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2013年8月 1日 (木)

権力は踊る

News & Letters/365

   狭山事件の真相解明

                   狭山事件に見る
                 刑事裁判上に於ける
                   部落差別の論理

          (内田、寺尾、上告棄却決定理由批判)

            権力は踊る
                                                                1978年

                                      澤山保太郎

近年出石ト豊岡ニ人殺シノ公事アリテ、殺シ主知レヌニヨリテ、江戸へ訴ヘタルヲ、其公事三四年引ズリテ、遂ニ殺シ主知ラレザリキ。是公儀ノ奉行、我官位ニ自慢シテ、身貴ケレバ、知恵モ家中ノ士ヨリハヨキト思ヘルナリ。其所ノ守護ノ吟味ニテシレヌコトヲ、百四五十里外ヨリ、何トシテ知ラルベキヤウモナシ。畢竟下手人ヲ出シテ事スムコトナリ。其領主ノ吟味ニテ知レズンバ、ビンボウクジにナリトモシテ、下手人ヲ出スベキコトヲ、センギ仕リ候トテ、年月ヲヒキヅリ、ハテハ埒明ズシテ終ワルコト、愚ノ甚シキナラズヤ。殺シ主ハ其所ニテ皆シレルコトナリ。
而ルヲ徒党シテ隠シタルコト明白ナリ。サレバ其罪ハ殺シタル人同然ナレバ、何者ニテモ其ナカマニテ、殺サンコト、非法ノ刑ニアラザルナリ。(荻生 徂来『太平策』)

はじめに

 「武蔵野の俤は今纔に入間郡に残れり」とは、国木田独歩の名著『武蔵野』冒頭の言である。しかし、いわゆる高度経済成長の時期より、文明を名とする都市化の波に洗われてわずかに残っていた武蔵野の昔の俤も今は絶え果てた。住古、萱原の果てなき光景を以て、又近くは見渡す限りの林を以てその美しい詩趣を誇っていたという武蔵野は今は無い。時代の推移の中で武蔵野の風景は変わったのである。

これについての感懐は、又、人それぞれにあるであろう。けれども我が三百万部落大衆が、武蔵野の入間川または狭山の地に、その大自然美の中に包み込まれてきた封建時代よりの部落差別について、その残存による傷ましい事件について、今なおこうして権力と争い、法廷内外で糾弾に立ち、なおかつ「パンを求めて石を投げつけられる」が如き迫害を受けている事実とその風景は、いささかも変じていないのである。

否、昔からの武蔵野の大地を吹き渡る酷烈な嵐は、それを遮る暖かき林の無い今は、もろに部落大衆の肌身を刺すように吹き抜けていたのである。
狭山差別裁判がこれである。

【一】      本事件の若干の考察
   
(一)  「自殺」者達

1本事件に関連せる変死者は以下のとおりである。
    1. 1963年5月6日
         奥富玄二(元、中田家作男)                
     農薬を飲み、空井戸に飛び込み、「自殺」
    1.  同1963年5月11日
          田中登ー自宅でナイフで心臓を一突きにして「自殺」
    1.  1964年7月14日
          中田登美江ー「農薬自殺」
    1.  1966年10月24日 
          石田登利造ー轢死
    1.  1977年10月6日 
          中田喜代治ー「自殺」
    1.  1977年12月21日
          片桐軍治(ルポライター)ー変死

 上記のことから、少なくとも次のことが言える。

①1地区の1事件に関して、これ程の変死者の集中は異常であり、これ
はおそらく日本の刑事事件史上稀有の部類にはいるであろう。そして中田善枝の死以外には、これと関連せる変死者の連続に対して、官憲がマスコミがほとんどたいした関心を抱かず、今なお放置している事実にも驚かざるを得ない。   
    
②さらに善枝殺しとして石川一雄さんが不当にも逮捕され檻禁されてからも、今なおこの変死者は後を断たないのであり、これから先も何時誰が犠牲者となるやもしれないという不気味さを暗示しているという事実にも戦慄を禁じ得ないのである。

③この事態は、端的に牢獄に檻禁されている石川さんとは何の関係もないのであり、真犯人か又はその関係者が、狭山かその周辺に今なおそのやましい生を長らえ、いささかの犯痕をもかき消さんがために暗躍してその罪を重疊していることをわれわれに推量させるに十分だという事である。

   一つの小さな市の一つの、しかし謎の多い世間を騒がせた事件に関連して大勢の人命が失われ、かつ失われつつあるという事実に対して、およそこれを管轄する官権たる者が、手をこまねき、見て見ぬふりをし、全て動機判然とせぬ「自殺」だとして処理してしまうことの中に、事態の本質を垣間見るのである。そして日頃国民の人権をやましく喧伝し、又特種を漁るマスコミの死のような沈黙を見よ。

  いずれにしても、石川さんの逮捕檻禁にも関わらず事件は拡大し、犠牲者が後を断たない以上、この狭山事件と石川さんの関係は全く考えられないのであり、国民とそれを代表する国家は、須くこの事件を解明し、真犯人のこれ以上の跳りよを防止するための然るべき策を構じなければならないのであり、それに着手する大前提として、無実の石川一雄さんを檻獄から即刻解放しなければならないことは言うも愚かな事なのである。

  (二) 脅迫状

〈1〉 次にこの事件を解く重要なカギを握る脅迫状について言う。仮にこれがこの事件に関する警察、検察そして第一審、二審、最高裁上告棄却決定理由書のように、中田善枝殺しを偽装するためではなく、真犯人が真に身代金を目当てに作成し中田家に事件当日投げ入れられた、偽物ならぬ本物の脅迫状と認定するならば(警察や裁判所は都合のいいところだけ真実としている)、この文面の現実性をもって事件を推察すべきであったし、又、文面から推し量られる事件の様相と根本的に相違する「解決」を結果したのなら、この文面の偽装については合理的に解明され説示される所があって然るべきであろう。この脅迫状が偽装であるという根拠は何もない。
      即ち、文面が語る犯人像のことである。
      
「金20万円女の人がもってさのやの門のところにいろ。友達が車でいくからその人にわたせ。」「もし金をとりにいって、ちがう人がいたらそのままかえてきて。こどもわころしてやる。」

① 上の文書は「友だち」=「その人」が真犯人以外にいること、即ち   犯行は二人以上の複数であることを明らかに物語り、

②「車出いく」  という車の存在と、それを運転可能な「友だち」の技能を鮮明にしているのであり、更に③中田家に今一人「女の人」がいる事を犯人は知っているのであり、犯人が「ちがう人」と明瞭に識別する事が出来る程、中田家の「女の人」を知悉している事実を示しているのである。
  要するに、中田善枝は元よりその他中田家の誰をも皆目知らない石川一雄の、しかも車も使わぬ単独犯行という筋書きは、余りにもこの脅迫状の文面と掛け離れているのである。
   警察がこの脅迫状を殺人事件を偽装する一片の無花果の葉とは見ていなかった事は明らかであり、西武園をも事件当時捜索に行っている節もある。

昭和39年2月10日、浦和地検原正検事の手になる検事論告には「本件脅迫状の文面によれば中田善枝が殺害の危険に曝されていることは明らかであり、しかも現に同女の死体が発見された・・・・・」とある通りであり、又、捜査当局が当初三人共犯説を石川一雄に供述させようとした事実にも見てとれよう。当然、中田家に明るい真犯人とその友達、彼らの車を、この脅迫状から真剣に受け止めていたはずである。 石川逮捕によっては、身代金受け渡しの日時と場所以外に、この脅迫状の根幹をなす内容は説明できない。
この脅迫状が恰も虚妄であるかの如く見捨てられ、伏せられねばならなかった理由の説明は未だに何もない。

件の脅迫状は単独犯ではなく、犯人は複数であり車を動かし、その連中の中に中田家の事情に通暁している者がいる事をはっきり告知しているのである。そして、第一審以来の弁護団が解明してきた通り、中田善枝の死体埋没その他の客観的事実は、この脅迫状と同じ犯人像を語って尽きないのである。

(三)狭山の犬(最高裁上告棄却決定))
中国の格言に「一件吠影・百犬吠声」というのがある。大したこともないのに一犬が吠え出すと、周辺あちらこちらの犬が呼応して吠え出すということであるが、犬の鳴くのは虚実あやふやなものでしかないという意味である。 このあやふやな犬の吠え声を唯一の証言(証鳴?)にして人が罰せられるとしたら、世人は何と思うであろうか。犬畜生の世界の話ではなく、実にこの狭山事件という人間界の裁判にこの犬の吠え声の有無が黒白を決する決定的な問題として争論せられているのである。

1963年5月1日夜、狭山の権現橋たもと、石田豚屋の犬の吠え声の有無によって、石川一雄を善枝殺しの下手人として裁いた裁判を、われわれは“犬裁判”と呼んでも支障はないだろう。如何に差別されて来たからといって、万物の霊長たる人間に違いない部落民を、証人台にも立たせ得ない一匹の犬の証言(鳴)の有無によって極刑を宣告した裁判官をわれわれは又何と呼ぶべきか。

具さにこれを検討してみる。 即ち1977年8月9日の最高裁による本事件の上告棄却決定理由は、石田一義経営の豚舎で使われていたスコップが、昭和38年5月1日夕方から翌日2日朝にかけて何者かに盗まれ、それが善枝の死体埋没に使用されたと認定している。このスコップを盗んだ者として次のように言う。

「ところで、関係証拠によると、本件スコップは石田一義経営の豚舎内で飼料攪拌用に用いられていたものであるが、同豚舎には豚の盗難防止のため番犬が飼われており、また、近くの同人方居宅にも数匹の犬がいたのであるから、夜間これらの犬に騒がれることなくスコップを持ち出すことができるのは、石田方の家族か、その使用人ないし元使用人か、石田方に出入りの業者かに限られると推認され、このことと被告人が同年2月末まで同豚舎で働いていた事実とを併せ考えれば、原判決が本件スコップを被告人が犯人であることを指向する証拠の一つとして挙げたのは、正当である。」という。実に、石田方の豚舎前の一匹の番犬と同人の居宅の数匹の犬がその夜騒がなかったということから、一挙に「犯人」の群像が限定され割り出されているのである。

 暗夜、雨のそぼ降る淋しい片田舎で、果たして犬は親しい者に対して吠えないであろうか。吾人の経験する所は、多くの番犬は近づいてくる者がそれとわかる間際まで、人影や物音(足音)に対して親疎の別なく吠え立てる場合が大いにあるのである。風や雨の音にも鳴くだろうし、腹の具合が悪くても空腹や便意を催しても鳴くのであり、盛りがついて相手を恋しくても鳴くのであり、又それぞれ鳴かない場合もあるのである。
 事実第1審第5回後半で明らかにされた通り、石田一義のこの件についての証言には、その豚舎入り口の番犬が吠えても、石田一義の居宅には聞こえない場合もあり、東側から豚舎に侵入すれば犬は吠えない可能性が強いという証言があるのである。

 親しい者には吠えず、見知らぬ者には吠えるということは一方的には言えないのであるから、右上告棄却決定理由の論旨は全く正当でないのである。
 昭和54年2月28日の東京高検の検事、今野健の手になる「意見書」にも言う通り、まことに「番犬が吠えるのは人影を見たときに限らない」のであり、検察官自身も極めてあいまいなのである。そして当夜、石田方のスコップが何者かによって盗まれたかどうか、しかもそれが石田豚屋に親しい者か否かなどは、犬によっては判定できないのである。

