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2013年7月31日 (水)

革共同の2007年7月テーゼについて

News & Letters/364

インターネットでこの7月テーゼを繰り返し読ませていただいた。
驚くべき内容だ。

「共産主義者」23号本多論文では民族解放闘争や農民闘争・部落解放闘争などが捨象され(本多氏はいう、「もともと近代ブルジョワ社会は、中世的な封建的、身分的な社会関係の解体をとおして誕生したものであり、・・・」、政治学的に部落問題は存在せず、同24号の柏木論文、「前進」625号の秋口論文が資本主義の発達によって労働者相互間の競争や差異、「資本主義特有の人口法則」に適合する形で差別が生まれ、それが帝国主義によって強化されるという形で、経済学的に部落問題が資本主義的なものとしてとらえられて、解消論の論陣をはったが、この7月テーゼでは、精神面で部落問題解消論を唱え、組織的にそれを強制しようというものである。

*注

(共産主義者23号本多延嘉氏の「戦争と革命の基本問題」は素晴らしい論文であるが、これはプロレタリア政治学の原理論であって、これをそのまま現実の戦略戦術に持ち込むことは危険である。世界革命を論じていながらこの論文には民族解放闘争や農民闘争、ましてや部落解放運動は一言も言及されていない。被抑圧・被差別問題を抜きにアジアや日本の革命戦略、現実の政治を語ったことにはならない。) 

7月テーゼは本多論文や柏木論文の必然的帰結というべきであろう。それは差別論文とは言えないが、戦前の水平社解消論と同じであり、民族差別や部落差別など種々の差別意識の党内での横行を野放しにする理論である。民族解放運動や部落解放運動の立つ瀬がない。
数点に分けてこのテーゼを批判的に検討する。

1、プロレタリア革命について

テーゼは、「プロレタリア革命の主体」は労働者階級であり、差別・抑圧されている人民は「解放闘争の主体」であるが、それを「プロレタリア革命の主体が労働者階級であるということと、同じ次元でとらえることはできない。」という。

反論:

しかし、帝国主義下の労働者以外の被抑圧被差別人民もプロレタリア革命の主体である。被差別被抑圧人民がその足かせを打ち砕くためには帝国主義を打倒しなければならない。帝国主義を打倒する革命はプロレタリア革命以外にないし、ブルジョワ革命を求めることはできないから全ての人民はその苦界から脱出するためにはプロレタリア革命の遂行以外にない。帝国主義を打倒する主要な手段を持っているのは生産手段を握るプロレタリアであるから彼らとの連帯した革命を遂行するのである。

民族の完全なる自由、差別からの完全な解放は帝国主義段階では帝国主義打倒・プロレタリア革命しか達成できない。
また他方、プロレタリアは、原理的に、全ての被抑圧人民の解消体(さまざまな身分から労働者に転化したもの)であって、人倫の完全なる喪失態として自らの労働者としての苦しみの中に、あらゆる差別や圧迫による人民の痛みや苦しみを包摂しうる階級なのである。原理的にもプロレタリアは旧身分の紐帯を引きずってプロレタリアとして存在しているのであって旧身分差別による痛みを知っている。

しかも帝国主義下では、工場の中に本工、臨時工、下請け労働者など重層的な差別階層が存在し、被植民地の広範なプロレタリアが存在している。総体としてのプロレタリアートは賃労働と資本を基軸にしただけの労働運動ではなく、民族問題や部落問題などを背負って資本と対決しているのである。それらの問題を避けて見ぬふりをして労働と資本の純粋対決を語るのは労働貴族以外にない。

帝国主義下プロレタリアは民族差別や部落差別を自らの痛みとして感ずることができる。
7月テーゼが、プロレタリア革命の主体から、被差別・被抑圧人民を排除する論理には、何らマルクス主義的な根拠はない。
このテーゼから労働者の闘いの優位性と被差別・被抑圧人民の闘いの劣等性が導出される。二つが並列できないというのはそういうことである。

2、「階級移行」について

テーゼはいう。

「今日、ブルジョワジーの支配と闘っている全ての人民の中で労働者階級だけが真に革命的階級である。他の諸階級・諸階層の人民は、労働者階級解放の中にこそ自らの究極的解放があることを直視し、労働者階級の立場に自らを立たせ、労働者階級と一体となって闘うこと(階級移行すること)によって、プロレタリア革命の一翼を形成するものとなっていくのである。」

