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2013年9月

2013年9月26日 (木)

反原発闘争

News & Letters/372

革共同再建協議会の雑誌「展望」9号(1911年9月)に掲載された「反原発・反核闘争の前進のために」などの諸論文はインパクトが極めて乏しい。

1、その最大の理由は、これまでの反原発・反核闘争の歴史や、自らのそれへのかかわり、あるいはそもそも、革共同は原発をどのようにとらえていたか、という解明がはっきりしていない、又は隠している点にある。

なるほど、原子力の平和的利用の日共や革マル黒寛の原子力賛美に対する批判的紹介はあるが、60年代から現在にいたる全国54基もの原発立地事件、それをめぐる一つ一つに激しい闘争・・・、原発停止の数々の訴えや闘争などが何一つ取り上げられず、そして、それへの自己のかかわり、否、非かかわりの事実を一つも明らかにしていない。
一基の原発の建設もその危険性からして日本全体にかかわる大事件であったし、革共同の活動する地域のどっかににその問題は起こっていたはずである。

私も含め革共同ら左翼は、それら反原発闘争を関知していなかったし、知っていてもその重大さを感じなかったのだ。そのことの痛烈な自己批判なしに、3・11以降の今日の反原発闘争を語る事は出来ない。「反核・反原発の闘いの歴史的総括」を表題にしながら、何の原発の反対闘争も書かないで、読者や同盟員に対し原発闘争に立ちあがろうなどと呼びかけることがいかにむなしいことか。

今からでも遅くはない、一つ一つ反原発闘争の記録を調べ、それら人民の闘いから学ぶことから始めねばなるまい。

2、次に反原発・反核闘争を戦略課題の第一に置こうとしていない。
 再建協議会(革共同中央も同じ)は、その「展望」11号「2012年9月)号で、「反戦・反核・反貧困・反差別」という戦略課題を挙げ、他の三つと並列的に反核を位置付けた。

しかし、福島原発の事故で東北や関東地方の東日本全体が広範に死の恐怖に覆われるという事件の深刻さ、日本列島やアジアの人民・世界人の生命や健康が犠牲にされるという事態とそれへの闘争は、他の闘争課題と並列的に扱われていいはずはない。
この闘争はいつ人為的な大事故、いつ原発震災が起こるか分からない喫緊の課題であり、今全力で戦わねば取り返しがつかないことになる、日本列島に人が住めなくなるというのに、他の戦線並みに闘えばよいというものではないのだ。

日本の人民は燃え盛る原子炉だけではなく、使用済み核燃料という文字通り累卵を高く掲げた危機を目前にしている。そもそも火山列島の日本に原発を作らせてはならなかったし、一切の海岸に核施設を作らせてはならなかったのである。
それぞれの戦線の日常闘争を発展しながらも、全戦線は、反原発闘争に主力を注がねばならない。ナチスやファシストに対する戦いが優先するのであって、各職場の賃上げや、一つ一つの差別事件の糾弾などと同列に扱われることではない。

反ファシスト(反原発)のパルチザン闘争という戦略図を作らねばならない。

私自身、核兵器の脅威については関心を抱いてきたが、2006年の夏、東洋町という足もとで高レベル放射性廃棄物導入の動きを察知するまで、原発の恐ろしさを身近には感じなかったし、そのことで自己自身が反原発の闘争を担うこともなかったのである。
日本人は、その生活の全部とは言わないまでも、2割か3割以上は反原発・反核闘争のために時間と金を費やすべきだろう。日本福島が太平洋から全世界を放射能で汚染しつつある現在、原発を廃止する仕事は、日本人の最低の責務であろう。

裁判や集会やデモに参加するだけではなく、関係する本を買ったり、それを学習したり、カンパの資金を蓄えたり、家族や友人と反原発について語り合ったり・・・も活動のうちである。いざという時には鎌でもくわでも持って立ち上がるべきである。

革共同や革命政党は、反原発・反核をその戦略課題の最初に置き変えねばならない。
福島の原発大事故は、革命党と革命的人士の、その実践の指針の、根本的変革を迫ったのである。

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2013年9月23日 (月)

大衆運動主義者

News & Letters/371

私が追放された当時、私は大衆運動主義者だと非難されていた。
しかし、実際には、大衆運動的だったのはある時期のある瞬間、瞬間でしかなかった。
むしろ、ほとんど常に少衆運動であり、孤立無援闘争であった。
それが、私の週数社運動や個人的営為が、幸運にも大衆運動に転化したことがあった、ということだ。