 ところで第二審の判決文中には、「しかも右豚舎には豚の盗難防止のため番犬がいて、この犬が吠えれば少し離れた石田一義方居宅からも数匹の犬が駆けつけてくるようになっていることから犯人は石田一義方に出入りの者であると推認されたこと、言い換えると、右豚舎内に置いてある右スコップを夜間周囲の者に察知されないで持ち出すことができるのは、石田方の家族かその使用人ないしは元使用人であった者、その他石田方に出入りの業者らに限られると推認された……」としてあるが、豚舎前の一匹の犬と石田一義居宅の数匹の犬が「駆けつけてくるようになっている」という事実からだけで、どうして短絡的に「犯人は石田一義方に出入りの者であると推認され」るのか。それらの犬共が当夜吠えたか否か、騒いだか否か、それによってしか「周囲の者に察知されな」かったかどうかはわかりえない。犬の吠え声を聞いた、というような確定的な事象で判断しているのではない。

聞かなかった、という話だ。犬が鳴いたか、鳴かなかったのか、どうして判断できる。その犬の鳴く鳴かないを寝ずの番をして確認する役の人を配置していたわけではない。なぜ鳴かなかったのか、またはなぜ聞こえなかったのか、合理的に推理する必要があった。何々をしたということを立証することはある程度可能であろう。そうでなければ刑事裁判は成り立たない。しかし、およそ何々をしなかったということを立証することは極めて困難である。あるスーパーで買い物をして数日たって万引きの嫌疑をかけられた場合、いかなる商品も万引きしなかったということを立証することは難しい。鳴いたというのではなく、鳴かなかったという事実を立証することは不可能であろう。

分岐になる決定的な論争点を没却しては、どうして犯人を特定の集団に限定できよう。
 右のような第二審判決文の非論理性、決定的な事実の認否の仲介なしに特定の社会集団に犯人を短絡的に限定しようとする強引な手管は、その決定的な事実の認否の客体が、犬(の声)であるにすぎないという事実と共に断罪されねばならず、そしてこのような非論理的かつ非人間的手法で一定の結論に落着かさせようとするのは、ひっきょうその結論、即ち犯罪集団として限局された社会的一集団に対する裁判官や検察官の故なき偏執(偏見と予断)をわれわれに感ぜさせるのである。

 封建の時代より日本社会には「特殊部落の者だ」という一言が、あるいはその一特定の集団を指すことだけで、千万言の論証をも必要なからしめる言わば社会的”禅問答”とも言うべき言語習慣が成立をしている。それが今なおしばしば学者の世界ですら常用されている事実を考えれば、ある犯罪をその犯罪の起こった周辺の特殊部落の責に帰せしめようとする際、その証明に犬の吠え声のような古来虚実定かならぬものを以てしても、十分通用すると思い込んでいるのもうなずけよう。

スコップに関して言えば、それが捨てられたと思われるものが麦畑にあって捜査陣に発見された。そのスコップの柄と、刃先のところには地下足袋の足跡がありありと残され、その足跡石膏が存在していたし、また、近辺の麦畑にはまだ古くはない地下足袋一足が遺棄されていて、それも警察に領置されていた。被告人石川一雄は供述調書でも一貫して「犯行」当時はゴム長靴を履いていたとしているし、地下足袋の足の寸法も被告人のそれと全く相違していたから、それら地下足袋ともスコップとも被告人とは無関係のはずである。そのスコップが犯行に使われたのであれば、当然に地下足袋とその足跡石膏とでもって犯人を絞らねばならなかった。

ところで、聞いた聞かないのはなしでは、石川被告が善枝ちゃんと出会ったという地点に行くのに、庚神様のお祭りの現場を通ったことになっていた。検察官は取り調べでこれにつき被告人に「レコードがかかって流行歌等歌っていたのではないか」と尋ねたが、被告人は「それは聞きませんでした」と答えていた。裁判所での調べでは、当日5月1日にはその神祭で声高くスピーカーで流行歌を流していたことが確認された。被告人がそこを通った事になっているのであれば、流行歌を聞いたことにならねばならない。だから検察官はそれを尋ねたのであった。神祭とかスピーカーの流行歌は通常のことではないから、忘れるはずもない事象である。

これについて寺尾裁判長は「被告人がスピーカーからレコードが流されていたのを聞かなかったと供述しているという一事によっては、当日被告人が同神社の所を通らなかったとはいえない。」というのである。
豚小屋の不確かきわまりない犬の鳴き声は誰も聞かなかったということが、決定的意味を持った。誰もが聞くはずの神祭のスピーカーは、聞かなかったという事実は何の意味もないというのである。
「犯行」を自供しているという検察官の取り調べ段階で、流行歌を聞いた聞かないで被告人がウソをつく必要はない。被告人は聞かないと言うことが後にどういう意味をなすか考えているはずはない。犯行現場の経路の状況について被告人はただ知らなかっただけであった。
(注)
     わが国の刑事裁判の問題点

狭山事件での警察・裁判所一体の裁判は日本の刑事裁判の典型である。
警察・検察で作られた調書がそのまま裁判の証拠に供せられ、一旦警察で犯人とされたら、裁判でこれを覆すことはほとんど不可能である。いかに密室での強要によって作成された自白の調書であっても、これを、被告とされた者が任意でしたものではない、ということを公判廷で立証することはほぼ100%不可能であるからである。
一、日本の裁判は、欧米の刑事裁判と相違して、被告人を含む証人を中心とした人間の裁判では なく、警察・検察が作成した供述調書など調書中心の裁判であり、公判廷はこの調書の確認作 業にすぎない。裁判が開かれたときにはすでに裁判の大半が終了しているのである。

 戦後、憲法をはじめほとんどの法律が近代的に改変されたが、刑事訴訟法の最も重要な点で戦 前の旧刑訴法が維持された。戦前と言っても昭和17年に作られた戦時刑事特別法の制定以降 であって、それ以前の旧刑訴法自体には被疑者らから聴取した記録は特別な場合の除いて裁判 に採用されない規定があった。
 現行法でも一応は起訴状一本主義(刑訴法第256条の6 「起訴状には裁判官に事件につき 予断を生ぜしめる虞のある書類その他の物を添付し、又はその内容を引用してはならない」) の建前をとっているが、しかし、刑訴法第319条、同法321条で戦時中の弾圧法令である 戦時刑事特別法が温存された。その特別法では、警察で取られた供述が自由に裁判に供される ことになっていたのである。

 だから、公判廷での被告人の無実の供述と警察・検察管理下で作成された供述が、どちらが本 当だということになり、両方が公判廷で天秤にかけられるが、裁判官らは何の根拠もなく、事 件直後の警察での供述を採用する。公開された裁判での供述よりも密室での供述が重んじられ る。戦前戦後多くの誤判やえん罪事件はこうして生まれ続けてきた。
二、このような現行刑訴法のもとでは、警察・検察の捜査の原則も逆転する。
捜査には3段階あるとされる。

① 初動捜査、
② 本格捜査
③ 裏付け捜査

最も重要なのは言うまでもなく①初動捜査であり、現場に残された犯行の客観的な証拠の確認と収集であるが、③段階の自白取りが中心の現代の警察活動では初動捜査やそれに基づいて犯人を特定してする②本格捜査は軽んじられる。それどころか、強要してとった自白に合わない初動捜査段階の証拠が隠滅されたり、さらには、自白に合わせて「証拠」がでっち上げられる。 
 
三、拘留期間

アメリカでは被疑者の取り調べには弁護士の立ち会いがあり、警察で身柄を拘束されての取り調べはせいぜい2日だけとなっているそうであるが、日本では弁護士の立ち会いもなく警察で3泊4日拘束されて調べられ、さらに10日の延長の上、さらになお10日の延長で、23日の警察留置場又は拘置所での拘留が認められている。もちろんこの拘留の目的が被疑者から自白を取り出すことが目的であることは言うまでもない。

代用監獄と呼ばれる警察のブタ箱は被疑者には極めて悪い処遇であり、ほとんど地獄の責め苦が待っている。ここで警察の言うことを聞かなかったらどんな目に遭わされるのか分からない、命の保証はないと言う境遇に落とし込められるのである。人権の極度の侵害状況下で供述調書を作成し、それが裁判所に証拠として提出される。
現行刑訴法は、捜査と裁判をして前近代の鉄鎖として、国民を永続的に無権利につなぎ止める強力な足かせであり、日本人民の人権を根底から否定する桎梏となっている。
この桎梏が遺憾なく発揮されたのが狭山裁判であった。しかし、狭山事件の裁判はそれだけではなかった。
  
(四)「被告人の悪虐残認性」(検事論告・内田判決)

第一審検事論告の中に、「被告人の生活環境」として「被告人が本件のような極悪非道な犯行をあえてするにいたった直接の動機は、金銭に窮した結果のいわゆる「金欲しさ」からであった。だからその根源を追究してみると、やはり、被告人の生い立ち環境が影響していることは否めない。被告人は家が貧困であったため、小学校も満足に行くことができず、11、2の時父母のもとを離れて農家の子守奉公に行くようになったが、その後、被告人が18歳になるまで2、3の農家を輾転し、家庭的愛情にはぐくまれつつ少年時代を過ごすというわけにはいかなかった。このような環境は、被告人に対して、社会の秩序に対する遵法精神を稀簿ならしめる素地を与え、それが被告人の人格形成に影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。」という一節がある。

「被告人の生い立ち環境」とは、部落民としての生い立ちであり、差別を受けた部落という事であるが、これが「社会の秩序に対する遵法精神を稀簿ならしめる素地を与え、それが被告人の人格形成に影響を及ぼしたであろう」とどうして言えるのか。被告人の人格として、この検事論告は各所で「残忍極まりない性格」とか「反社会性」とか「悪魔」とかまで規定して、善枝殺しの犯行と結びつけているのであるが、これは要するに部落に生まれた者は遵法精神が薄く、反社会的で残忍極まりない、それ故に単なる金欲しさからでも極悪非道な犯罪を「あえてする」に至ると言っているのである。このような論理をこそわれわれは部落差別であり、それによる偏見と呼んでいるのである。

 検察官は昨今の新聞を賑わしている政財界人の贈収賄等の、眼をおおうような犯罪の「根源を追究してみる」べきであろう。わずかの事例を以て特定の社会集団だけを遵法精神がないなどと言えるであろうか。法を作ったその者共が平然と法をないがしろにする巨悪が政財界でのさばらせる一方では、村の青年同士のささいなケンカにつけ入り、その一方だけを捕縛したりする不公平な法網の中で、しかもそれでもって重大犯罪の別件に仕立てる事実と、この前記引用の検事論告の差別文言を照らす時、その欺瞞と偏見に憤りを押さえることができないのである。

 検察官や裁判官がそのような偏見を抱くこと自体にわれわれは今関心を持つのではない。それこそそれは彼らの生い立ちや環境を追究しなければ判然としないであろう。問題なのはそのような偏見を神聖な法廷や判決文等の公文書にまで持ち込み、人を罪する事の「残忍性」「反社会性」なのである。

部落民と法との関係を言えば、かれらは法から受ける利益は少なく、法令によってその人権が擁護され得なかった。そういう事実があまりにも多かった。
そして一方では、法による規制はかれらに容赦なかったというべきである。
 第一審検事論告に「本件は窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領、の各犯罪で、被害金額及び暴行、傷害の程度は比較的僅少であるが、その犯行の態様、手口は全く社会の法秩序を無視した自己本位のものであり、もって平生の被告人の素行を窺うに足ると同時に、その反社会性の程度を知るに十分であると考える。」という。

また、第一審判決文に「被告人は善枝を殺害してしまったにも拘らず、あくまで身の代金喝取の目的を捨てず、判示脅迫状に善枝から奪った身分証明書を同封して同女の父中田栄作方にとどけ、同女の乗用していた自転車をも右栄作方物置の軒下に置いて、善枝の生命が確実に被告人の掌中に握られており、危険が切迫しているかの如く右栄作をして諒知せしめ、同人及びその家族の驚愕と悲嘆につけ込んでその目的を達成しようとした所為は、被告人の悪虐残忍性を余すところなく現しているものというべきである。」とある。