「階級移行」という奇妙な言葉が現れた。
確か法華経の中の一説に「変成男子」(へんじょうなんし)の話があった。女はそのままでは悟りの境地に達し成仏できないので一旦男になってそれから成仏を遂げる、という趣旨だったと思う。言うまでもなく女は劣等でけがれているという差別が前提となった説話だ。

被差別被抑圧人民はそのままでは革命の主体にはなれないので一旦プロレタリアに「階級移行」(変成男子)を遂げて、そうして初めて成仏(「革命の一翼」)となるという。何かどっかの宗派に影響されているのではないだろうか。
被差別・被抑圧人民は、そのままでは、変成男子や「階級移行」などの妖術を行ずる能力がないから永久に革命の主体にはなれない。

また、テーゼはいう。

「労働者階級の戦いは、、むしろすべてのものにプロレタリア性を刻印し、強制していくことを求める。」
貧しい農漁民らに賃労働と資本の関係を悟得させプロレタリアとしての階級意識を持たせる、というのか。そういう洗脳を行うという意味か。
レーニンの労農同盟論とは全然違う。

反論:

被差別・被抑圧の人民に、「階級移行」や「プロレタリア性の刻印」を強制するということは、部落民の痛み、朝鮮人としてひどい目にあわされているという痛みや苦しみ、差別や虐待を忘却し、民族の誇りやふるさとへの郷愁を捨象して、労働者としての階級意識だけを持てということか。あるいはそういう意識になれない人民は、プロレタリアの下位に立ってプロレタリアのいう事を聞けということであろう。

部落あるいは部落民は、近代社会になっても形ばかりは四民平等といわれたが、中世以来の旧賤民の扱いを受けてきた。ここに身分差別というが、部落差別は普通の身分差別とは全く様相を異にする。それは身分外の身分、人外の人、穢れを持つ身分として差別と嫌忌を受けてきた。日本の近代の夜明け前、勤皇の志士のなかで、就中、平田篤胤系統の国学(例えば土佐勤皇党の領袖武市半平太は平田の「霊(たま)の御柱(みはしら)」を懐に入れていたという。この著作は激烈な差別意識の結晶だ。)の薫陶を受けた者らは特にこの穢れ身分を忌み嫌った。

島崎藤村の「破戒」に出てくる戦闘的な自由主義者猪子連太郎でさえ、差別意識を払しょくできなかった。福沢諭吉も、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言ったが、その文章のすぐ後で、されど、といって反論し、明治文明の差別社会の現実を説いた。部落民はブルジョワ革命ではなく、階級社会の完全な廃絶以外に解放され得ない身分なのである。この部落民の怨念は階級支配を最終的に根絶するというプロレタリア革命を志向する。それは誰よりも熱いものがあるであろう。

被抑圧民族も、ただに自国の近代的または前近代的なくびきで苦しんでいるのではなくそれと結びついた列強帝国主義の搾取圧迫によって苦しめられているのであるから、帝国主義打倒・プロレタリア革命を誰よりも強く要求する。
革命に立ちあがる人民には、それぞれに理由があるであろう。プチブルどころかブルジョワの中にもプロレタリア革命に立ちあがるものもいるかもしれない。たとえば原発を廃絶しようと希求するものは誰であれ帝国主義打倒に突き当たり、プロレタリア革命以外に生きる道はない事を想到する、そういう場合もあり得る。

資本主義、とりわけその帝国主義段階において、人間らしい生活を求める者は、プロレタリアはもとより他の全階層から出てくるであろう。レーニンにしろマルクスにしろ革命党の創成者たちの出身を見ればわかる。プロレタリアの刻印を帯びなくても人民はプロレタリア革命の主体となり、部分的な解放ではなく根底的な人間解放の道を歩むことができる。
プロレタリア革命への道は何の差別もなく全人民に解放されている。

いわれなき差別を受けて忍苦の生涯のなかで生きた人々、その差別は封建時代の圧政だけでなく帝国主義の圧政によってより一層強められてきたのであるから、その怨念(意識)の力でもってプロレタリアと同盟し、帝国主義ブルジョワジーと決戦しなければならない。帝国主義の植民地支配などで得た剰余の均霑にあずかる帝国主義下のプロレタリアが、もし、差別や排外主義に汚染されているとしたら、戦線の内部で糾弾され真のプロレタリア性に覚醒させられるべきだ。糾弾という言葉の本来の意味の営為が人民内部で遂行される必要がある。プロレタリアには自己の階級だけではなく他の全ての被抑圧階級の解放もかかっているということ、労働貴族的汚濁を自覚する契機として糾弾という行為も必要不可欠であろう。プロレタリアートが被差別・被抑圧の人民にせまり、後者も又前者に迫って革命に向かって同盟を結ぶべきである。