69年11月14日の浦和地裁占拠からしてそうだ。これ自体全くの少数者の突出した行動であり、何ら大衆運動の爆発とかいうものではなかった。

その前日、一橋大学の校舎の一室に主に関西からの数十人の若者が集まり、差別徹底糾弾闘争として翌早朝浦和地裁に突入するという決起集会を開いた。そこに集まったみんなが行くのではなく、私一人が行くということだった。ところが、その集会で我も我もといって数人の高校生と青年が志願してきたので私を含め合計4人に絞り、無実の石川青年に部落差別攻撃をかけた浦和地裁の占拠を敢行したのであった。

全く少数精鋭主義であり、大衆運動的なものではなかった。
私が日ごろ夢見てきたのは大衆運動の先頭に立って前進する自分の姿であったが、浦和地裁の正門をかけのぼるときのその姿は、一瞬何か泥棒か何かのようなみじめな感じがした。後についてくるのはたった3人だけだった。

しかし、それは仕方のないことだった。もう時間的余裕が無かった。狭山闘争(この闘争名自体ずっと後になって名付けたものだ)はほとんだ誰も知らず、当時の弁護団は有罪情状酌量論から一歩も出ず石川青年は井波高裁裁判長に圧殺されかかっていた。
解放同盟も動かず、労働組合も誰も動かず、学者市民も動かず、・・・一生懸命になり焦っていたのは、石川青年と家族と我々のみであった。

全国民にこの暗黒の差別裁判を暴露するためには、裁判所占拠という普通では考えられない狂気じみた行動をとるしかないと決意し、私自身のあらゆる夢と希望を捨ててこの闘争に自らを拘束させるべく、浦和地裁の高い正門を乗り越えた。

しかし、寒い風の吹く朝まだき、それは私が夢見た怒れる大衆とともにする行動ではなかった。そのあと浦和地裁での数時間にわたる機動隊との激闘で、その寂しさも吹っ飛んだ。当時代官屋敷のような木造の浦和地裁の2階に陣取った私は掛け声を挙げて階段を駆け上ってくる数十人の機動隊に瓦などを投げつけて、一度、二度、数度は撃退した。
機動隊が後退するときは階段を、どどどど、どう、という大きな音を立てた。

最後に力尽きて裁判所2階で十数人の機動隊が私の上に乗っかかり、ぺしゃんこになって捕縛された。
着てる服は汗で湯を浴びたようにほ気が出てずぶぬれだった。

私は獄中から「浦和の空は美しかった」という手記を「前進」に載せてもらったが、しかし実際は、浦和の冬空は淋しかったのである。
確かに後に残った関西部落研、特に寝屋川国守部落の住職斎藤君(彼は50歳ぐらいで亡くなった!)らの闘争によって私ら4人の行動は、燎原の火が燃え広がるようにひろがり、解放同盟を動かし、知識人たちを立ち上がらせた。

ちなみに、部落の若き住職斎藤君は、私と一緒に、戦闘的な解放運動の先駆者として献身的に活動した。奈良の西光万吉のような存在だった。彼は激しい闘争心を内に秘めていたが、極めて優しく純真な男だった。常に私と行動を共にした。斎藤君らの活躍によって狭山闘争という大衆闘争が切り開かれた。

しかし、浦和地裁占拠闘争そのものは、大衆的な糾弾闘争ではなかった。その点については非難されても仕方が無いし、私としても不本意なものであった。
革命家が、ごく少数でもって敵陣に突入するというのは匹夫の勇であって、推奨されるものではない。私の場合は斎藤住職ら多くの人が立ち上がり私の戦いが無に帰することなく、大衆闘争に転化させてくれたから幸運であったのだ。

結果論的には、浦和地裁占拠闘争は狭山闘争という大衆闘争への一契機となりこの闘争を通じて多くの解放運動の戦士を生み出し、部落問題の存在を政治的課題とすることに導いた、と考えて自らを慰めている。

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2013年9月17日 (火)

革共同の状況

News & Letters/370

革共同への私の思い

この十年間ぐらいの間に革共同は四分五裂の状況となった。
革共同は、60年安保闘争の後社共に代わる革命政党として登場し、多くの青年学生や知識人の期待を集め、数多くの雄々しい戦績を残してきた。私もその後塵を仰ぎ懸命にそれについて走っていた。

しかし、私の性格が災いしてか、自分が納得できないことについては、反論したり異議を申し立てることを逡巡せず、絶えず周囲に違和感を与えてきた。鉄の団結と規律を誇示する組織では到底その存在は許されることではなかったであろう。そうして遂に暴力的に追放された。私を追放した首謀者が誰であるかははっきりしない。

