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2013年7月

2013年7月31日 (水)

革共同の2007年7月テーゼについて

News & Letters/364

インターネットでこの7月テーゼを繰り返し読ませていただいた。
驚くべき内容だ。

「共産主義者」23号本多論文では民族解放闘争や農民闘争・部落解放闘争などが捨象され(本多氏はいう、「もともと近代ブルジョワ社会は、中世的な封建的、身分的な社会関係の解体をとおして誕生したものであり、・・・」、政治学的に部落問題は存在せず、同24号の柏木論文、「前進」625号の秋口論文が資本主義の発達によって労働者相互間の競争や差異、「資本主義特有の人口法則」に適合する形で差別が生まれ、それが帝国主義によって強化されるという形で、経済学的に部落問題が資本主義的なものとしてとらえられて、解消論の論陣をはったが、この7月テーゼでは、精神面で部落問題解消論を唱え、組織的にそれを強制しようというものである。

*注

(共産主義者23号本多延嘉氏の「戦争と革命の基本問題」は素晴らしい論文であるが、これはプロレタリア政治学の原理論であって、これをそのまま現実の戦略戦術に持ち込むことは危険である。世界革命を論じていながらこの論文には民族解放闘争や農民闘争、ましてや部落解放運動は一言も言及されていない。被抑圧・被差別問題を抜きにアジアや日本の革命戦略、現実の政治を語ったことにはならない。) 

7月テーゼは本多論文や柏木論文の必然的帰結というべきであろう。それは差別論文とは言えないが、戦前の水平社解消論と同じであり、民族差別や部落差別など種々の差別意識の党内での横行を野放しにする理論である。民族解放運動や部落解放運動の立つ瀬がない。
数点に分けてこのテーゼを批判的に検討する。

1、プロレタリア革命について

テーゼは、「プロレタリア革命の主体」は労働者階級であり、差別・抑圧されている人民は「解放闘争の主体」であるが、それを「プロレタリア革命の主体が労働者階級であるということと、同じ次元でとらえることはできない。」という。

反論:

しかし、帝国主義下の労働者以外の被抑圧被差別人民もプロレタリア革命の主体である。被差別被抑圧人民がその足かせを打ち砕くためには帝国主義を打倒しなければならない。帝国主義を打倒する革命はプロレタリア革命以外にないし、ブルジョワ革命を求めることはできないから全ての人民はその苦界から脱出するためにはプロレタリア革命の遂行以外にない。帝国主義を打倒する主要な手段を持っているのは生産手段を握るプロレタリアであるから彼らとの連帯した革命を遂行するのである。

民族の完全なる自由、差別からの完全な解放は帝国主義段階では帝国主義打倒・プロレタリア革命しか達成できない。
また他方、プロレタリアは、原理的に、全ての被抑圧人民の解消体(さまざまな身分から労働者に転化したもの)であって、人倫の完全なる喪失態として自らの労働者としての苦しみの中に、あらゆる差別や圧迫による人民の痛みや苦しみを包摂しうる階級なのである。原理的にもプロレタリアは旧身分の紐帯を引きずってプロレタリアとして存在しているのであって旧身分差別による痛みを知っている。

しかも帝国主義下では、工場の中に本工、臨時工、下請け労働者など重層的な差別階層が存在し、被植民地の広範なプロレタリアが存在している。総体としてのプロレタリアートは賃労働と資本を基軸にしただけの労働運動ではなく、民族問題や部落問題などを背負って資本と対決しているのである。それらの問題を避けて見ぬふりをして労働と資本の純粋対決を語るのは労働貴族以外にない。

帝国主義下プロレタリアは民族差別や部落差別を自らの痛みとして感ずることができる。
7月テーゼが、プロレタリア革命の主体から、被差別・被抑圧人民を排除する論理には、何らマルクス主義的な根拠はない。
このテーゼから労働者の闘いの優位性と被差別・被抑圧人民の闘いの劣等性が導出される。二つが並列できないというのはそういうことである。

2、「階級移行」について

テーゼはいう。

「今日、ブルジョワジーの支配と闘っている全ての人民の中で労働者階級だけが真に革命的階級である。他の諸階級・諸階層の人民は、労働者階級解放の中にこそ自らの究極的解放があることを直視し、労働者階級の立場に自らを立たせ、労働者階級と一体となって闘うこと(階級移行すること)によって、プロレタリア革命の一翼を形成するものとなっていくのである。」

「階級移行」という奇妙な言葉が現れた。
確か法華経の中の一説に「変成男子」(へんじょうなんし)の話があった。女はそのままでは悟りの境地に達し成仏できないので一旦男になってそれから成仏を遂げる、という趣旨だったと思う。言うまでもなく女は劣等でけがれているという差別が前提となった説話だ。

