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2013年8月 8日 (木)

革共同の2007年7月テーゼについて(2)

News & Letters/366

資本の本源的蓄積過程について

革共同第24回拡大全国委員会総会特別報告①「当面する部落解放闘争の諸問題」(これを「諸問題」と呼ぶ)において、革共同中央は、7月テーゼをより理論的に
深化し、帝国主義体制下の部落問題を矮小化し、解放運動を労働運動に収れんしようとする。部落問題は帝国主義敵階級の労働者階級に対する「分断支配」だということだから、労働者が「分断支配」を打ち破り団結を強化することが解放運動の目的ということになる。実際そういうことをあからさまに規約に掲げた「水平」団体も登場している。
だから、帝国主義を打倒しなくても労働者が差別したり反目したりせず仲良くしていけばそれでいいという話になるであろう。

解放運動は、帝国主義を打倒する、とか、武装闘争をする、蜂起する、とかいう話は全く論外だということになるであろう。
このような左翼的融和運動の論拠は、部落問題の捉え方に原因がある。

①「諸問題」はいう、

『急速な資本主義形成は、「原始的蓄積」と労働者階級の形成を暴力的に厖大に一挙的に作り出す、農民分解の激しい進行、労働者階級への賃労働と資本の階級関係の徹底的な暴力的形成とその貫徹、徹底的な搾取と収奪は、部落民との徹底的な分断と一体で進行する。・・・』
日本資本主義は「原資蓄積と労働者階級の形成を暴力的に厖大に一挙的に作り出す、という。
原始蓄積過程のこのような捉え方は、資本論の原理論としての捉え方であって、ロシアや日本など後進資本主義の姿ではない。
原資蓄積過程は、一方では貨幣の蓄積、他方では労働者の産出であるが、日本の場合極めて偏奇に満ちており、封建時代から続く厖大な過小農をその村落形態からしてほとんどそのまま残した。資本の蓄積はどのようにしてなされたか。小規模の資本しか持たないいくつかの資本家はいたが、大企業を起こすほどの資力のある資本家はいない。そこで、明治政府は、地租の金納化をてこにして農村社会から金を徹底的に収奪しその金を受けて幼弱な資本家達は国家の殖産興業政策で後押ししてもらってたちあがった。

その地租金納化によって、少数であるが農民が土地から離れてプロレタリア化したが土地を失った農民の大半は、マニュファクチャーや資本主義工業の未発達のゆえに、むしろ一層、過小農社会の低層へ、小作農や雑業者として分解していかざる得なかった。「諸問題」がいうような原始的蓄積過程で、労働者階級の形成が「暴力的」に「厖大に一挙的に」なされたなどという途方もない話はどういう事実に基づくのか。土地所有や身分関係が法令上(形式上)は近代化されたが、この日本の過小農社会の存続の中に未開放部落も差別的に沈淪していたのである。

そして、ある程度発達した資本主義となっても、さらには急速に成立した帝国主義になっても、この半封建的ともいわれる厖大な過小農の大集落が産業予備軍の滞留地となり、そこから日本資本主義の低賃金労働者が資本の求めに応じていつでも自在に雇用されるという関係が作られた。イギリスのエンクロージャー運動に見る資本論で展開されるような暴力的で厖大な農民層の土地からの一掃、プロレタリアの創出という劇的な歴史は日本では起こらなかったのである。

帝国主義段階の資本主義では、資本の有機的構成の高度化によってこの傾向は一層固定化し、未開放部落も含む過小農社会の温存を社会政策として追及した。日本の労働者の再生産費は、農村の過小農の家庭に負担させてきたのである。農村への転嫁によって都市で労働者を再生産する数分の1で労働力商品が賄えた。日本帝国主義が自立的に欧米の帝国主義と競争するためには、低賃金は絶対条件であった。

ここ数十年前まで日本資本主義下、「農村更生運動」とか「皇国農村」確立とか、戦後の農地改革に至る自作農創設政策は、ひっきょう、大量の低賃金労働者を確保するなどのために、旧習に染まった農村社会の存続が絶対的に必要であったという政策的証しであり、従って小作農など貧農を中心とする農民闘争は、プロレタリアの経済的、政治的闘争とは根底において不可分の関係にあった。日本においては、賃労働と資本という関係だけで、プロレタリアの自己解放など到底語ることはできない。