こういう調子で「けがれを知らぬ少女であった」善枝と対比せられて「被告人の悪虐残忍性」とかつ「反社会性」が独断的前提として想定せられ、それを「現しているもの」として右犯行があるという。正に前記検事論告の石川一雄の生い立ちや環境についての差別的偏見と相呼応しているのであり、石川一雄に懸けられた本事件の全ての判決文等に一貫して流れている差別的偏見なのである。「所為」の悪虐残忍性が転じて「被告人の悪虐残忍性」になり「被害金額及び素行、傷害の程度は比較的僅少である」としていながら、「平生の被告人の素行」や「反社会性の程度」を浮かび上がらせ、それらを窺い知る材料に犯行が意義づけられているのである。

検事論告や第一審判決の趣旨は、犯罪や犯行を問うというのではなく、あたかも被告人の悪逆残忍性とか被告人の反社会性、その生い立った環境の責任を追及しているがごとき口吻であり論理なのである。それは客観的な物証がなく自白や供述調書を基軸にせざるを得なかった検事や裁判官の窮余の策であり、期せずして部落差別の勢いで公判廷を乗り切ろうという二人の魂胆を表しているのであった。

(注)

検察官や裁判官が公訴事実の証明のために被告人の性格の悪さを持ち出すことは厳しく禁止され排斥されている。このことは欧米はもとより戦前の日本でも「採証の法則違反」とか「悪性格の排斥」として刑事裁判の原則の一つとして確立していた。それは何よりも予断と偏見を裁判官に抱かせ誤った判断を導くからである。性格の悪さ、育った環境の悪さ、前科など事件とは直接関係ない理由によって処罰するのは憲法第31条(法律に定める手続きによらぬ刑罰)や刑訴法第317条(証拠裁判主義)などに明らかに違反しているとされてきたのである。

例えば戦前の大審院判決にも次のように排斥されていた。
「元来前科なるものは被告人に曾て犯罪により刑罰に処せられたりという過去における被告人性行の一端を示すに止まり、その後生じたる犯罪事実と何ら関渉するところなきものなるが故に、被告人に前科あるの事実が証明せられたる場合も、其の事実は公訴の目的たる犯罪行為の成立を断定するには適当ならざるものなりとす。従って斯かる前科を採りて犯罪事実証明の資料に供したりとせば採証の法則に違反するものと云はざるを得ず」
悪性格の立証はいわば我が国検察の禁断の果実であり、また衣の裏に隠してきた鎧でもあるが、狭山事件ではこの鎧をあからさまにかざして論陣を布いてきた。まさに悪逆非道というべきであろう。

【二】 部落差別の刑事裁判上の論理

(一)「出逢い地点」の「蛇ににらまれた小鳥」
 いわゆる「出会いの地点」について裁判官と検察官らは、16歳の、「スポーツ好きで体格もよく、明瞭な性格の持ち主で、学業成績も優れ、人物もしっかりしていて見知らぬ人が道で誘ってもたやすくついて行くような女性ではなかった」善枝がどうしてたやすく一面識もない男について行ったかを説明するために次のように言う。
 「右のような恐らく予期もしなかったであろう異常な事態に突如として遭遇したため、夜間ではあったが、たまたま近くに救いを求められるような人影もなく、また高校入学後間もないことでもあり、新しい学用品等の入っている鞄をゆわえつけてあった自転車の荷台を被告人に押さえられたため、逃げるに逃げられず、畏怖心に駆られて蛇ににらまれた小鳥のように為す術もなく、いわば金縛りのような状態で、被告人の云うところに従った。」(第二審大槻検事意見書)

 彼らは即ち、何らの凶器も持たず何ら粗暴なふるまいもしていなかったという石川一雄である以上、彼を「蛇」のような存在として描くことによって、(又善枝を「小鳥」のような可憐な存在として対照させることによって)
一種人間とは思えない、嫌忌し恐るべき魔性を持つ者として、その存在自体であいてを「金縛りのような状態」に落とし入れるものとして描くことによって、この「出会い地点」の不自然さを言い逃れしようとしているのである。凶器を持たせる代わりに部落差別を利用したのである。

 論理的な整合性もなく、又常識的な経験上の筋書きでもない事態の苦しさを、部落民石川一雄を人間ならざる蛇の姿になぞらえるという一点だけで、ワンストロークで論証なしに結論を納得させられると思っているのである。部落民を畜生扱いにし、又部落民を蛇にたとえる差別的伝承は枚挙にいとまがない。この不自然で差別的な「出会い地点」の設定の意味を理解するために、今少し考察せねばならない。

 「坂田の裏道(幻想)―杉本まちえが来る。と、もの陰からおどり出た民夫・源吉・伸之吉が驚くまちえの袴の裾をまくりあげて、頭まですっぽり包み、抵抗するまちえを三人で担いで走る。/小さな祠の境内(夢)―民夫たちは、まちえを担いで来る。そこに孝ニがいた。民夫たちはまちえを孝ニに押し付けて逃げ去る。まちえは孝ニを見て驚き、そして怒り・・・・・」

 これは有名な差別映画「橋のない川」の一シーンであるが、美しい一般嬢まちえを部落の青年が待ち伏せ、襲い、思いを暴力的に遂げようとするシーンである。この映画の製作者の差別意識は逆さまのままだ。部落の女性が一般民男子によってその出身ゆえに結婚しても籍に入れられず、又は離別させられたり、男子でも部落民であるが故に相手の女性や家族から破談にされ、離婚の憂き目にあわされているという多くの現実を見ることができず、これを倒立させて、根拠のない偏見をもとに、部落民が通常の手段では思いを遂げられないので一般の女性を暴力的に犯すという風に錯覚しているところにある。否、これらの差別的錯覚は一般世人の間に普くしみ込んでいるだけではなく、国家権力の枢軸の中に牢固して厳存してきたのである。

それが戦前1933年の高松差別裁判事件であり、戦後の福山差別裁判(又は近田事件―1954年)等々なのであり、これらは全て映画「橋のない川」の坂田の裏道のシーンのように、部落の男子が尋常の手段では思いを遂げられないので暴力的に、又は甘言を弄し、身分を隠して、だました云々と言って、断罪せられようとしたのであった。
 狭山事件の発端をなすこの「出会い地点」の差別的場面も、右の権力の歴史的な偏見に根づいてつくられているのである。

 蛇は人間界にさまよっていること自体で、いわんや婦女子に近寄ることはなおさら違法な、あってはならないことなのであるから、証明なしで難ずることが可能なのである。

(二)「被告人が犯人だとすると・・・」(寺尾判決)
 以上のような偏見を持ち、その偏見を駆使しながら裁判官らは、それに基づいて更に彼らの根拠のない予断を展開する。

 第二審寺尾裁判長による判決文中に被告人の「意識的に虚偽の供述をしたと認められる部分」の(5)として、「被告人は、捜査段階で「筆入れをうんまけたとき鉛筆やペンが入っていた。」、「今日話したことは本当です。」と供述したけれども、当審において取り調べた東京大学名誉教授秋谷七郎作成の鑑定書(以下秋谷鑑定という)によると、脅迫状の訂正部分の筆記用具は、ペン又は万年筆であるとされ、この鑑定結果は信用するに足りるものであると認められるから、被告人が犯人だとすると、被告人が万年筆を鞄から取り出したのは、「本件」の凶行が行われた四本杉の所で思案していた間のことで、被告人がその場所で被害者の鞄の中を探って筆入れの中にあった万年筆を取り出し、それを使って杉か桧の下で雨を避けて脅迫文を訂正したと認めざるを得ない。

そうだとすると、万年筆を奪った時期と場所に関する供述、並びに「万年筆を使ったことがないからインクがはいっていたかどうか分かりません。」という捜査段階での供述は偽りであるといわざるを得ない。」

即ちここで、寺尾裁判長は秋谷鑑定によってもろくも覆された脅迫状訂正部分の筆記用具に関する「自白」をとりつくろうため、その石川一雄の「自白」を意識的なウソだと決め付けるのであるが、その際の論理展開の構造は、端なくも裁判官の石川一雄に対する証明されざる予断と偏見の馬脚を露わしているのである。即ち「被告人が犯人だとすると」という仮定を臆面もなく設定して、「自白」と明らかにされた客観的な証拠との撞着を解決しようとしている。論理は正に逆であって、客観的証拠と「自白」とを照合して、そうして初めて被告人が犯人であるか否かを導出しなければならないのであり、証明されねばならない結論を予め前提として設定するなどは三才の童児を騙す手法と言うべきだろう。狭山事件では、ほとんどの取り上げられた「証拠」と被告人を結びつけるのは「自白」しかない。しかし、それが食い違ったままだった。証拠が被告人と結びつかなければ、犯行は別人の所為となる。

しかし、裁判官は「被告人が犯人だとすると、・・・」と仮定し、さらに「・・・。そうだとすると、・・・」と仮定の上に仮定を積み重ね、そうして重層する犯人の仮定によって導き出された結論で、供述調書と証拠との矛盾を解消しようとする。これは現行刑訴法の予断排除の原則に違背する。

(例えば刑訴法296条 検察官冒頭陳述 
「証拠調べのはじめに、検察官は、証拠により証明すべき事実を明らかにしなければならない。但し、証拠とすることが出来ず、又は証拠としてその取り調べを請求する意志のない資料に基いて、裁判所に事件について偏見又は予断を生ぜしめる虞のある事項を述べることはできない。」 

狭山の裁判官は、不当な長期拘留や拷問によって得られた自白を見、見てはならないものによって得られた心証によって予断を形成した。
狭山事件の事件中の事件である善枝ちゃんの殺害についても、第一審では被告人が右手で「喉頭部を強圧し」て「窒息死させて殺害」たことになっていた。しかし、被害者の頸部などの痕跡ではそのような方法での殺害は不可能な状況が残されていた。さらに現場の死体頸部には細引き紐が巻き付けられていた。この細引き紐について石川被告は警察・検察の取り調べでは一貫して記憶がないとして否認をしていた。第二審寺尾裁判長のこれについての判断は次の通りであった。

「被告人は取り調べに当たった検察官に対して死体の頸部に巻き付けられていた細引き紐については記憶がないといって否認の態度を取り、原審公判においてもこの点について何も供述していない。」
「結局のところ、木綿細引き紐の出所については確たる証拠はないといわざるを得ない。思うに、脅迫状に見られるように幼児誘拐の機会を窺っている犯人としてみれば、・・・・あらかじめ木綿細引き紐を持ち歩いていたことも考えられないわけではない。・・・木綿細引き紐の出所が明確でないから被告人は本件の犯人ではないと一概にいうことはできない。」

ここにも、①確たる証拠はないが、②被告人を犯人としてみれば・・・③犯人でないとは一概に言えない(犯人だ)、という寺尾の予断の論法が確然と現れている。
 客観的証拠に照して、石川一雄の捜査段階での供述がウソであることを認めるなら、正に石川一雄が犯人であるということに対して重大な疑問が露呈される。供述が「虚偽」だ「偽り」だと、恰も弁護人のような口ぶりでいきまく裁判官は、そう言いながら、その推論に被告人犯人説を自ら設定し、想像の事実を作り上げてますます被告人の有罪の心証を固めようというのである。この錯倒する論理の、石川一雄に対する偏見はこれ程迄に深く甚だしいのである。石川一雄が仮に生得のウソつきであったとしてもその供述証書にどんなに「意識的に虚偽」が満載されていても、そうであればある程、客観的証拠と合致しない供述調書は証拠能力がないのであり、その虚偽を発見し指摘する者は、誰であってもその供述調書に書かれている事に関しては被告人の無実の心証となって蓄積されるのが理の当然なのである。独り予断と偏見のみが、「被告人が犯人だとすると」という前提を暴力的に設定する者のみが、この逆態を示し得るのである。