被差別被抑圧人民はそのままでは革命の主体にはなれないので一旦プロレタリアに「階級移行」(変成男子)を遂げて、そうして初めて成仏(「革命の一翼」)となるという。何かどっかの宗派に影響されているのではないだろうか。
被差別・被抑圧人民は、そのままでは、変成男子や「階級移行」などの妖術を行ずる能力がないから永久に革命の主体にはなれない。

また、テーゼはいう。

「労働者階級の戦いは、、むしろすべてのものにプロレタリア性を刻印し、強制していくことを求める。」
貧しい農漁民らに賃労働と資本の関係を悟得させプロレタリアとしての階級意識を持たせる、というのか。そういう洗脳を行うという意味か。
レーニンの労農同盟論とは全然違う。

反論:

被差別・被抑圧の人民に、「階級移行」や「プロレタリア性の刻印」を強制するということは、部落民の痛み、朝鮮人としてひどい目にあわされているという痛みや苦しみ、差別や虐待を忘却し、民族の誇りやふるさとへの郷愁を捨象して、労働者としての階級意識だけを持てということか。あるいはそういう意識になれない人民は、プロレタリアの下位に立ってプロレタリアのいう事を聞けということであろう。

部落あるいは部落民は、近代社会になっても形ばかりは四民平等といわれたが、中世以来の旧賤民の扱いを受けてきた。ここに身分差別というが、部落差別は普通の身分差別とは全く様相を異にする。それは身分外の身分、人外の人、穢れを持つ身分として差別と嫌忌を受けてきた。日本の近代の夜明け前、勤皇の志士のなかで、就中、平田篤胤系統の国学(例えば土佐勤皇党の領袖武市半平太は平田の「霊(たま)の御柱(みはしら)」を懐に入れていたという。この著作は激烈な差別意識の結晶だ。)の薫陶を受けた者らは特にこの穢れ身分を忌み嫌った。

島崎藤村の「破戒」に出てくる戦闘的な自由主義者猪子連太郎でさえ、差別意識を払しょくできなかった。福沢諭吉も、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言ったが、その文章のすぐ後で、されど、といって反論し、明治文明の差別社会の現実を説いた。部落民はブルジョワ革命ではなく、階級社会の完全な廃絶以外に解放され得ない身分なのである。この部落民の怨念は階級支配を最終的に根絶するというプロレタリア革命を志向する。それは誰よりも熱いものがあるであろう。

被抑圧民族も、ただに自国の近代的または前近代的なくびきで苦しんでいるのではなくそれと結びついた列強帝国主義の搾取圧迫によって苦しめられているのであるから、帝国主義打倒・プロレタリア革命を誰よりも強く要求する。
革命に立ちあがる人民には、それぞれに理由があるであろう。プチブルどころかブルジョワの中にもプロレタリア革命に立ちあがるものもいるかもしれない。たとえば原発を廃絶しようと希求するものは誰であれ帝国主義打倒に突き当たり、プロレタリア革命以外に生きる道はない事を想到する、そういう場合もあり得る。

資本主義、とりわけその帝国主義段階において、人間らしい生活を求める者は、プロレタリアはもとより他の全階層から出てくるであろう。レーニンにしろマルクスにしろ革命党の創成者たちの出身を見ればわかる。プロレタリアの刻印を帯びなくても人民はプロレタリア革命の主体となり、部分的な解放ではなく根底的な人間解放の道を歩むことができる。
プロレタリア革命への道は何の差別もなく全人民に解放されている。

いわれなき差別を受けて忍苦の生涯のなかで生きた人々、その差別は封建時代の圧政だけでなく帝国主義の圧政によってより一層強められてきたのであるから、その怨念(意識)の力でもってプロレタリアと同盟し、帝国主義ブルジョワジーと決戦しなければならない。帝国主義の植民地支配などで得た剰余の均霑にあずかる帝国主義下のプロレタリアが、もし、差別や排外主義に汚染されているとしたら、戦線の内部で糾弾され真のプロレタリア性に覚醒させられるべきだ。糾弾という言葉の本来の意味の営為が人民内部で遂行される必要がある。プロレタリアには自己の階級だけではなく他の全ての被抑圧階級の解放もかかっているということ、労働貴族的汚濁を自覚する契機として糾弾という行為も必要不可欠であろう。プロレタリアートが被差別・被抑圧の人民にせまり、後者も又前者に迫って革命に向かって同盟を結ぶべきである。

 3、階級意識

このテーゼはいう。
「ブルジョワジーの支配と闘っている全ての人民の中で労働者階級だけが真に革命的階級である。」
「労働者階級は、まさに労働者であることによって本質的に階級意識に目覚め、自己を変革し、革命に向かって進むことができる力を自己の内側にもっているのだ。そして労働者階級は、賃金奴隷制の転覆を求めて資本との闘いに階級として立ち上がっていった瞬間に自分自身の中にある汚物をも自ら払いのけつつ闘っていくことが必ずできる階級である。」