未解放部落もこの厳しい過小農社会で形ばかりの四民平等を得たが、実際には差別が解放されたのであって厳しい身分差別の残存に苦しめらrた。封建時代にはほとんど地域に隔離的な差別を受けたが明治以降の近代日本においては、学校や軍隊などに引き出されてひどい目にあわされた。元々部落民は農村社会の一角に押し込められて小作農や素潜り漁師、運送、皮革業などさまざまな雑業を生業としてきたが、官吏はもとより一般の商工業で雇用されて労働者になるということは極めて困難であった。

経済学的には村はずれの過小農であり、過小漁家であり、過零細企業者であり、多くは拾い賃仕事の従事者などにすぎなかった部落民には、さらに封建時代さながらの身分差別の経済外桎梏がはめられていた。
このような境遇は帝国主義段階において旧来の農村社会を広範に維持しなければならなかった日本資本主義の必然的結果である。

農漁民は古い血縁地縁関係が残る農村社会でプロレタリア化(半農半プロレタリア)が進む一方で過剰な労働力はより下層へ過小農、小作農となって滞留し低賃金や高額小作料などを互いに競争し合っていたのであって、そのなかでももっともひどい条件を部落民が受けていた。農漁村で部落民を劣悪条件の錘しとしていた。分裂支配とか分断支配というのは、被支配階級が互いに断絶するのではなく一番ひどい扱いを受ける層が他のより上層を引っ張り低めていくように仕向ける社会システムであり、部落差別は帝国主義にとって低賃金や高額小作料の死錘として好個の材料であったから、部落を融和「同和」運動的に温存しようとしたのである。

*注

 「同和」という言葉は、戦後できた言葉ではなく、戦前から政府が使っていた言葉である。

だから、原資蓄積過程、とりわけ労働者形成過程が「暴力的に厖大に一挙的に」作りだされたなどという虚偽の想念では日本の農業問題や部落問題がどうして重大な政治的社会的問題となって残ったのか、さっぱり分からないし、日本の半封建的とも言われた農村社会に片足を置いた低賃金プロレタリアートの特殊性も分からないことになる。日本のプロレタリアートは農業問題や部落問題などを内的に抱え込んだ存在なのである。

このこと(資本主義の前史である原資蓄積過程の停滞的進行)はレーニンもよくは把握せず、ロシアの資本主義分析において農奴制を深く抱えた農業問題で足をとられ、長く2段階革命論に自らを押しこんでいた問題でもあった。

要するに革共同中央の「諸問題」は、原資蓄積過程で「暴力的に厖大に一挙的に」労働者階級が形成されたということであるから、部落民もプロレタリア化したということであろう。そして、「帝国主義の暴力性」が発動する中で分断支配政策が強化された、ということだ。それは、後で批判する「共産主義」24号の柏木論文とよく似ている。

②さらに革共同の「諸問題」はいう。

『とくに強調すべきは、この分断攻撃における恐るべき暴力性である。幕藩体制の打倒以降、日本資本主義の形成が日本帝国主義の形成と分離できずに進行していったことは、、そもそも日本資本主義の本源的蓄積そのものが大変な断絶的飛躍が必要であるなかで、ほとんど同時に帝国主義を形成することの独特なすざましい暴力的飛躍を遂げることになった。このことが、身分制の維持・再編をきわめて暴力的強権的に進行させ、さらに部落差別を、労働者階級との極端な徹底的な分断として進行させていった。』

このような文章が繰り返し出てくるが、しかし、帝国主義を特徴づけるのはその「暴力性」だけではない。部落問題が残ったのは日本資本主義の、基本的に ZWANG であって、GEWALT だけではない。帝国主義的資本家や政府の強権や暴力が部落問題を発生させそれを維持しているのではない。政府の政策で作られたのではなく①で述べたような帝国主義の経済的必然性によって部落問題は残ったのである。だから部落解放運動は帝国主義打倒の闘争として発展させられるべきであり、権力者による暴力的な「分断支配」政策をやめさせればそれで終わるというものではない。