 第二審判決の「この思考過程は直線的でなく円環的であり弁証法的なものである。」という「円環的」「弁証法的」な論理とは実に上の如く、独善的に証明すべき結論を先に前提として設定して、それを虚構の事実に付会し再び結論(前提)に戻るというペテン的な循環論法の謂いなのである。
第一審の裁判官が弁護側の反証をことごとく却下し、警察検察段階の供述書で有罪の心証を形成していたことは第二審寺尾裁判長も認めた。

「原裁判書が本件のような重大な犯罪について、弁護人の二度にわたる精神鑑定の請求を却下し、その他前掲捜査の経過・アリバイ・生活環境・動機等に関連する多数の反証の取り調べの請求を却下し、・・・・・。原裁判所が必要なしとして却下したのは、いかにも公平を欠き是認し難いところではあるけれども、・・・・原裁判所としてはそれまでの証拠調べによってすでに有罪の心証を形成してしまっていて、もはや弁護人からの請求のあったこれらの証拠を取り調べるまでの必要性はないと考えたものと判断される。」

東京高裁の裁判長自身がはっきりこう認める。「公平を欠き是認し難い」裁判というのは、予断と偏見の裁判でなくて他の何であろうか。第一審判決は現在の裁判の口頭弁論主義、直接審理主義を踏みにじって、警察・検察の調書類ですでに心証を形成していたというのである。

そうして寺尾は言う。
原判決が「自白を証拠の中心に据えて、これを補強する証拠が多数存在するという理論構成をとっているのであるが、当裁判所として原判決の事実認定の当否を審査するに当たっては、むしろ視点を変え、まず自白を離れて客観的に存在する物的証拠の方面からこれと被告人との結びつきの有無を検討し、次いで被告人の自供に基づいて調査したところ自供通りの証拠を発見した関係にあるかどうか(いわゆる秘密の暴露)を考え、更に客観性のある証言等に及ぶ方法を採ることとする。」

という。第一審の裁判については全くそのとおりで、「自白を証拠の中心」にしていた。これは憲法違反の疑いがあり、無効な裁判といえるだろう。
しかし果たして、「当裁判所」が第一審の自白中心主義の裁判から脱却できたのか。もちろん否である。新しい事実を発見したわけではない。ほとんどの物証は自白関連だ。ただ「視点を変え」ただけのことであった。すなわち、新しいむちゃくちゃな刑事裁判の論理を構築したのだった。

また、いわゆる秘密の暴露についても寺尾自身が自らの判決文で認定するように
「被告人が自白するようになってからも、被告人を事件の関係現場に連れて行って直接指示させること、いわゆる引き当たりという捜査の常道に代え、取調室において関係現場を撮影した写真を被告人に示して供述をもとめるという迂遠な方法を採った・・・殊に最も重要と思われる脅迫状・封筒についてさえ、被告人に原物を示したことがあるのかどうか疑わしく、むしろその写真を常用していたことが窺われる・・・」

という。警察は取調室で現場の写真を示して被告人に供述を求めたという。高裁裁判長のこの事実の認定は、捜査当局が被告人から自白を現場写真を使って誘導した事実を認めているということであり、この事実はいかに「視点を変え」てもいまさら動かせぬ事実である。そのような証拠は「自供に基づいて調査した」ことにはならず、あらかじめ証拠を用意して自供をとってひっつけて付会したものにすぎない。

(三)「被告人が無実を主張している以上・・・・」(寺尾判決)

 また第二審判決文中の自白の任意性について裁判官は、捜査官らの供述の録取の杜撰さをとりあげ、「なるほど、原審においても被告人質問はある程度は行われているが、本件の重大性と捜査段階における供述内容が微細な点で多くの食い違いがあることを考えると、もっと詳細な被告人質問をしておくべきであったと思われる。当審になって被告人が自白を翻し無実を主張するに至った現在から見ると、原審における被告人の公判供述が不十分であることは否めないが、当裁判所としてみれば、被告人が無実を主張している以上それらの点を確かめるすべがなく・・・・」(傍点筆者)と言っている。
「被告人が自白を翻し無実を主張するに至った」から真実を確かめることが出来ないとはどういうことなのであろうか。
解答。それは裁判の否定であり、裁判を被告人が受ける権利の実質的な剥奪という他はない。

 捜査段階の供述を翻し真実を法廷で闡明しようとする被告人には、その供述について、その真相について語ってもムダだと言う事を言っているのである。それは更に第二審判決文中『被告人は当審になってから原審までの自白を翻して全面的に無実を主張するに至ったので、当審における長期間かつ詳細な事実の取調べにおいても、この点に触れて新たに付加された判断資料は存在せず、専ら被告人の原審公判及び捜査段階における各供述、並びに死体が発掘された当時の状態とか鑑定の結果等によって、原判定の認定の当否を判断するほかはない。ところが、被告人の原審における公判供述中この点に触れた部分は、「問、縛り付けて時計や財布を取った後に強姦したのか。

 答、はい。問、その際被害者を殺すようなことになったのか。答、はい。問、この間の事情は警察や検察庁で述べたとおりか。答、はい。」という程度にとどまり、その詳細は挙げてこれを捜査段階における被告人の供述に依存する形になっている。しかるところ、この点に関する被告人の捜査段階における供述はまちまちで補足しがたい内容のものであるから、原審としては、被告人がいわゆる冒頭認否以降、終始強盗殺人・強盗強姦等の事実を認めて争わなかったにしろ、この点を詳細に質問して犯行当時の具体的状況を明らかに
しておく必要があったのであり、今となっては仕方のないことであるが遺憾なことである。』と言っている所にも現れているのである。
 「原判決の決定の当否を判断する」のは、捜査段階や第一審公判の供述等の資料だけでなく正に第二審そのものの公判においてこそ可能だったのであり、それは被告人が「当審になってから原審までの自白を翻して全面的に無実を主張」しようとしまいとに関わらないのである。

捜査段階における供述がまちまちであり、捕捉しがたいものであったというのであれば、犯人として断定することに躊躇するしかないのである。供述の不鮮明さを非難したり、それを「仕方がない」とか「遺憾だ」などと嘆くのはあらかじめの裁判官の特定の心証を露呈していると言わざるを得ない。

 「当審」の裁判官でありながら、自らの法廷をないがしろにし自己の責務を没却し、かくの如きことを強弁して恥じないのはただ被告人が犯人だという抜きがたい頑迷な偏執が、かの裁判官になければならない。事実この事は善枝の「三つ折財布」の件、又、善枝の「死体を芋穴に隠した」件等につき「当審」の被告人の供述をさかしまにとって採用し有罪の心証に供している点にも見えている。

これを総じて言えば一旦捜査段階なり一審なりの供述を翻し無実を主張する被告人の場合、「当審」においては無実につながる事は正に無実を主張しているという理由で全くとらず、捜査段階などの供述に沿い有罪につながる事なら採用するという態度と論理なのである。
 これは部落民石川一雄は何が何でも犯人であり、「当審」で審議する迄もなく捜査段階や一審での供述はそれがいかにあやふやであっても真実であり、無実を主張する以上、それ以上は裁判を受ける権利はないという宣告に等しいのである。裁判所での審議、公判廷の証人や証言ではなく、戦時刑事特別法レベルの調書中心主義を宣言し実行する。

(注)松川事件に係る最高裁昭和31年7月18日大法廷判決では次のように言う。
「・・・右判決につき検察官から控訴の申し立てがあり、事件が控訴審に係属しても被告人等は、憲法三一条、三七条の保障する権利を有しており、その審判は第一審の場合と同様の公判廷における直接審理主義、口頭弁論主義の原則の適用を受けるものといわなければならない。従って被告人らは公開の法廷において、その面前で、適法な証拠調べの手続きが行われ、被告人等がこれに対する意見弁解を述べる機会を与えられた上でなければ、犯罪事実を確定され有罪の判決を言い渡されることのない権利を保有するものといわねばならない。」

二審の公判廷をないがしろにする寺尾高裁裁判長の立場は真っ向からこの最高裁の判断に違背しているのである。

(四)疑わしきは罰せよ(寺尾判決)

さらに、例えば件のスコップが発見された場所付近で発見された地下足袋とその足跡について裁判官は「弁護人らは5月1日には被告人がゴム長靴を履いていたことを当然自明のように前提するけれども、この点について被告人の自供を裏付ける確かな証拠は何ら存在しない。被告人は5月1日にも兄六造の地下足袋を履いていた可能性があることが考えられる。」(第二審判決)「被告人はこれまで5月1日にはゴム長靴を履いていたと終始供述してきている。しかし、そのことを裏付ける証拠はどこにも見出すことができない。」(第二審判決)等と反論しているが、このような論理がまかり通るなら、被告人の座に据えられたが最期、無実のものでも助かる見込みは到底無いのである。

 逆に被告人が地下足袋をはいていたという確証は何もない。確たる証拠ではなく「可能性」を取り上げ、その「可能性」でもって判断されると言うことであれば誰も助からない。
「犯行」に使われたスコップの近くの地下足袋とその足跡の存在は、被告人の一貫した供述と食い違う。さらには被告人の単独犯行という事実認定にも重大な疑問が投ぜられているのであり、被告人とは別個の犯人の存在が想定されてくるのである。これをしも裁判官は証拠もなしに、5月1日に被告人は地下足袋を履いていたに違いない、履かなかったという確証はあるまいと迫ってくるのである。ゴム長靴をはいていたということを「裏付ける証拠はどこにも見出すことができない」という。

この場合地下足袋をはいていたということを積極的に証明するのが刑事裁判の常道であるが、容疑者にゴム長靴をはいていたと言うことを立証して見よというのである。人は、日常茶飯事の行為をする場合後々の事件に備えて証拠を固め、足跡を残しながら生活をしていくというわけにはいかない。日記にも衣類やはきものまで記載することはまれである。せいぜい自己の頭の中の記憶として残す程度であろう。記憶していたことを陳述してそれを証明できるかと責められてはだれしもいかんともしがたいであろう。

Aという事実を証明するのに、Bではない、Bという事実の証明がないではないか、と追求する。それでBが証明できなければAの事実が証明されたというのである。
天と地にAとBの事実しかないのであればこの論理も通用するだろう。この論理にはAに対して非AがBしかないということでなければならない。しかし、地下足袋やゴム長靴以外に履き物類は無数にあるのである。

こうなると人は、自分が与り知らぬ犯行に使われた凶器を裁判所で示されて“これをおまえが使わなかったという確証はあるか”その確証がなければ犯行に使ったと言うことになるぞ、と問い詰められて、それによく返答できなければ、投獄されたまま帰れないというとんだことになるのであって、これは人民の平和と安寧を根底から脅かす暴力的論理であり、断じて許すことはできないのである。

 そのことはタオルの件で「家人が工作した疑いが濃い」(第二審判決)とか、腕時計の発見の件で「何者か」(第一審判決)が拾って茶株の根元に戻しておいたとか等々で、裁判官の勝手な犯罪の想像をほしいままにしている点でも同様言える。また例えば、石川一雄が脅迫状を書くに当たって参照にしたとかいう雑誌「りぼん」についての裁判所の論理も同様であった。一雄の妹の美智子が読んでいたという「りぼん」は、実はその妹は持っていなかったという複数の証言について、裁判所は、その証言を「手元に置いていたことがなかったという点まで裏付けるに足りる程の」ものではない、という。