反論:

この規定は原理的に正しいであろう。マルクス主義者ならだれも否定しない。
私も立命館大学で梯明秀教授の哲学の徒であったと自負している人間であるが、だが、プロレタリアの階級意識の形成の原理論だけでは、戦略戦術の実践家たりえない。
経済学だけではなく階級意識についても帝国主義段階論が必要なのである。
帝国主義列強のプロレタリアの意識は、多かれ少なかれ労働貴族的な墜落の傾向にある。差別と排外主義の意識であり、裏返せば、小農民や被差別民衆の悲哀や苦衷をその意識に背負っている。その上に帝国主義国家の経済政策や社会政策、マスコミの宣伝等によって、階級意識は混濁され、その下で安住しようとする。

革命的なプロレタリアートととしての階級意識の形成は極めて困難なのである。ア・プリオリに原理論を振りかざすことは、現状の認識に齟齬をきたし、架空の自己を祭り上げ、他に虚勢を張るしかなくなる。理念型を現実と混同すれば現実を放置し、スターリン主義者らの誤った路線をはびこらせる。だから、実際には民族解放闘争や農民闘争、部落解放闘争などを意義づけできず、現場では二段階革命路線が優勢となる。その原理論故にかそれとも肌が合わない故にか長い間新左翼は民族問題や部落問題に無関心であった。

民族解放闘争や農民闘争、部落解放運動等は、アジアやロシア、日本においては極めて重い闘いであるから、ブルジョワ革命・2段階革命路線でもこれらを重視する革命路線が支持され、原理論を信奉する者らはただそんなものはやがて戦線から自然消滅するだろうぐらいに高をくくって眺めていたのである。戦前の労農派と講座派の論争での労農派の姿勢がそうであった。

農奴制が広範に残る後進資本主義国ロシアでレーニンでさえ最後の段階まで2段階革命路線を主唱していたぐらいだ。
帝国主義列強下のプロレタリアは大規模に「必ず」腐敗し、テーゼがいう「賃金奴隷制の転覆を求めて資本との闘いに階級として立ち上がって・・・」ということ自体が極めて難しいのである。
ここで、革共同中央派と関西派との帝国主義の理解と資本の本源的蓄積過程の理解について重大な疑義があるので後で論ずる。
両陣営には、帝国主義段階論をよく理解していないのではないか、特にレーニンでさえその認識がはっきりしていなかった資本の本源的蓄積過程について無知なのではないかという疑問がある。

ロシア革命から100年が近づいている。資本主義の破局は必ずやって来るに違いないし、プロレタリアの武装蜂起の時も刻一刻と近づいてきていよう。破局は大恐慌でなければ侵略戦争か、原発かであろう。特に原発による破局は確実に近づいている。
労働者の決起の契機が必ずしも直接「賃金奴隷制の転覆」を目指したものであるとは限らない。アメリカ軍の沖縄などの基地問題や部落差別事件などが国民的な憤激を巻き起こす時にもその時が到来してもおかしくない。

侵略戦争の勃発、原発の大事故、大恐慌などを契機として、他の人民とともに労働者が革命的行動に移るということの方がはるかに可能性がある。
その時に、電機労連の幹部などのような労働貴族らをたたきつぶして、立ち上がった人民の中核に闘う労働者がどういう姿で現れるのか、原理論的に予断を許せる状況ではない。いずれにせよプロレタリア革命が賃金奴隷制の廃絶を目指して遂行されるとしても、その決起の端緒を「賃金奴隷制」問題だけに限局するのは、侵略戦争を内乱への時代では、非現実的であろう。(続く)

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2013年7月26日 (金)

寺尾判決 権力は踊る

News & Letters/363

  権力は踊る まえがき

1974年10月31日東京高裁寺尾裁判長は石川一雄氏を有罪とし無期懲役に課した。
寺尾判決の内容について適切な批判は当時も今もない。
77年8月9日最高裁で狭山事件について上告棄却の判決が出た直後、矢田解放塾で私が書いた論文はあまり知られていない。

このブロッグに掲載したように思うが、はっきりしないのでここにあらためて掲載する。
日本の刑事政策で犯人をでっちあげるという手法は、重要な政策の一つである。
おそらく中世の時代から、事件や紛争のあった村や町では誰でもいいから犯人を出せという権力の要求は古くからあった。

しかし、それが、一個の刑事政策として学問的に意義づけられたのは江戸時代の封建教学の大家荻生徂徠によってである。
「貧乏くじ」方式である。犯人が分からなければその村の中でだれでもよいから貧乏くじを引かせて、それにあたった者を犯人としたてたらいい、という学説を「太平策」という著書で論じたのである。貧乏くじを当てられる者は村の中でどのような層の者かおのずと明らかだ。このように無実の者を犯人に仕立てるという刑事政策は戦前はもとより戦後も、今も、連綿と受け継がれてきた。
狭山事件もこれである。

