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2015年3月22日 (日)

佐賀地裁幻滅判決(1) 2015年3月20日玄海原発3号機プルサーマルMOX使用差し止め裁判

News & Letters/402

酷い(非道い)判決が出た。裁判所は佐賀の英傑江藤新平の立ち上げたものだ。江藤は司法卿として裁判制度を全国に整備するとともに権力の中枢に巣くう山県有朋ら長州閥の腐敗を追及した。そのことが後に江藤が失脚する遠因でもあった。

だが、昨日の佐賀地裁裁判長波多江真史は、自ら権力に阿諛し迎合して、法律に基づくのではなく権力のものさしを振りかざして住民の訴えを蹂躙した。形式上は裁判所であるが、内容的には独立不羈の裁判所が行政権力の下僕、下部機関化していたというべきであろう。
東京からの支援者の高木さんがこの判決を「日本の恥」だといったが至言であろう。
判決文の要旨を読む限り次のような問題がある。

1、憲法やそれに基づく日本の法体系ではなく、時の政府の政策、行政実務上の基準や物差しで現実の案件を判断している。
 すなわち、MOX燃料使用が、政府の設置許可基準規則の基準を満たしている、とか原子炉等規正法の許可の基準に適合している、とか、軽水炉安全設計審査指針の条件を満たしている、とか、経産省の許可を得ているとか、判決文のいたるところで福島原発事故で反証され破綻した政府の物差しで判断した。

福井地裁の樋口英明裁判長は、政府の作った安産基準ではなく憲法で保障された国民の基本的人権、侵すことが出来ない人格権を判断の基準とすると喝破したのとはまるで大違いなのである。

われわれが問題としているのは政府が作ったその物差しが危ういというのであるが、その物差しに適合しているから大丈夫だと切り返してきた。

日本国憲法やそれに基づく成文法は日本や世界の人類の血で購った結晶であるが、矛盾に満てる泥沼の現実の人間の営為は、その法体系の光に照射されて正邪、是非が弁別され解決されコントロールされねばならないものである。それをするのが裁判所なのである。

裁判所が憲法など法体系を判断の基準にするのをやめるとなれば、裁判所はもはや行政機関の下部構造となり一政治勢力に過ぎないものとなる。佐賀地裁はそこに転落したのである。ちなみに、原子力規制委員会は政府の設置基準に適合しても原発が安全であるということではないという見解を発表している。

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