では、裁判所は何をもって件の「りぼん」が石川一雄の家にあったといえるのであろうか。雑誌「りぼん」の残骸は石川家には存在しないのであった。裁判所は、その雑誌がなかったといことを証明せよ、証明できなければあったということになるんだと、というのである。
お前の家に刀剣があるはずだ、無いと言うことを証明できるか、出来ない以上はあったということだ、という論法でこられたら誰もかれも刀剣不法所持で引っ張られると言うことになる。これらのことについて寺尾裁判長はいう。「当裁判所は、いやしくも捜査官において所論のうち重要な証拠収集過程においてその一つについてでも、弁護人が主張するような作為ないし証拠の偽造が行われたことが確証されるならば、それだけでこの事件はきわめて疑わしくなってくると考えて、この点については十分な検討を加えた。」と。
もっともらしいことを言っているが、寺尾裁判長の考えが端的に出ている。「証拠の偽造が行われたことが確証されるならば・・・」という。

何人も当局以外には証拠の偽造を「確証」することはほとんど全く不可能であろう。警察があげてきた証拠を、そうではない、関係ない、偽造だといってこれを否定するには、偽造であることを「確証」しなければ釈放してもらえないということになれば、だれも助からないだろう。普通なら警察が挙げてくる物証については警察自身が確実な証拠で立証責任を果たさなければならない。

(刑訴法第336条 「被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。」)
犯罪の証明は検察側にあり、警察の出した証拠に対して弁護側はただ、それは確実なものではない、疑わしい、ということを反証するだけでいいのである。
ここで問題なのは、疑わしきは罰するのか、罰しないのかの問題である。
疑わしきは罰せずという大原則を踏みしだいて寺尾裁判長の論理は明らかに、疑わしいから罰するという立場に立って、一度疑わしいとした者は逃さないぞという姿勢だと言うことである。
これは単なる裁判官の誤った理論や想像であるということにとどまらず、部落民でもだれでもいくらでも罪につけることができるという論理を作り出そうとしているものと考えねばならないのである。

(五)寺尾の「弁証法」

前に見たように、寺尾裁判長は自らの論理を「この思考過程は直線的でなく円環的であり弁証法的なものである。」と言った。弁証法は矛盾を軸に論理を展開する。
 弁護人は第一審第二審そして上告趣意書を通じて、捜査段階の供述証書と客観的証拠との矛盾を指摘し、そのことから石川一雄が犯人ではあり得ない旨を論じ立ててきた。あまりにも多くの反証を前にして、返答に窮した裁判官らはこれまでに明らかにした偏見に基づく予断を真向から押し通すために
二つの方法を採った。

一つは、石川被告が犯人だとするとと前提し、供述が物証と一致すればそれでよし、一致しない場合は石川が嘘を言っているとする。
今一つの方法は、それでもあまりに矛盾が多いので、「円環的」「弁証法」的思考でもって十把ひとからげに矛盾を解決するというのである。
脅迫状に使用された漢字についての判決に於いて
「要するに本件の捜査の全般なかんずく被告人の捜査段階における供述調書からして窺い知ることのできる取調べは、拙劣かつ冗漫で矛盾に満ち要点の押さえを欠いていることは確かであるけれども、それだけにかえって、供述の任意性に疑いがあるとは認められない。」(第二審判決)
という。

かような「それだけにかえって・・・」という「弁証法」的論理が許されるのなら、およそ裁判で争うことも弁護することも土台その根拠を喪ってしまうのである。矛盾に満ち杜撰であればある程、即ち客観的事実に供述調書の内容が付合していなければいない程、それだけますますその供述証書は信憑性があるというのである。矛盾しておれば証拠にならないのではなく、ますます真実だという。
もちろん、弁証法は、それが自然現象であれ、歴史であれ、すべて事実に基づき、物事の対立を統一において把握する論理であって、架空の事物の矛盾や、真と偽の対立とか、その総合などというたわいないごまかしの話ではない。

(注)
   矛盾律について

ここで矛盾律(LAW OF CONTRADICTION)について語っておかねばならない。矛盾律とは、古代ギリシャの哲学者プラトンやアリストテレスの時代から、論理の鉄則、思考の三原則の一つとされてきた。数学者であれ法律家であれ議員であれ、また家庭内で話し合う場合であれ、我々普通人が議論したり討論したり主張したりするときに絶対にふまえねばならない論理の原則だ。この原則は通常は学校教育などで現代人には自然と身に付いているものであるが、宗教的教条や体験談、党派的政治的主張、因習の強い地域、利権がらみの話などではではしばしば通用しない時がある。

思考の三原則とは、①同一律(LAW OF IDENTITY)
         ②矛盾律(LAW OF CONTRADICTION) 
         ③排中律(LAW OF EXCLUDED MIDDLE)である。
       ①の同一律というのは、「甲は甲である」
       ②の矛盾律というのは、「甲は非甲ではない」
       ③排中律というのは、「甲は乙であるか、非乙であるかである」

          という単純な論理である。

この三原則を踏み外しては、何の議論も成りたたない。
矛盾律は実質的には非矛盾律(LAW OF NONCONTRADICTION)のことであり、矛盾する主張は論理的に破綻しており、討論としては敗者だということである。
一つの事件で被告人が犯人だという「証拠」と犯人ではないという証拠があれば、犯人だという論理は破綻し使い物にならない。

しかし、寺尾裁判長によれば、その矛盾がむしろかえって犯人であるということの真実性を証するというのである。人類史の中で培われてきた思考の鉄則を廃棄して顧みない。

これを見たら現場の捜査官も真面目に仕事をしなくてもよいと思うだろうし、でたらめな調書を作ったほうが有利だと考えるであろう。

供述調書中の一個の矛盾であってもその供述調書の証拠としての能力に疑問を挟み得るし、それを以て被告人の無実の証として重視するのが裁判官の職務であろう。今や明らかな事は、どのような無理無体をしてでも、どのような無法を犯しても、裁判の常識を破ってどのような事実の認定をしても、石川一雄の縄のいましめをほどかないということである。

寺尾がいう「弁証法的であり、円環的」となると、最初の出発点(仮定)が否定され消えるのではなく、それが高次元において包摂され、元に戻って確かめなられと言うことになる。従って、最初の「被告人が犯人だとすると・・・」という仮定がそれと対立するさまざまな矛盾によって押し上げられ総合的、最終的に真実だとされるということである。
それは事実の誤認だというに止まらない、事実を誤認しても構わないという論理なのである。これは論理ではなく非論理でありこの論理の実態は石川一雄を監獄に入れているという事実である以上、純然たる暴力と言って過言ではないのである。

「円環的」「弁証法的」というのは、たんなる寺尾裁判長の「こけおどし」(『狭山虚構の判決』師岡佑行編)とかではなく、裁判において矛盾律に代わり、矛盾を肯定する新しい「刑事裁判における事実認定の基礎」なのである。

(六)「人間性同一」論

 第二審判決文の圧巻をなす「事実誤認の主張について」で展開された「当裁判所の基本的な態度」こそ、これまで明らかにされた裁判所の予断と偏見の真骨頂を示して余りあるものである。その論旨は概要三つにわけられよう。即ち、(1)「実務の経験」(2)「人間性は同一」(3)「円環的」「弁証法的」「分析的であるとともに総合的」思考過程、である。
以上の結論として「捜査官が始めから予断偏見をもって被告人を狙い撃ちにしたとする所論を裏付けるような証跡は、ついにこれを発見することはできない。」というのである。果たしてそうか。否、千度も否である。 念のため論旨を順を追って要約すると、

(一)
イ、実務の経験が教えるところによると被告人や被疑者は常に必ずしも完全 な自白はしない、潤色や虚偽がある、ことに黙秘権などが出来ている現在 はそうである。
ロ、彼らに真実を語らせることは困難である。
ハ、参考人や証人も同じである。弁護士の所へ来る依頼人も同じだ。(参考人  や証人に対してさへ、このような予断を抱く事は裁判官としての適格性に関わろう。)
ニ、牧師の前でザンゲする連中ですら同じだ。
ホ、大罪を犯した犯人が反省悔悟していてもそうだ。
ヘ、しかるに弁護人は独断的に彼らが完全な自白をするものだと思っている。ト、供述の微細な食い違いから被告人の無実を主張するのは短絡的だ
という のである。

 ここで裁判官が「実務の経験」としてとりあげているのは全て「被疑者ないし被告人」あるいは裁判に関わる者「参考人や証人」「大罪を犯した犯人」神仏の前でザンゲする罪人たちであり、これから得られる「実務の経験なのであるから、これを部落民石川一雄に適用することはとりもなおさず石川一雄を何らかの犯罪人の「供述心理」を共有しているものと見なすということであり、はじめから石川一雄を犯罪人と決め込んでいる明白な証左なのである。このことは一審以来の裁判官や検察官が部落民の生い立ちや環境についてどう考えていたかということと直接連動しているのである。

いわく「前述の真偽とりまぜての供述の中から被告人の供述心理を解明し、客観的証拠によって裏付けられた供述部分を中心に据えて真実の部分と虚偽の部分とを判別していく」と。即ち、ここの「被告人の供述心理」とは犯罪人としての供述心理のことであり、これを以って供述の真偽を判別するというのであり、一定の予断を前提にして資料の取捨をするというのに等しいのである。 

次に、ニ、の「人間性は同一」論であるが、極めて抽象的なこの論は結論部分の「不当な予断と偏見」を打ち消さんとする裁判官の偽瞞的なポーズであり、弁護人の部落差別にかんする弁論や証人申請に対する解答のつもりでいるが、しかし之こそ実に恐るべき部落差別論理を内包しているのであり、単に人間性は同一ではない、部落差別を無視している、と反論するだけでは足りないのである。人間性が同一ではないというのは「人が人を裁く」と言う言葉に示されているように、即ち裁くものと裁かれるものが階級社会発生以来同じであったためしは無い以上自明のことであり、裁判官にもよく解っているはずなのである。にもかかわらず敢えて「人間性は同一であるという思考」を持ち出しているのは唯一点、当裁判所は部落差別の存在を認めないし、それを前提とする如何なる弁論も許さないということであり、そしてこの論理は後で見るように極めて実際的な「犯罪」の論証になくてはならないのである。

 差別には二通りある。一つは他の者と平等であり同一の存在である者を同一として扱わない差別であり、今ひとつは、そうして同一でなくされた者をその差を無視して同一として扱う差別である。この後者の差別事象は例えば、此処に部落民百姓の田1反があり、収量は六俵とする。そうでない百姓の1反は十俵とする時、これらに対して為政者から反当たり3俵の同一量の供出米が強制されるならば、前者は飯米として2俵しか残らずたちまち飢餓に瀕するのである。これが同一、平等という名の差別政策なのである。戦前戦後部落解放運動の前に立ちはだかってきた差別的な行政当局の姿勢はこれであった。最初の解答は“この村には差別はない”“この町の者は皆んな平等に取り扱ってきている”というものだったのである。

(注)
 このことを明瞭にするためにここに高知県南国市の野中部落の農民102名が当時の村当局に提出した米の供出に関する異議申立を紹介する。
 
 異議申立書

昭和二七年穀米供出割当数量指示書を去る一月一七日受け取りましたが下名等は左記の理由により本年度の割当を受ける事ができませんので連名を持って異議申立を致しました。

 理由

1. 本年度割当には村当局も非常に慎重を期せられ、10数万の多額の村費を
費やし、数回に亘る検見及坪刈を施行せられ、適正公平なる割当てせんものと
尽力下さいましたが。1、2、3、4期の検見の評価最高を二石と抑え5期の最高を
一石と抑えて評価しました。この最高を抑えたる事実が、すでに多収穫者に
軽く小収穫者重く割当のかかりたる結果となって居ます。