寺尾判決は、そのような露骨で古臭い「貧乏くじ」の刑事政策では、すぐに見破られ現代の民衆には通用しがたいと考えて「弁証法」という新たな刑事政策を編み出した。客観的証拠と自供との食い違いや矛盾は、これまでの裁判の論理では、「犯人」を無罪にしなければならない。

無罪にしない論理、矛盾があっても、むしろその矛盾のゆえに真実である、という新たな「弁証法」的思考法を編み出さなければならなかった。そこまで敵権力は狭山闘争で追いつめられていた。弁証法は矛盾をその論理展開の動力にしている。この弁証法にかかればいったん逮捕された者はだれも救われないだろう。矛盾律が通用しないのである。

これこそ狭山闘争が武装闘争として大衆的に発展する契機だった。この様な無法な弁証法の適用に対しては民衆は何をして抵抗しても理由があることになる。

だが、解放同盟の狭山闘争の指導部も新左翼もこの恐るべき寺尾判決の論理を見過ごした。
狭山闘争は、差別だ、糾弾だと言っているが、結局体制内的な延々と続く冤罪反対闘争から一歩も抜け出ることはなかった。

寺尾判決を下されても何の実力的糾弾闘争も起こらなかったことがその証拠だ。
前後の経緯から判断して、寺尾判決を前にして革共同が全国部落研の指導者の殺害計画を実行したのは、狭山闘争の武装闘争的暴発を恐れたからであろう。その殺害計画の実行犯に、例の前代未聞のスパイ分子らが入っていたことは言うを待たない。

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2013年7月24日 (水)

続 革共同内部闘争へのコメント

ews & Letters/362

インターネットの資料を読んで驚く。

06年ごろまでの与田の腐敗した所業、それより先の04年ごろまでの高杉スパイ事件。
一つは革共同始まって以来の腐敗事件。もう一つは最近の荒川事件に越されたかもしれないが当時ではこれも革共同始まって以来のスパイ事件。

革共同(関西地方委)が70年代中ごろに暴力的に私を排除した後に革命的な解放運動の指導部として押し立てた二人が前代未聞の背教者だったのである。

革共同は、部落問題に何の見識もなく、何の糾弾闘争の実績もない連中を全国部落研に入り込ませそして、部落解放運動の革命的発展を破壊する目的で二人の背教者を育てた。重大時点にあった狭山闘争はその後革命派の主導権は失墜し、解放同盟路線(公正な裁判路線)が定着し、単なる冤罪事件闘争に転落した。もちろん冤罪事件そのものの闘争は重要であるが、狭山の闘争ははじめからその段階にとどまるはずがない。

狭山闘争の主導権は解放同盟(その理論的指導者は師岡佑行氏)や弁護団の手に移ったが、寺尾高裁判決の超反動性を見抜けなかった。
寺尾判決こそは、部落解放運動の武装闘争路線を根拠づける重大な内容であった。

寺尾判決は、普通の冤罪事件の様に自供と証拠の矛盾をついていく公正裁判運動では
歯が立たない。自供と証拠とに矛盾があれば無罪であるのが近代の司法の論理だ。
だが、弁護団がいくら矛盾を積み上げても寺尾はびくともしない。

驚くべきことには、寺尾は自供と証拠の矛盾を認め、その上に立って、矛盾があるからこそ真実だ、という「弁証法」を公然と闡明し、新たな刑事政策を編み出したのである。
このような無法な「弁証法」が日本の裁判に現れたということを剔?すれば、この弁証法を適用されたものには武力でもって政府を打倒する権限が正式に与えられたことになる。

誤認だ、矛盾だという弁護団段階の戦いの上に立ち、寺尾判決は、誤認してもいい、矛盾してもいい、その方がかえって犯人説の真実性を担保する、と言ったのである。
高裁の判決文を見てみよ。そう書いてある。(これについての解明は私が当時書いた文章があるので後でこのブロッグに掲載する。)
そうして、パンを求めて石をぶつけられるその無法が部落民にのみ適用されたということが重大な点だ。・・・・

革命的解放運動の飛躍的な発展を前にして、革共同はその戦いの指導者の殺害計画(殺害未遂)を実行した。その殺害計画の実行犯の名簿(関西地方委最高幹部Hの自筆のメモ)を捜索を受けた前進社で権力に提供(Bが押収されたというが、そんなメモを公然事務所にまで持ち込むのは提供したも同然だ)までしていた。