 3、階級意識

このテーゼはいう。
「ブルジョワジーの支配と闘っている全ての人民の中で労働者階級だけが真に革命的階級である。」
「労働者階級は、まさに労働者であることによって本質的に階級意識に目覚め、自己を変革し、革命に向かって進むことができる力を自己の内側にもっているのだ。そして労働者階級は、賃金奴隷制の転覆を求めて資本との闘いに階級として立ち上がっていった瞬間に自分自身の中にある汚物をも自ら払いのけつつ闘っていくことが必ずできる階級である。」

反論:

この規定は原理的に正しいであろう。マルクス主義者ならだれも否定しない。
私も立命館大学で梯明秀教授の哲学の徒であったと自負している人間であるが、だが、プロレタリアの階級意識の形成の原理論だけでは、戦略戦術の実践家たりえない。
経済学だけではなく階級意識についても帝国主義段階論が必要なのである。
帝国主義列強のプロレタリアの意識は、多かれ少なかれ労働貴族的な墜落の傾向にある。差別と排外主義の意識であり、裏返せば、小農民や被差別民衆の悲哀や苦衷をその意識に背負っている。その上に帝国主義国家の経済政策や社会政策、マスコミの宣伝等によって、階級意識は混濁され、その下で安住しようとする。

革命的なプロレタリアートととしての階級意識の形成は極めて困難なのである。ア・プリオリに原理論を振りかざすことは、現状の認識に齟齬をきたし、架空の自己を祭り上げ、他に虚勢を張るしかなくなる。理念型を現実と混同すれば現実を放置し、スターリン主義者らの誤った路線をはびこらせる。だから、実際には民族解放闘争や農民闘争、部落解放闘争などを意義づけできず、現場では二段階革命路線が優勢となる。その原理論故にかそれとも肌が合わない故にか長い間新左翼は民族問題や部落問題に無関心であった。

民族解放闘争や農民闘争、部落解放運動等は、アジアやロシア、日本においては極めて重い闘いであるから、ブルジョワ革命・2段階革命路線でもこれらを重視する革命路線が支持され、原理論を信奉する者らはただそんなものはやがて戦線から自然消滅するだろうぐらいに高をくくって眺めていたのである。戦前の労農派と講座派の論争での労農派の姿勢がそうであった。

農奴制が広範に残る後進資本主義国ロシアでレーニンでさえ最後の段階まで2段階革命路線を主唱していたぐらいだ。
帝国主義列強下のプロレタリアは大規模に「必ず」腐敗し、テーゼがいう「賃金奴隷制の転覆を求めて資本との闘いに階級として立ち上がって・・・」ということ自体が極めて難しいのである。
ここで、革共同中央派と関西派との帝国主義の理解と資本の本源的蓄積過程の理解について重大な疑義があるので後で論ずる。
両陣営には、帝国主義段階論をよく理解していないのではないか、特にレーニンでさえその認識がはっきりしていなかった資本の本源的蓄積過程について無知なのではないかという疑問がある。

ロシア革命から100年が近づいている。資本主義の破局は必ずやって来るに違いないし、プロレタリアの武装蜂起の時も刻一刻と近づいてきていよう。破局は大恐慌でなければ侵略戦争か、原発かであろう。特に原発による破局は確実に近づいている。
労働者の決起の契機が必ずしも直接「賃金奴隷制の転覆」を目指したものであるとは限らない。アメリカ軍の沖縄などの基地問題や部落差別事件などが国民的な憤激を巻き起こす時にもその時が到来してもおかしくない。

侵略戦争の勃発、原発の大事故、大恐慌などを契機として、他の人民とともに労働者が革命的行動に移るということの方がはるかに可能性がある。
その時に、電機労連の幹部などのような労働貴族らをたたきつぶして、立ち上がった人民の中核に闘う労働者がどういう姿で現れるのか、原理論的に予断を許せる状況ではない。いずれにせよプロレタリア革命が賃金奴隷制の廃絶を目指して遂行されるとしても、その決起の端緒を「賃金奴隷制」問題だけに限局するのは、侵略戦争を内乱への時代では、非現実的であろう。(続く)

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