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2013年7月26日 (金)

寺尾判決 権力は踊る

News & Letters/363

  権力は踊る まえがき

1974年10月31日東京高裁寺尾裁判長は石川一雄氏を有罪とし無期懲役に課した。
寺尾判決の内容について適切な批判は当時も今もない。
77年8月9日最高裁で狭山事件について上告棄却の判決が出た直後、矢田解放塾で私が書いた論文はあまり知られていない。

このブロッグに掲載したように思うが、はっきりしないのでここにあらためて掲載する。
日本の刑事政策で犯人をでっちあげるという手法は、重要な政策の一つである。
おそらく中世の時代から、事件や紛争のあった村や町では誰でもいいから犯人を出せという権力の要求は古くからあった。

しかし、それが、一個の刑事政策として学問的に意義づけられたのは江戸時代の封建教学の大家荻生徂徠によってである。
「貧乏くじ」方式である。犯人が分からなければその村の中でだれでもよいから貧乏くじを引かせて、それにあたった者を犯人としたてたらいい、という学説を「太平策」という著書で論じたのである。貧乏くじを当てられる者は村の中でどのような層の者かおのずと明らかだ。このように無実の者を犯人に仕立てるという刑事政策は戦前はもとより戦後も、今も、連綿と受け継がれてきた。
狭山事件もこれである。

寺尾判決は、そのような露骨で古臭い「貧乏くじ」の刑事政策では、すぐに見破られ現代の民衆には通用しがたいと考えて「弁証法」という新たな刑事政策を編み出した。客観的証拠と自供との食い違いや矛盾は、これまでの裁判の論理では、「犯人」を無罪にしなければならない。

無罪にしない論理、矛盾があっても、むしろその矛盾のゆえに真実である、という新たな「弁証法」的思考法を編み出さなければならなかった。そこまで敵権力は狭山闘争で追いつめられていた。弁証法は矛盾をその論理展開の動力にしている。この弁証法にかかればいったん逮捕された者はだれも救われないだろう。矛盾律が通用しないのである。

これこそ狭山闘争が武装闘争として大衆的に発展する契機だった。この様な無法な弁証法の適用に対しては民衆は何をして抵抗しても理由があることになる。

だが、解放同盟の狭山闘争の指導部も新左翼もこの恐るべき寺尾判決の論理を見過ごした。
狭山闘争は、差別だ、糾弾だと言っているが、結局体制内的な延々と続く冤罪反対闘争から一歩も抜け出ることはなかった。

寺尾判決を下されても何の実力的糾弾闘争も起こらなかったことがその証拠だ。
前後の経緯から判断して、寺尾判決を前にして革共同が全国部落研の指導者の殺害計画を実行したのは、狭山闘争の武装闘争的暴発を恐れたからであろう。その殺害計画の実行犯に、例の前代未聞のスパイ分子らが入っていたことは言うを待たない。

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