こうして、与田や高杉ら背教者らに部落民解放の唯一の革命組織を乗っ取らせ、それを専ら体制内運動に墜落させてきた。
もちろん体制内運動も立派な運動であるし、解放同盟や全解連よりもはるかに高度な運動であるから、それを批判するつもりはない。ただ、私が打ち立てた解放運動の理論と実践から遠く隔ったという感懐があるだけだ。
 

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2013年7月22日 (月)

差別事件とは

News & Letters/361

一、
私が立命館大学2年生のころか、私が差別者だということで「糾弾」されたことがあった。
それは、私が学生大会か何かで、部落解放運動の現状について述べて、日本共産党のドグマから脱却しない限り真の解放運動はない、という趣旨の主張をした、というのが事件であった。私は立命の民青系の部落研に呼ばれ「徹底糾弾」を受け、あろうことか大学の学生課に呼ばれ、差別事件として学生部長の教授らから取り調べを受けた。
学生部長いわく「あなたの文章には部落民の痛みが全然見えない、・・・」
頭にきたので、私はこの学生課での尋問の時初めて、自分が部落出身だということを明らかにした。

「私は、高知県の・・・という部落に生まれ育った。差別の痛みや実情について私はあなた方から説教されにこの大学に来たのではない。私は自分や父祖が受けてきた言われない差別の原因と解決方法を学ぶために立命の日本史学に入ってきたのだ。」という趣旨を言い放った。学生課も部落研もその後私に何も言ってこなかった。後で聞いた話ではその部落研には部落出身者は一人もいなかったということだ。
このように差別事件はでっち上げられ党派的な差別糾弾闘争なるものが展開されることを私は身をもって知った。

①差別の原型

部落差別事件とは、(A)部落出身者らに対して(B)旧賤民身分を直接的にかまたまたは間接的に明示、もしくは暗々裏に示唆して(C)侮辱したり、部落が一般社会に害悪をなしているとし、(D)その侮辱や非難でもって対象者を排除したり不当な扱いをしたりする行為をいう。(B)または(C)と、(D)が結びつけば部落差別事件と言える。

②路線対立。

 部落解放運動上の理論的対立は戦前からいろいろある。物とり主義批判は運動内外から常に起こっていた。解放運動の執行部ではいかにしてこの物とり主義を克服するかが最大のテーマだったと言える。
解放運動に関する自分らの理論や運動路線が批判されたからといって直ちに差別事件だ、糾弾だということにはならない。私が受けた立命大の「差別事件」と糾弾がそうだ。

③1963年3月大阪市教組東南支部の役員選挙運動の中で起こったいわゆる矢田教育差別事件はどうか。

これは、①と②の中間に位置する。

日共系教員らの役選立候補の挨拶状に、「同和などで遅くなることはあきらめなければならないでしょうか」など同和教育の実践が教育労働者の過重な労働になっているという趣旨で、「同和」が労働者を圧迫したり、職場締め付けの原因となっているという主張である。この主張は明らかに間違っており、過重労働の責は当然教育行政側に持っていくべきで、職場締め付けも権力の方へ闘いを向けるべきであって、「同和」に向けることは筋違いであった。

これは①の様な直接的な差別事象ではないが、主観的意図はともかく、「同和」を敵対視する結果になることは明らかであるという意味で、差別事件と断ぜられても仕方がないものであった。特にその表現が同和教育というものであれば、教育運動の路線上の対立と言い逃れもできたかもしれないが、「同和」という言葉を使っていた。それは、同和教育の実践の問題を意図していたと思われるが、しかしその「同和」という言葉は多くの場合地区や地区住民を指して言われるのであるから、①の部落差別の原型につながるこの挨拶状を出した教師らが部落の子供を差別している訳ではないし、そのような意図もなかったであろう。

「同和」について粗雑な言葉を使い、自分らの労働と対立するような表現にした事について、真意ではなかったと謝罪し、地域の住民と今後協力して同和教育を進めるということを確認し実践すれば、事件は早急に終息していたであろう。
だが、日共大阪府委員会は、教師らの謝罪を許さず、居直り、本当に「同和」が労働者や国民への圧迫だという頑迷な主張に転化したのである。
公党が同和敵論を主張するとなればこれはもう路線上の対立を超えて一大差別キャンペーンとなる。

二、
革共同中核派の内部論争に広島差別事件というのがある。手元にはインターネットなどからのわずかな資料しかないが、判断をしてみる。
この論争のもとになったある学習会での学生の発言(全国連はものとり主義だ、住宅闘争がそうだ。」)には①のような直接的な差別性は認められない。
それでは上掲③の矢田のような差別性があるのか。

学生の発言は確かに問題があった。私が知る限り全国連はそれなりに狭山闘争や三里塚闘争など経済闘争以外の闘争も積極的であり、また、住宅闘争も単なる物取りではなく住民にとっては死活的な生活のかかった闘いであった。それをものとり主義だといって全国連の闘争を全否定しかねないような発言は余りにも不見識であった。

