度の本では、この二人のテロ・リンチ事件(塩川が加害者で、与田が被害者)
  が革共同崩壊の引き金となったと位置付けられている。  
   しかし、この「3・14Ⅱ」事件より30数年前、一つの反革命行為があった。
  かつて塩川と与田は共同して、澤山に対して反革命暴力(殺人未遂事件)を起こ 
  した張本人にであった。澤山を血の海に沈めて、狭山闘争を敗北に導き、革命 
  的な部落解放の大衆運動を壊滅させた犯罪人そのものだった。
  瀕死の重傷を負わせる澤山襲撃について彼らは刑事罰はもとより、階級的な非
  難も制裁も受けずにきた。澤山が沈黙を守ったからである。  
  かつて収監されていた松山刑務所に京都地検の公安担当検事が数日にわたっ
  て澤山の尋問にやってきた。そのとき検事が証拠として手にして澤山に示したの
  は塩川の筆跡の澤山襲撃の作戦メモであった。もちろん澤山は完全黙秘を通し
  たので澤山襲撃事件では誰も有罪者は出なかったはずだ。 
  だが、その襲撃の反革命性を忘れてはおるまい。澤山は自分の書いた前進論 
  文とそれと根本的に相違する秋口論文(部落問題解消主義に通ずる理論)に対 
  して異を唱えただけであって、革共同に対して何一つ敵対した行動はとっていな
  かった。戦闘的な部落解放運動の発展は革共同にとって貢献するものであって
  何らの障害になるものでもなかった。澤山は激しい新しい解放運動の開拓のた
  めに革共同に対してびた一文も援助を乞うたこともない。狭山や諸闘争で全ての
  動員費用は部落研内のカンパと澤山の家族が負担したものだ。
  かつて全国部落研や戦闘同志会を創生し、各地の部落青年とともに激しい差
  別実力糾弾闘争に立ちあがり、中でも狭山差別裁判糾弾闘争をその先頭で戦っ 
  ていた同志を殺害しようとしたことの階級的犯罪性を背負った二人(塩川と与
  田)が、その襲撃事件の数十年あとで、日本人民の希望の星であった革共同を
  終焉させる、その契機となったおぞましい腐敗事件とリンチ事件を二人が起こし
  ていたのであった。与田は部落問題はほとんど知らなかったし、各地の糾弾闘 
  争にも一切参加していない。中核派から部落研に入り込んできただけの新参者
  であり、こんな男が全国部落研や戦闘同志会のこれまでの闘争を発展させ得る
  はずがない。果たせるかな、解放運動は武装闘争であるという原則を捨てて、新
  しい差別糾弾闘争の分野は出せず、狭山闘争も糾弾・奪還の実力闘争ではな
  く、解放同盟の公判闘争の枠の中でうごめいているにすぎないものになった。
  澤山が暴力に封殺されずに闘い続けていたら今頃は全国の解放同盟を牛耳っ
  て差別糾弾、反戦・反原発闘争の一大拠点とし、日本プロレタリア革命の砦とし 
  て解放運動を位置付けていただろう。
 私の野望は、革共同の一員の任務として、全国の部落大衆を革命陣営に引き込み、荊冠旗を首相官邸に突入、一番乗りさせることであって、革共同の党の幹部になることではなかった。  
 おそらく塩川は、私が革共同関西地方委員会を統率する地位についたり、中央政治局入りすることになるやもしれないことに我慢ならなかったのであろう。
塩川にとってはそのようなことが最大の関心事であったかもしれないが、私には党務のようなことは迷惑な負担であり、大衆闘争の発展とその中で首都に向かってへんぽんと翻る荊冠旗を見ること以上の野望はなかったのである。
そのことは塩川自身が一番知っていたはずだ。私をラーヤ主義者だとか、大衆運動主義者だとか揶揄したり非難していたのである。
与田は革命的な部落解放運動を切り開く戦いでは、理論的にも実践的にもほとんど何の貢献もない。私らを追い出し部落研の実権を握っても3日4日(1週間のうち活動は3日、後の4日はプールのある別府の豪邸で優雅に過ごしていたという)の腐敗生活では、解放運動の武装的発展など夢想だにもできない。沢山の作った解放運動をほとんど実質的に解体したのである。「革共同政治局の敗北」の著者は「3・14Ⅱ」事件の二人の主役の本当の、元の姿を知るべきである。
                            続く・・・・・・・

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