権力の「分断」支配に目をくらまされて、部落民を根底において被支配階級全体を下へ下へと引きずる、低賃金と高額小作料の過小農社会のその負の紐帯を見逃してはならない。労働者人民が団結を勝ち取れば分断支配は打破されるというわけにはいかない。
③1973年1月発行の「共産主義」24号柏木論文(「内乱への恐怖と反動」)
この論文は、当時全国部落研や戦闘同志会で徹底的に討議され、部落解消主義論と断ぜられたものだ。

この論文の部落問題のくだりを要約すると、

1、資本主義の初めは「副次的付随的」であった部落問題が帝国主義段階になり、体制維持に深くかかわる要因となって登場した。
2、帝国主義の腐朽性は、資本主義社会のあらゆる腐朽的要素と結びつき、
3、「旧社会の遺物・残滓」をも支配の中に組み入れるようになり、
4、そして、それらを統治手段として、すなわち人民分断支配政策として極大的に使われるようになり、それが帝国主義存立の不可欠の条件となっ
た。
5、したがって部落問題など差別・抑圧や排外主義の問題は、「支配階級の支配政策の一環としての側面と、社会的意識としての普遍的固定化=拡大再生産持続という側面の、両契機の一体性において実在・・」という極めて観念的な存在だということになる。
  
柏木論文は、日本資本主義の前史をなす資本の原資蓄積過程の特殊的展開、それによって残された厖大な過小農社会と部落の存在について何も語らない。ここ数十年前まで人口の大半を占める過小農の農業問題や部落問題を「旧社会の遺物・残滓」と呼ぶべきだろうか。
日本の労働者の大半の再生産をし、日本労働者の特徴をなす低賃金を支えていた産業予備軍の巨大なプールは遺物や残滓などという言葉で把握されるようなものではなかった。低賃金労働者だけではない、日本資本主義が勃興する上においてもこの過小農社会から苛斂誅求を繰り返し蓄積した資本によって立ち上がり、帝国主義として列強と伍する上においても、やはり農村からの資本を集めて大陸に進出したのであった。

農村からの収奪によって、農村には資本が回らず機械や技術水準は低迷し、益々貧窮し、より一層の過小農・半プロレタリアとして分解していったのである。私の祖父母は明治初年の生まれであるが、1町余りの田畑を耕す小作農であった。私の母の話では毎年秋に収穫して納屋に収納している米俵の大半を地主に徴収された、祖母が地主の手代の脚にすがりつき懇願しても少しも減免されなかったという。米作をしていながら芋と麦が主食だったという。

戦前、野呂栄太郎らいわゆる講座派の学者や実践家が強調した日本資本主義下の農業問題の「半封建的」実態の深刻さは、二段階革命路線の低次元の位置づけであったとしても、彼らが描く日本農村社会のひどい実態は否定できないのであって、問題はその事実を帝国主義段階論で高次元で捉えなおす必要があったのである。それを革命直前のレーニンが実践的にやった。そして学問的に宇野弘蔵氏が我々に体系的に示した。
革共同の「諸問題」や柏木論文はこの事を何も勉強していないのであり、革共同系の部落解放運動も同じレベルにある。

*注
ここ数十年前まで、というのは、ここ数十年は日本帝国主義企業の洪水の様なアジア進出によってアジアの低賃金労働者を確保して、もはや日本の農村から低賃金労働者をさほど必要としなくなったという現状があるからである。しかし、いつまでもアジア諸国のプロレタリアートがおとなしく日本帝国主義の犠牲になったままでいるはずはない。

いずれにしろ柏木論文も「諸問題」も部落の存在そのものは把握せず、帝国主義権力の差別的分断政策とか差別的社会意識を「実在」として描くのみである。権力のこのような恣意や意識と闘うのだから、解放運動は、階級内部で糾弾や意識改革、団結精神の涵養とかに限局されるであろう。事実そのような運動を規約として掲げた水平団体が現れている。「糾弾主義」とはまさにこういうことを指すのではないか。

これであれば、例の与田の億万長者の「3泊4日」生活や、運動の傍ら権力のスパイ業にも専念していても、解放運動は十分に務まるであろう。

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