このでたらめな否定的発言などを浴びせかけられた女子学生がショックを受け悔しがったのは当然だ。そしてマル学同を指導する革共同中央が発言者や合宿での学習会のあり方について厳しく反省し、当事者を叱責するなど厳格な指導がなされる必要があった。

それなのに、居直り、逆に差別事件のでっちあげだといって反撃するに及んだ。そうなれば、党内の部落出身者が党内にいる場所がなくなる事は明らかだ。発言内容や、元の事件そのものは直接的な差別性はないとしても、正当な理由もなく、その誤った発言内容(ある戦線の戦いの全否定)が正当化されれば、戦線の党員はいたたまれず、排除されたと感ずるであろう。広島の女子学生の感受性はそれを差別と受け止めたのはやむを得ない。党はその感性を尊ぶべきだ。

合宿での発言内容はあくまでも路線上のものであって大きな誤解であり、差別性はない。しかし、その発言内容が部落出身者らの闘いの全否定であるから、全否定の理由の説明がない限りいわれのない排除の理論に転化する。もちろん一般的に路線が全否定される場合もあり得るが、革共同全体が、全国連のこれまでの戦いを全面的に支持してきたのに、全否定の理由などあり得ないから、女子学生らが排除される合理的な理由がない。従って、理由なき排除の攻撃を部落差別だと感じた女子学生には理由がある。
部落差別以外に理由が考えられないからであろう。

大坂矢田の事件には、当初の挨拶状の文言自体に労働と「同和」を対置するなど差別性が濃厚であった上に、日本共産党がそれを居直り正当化したことによって露骨な差別キャンペーンに転化した。マル学同の広島事件の場合には、「物とり主義だ」という発言自体には差別性はなく路線上の主張と考えられるが、その発言の内容が路線の全否定であるがゆえにその正当化キャンペーンは女子学生らのそこでの存在の否定を帰結し、不当な排除となる。

しかし、公表されている事実関係を見る限り、広島事件には、上掲①の部落差別の原型中、(B)または(C)の契機が決定的に欠如していると言わざるを得ない。

但し、付言しておく。

物とり主義だと全国連を批判している学生や革共同中央らは、解放運動におけるそうでない闘争とは何なのか、これを提示しない限り、物とり主義批判は単なる誹謗中傷となる。
部落解放運動は武装闘争であるという理論と実践を示して、それに照らして物とり主義批判をするべきだろう。その武装闘争路線(実力糾弾)を掲げ、それを実践してきた者を暴力でもって排除してき、その武装闘争路線を捨てた連中が互いに争論をして何になる。
武装闘争でなくては権力から物も取れないだろう。

2007年、私が東洋町で核廃棄物阻止闘争で死力をふるっていた時、革共同関西では3・14事件という「党の革命」をやっていたという。3・14で彼らが鉄槌を加えたというその革命の対象者は、しかし、部落問題もろくに知らず、何の実績もない人間を彼ら自身がちやほやと育て上げた傑作ではなかったのか。党内で億単位の資金を調達しそれで豪勢な生活をさせてきたのは、だれのせいだ。

差別は満ち満ちているのに、権力に対して、日本のプロレタリア人民に提起する新たな差別糾弾闘争は何一つ出されなかった。解放運動は水平線下に没した。
差別でもないものを差別だといったり、わが身も顧みず相手を物とり主義だなどと悪罵を投げつけあう、党内紛糾に明け暮れるのではなく、権力への実力糾弾闘争の一つでも切り開き、この暗い世の幕を切り開く新しい地平を目指すべきだ。

思えば、1968年前後ごろ激発した我々の差別糾弾闘争は、
例えば大阪豊中高校の差別事件糾弾闘争では、教師らのバリケードを突破して構内に入った糾弾隊と決起した全豊高生らが合流し、逆に校内から警官隊に対してスクラムを組んで阻止線を張った。逮捕者一人が出た。
また、和歌山向陽高校糾弾闘争では、差別事件を融和的に解決していた日共系解放同盟委員長の車を地元青年らと包囲し運転席の委員長をそのままに車を仰向きにひっくり返した。
差別映画橋のない川の上映阻止闘争では、奈良市と高知市で実力糾弾を敢行し民青系部隊と激突し、数名の逮捕者を出した。・・・・・・。
合法的な戦いももちろん大事であるが、実力闘争なしには合法闘争の枠も段々縮小していく。
狭山事件でも現地調査隊を組織し、石川さんとの面会や家族との連絡体制を構築し、公判闘争を盛り上げてきたが、浦和地裁を実力で糾弾するという闘争が本命なのであった。糾弾・奪還路線は、暴力に対しては暴力で臨むという路線だ。