党中央の差し金か、関西地方委員会内のいわゆる「塩川一派」だけの判断なのか、さっぱりわからない。しかし、実行犯が塩川や塩川らにやり玉に挙げられた与田、スパイだったという高杉らであったことははっきりしている。

今、四分五裂した中核派の惨状を私は次のように考えている。
私は、私を暴力的に排除した革共同の事については、何も知るまいと思ってきた。
それにかかわることは、またしても暴力的攻撃の対象となるという恐怖もあった。

しかし、この十年、とりわけ3・11の福島原発事故以降の日本の階級情勢の緊迫する中で、革共同が瓦解している事実について知ることになった。そうして百家争鳴のごとく、革共同の内外でその路線について議論が沸騰していることを知った。私の命も残るところわずかとなりボケが来る前に私自身の総括も必要であると考えることになった。

もはや、襲撃されるかもしれない自分の命よりも、自分の過去の想念と実践について総括することの方が大事だという思いである。だから、最近革共同について検討し、自分の考えを披歴している。その要旨は以下のとおりだ。

1、革共同中央派が、7・7の血債主義をかなぐり捨てて、労働運動主義に墜落したことにおいて、中央派は革命党としては救いがたい。レーニン主義への背馳であり、せいぜい社民党以下でしかない。民族解放運動や農民運動、部落解放運動等の闘いに敵対的な路線を推進する。全学連の「広島事件」的ガスが充満している。

 広島事件は直接部落差別事件ではないが、7月テーゼを掲げる中央派が、部落差別な 
どあらゆる差別事象を産出する可能性のある温室であることを暴露されたものである。
  
2、関西の塩川派は7・7血債主義を守っている限り革共同的ではある。
    しかし、

 ①本心から民族解放闘争や部落解放運動を戦略的課題として推進しているのか極め 
て疑問である。私が知る限り69年の浦和地裁占拠闘争以降あれほど盛り上がった狭山闘争に塩川が参加したためしはないし、それについて一個の文章も書いたためしはない。塩川が学生運動以外の分野で大衆運動を組織したり指導したりしている姿を私は見たことはない。広島事件で中央派を攻撃しているが、それよりひどい直接的な差別事象が関西の中核派で頻発し、部落研によって糾弾されていたが、それに対する応答が、塩川らの私への武装襲撃だった。中央派の対応はまだましだろう。

 ②その哲学は藤本進治の「革命の哲学」であって、それは労働者階級の自己解放を信 
頼せず労働者をバカにし、労働者を前衛等が「引きまわす」ということを平然と文章にしている哲学である。プロスターリン主義であり、労働戦線や緒戦線の大衆運動を推進するというよりは党内権力闘争が本領であろう。

 腐敗した与田を打倒したことは権力闘争にさとい塩川の得意技の発揮であってさすがであるが、しかし、部落解放運動について何の実績も知識もないその与田を使って、私を暴力的に排撃した武装襲撃の指揮者こそ塩川であり、それにより与田を増長させ党内で跳梁させた責任者であろう。与田が解放運動においていかなる戦績があり、いかなる理論的貢献があったというので関西地方委員になり、はては政治局にまで上がったのであろうか、全く滑稽というか噴飯ものというよりほかはないが、「沢山打倒」の功績により引き上げられたことは疑いない。その与田によって党内がかきまわされ、前代未聞のスパイ事件まで随伴させたというのである。

与田は塩川派から派生したのであり、それに高杉というスパイが随従していた。何の運動的実績もないが党内権力慾を実現する才にたけている男を躍らせる塩川の「自己権力」(65年京大マル学同機関誌NO.1)理論、その破綻が与田事件ではないか。
  
 3、革共同の再生は中央派幹部からも塩川派からも生まれないであろう。  
各戦線の闘争を担いながら、安保闘争や沖縄、三里塚、狭山、・・・そして原発闘争 など国民的な大闘争を切り開き、主導する理論と実践、そしてそれを体現する人格を 出さなくては、革共同は再生しない。・・・・
  その前に自己を切開し全てのうみを出しきらなくてはなるまい。 

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2013年9月 3日 (火)