2.村当局は、個人割当の方針を検見員評価額と坪刈成績とを勘案して査定
収量を定め、査定収量より個人保有量(種子量を含む)を差引供出可能量を
出し、供出可能量に56%掛けて供出量を出すと定められたと云いますのが、
これが大農に軽く小農に重いと云う原因となったのであります。

 当村の査定収量総額一一,六八四石四五 保有量四,五四七石六一
 供出可能量七,一三六石八四 供出料三,九八三石九
 可能量と供出量の差額三,一五二石九四

 これを適正かつ公平なる割当をするなれば、査定収量を圧縮して保有量引き残りを供出量とするが常識と存じます。村長は一月十二日の農業委員会に査定収量を圧縮するか、供出可能量から勘案するかを諮問せられたが、委員会は可能量で勘案する様申したと承ります。委員諸公は内割外割の原理を御承知で、大農に軽く小農に重き不公平なる結果を生み出した事実にお気づきなさらないでしょうか。
 今仮に例を引用してみますと。

                                                                                    
│                    │ 査定収量    │   保有量      │  可能量      │  供出量    │
│ 約1町5反農家       │  120俵      │  16俵 大5     │  104俵       │ 58俵24     │
│                    │             │       小1    │              │            │
│   約3反 農家      │   24俵      │     同上      │    8俵       │  4俵48     │

右を査定収量を圧縮すれば(圧縮率は可能量と供出量の差額が査定収量総額に対する比率 27%)
                                                                                    
│                    │ 査定数量   │  圧縮査定    │   保有量       │  供出量   │
│ 約1町5反農家       │  120俵     │   87俵6      │ 16俵 大5      │ 71俵6     │
│                    │            │              │        小1     │            │
│ 約3反 農家        │   24俵     │ 17俵52      │   同上        │ 1俵52     │

 以上のような結果を生み出します。
  右の事実を知った以上吾々小農は、本年度割当方法に依る割当を諾々として受け得られませんので、異議申立を致します。宜敷御詮議下され割当方法を変更せらるる様伏して御願いする次第であります。

        1月17日

   長岡村長 坂本 泉   殿

 正に大農に軽く部落を中心とする小農には重い村当局の平等という名の差別的な米の供出量の算定方法が糾弾されているのである。

「人間性は平等」論のねらいは右のような差別行政のやり方を刑事裁判上に持ち込み、部落民に「一般的な経験則」をあてはめ、「同一」の刑責を追究せんとするところにあるのである。

 即ち「戸谷鑑定にしてみても、結論として」「かなりの類似点は見られ、通常の学歴をもつ人の場合には、同一人の筆跡であると判定するのにあるいは充分であるかも知れないという印象をうけるが、本人が学歴低く日常字を書くことのないグループに属する者であることを考慮するとき、本人の字の稀少性はグループ中では薄れるため、同一人と直ちに判定することには理論的に同意しがたいように思う。」等々と説明しつつも、同鑑定人のいわゆる近代的統計学を応用した科学的方法によっても、脅迫状と封筒の筆跡が被告人の筆跡ではないと結論していないのである。」という時この人間性同一論の実際的効用が躍如としてくるのである。

戸谷鑑定が「本人が学歴低く日常字を書くことのない」という実態を押さえて石川一雄への刑責の転嫁を躊躇しているのに反し、裁判官はあくまでも彼の低学力の実態を無視して脅迫状作成の刑責を彼になすりつけようとしているのである。「結局、被告人の当時の表記能力、文書構成能力をもってしても、「りぼん}その他の補助的手段を借りれば、本件の脅迫文自体ごくありふれた構文ものだあるだけに、作成が困難であるとは認められないのである。」というその「ごくありふれた」とか「作成が困難であるとは認められない」という脅迫文の構文に対する判断は、裁判官らの経験、裁判官らの教育上の負担能力を教育を奪われて来た部落民に無碍に想定しているのであり、しかもそれによって重罪を部落民に負荷させようとしているのである。

 ある時は同一として扱い、またある時は同一でないと扱っても、差別するという一点では終始一貫してきたのが国家とこの社会の部落民に対する相も変わらぬ政策なのである。狭山弁護団は力を入れて寺尾判決は「部落問題を回避した」と批判するのであるが、寺尾の「人間性同一論」は、決して部落差別を没却したのではなく、部落差別の主要形態の一つだったのである。
               
(七)狭山事件の「矛盾論」

 最後の(3)の「弁証法」等であるがそれは、過去の事実は「記憶の影像」としてのみしか残らず、しかも人間は、自己の行動を、「潤色」するものだから「不確実と思われる資料」しか残されていない。そこで「互いに矛盾する資料」でも弁証法的かつ総合的な思考法等で吟味すると「価値ある観察が可能」というのである。
これはすでに批判したとおり、裁判官の予断と偏見を合理化する端的な表現なのである。 即ち、この事件に関して裁判官は「不確実と思われる資料(証人や被告人の供述など)」また「それら互いに矛盾する資料」しかないことを認め、これらで以て乗り切るために「適切な批判と吟味(この思考過程は直線的ではなく円環的であり弁証法的なものである。分析的であるとともに、総合的なものである)」 

を加えるというのである。ここで言う「弁証法」はヘーゲルの弁証法とは似ても似つかぬ代物であるが、しかし、前提の中に結果があり、結果の中に前提がある、始めの中に終わりがあり、始めを終わりとなし終わりを始めとなす円環的な真理の把え方を換骨奪胎して模倣しようとしていることは明白である。しかしこれを刑事裁判の論理に適用されたらたまらない。

 「被告人が犯人だ」という結論を前提とし、これに「不確実と思われる資料」を以て補強しそして再び「被告人が犯人である」という前提に帰るという「弁証法」の実際は当論文が明らかにするとおり脅迫状訂正の筆記具などに関する「虚偽」予断と偏見の論理なのである。

  そして「分析的であるとともに総合的なもの」というが、分析するにも予め総合された分析の指針が前提に必要であり、また分析の過程には取捨選択する際の一個の仮説を絶対必要とするのである。分析したものを総合するにも一定の基準なり命題なりを柱として予め設定していかければならず、それは結局の所「弁証法的」と同じく一定の前提=予断を不可欠とする論法でしかありえないのである。

 
松川事件でも八海事件でもおよそ日本の通常のえん罪の裁判闘争では、弁護側は、客観的事実と自白との間の矛盾を指摘し、追求すればよかった。しかし、狭山事件ではそうではない。検察の挙げた証拠と客観的事実が矛盾していてもかまわない、否、矛盾しているからこそなお一層真実だという恐るべき論理を構築してきたのであった。
これまで近代日本の刑事裁判を律してきた論理、すなわち、Aは同時に非Aではありえない、という矛盾律を真っ向から否定した。ある事物は、白であり同時に黒であるというのである。

例えば、第一審内田判決の中の、例の鴨居の上の万年筆(これで脅迫状を書いたとかいう)は、よく見えるところに置いてあった。それでかえって見えなかった、という。小さな一軒家を検察と警察合同の、数時間にわたる2度の大家宅捜索をしても見つからなかった万年筆が、3度目のそれもわずか十数分の捜査で、出入りする者なら誰でも見える鴨居の上にあったという。

この明らかな作為的「発見」について、裁判所は前述したように、よく見えるところにあった、それでかえって見えなかった、という弁解的判断を下すのであった。ここでいう「矛盾」というのは、一つの事物が、よく見える、という事象と、よく見えない、という事象のこの「矛盾」をいうのであろう。我々から言えば仮にそんなことがあったとしても単なる錯覚に過ぎないことを認識論上の「矛盾」にまで引き上げる。
ここに、昭和43年、『弁証法はどういう科学か』(三浦つとむ 講談社)という本がある。どうもこの本と寺尾判決には関連があるのではないかと思える節がある。著者である三浦氏は文中でエドガー・アランポーの小説を引用している。

それは、重要な証拠物である手紙の捜索の話である。捜査の対象は手紙であるが、部屋を捜索しても出てこなかった。しかし、追求するその手紙は実はその部屋の手紙挿しに他の手紙と一緒に無造作に差し込まれてあったという。

ここで哲学者三浦氏は、「隠すために隠さない」という犯人の工作から、何度もその部屋へ捜索に入った警視総監の「感性的認識と理性的認識」の「矛盾」を説き始めるのである。
寺尾裁判長が、三浦氏の『弁証法はどういう科学か』という本を読んだかどうかはむろん明確ではない。しかし、万年筆と手紙、誰にもすぐ見える場所、そして「弁証法」的錯覚の話、不思議な一致としか言いようがない。
かつて八海事件で藤崎裁判長が被告人の調書について次のように述べた。

「本件の被告人たちには、拷問を疑うに足る事実が何ら存在しない上に、実に勝手気ままに供述している。警察官は被告人等の言う通りに調書を取っているとしか考えられない。しかも、この供述の中には体験しない限り述べることの想像もつかないことまで述べている。」として、それだからこそ被告人らの供述調書は真実性があると断定した。再掲示するが狭山事件の寺尾裁判長は次のように言った。

「捜査官は、被告人がその場その場の調子で真偽を取り混ぜて供述する所をほとんど吟味しないでそのまま録取していたのではないかとすら推測されるのである。
しかしながら、それだけに、その供述に所論のような強制・誘導・約束による影響が加わった形跡は認められず、その供述の任意性に疑いをさしはさむ余地はむしろかえって存在しないと見ることが出来る。

藤崎裁判長と寺尾裁判長の自白の任意性について結論は同じであるが、その論理は根本的に違う。

前者は

①被告は拷問されたと言うがその事実はない。その上②被告は勝手気ままに供述している。③警察は被告の言うとおりに調書を取った。④その中には、体験しない限り分からない事も入っていた、⑤故に拷問の事実は存在しないし、供述には任意性がある。
後者寺尾の論理は、
①被告人は真偽取り混ぜて供述したと推測する。②警察はそのまま録取した。
③それ故強制などは認められない。④それ故にかえって供述には任意性がある。
両者の論理は似ているが同じではない。なぜなら、藤崎裁判長は、自白の強制の有無について別にそれ自体として判断している。その上で真偽取り混ぜて供述しているという事実は、体験者のみ知っているという事実とともに、拷問の有無についての事実認定の補強として採用しているのである。

しかし、寺尾裁判長の方は、自白の強要の事実についてそれ自体があったか無かったか判断せず、藤崎が補強用に挙げた供述の有り様、真偽とり混ぜて供述したとか言うことでもって自白強要の不存在を逆証しようとしたのである。
警察官という公務員による拷問など自白強要があったかどうかというのは、一個の刑事事件であり、しかもこれは、何人も自白だけによっては刑罰を科せられないという憲法にかかる一大事であった。これを没却できたのは、寺尾には矛盾について人を驚倒させるような新たな理論があったからである。真偽取り混ぜた矛盾の事実はそのこと自体で真実なのである。これが寺尾の「弁証法」なのである。

ここでの「弁証法」というのは、定立(テーゼ)として真があり、反定立(アンチテーゼ)として偽があり、そうして「むしろかえって」真偽の矛盾を止揚する総合(ジンテーゼ)としての真実がある、というのであろう。もともと首尾一貫した供述であれば無論のこと任意性は否定されない。一貫性が無く、いい加減な供述、真偽とり混ざっていても、「それがかえって」任意性の証拠だと言うことになれば、弁護団の反証でさえも反定立として包摂され、とてもかなう者はいない、完璧な法網にかかったということになるであろう。一旦捕まったらもうそれで終わりなのである。