権力は法を守っているだろうか。人民には法で縛り、自分らは法を守っているという恰好をしているだけで全てその実態は暴力でもってその意思を貫徹しているのである。
国民の意思に反して原発を稼働するのも、権力の実力行使なのだ。裁判所も軍隊や警察、監獄などの暴力装置の一環に過ぎないのである。

暴力に対しては暴力でしか応戦できない。往時都に出没した酒てん童子のように、韓国映画トンイのコムゲの様に我々は悲しい運命を背負わなければならない。

言論も既成新聞やテレビが壟断しており、支配階級の暴力の発動の一環をなしている。
帝国主義を打倒するためには、嵐のような実力闘争、糾弾闘争が全国各地であらゆる部署で澎湃と起こらなくてはならない。これがかつての私の考えであった。

今、私には実力はなく、組織もない。権力にとって無害な存在となっている。だが、気概だけは残っている。生活の戦いに打ちひしがれ市民オンブズマンとして世の不正の一端を究明しつつ、反原発の裁判闘争に辛うじてつながりながらほそぼそと存在しているにすぎない。しかし私は転向はしない。

それとも路線上の論争にすぎないものを差別事件としたのかどうか。
私の見解では③のような差別性は見いだせない。
発言した学生やそれを問題なしとする革共同中央の見解の背景ーいわゆる7・7テーゼには問題があるが、それでも中核派学習会での発言は差別とは言い難い。

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2013年7月21日 (日)

参院選と原発再稼動にむけて

News & Letters/360

参院選に照準を合わせ原発再稼動にむけて世論形成策動が進展している。

自民党圧勝→原発・核武装路線が巨歩を進めようとしている。福島の危機が終息どころかさらに深刻化している中で日本帝国主義は、日本列島を原発の噴煙で覆い尽くし、一民族を破滅させても資本の増殖をやめないという。日本の資本主義はもはや当事者のコントロールをはるかに超えて、放射能の中でも繁栄しようというのである。
これが腐朽しつつある帝国主義の末期症状だ。

だが、次に何かがあったとき日本のプロレタリア人民は黙っているであろうか。
民族が根絶やしにされるという事態でも唯々諾々と権力者やマスコミのいいなりになって原発の稼働をそのまま容認し続けるであろうか。

絶対そういうことではない。今度何かが起きたら、首相官邸を秩序正しく平和的に参集して力いっぱい声を挙げてそして時間がきたら散開する、ということにはならないだろう。
福島でもどこでも今度大事故が起こったら怒れる民衆は国会を包囲し、これに突入し、国会や内閣の権能を踏みしだいて、原発即時廃止を迫るであろう。

前衛党など既成政党や小ブル市民運動の指導部の頭の上を超えて万余のプロレタリア人民が国会になだれ込むのを誰が阻止しうるであろうか。警察も自衛隊も武器をもって国民を阻止できるであろうか。発砲したら国民の怒りはさらに幾層倍にもなって激発し、その軍隊は人民の海の中に武装解除され消滅するだろう。警察や軍隊の武器の使用は日本のプロレタリア人民の初めての大衆的な武装闘争となって逆爆発するだろう。

日本列島に住む全ての住民が度重なる原発事故で生死の瀬戸際に追い詰められた時私は必ず蜂起すると考える。血の気の多い日本人が、これが運命だと言って黙って死んでいくはずがない。

議会や法的手続きという猿芝居をやめて直接全ての原発廃棄が実行されざるを得ない。
その時私は反原発の臨時政府が樹立されねばならないと思う。
権力は立ちあがって国会を占領した大衆の手に移行する。ほとんどすべての国民の意思を反映せず、これを実現しない国会や政府を放置する余裕はない。

その新しい国民臨時政府の仕事は:
  事故の終息事業を全力で取り組むほかに

1、全ての原発の廃棄事業が直ちに実行され、
2、原発推進の重大犯罪人の逮捕と処刑が実行され、
3、新聞などマスコミの原発推進宣伝を中止させ
4、国民の生活防衛を中心とした暫定予算を編成し、高級官僚の給料や国会議員の報酬
  、原発推進予算などあらゆる無駄な支出を徹底的に削減し放射能防災対策の特別会 
  計予算を組む、
5、・・・・・
6、・・・・・

この政府の歴史学的概念はプロレタリア独裁政府ということになるであろう。
既成政党も旧新左翼政党も、大衆が立ちあがったときに備えて、後を追いかけつつ準備をするところがなくてはならない。内部分裂で、ああだこうだと言いあっている場合ではなかろう。立ち上がった大衆に対して偉そうに指示でがましい事をするのではなく、大衆の目指す目的ー核廃絶に向かってその忠良なる手足となって働くことだ。  

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2013年7月18日 (木)