利権行政が進む松延町政

News & Letters/369

松延町政を批判する

核の交付金がなくても健全な町政は確立できる、という澤山町政が進めた福祉行政や、失業対策事業がほとんど廃止され、利権行政や、放漫借金財政が復活し始めました。

1、福祉行政の大逆行

(実例)
*お年寄りのデイサービス実質無料→1回500円の有料
*週2回の配食サービス実質無料→週一回400円の有料
*85歳以上の高齢者医療費無料→廃止
*75歳以上の方への米の無料配給→廃止
*修学旅行費5万円補助→廃止  *小中給食費無料→4割負担有料
*高校生通学手当月5千円支給→廃止、高校生への月米10kg無料配給→廃止
*保育園児通園手当月4千円支給、米月5kg支給→廃止、・・・・・・・。
 前の町長選挙の時にこんな大逆行が公約されたのでしょうか。
議会はこれについて何の批判もせず、放置されています。

2、大型借金とムダの財政運営

 お年寄りや子供たちへの福祉行政予算の大削減を進める一方で現町政は、驚くべき巨額の借金をし、大型無駄事業を推進しています。

(実例)光ケーブル整備事業。太陽光発電、海の駅

*前町政が7億円~5億円程度でこの光ケーブル整備事業を業者と交渉していたが、松延町政は何と、10数億円の予算を付けて実行した。この多額の事業費は室戸市や海陽町など近隣の市町村と戸数や面積を考慮すると極めて高い予算でした。どうしてこんな多額の費用が要ったのか大きな疑問です。この予算のうち10億円ぐらいが借金です。

*現在進行中の南山での太陽光発電も、町の土地を使いながら利益(毎年6千万円前後)は特定会社の独占とされています。町や町民の資金でやれば利益は全部町に入るはず。

*海の駅の建設事業も、大幅に遅らせています。1年間の売り上げは1億数千万円だから、再建遅れによる損害は2億円近くになるでしょう。
又その建設費用も木造なら数千万円で済むものを、1億円近くかけてよその業者にやらせています。何故こんな無駄なことを強行するのでしょうか。

3、利権行政の推進

 福祉打ち切り、巨大無駄事業の一方では、利権行政が進んでいます。
現在、松延町政の利権行政に対して監査請求や住民訴訟が提起されています。

   *野根漁協への1000万円の貸し付け事件(裁判中)
   *甲浦歯科医院への土地の激安貸付事件(裁判中)
   *東洋町斎場運営の不正委託契約(監査請求中) ・・・・・・

東洋町職員措置請求書
東洋町監査委員殿
                 平成25年7月31日
            請求人 高知県安芸郡東洋町大字河内1081番1
                 澤山 保太郎 (会社役員)

                      
【請求の趣旨】

平成25年3月に東洋町斎場についてなされた委託契約は違法であり、その支出を直ちに取りやめることを求める。既に支払われた数カ月分の支出については町長ら責任ある職員が賠償するか、委託業者(株式会社東洋開発)に返還させるべきである

【請求の理由】

、東洋町斎場は東洋町が設置した公共施設であり、管理上の条例が制定されている。
それによれば、管理業務は、町が直接するか、または第11条によって指定管理者に委託して遂行することになっている。

、しかるに、東洋町長松延は、本年3月、東洋町条例に拠らず、特定の業者(東洋開発代表取締役坂田武行)に随意契約でもって施設の主要な管理業務を委託する旨の契約書を締結し、本年4月からこれを実行させている。

、これは明らかに町条例違反である。地方自治体の公共施設の管理条例は地方自治法第244条の2によってその制定が義務付けらており、斎場施設も例外ではない。
 委託契約をするのであれば、本件超条例第11条に規定に基づき、指定管理者の手続きを経るべきである。
 本件について松延町長らは、地方自治法施行令第167条の2第1項に該当するとして随意契約で管理委託契約をしているが、これは、上掲地方自治法に違反している。
 指定管理制度が法令化される以前においても、公共施設の委託は、特別な団体にしか許されていなかった。仮に旧及び現行の法令がないとしても、公募して一般競争入札をすべきであり随意契約の理由がない。

4、東洋町斎場の管理委託に関する上記の契約は、条例に違反し無効であり、それによる公金支出は違法である。すなわち、地方自治法第232条の3など支出負担行為や支出に関する法令に違反しているから、当然支出の差し止め、すでに支出した公金については返還をさせるなど適切な措置が必要である。

5、なお、本件施設についての委託業者「東洋開発」は、町会議員の会社と同じ住所にあり、役員もその議員の会社の関係者であることが疑われており、その住所地は平成23年町長選のおり、松延現町長が後援会など政治活動の拠点として使用していたところでもあるから、本件委託契約の異常性はそのことに関係があると考えられる。

(添付書類)
1、東洋町斎場設置及び管理に関する条例
2、東洋町斎場業務管理委託契約書
3、支出命令書
4、会社登記簿(履歴事項全部証明書)

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