八海事件や松川事件の段階では、被告人らの供述にいろいろな矛盾があり、変遷があり、何が真実で何が虚偽なのか分からなくなった。それでも裁判官らは自分は特別な人間だから真実を発見できるとして、次々とむちゃくちゃな判断を繰り返し、つんのめって、結局無罪になってしまった。

そのときの裁判官の自由心証主義にはまだ幾分かは真実発見の努力と情熱があったように見受けられた。矛盾した供述があっても、それは犯罪事実全体にたいした影響がないから不問に付すというやり方でしのいできた。

「成る程、吉岡の逮捕以来の供述は四転五転殆ど底止するところを知らないほどの有様であり、その中には虚言に満ちている部分のあることは、原判決の言うとおりである。・・・しかし、ここで裁判官として大事なことは幾変遷した吉岡の供述の中にも、何か真実に触れるものがないであろうかと疑って見るることである。」(最高裁第1小法廷判決 昭和37年5月19日下飯坂潤夫裁判官)と言う風に大変な努力をして「真実」なるものを模索し誤判をかさねたのであるが、寺尾裁判長のように真偽の分別もせずそれを丸ごと真実だ、矛盾しているから間違いないなどと言う途方もない論理にまでは達していなかった。

 今やわれわれは全ての事が明瞭になりつつある。
反証を挙げ事実誤認を指摘して争うだけでは十分でないし、予断だ、偏見だと糾弾するだけでもなお十分ではないのである。何故なら裁判官は、事実を誤認してもよいという「矛盾」の論理、矛盾こそ真実だ、いくらでも予断をしていてもよい、予断が必要だという「弁証法」を刑事裁判の中にふりかざし傲然とわれわれに対恃しているからである。

 そしてその予断とは「被告人の悪虐残忍性」であり「その反社会性」であり「蛇」であり、部落民の存在そのものを悪とする偏見なのである。
そうして「被告人を犯人だとすると・・・」という前提(テーゼ)の、その「弁証法」的な展開なのである。
これが部落民に対する今日の国家権力の仕打ちであり、これに対する再審請求の闘いが如何なる論理を持たねばならないか自ずと明らかになるであろう。

かつてチャタレイ裁判に関わった正木ひろし弁護士はいう。
「論理の法則は憲法の法則よりも前にあります。」
「裁判における非論理非良心は、国家の執行機関と直結している故に、公然たる暴力と異なるところなく、若し本件の如き明白なる非良心が裁判官において執行に移されるときは、国民に対し、暴力に対する自衛権の発動を促す動機となることは明らかだ・・・」(『基本的人権の研究』政治学研究叢書1954年)と。

【三】 憲法第14条について

(一)上告棄却決定理由
 1977年8月9日の最高裁「上告棄却決定理由書」の冒頭で「しかし記録を調査しても、捜査官が所論のいう理由により、被告人に対し予断と偏見をもって差別的な捜査を行ったことを窺わせる証跡はなく、また、原判決が所論のいう差別的捜査や第一審の差別的審理、判決を追認、擁護するものではなく、原審の審理及び判決が積極的にも消極的にも部落差別を是認した予断と偏見による差別的なものでないことは、原審の審理の経過及び判決自体に照らし合わせて明らかである。それ故、所論違憲の主張は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。」といっているがこれ迄の本論文の批判に照すとその白々しさとあつかましさに却って読むものが恥じ入るのである。しかしそうとばかりはしておれないのであって、この一見白々しい文章にも大いなる差別の論理が横たえられているのであり、これを白日のもとに剔扶しなければならない。

これ迄、弁護人やわれわれが明らかにして来た差別的捜査や差別審理、判決は事実であったのである。最高裁の裁判官も記録を調査してその事実そのものを検討しているのであるから、問題はその事実の解釈にかかっているのである。即ち裁判官はわれわれが差別だと主張している事実を差別とは考えないと言っているのである。即ちそれは差別的事実はあるが、それをしも差別とは考えない、あたりまえのことであり、もっと率直に言えば現在社会に於いて許容される合理的な差別だと考えると言うに等しいのである。従って問題なのは、差別というものを裁判官がどのように把えているかという問題に帰着するのであり、憲法第14条の問題に迄行き着くのである。

(二) 「社会的身分」

そこで憲法第14条を検討すると、「社会的身分又は門地」は「人種、信条、性別」と並べられて「政治的、経済的、社会的関係において差別されない」となっているけれども、しかし前者「社会的身分又は門地」は、後者の「信条」「人種」「性別」とは並列することのできない、歴史的段階のまったく違う概念なのである。すなわち後者は、ブルジョア社会において当然存在する、というより積極的にそれぞれ自己主張するものであり、その存在と闘いは肯定的であるが「社会的身分」(これは明らかに近代的な資本家、労働者という階級ではなく、エタ非人などを指すものと一般的に解釈されている)という存在そのものは、この近代社会には、あってはならないものなのである。だからこそ、憲法第14条、②は「門地」について「華族その他の貴族制度はこれを認めない」としているのである。(当初の憲法草案はこの華族制度を温存しようとしていた)

したがって前者の「人種、信条、性別」に関しては政治的、経済的、社会的に差別されてはならないとすることでブルジョア的には十分合理的であるが「社会的身分」に関していえば、差別してはならないと規定しても、差別の実体的存在を認めているから、それから生ずる差別事象を禁ずるという自己矛盾的な不徹底さ、法の自己空文化を免れえないのである。部落民という「社会的身分」は華族制度とともにその存在そのものを廃止することによってのみ、第14条の合理的首尾一貫性をまっとうすることができたのであった。「政治的、経済的又は社会的に差別されない」といってもそれ自身「政治的、経済的又は社会的」身分差別の実体である「社会的身分」の存在が撤廃されなかったのである。

(三) 差別について最高裁判例

そこから第14条は、逆に他の諸法律と同様の規定条項とともに「社会的身分」の積極的承認という反動的意義を体することになる。
「憲法事典」(昭和36年、東北大教授清宮四郎)の解説によれば「社会的身分」とは「自己」の意志を持ってしては離れることにできない固定した地位である。そして「華族、士族、平民、部落出身者、帰化人の子孫、前科者、破産者等のステータス」という説を紹介している。東京大学の宮沢俊義の「日本国憲法」(昭和30年)によれば「社会的身分」とは「出生によって決定される社会的な地位又は身分をいう」「たとえばいわゆる部落出身者とか帰化人の子孫とかいうのがこれである」と差別的に説明している。
憲法学者の大家は、かくのごとき身分の存在が、ブルジョア的原理に背反しているかどうかは問うことではない。

労働基準法第3条の「社会的身分」について、布令発基第17号(昭和22年9月13日)は「社会的身分とは、生来の身分例えば部落出身のごときものをいうこと」と解釈し、また昭和44年9月25日、労働省発行の「労働基準法手続便覧、諸手続とその解説」はこれを「社会的事情によってなかば永久的に他人と区別される地位」として部落民を具体例にあげている。
かつて最高裁は、尊属にたいする傷害致死罪についてより厳しい特別な罪科を主張する検察側を支持し、憲法第14条に関して次のごとき判決を言い渡した。「……しかしながらこのことは法が、国民の基本的平等の原則の範囲において、各人の年齢、自然的素質、職業、人と人との間の特別の関係等の各事情を考慮して、道徳、正義、合目的等の要請により適当な具体的規定をすることを妨げるものではない」(最高判、昭25、10、11刑集四巻10号2037頁)「各人の年齢、自然的素質」とともに、「職業、人と人との間の特別な関係」も罪の重さによって刑の軽重が計られ、孝をなすべき親への犯罪がより重くなれば、やがて部落問題という「人と人との間の特別の関係」も刑の重さ、人権の軽さを来してくるに違いない。社会的身分によって差別されないといっても、現実の法とその解釈はこのとおりなのである。

例えば、「各人には……事実的差異が現存するのであるから、一般法規の制定又はその適用において、その事実的差異から生ずる不均等があることは免れ難いところである。そしてこの不均等が一般社会観念上合理的な根拠のある場合には平等の原則に違反するものとは言えない」(最判昭和25.6.7)や、さらに憲法第14条1項について「国民に対して絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱いをすることは、なんら....法条の否定するところでない」(最判昭和39.5.27)というような判決にみるように憲法の平等の趣旨を根本から歪曲、否定さへまかり通っているのである。

さらに無数の司法権力による差別事件、弾圧、行政各機関、軍隊、学校等の公的機関に於ける差別は、こうした部落民の法的地位ー封建的「社会的身分」差別の実際的、具体的様相であり動態に他ならない。興信所や企業等の民間における差別もこのうえに展開されるものである。

(四) 差別がないという差別

以上の観点から前掲の棄却決定理由を見るとその趣旨は明らかであり、
部落差別の事実を前にしても裁判官らには、その判例が示す通り差別とは映らずむしろそれらが合理的なものとさえ見えるのである。「人間性は同一」論と共にこの差別がないという論旨は、部落差別の事実が厳然とある以上積極的な部落差別を容認する論理となっているのであり、決して部落差別の問題を回避しているのではないのである。

(五) 結語

  寺尾裁判長は第二審第74回公判で部落問題に関する証人申請を却下する理由を述べるにあたって種々の部落問題の本を読んだと述べた。その中に差別小説「破戒」とともに、後藤秀穂の「皇陵史稿」もあげている。
  この大正年間に出た「皇陵史稿 」こそ恐るべきであって寺尾裁判長がこれをどう読んだかその判決文と比較してみることも徒労ではあるまいと思う。
即ち、その「第11章、神武帝陵」において

「驚く可し。*地 聖* この畝傍山は、甚だしく、無上極*の汚辱を受け居る。知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄まして居る。事実はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある。それが古いのでは無い。今現に埋葬しつつある。しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのまま此の神山に埋められ、霊土のなかに、爛れ、腐れ、そして千萬世に白骨をのこすのである。亡骸、神山と、御陵との間に、新平民の一團を住まはせるのが、不都合此の上なきに、之に許して、神山の一部を埋葬地となすは、事ここに到りて言語道断なり。***志には、此の穢多村、戸數百二十と記す。五十數年にして、今やほとんど倍*に達す。こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵との間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、をひ*霊山の全部を浸食する。」

と書かれているのであり、この本のおかげで事実、ふもとの洞部落は土地を奪われ強制的に移転させられた史実があるあるのである。寺尾裁判長の判決文によって石川一雄は罪なくして獄舎につながれ、又この判決文の差別を合理化する論理では、多くの罪なき部落民が牢獄に送り込まれるだろう。

  かつて安政の昔、加賀藩士千秋藤篤はその「治穢多議」において、
「夫そ天地の物を生ずるや、人に非んずば即ち獣、即ち禽、即ち草木、即ち土石なり。安んぞ人にして体の獣性なる者あらんや」とかっ破しまた「一朝慨然として嘆いて曰く、我れ醜類たり、彼れ良民たり、伍せず婚せずんば即ち己む、既に労するに卑役を以てし、また従ってこれを汚辱す、また何ぞ甚しきや、臂を攘って大呼してその群類を聚め諸州の群落また竿を掲げ木を挺し、四面響応、州県を剽掠し以て報徳の計をなさば、彼の黄幅の漢 を乱し五胡の晋を乱すが如く、因より一軍一旅の蕩平すべきにあらざる」を憂へて「宜復於民籍矣」と主張したのである。

われわれは今や1933年の高松差別裁判の判決文と共に石川一雄に加えられた差別と予断に塗られた一切の起訴状、判決文を破棄し、部落民を人間として正当に見すえ石川一雄が何ら人に裁かれるような犯罪を犯していない事実を天地に知らしめ、以て部落大衆が真に「人間性の同一」を勝ちとるための一切の障害を除去することを要請するものだある。まことに恐れることなくただ部落民を人間として正当に見、人間として正当に評価するだけで、一切の予断的前提は崩れ去り、「出会い地点」以下の石川一雄の「犯罪」は幻の如く消え去り、そのあとには権力の無実の者を処刑しようとした犯跡のみが黒々と浮かびあがってくるのである。

この部落民の人間としての当然な要求を無視して、もしかくの如き差別裁判が放置され万一、吾が兄弟姉妹が「一朝慨然として嘆い」て起ちあがり、げに「一軍一旅の蕩平すべきにあらざる」行動を起こす時は如何なる責任をとるのであろうか。

【四】自白について

(一)

石川被告は、思いがけない逮捕のあと、犯行を否認し続けた。だが、ある時から警察の言うとおりの「自白」を始めた。
その自白は矛盾に満ちたものであったが、第1審の公判廷を通してその自白は維持された。
石川被告はその自白にもかかわらず、おおかたの思いがけないことに、控訴した。2審の第一回公判で「お手数をかけて申し訳ないが、私は善枝さんを殺していない。このことは弁護士にも話していない。」と言って、それまでの自白を全面的に翻した。
そこで問題なのは、石川被告がなぜ頑強に否認した犯行を「自白」に転じたか、死刑にもなるかもしれない重大犯罪を何故に第1審の最後までやったといって維持し続けたか、である。
これを弁護側や学者先生達は、石川被告が部落出身であるという点から説明しようとしてきた。

私はこれに賛同できない。この裁判は部落民への予断と偏見、その予断と偏見を合法化するという論理で貫かれてきたことは確かである。しかし、石川被告の陥った「自白」の理由には、特殊部落民的な理由があるのであろうか。私は、これについてはっきり否認しておく。それはまた、別種の部落民に対する偏見に基づき、偏見を助長する論理であると思われる。

官権による長期拘留と連日の取り調べに屈して、人が、してもいない犯罪をしたといって「自白」するにいたるのは、何も特殊部落問題が絡んでいるわけではない。それは権力に対する恐怖とそれに裏打ちされた迎合にある。
ただ、部落問題が関連するとすれば、その権力の圧迫の内容が部落民には著しくひどいということと、その被疑者には有力なバックアップがなく、権力に抱かれた被疑者とその家族や社会が完全に遮断されやすいという問題があるということであり、その地域や家族そのものが社会的に閉鎖されていてまともにとりあってもらえないという事情があった、それこそ部落差別の結果なのである。何も部落民が権力に迎合しやすい性質を持っているとか、部落民なる故に石川被告の知的レベルが極度に低かったというような根拠のない偏見を理由とするのではない。

「私たちにはとうてい信じられない、「関巡査部長への信頼」「10年立ったら出してやるという警察との約束」を信じて自白を維持していた石川被告の心情、これこそ未解放部落で育ったが故の思想と感情の形成ではないだろうか。来るべき裁判においては、部落問題研究家、部落解放運動家、によって、石川被告の心情を社会科学的に証明しなければなりません。」(『狭山事件の真実』北川鉄夫)

私は、警察を信じた、ということがどうして部落民特有のことになるというのか、このようなねじ曲がった「社会科学」の研究が何を意味するのか、問いたい。差別的偏見を感じる。
戦前の教養高い社会運動家の多くが警察の厳しい取り調べの中でいかにして自白し、転向していったか、知らないのだろうか。あの高潔な河上肇博士でさへ権力の前に屈服したのである。経験ある者なら誰でも日本の警察の留置場や拘置所・監獄が、収容者にとってどんな厳しい無権利状態であるか知っている。また、日本の農山漁村に住む多くの人民には弁護士や裁判官・検察官など見たこともないし、その仕事が何なのか区別もまるで知らないという人が今でもごまんといるだろう。警察がおっかないということについては誰でも知っている。

石川被告もそんなレベルの中の青年だった。何も部落特有のことがらではない。
石川被告の「常識はずれの無知」は「単なる一般的な不遇の環境に育ったと言う単純な環境論からだけでは十分な理解は生まれない。これには石川君が被差別部落に生まれ育った意識の持ち主であったという部落差別の問題が絶対に必要である。」佐々木弁護士の上告趣意書の言である。すなわち「無知の悲劇」だという。確かに石川一雄は司法の世界については無知であったであろう。しかし、この無知は日本のどこにでもある無知であって特に部落にだけあるというものではない。石川被告は、この事件を十年で請け負ったにすぎない。石川被告は警察は自分がやったのではないということを了解していたと思っていた。自白調書をつくるときに自分が何も知らないということを警察は十分ご存じのはずであった。

彼が死刑判決でも動揺しなかったのは、自分が無実であることをはっきり知っており、なお十年で善枝殺しを請け負ったという牢固たる信念があったからである。
なぜ請け負ったか。もし、そうしなかったら石川被告は無事に警察から出てこられたか分からなかったであろう。これは、警察がどういう恐ろしい所か、ブタ箱に入った者でなければ分かるまい。

また、自分がその罪をかぶらなかったら実の兄がやられる可能性があった。石川被告は大江戸の御用学者の言うかのビンボウクジを引くことを決心したのである。
狭山の弁護団はサルトルを引用していう。
「労働者は知識人が上から理論や概念を教え込まなければ、みずから考えることはないという主張に反対して、労働者は自立的な思考を持つことができる。その基礎は「手や目でもって」考えるというのである。だが、当時の石川被告は、この基礎のところにとどまっていた。」(『狭山・虚構の判決』)

弁護団はこのサルトルの言葉を曲解して当時の石川被告は即時的に手や目でもってしか、ものを見る、考えることが出来なかった、と主張する。
サルトルの言うのは、労働者はインテリゲンチャと同様に手や目の感性で高いレベルの思考を自立的にすると説いているのだ。
石川被告も法律関係には無知ではあったが、合理的な思考が出来なかったわけではない。十重二十重に取り込まれて孤立無援の中でも、警察と取引し生きる道を探らねばならなかった。戦前の頑強な共産主義者達もそのような取引をして生き延びた者がたくさんいる。
教養あるその連中のことを棚に上げて、石川の自白だけを特殊部落民なる故と断定するのには全く合点が行かない。

石川被告の法廷での態度がおかしい、精神がおかしいのではないかという人もいる。しかし、人は法廷に立った場合、どうなるか、これも経験者でなければ分からないだろう。
ものなれた弁護士や法廷関係者ならいざ知らず、おそらく大概の者はあがってしまって裁判官や相手側が何を言っているか分からない状況になる。

私自身の経験からも、初めから数回してなれるまで法廷で裁判に臨んだとき、相手が何を言っているのか、裁判官のことばの意味が皆目分からなかったことを記憶している。
判決主文が読まれても勝ったのか負けたのか、有罪か無罪か即座に聞き分けることは困難である。裁判官はあなたが負けた、とか誰が勝ったとかはいわず、棄却するとか、破棄するとか、いろいろな言い回しだからとまどってしまう。裁判闘争など相当深く裁判に関与してきた私でさへそうだから、石川被告ならずとも裁判など縁もゆかりもない普通の市民では、何か訳の分からない儀式に参加しているのと同然となるであろう。
石川一雄は無実である。その事は本人はもとより警察も知っていた。石川被告は関巡査部長の10年で出してやるという約束を信じた。

その理由は、警察の恐ろしさであり、孤立無援であり、そうして部落民なるが故にビンボウクジを引かされたこと、引かねばならない運命を悟ったからからである。石川一雄が第二審で立ち上がったのはこの運命を拒否したからであった。

二、自白の刑事裁判上の根拠

警察は恐ろしい。人はなぜ自分がやりもしなかった犯罪をやったという風に「自白」するのか、これについては日本の刑事裁判のあり方が深く関係している。
簡単に言えば、容疑者は、警察の云うとおりのことを認め、改悛の情を示せば、こらえてもらえる、そうでなければひどい刑罰が与えられるぞ、ひどい目に遭わすぞ、という脅迫のもとに置かれると云うところから、ウソの自白が発生するのであり次々とえん罪事件が止まないのである。

①刑訴法第248条はいう。
「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の状況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」
捕まった場合には、犯罪を犯していても、犯さない場合は一層、おとなしくしておれば放免される。性格とか、情状とか、特に「犯罪後の状況」などで警察に好印象を与えるように努力しなければならない。だから、警察の構えた犯罪の筋書きに異を唱えず、警察作成で読んで聞かされた供述調書に迎合するなら無罪釈放される可能性があり、釈放されなくとも軽微な刑罰で容赦される、その事が示唆されるのである。

②また、戦後の判例にも、
「刑の量定に際しては、単に犯罪の内容を検討するばかりでなく被告人の性格、年齢、経歴、境遇、犯行の動機、犯行後の情状等諸般の事情を考慮しなければならないことは勿論であって、もし、これらの事情の大部分を無視して量刑するならば是は法律上不当と言わなければならない。」(仙台高裁判決昭和24年4月30日)
という。
「法律上不当」などという法律に該当するものなどは全く存在しないし、それどころかそのような量刑は憲法違反ですらあるのに、平然としてこういうのである。
ここでも言う「犯行後の情状」というのは、ズバリ自白のことである。
警察・検察の期待に反して事件でのかかわりを否認し自白しないなどは「犯行後の情状」としては最悪である。

このように、事件として公訴されるかどうか、量刑に換算されるかどうかに「犯行後の情状」が入ってくると、これは自白の強要が制度的に設定されていることになるであろう。
自白し、改悛の情を示さなければ、起訴され、重い刑罰を負わされるという状況の中では、まして、長期拘留の中、毎日のような長時間取り調べと激しい犯人追及の呵責が加わる中では、通常の人間ならば、心なくも「自白」をしてその場を逃れようという心境になるのは自然であろう。

芥川龍之介の『杜子春』という名作を読んだ人も多いと思う。
まさに杜子春が幾多の試練に耐えながら、最後に声を上げて仙人への道を断念した光景を思い出してみよう。冥土では親は牛になっており、地獄の刑吏によって牛になった親が鉄のしもとで打擲(ちょうちゃく)される姿を目の当たりにしては、いかなる誘惑、恐怖にも屈せず意志堅固な杜子春もさすがに悲鳴を上げて降参したのであった。これは人間自然の情である。

杜子春こそ戦前の反体制運動に邁進した思想犯たちであり、最後の場面のその姿は権力に打ち据えられたイスト達のその敗北の瞬間にほかならない。
人間の弱みにつけ込んでする卑劣行為こそ憎むべきであり、自白問題は、自白する側ではなくてこのような理不尽を制度として永続させている権力こそ解明されねばならない。
親を思い兄弟をかばう絆や情が部落民にはひとしお強いということであればたしかに社会の差別と貧困の中で忍苦に耐えてきた人々であればこそそうは言えるだろう。そういう観点からの部落問題で自白問題を論じるなら理解できる。
だが、部落民なるが故に権力に弱く、権力を信用し懇ろになりがちであるなどというのは、事実に反するし、差別的偏見としか言いようがない。そのような歴史的事実はない。

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コメント

強い偏見と予断そして悪意をもとに犯人を仕立てあげ、あとはそれに向かって無茶苦茶な強弁を重ねて有罪にしてしまう。中世ヨーロッパの魔女裁判もかなわない。戦前にさえ行われていた刑事訴訟の基本をも踏み外した暗黒裁判が平然と行われる国に自分が住んでいると思うと暗澹たる気持ちになる。
つい最近行われた小沢氏を政治的に陥れることを目的とした裁判も憶測と悪意に満ちた謀略裁判であった。歴史を振り返ってみても目の前で繰り広げられる種々の出来事を見ても人間社会に正義が行われることはないとしかおもえない。

投稿: 摂政関白大アホ大臣 | 2013年8月 2日 (金) 21時03分

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