部落解放運動について

News & Letters/359

部落解放運動は部落差別に抵抗する部落民の存在からして武装闘争性を根源的に持っている。部落民の実態は労働者(労組に入っている者もいる)であり、零細商工業者であり、農漁民、被救恤的窮民等であるが、総体として旧身分差別を受ける集団である。封建時代には、差別をわきまえろ、と恫喝されて生きてきた。身分差別が廃止され、差別だ、という指摘では、逆に差別者が震え上がる、という時代になった今も、部落差別は厳然と存続している。

一部には近代的プロレタリアも含むが決してプロレタリアとしてくくることができない。
すなわち資本主義が生む相対的余剰労働ではなく、旧体制下の過小農漁民、雑業者、旧賤民らが資本の原資蓄積の結果プロレタリア化され封建的きずなから切り離されるのではなく、ほとんどそのまま土地や地域に残ったまま産業予備軍として資本主義(帝国主義段階)に編成されたのである。

それらの産業予備軍は、土地や集落に滞留しつつ農漁民雑業者として生活しながら大都市の労働者の予備軍として使用されたり打ち切られたりしてきた。また、彼らは帝国陸海軍の兵士の供給源であり、帝国主義政府の反動思想の一大受容体でもあった。

明治維新を画期とする資本主義の導入は、日本ではいわゆる資本の本源的蓄積過程(原始的蓄積)はごく限定的であり、その本格的発展期にはすでに帝国主義段階であり、資本の有機的構成が高いがゆえに、資本論で描かれた様に農村の住民を暴力的に土地から剥離し広範にプロレタリアを創出するという展開にはならなかった。

近代化は形式的であり、地主小作関係、部落差別など半封建的な紐帯が残された。
戦後から現在、しかし、世の中は大きく変わった。全国には部落差別の原型はそのまま残っているが、激しい解放運動の結果でもあるが、戦前のような露骨な差別事象の発現は表面的には少なくなったと言えるだろう。

が、形を変えて格差社会はむしろ発展しておりその底辺に依然として部落とその差別は存在し続けている。しかも、解放運動自体は同和対策事業の利権の中に沈没し、闘争力はほとんどなくなった。

私は最近分裂状況の革共同の党内論争の記録を読んでいる。
その論争の中心に部落問題があるようである。しかし、双方のその論ずるところを見てもどうもピンとこない。私はこの論争に加わるつもりがないし実践的組織的にも無関係であるが、双方の問題について少しずつコメントを試みていく。

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2013年7月14日 (日)

あてるいの末裔と部落解放運動

News & Letters/358

アテルイたち古代の蝦夷の戦いは必然的に武装闘争でしかなかった。
大和朝廷側は、服従しなければ村ごと皆殺しにするというもので、非妥協的な侵略をした。
だまし討ちにするのが大和朝廷のおはこだ。

明治以降の部落民の立場も基本的に同じだ。法は近代社会を前提に作られている。
だが、部落民には前近代の差別圧迫が加えられ続けた。お慈悲を願うほかは救済の道はない。
人間としてまっとうな言葉が通ぜず、排除されるか、中に入っても絶えざる屈辱と暴力にさらされてきた。

だから、実力(暴力と人は言う)でもって立ち上がり差別に抵抗せざるを得ない。
それは、プロレタリアートがブルジョワジーに対する武装蜂起以前の武装闘争であり、今日的にそれらが同時的に勃発するとしても、発出点は相違している。部落民の武装闘争の成否は、アテルイたちと同じようにそれが全社会的なものでないがゆえに、プロレタリアートの武装闘争の勝利にかかっている。

部落解放運動は武装闘争であるという理論は、今や私の胸の中にしか生きていない。
私は1968年8月9日解放同盟全国青年集会の大衆とともに機動隊に包囲されていた総理府に突入し、さらに解放同盟全幹部数百名らと一緒に総理府庁舎の廊下で騒然としてデモをぶち抜き、あまつさえ総理府庁舎の屋上で警備員と乱闘を演じてそこを占拠し、上から玄関に巨大な垂れ幕2本をたらし、数千枚のビラをばらまいた。用意した数百個の白ヘルメットは使わなかったが、まなじりを決し全員逮捕の覚悟で臨んだこの戦いは、部落民解放の国策樹立を求める実力行使であり、さすがの当時のトコナミ長官も手も足も出せなかった。
当時は解放同盟幹部は使命感に燃え、私のような「過激分子」をも目を細めて受け入れていた。

あくる1969年11月14日、私は、無実の石川青年を部落民ゆえに犯罪者としてでっち上げ彼を死刑にしようとする浦和地方裁判所を襲撃し占拠した。古い木造の代官屋敷のような裁判所の2階と屋根を占拠し、これも巨大な垂れ幕を2本垂らした。2階建ての地裁の建物よりも高く巨大な火炎びんの炎が裁判所の玄関前の庭に立ち上った。

狭山事件とは、その逮捕から裁判の過程は、権力がその失態を部落民を犠牲にして解決し、部落民へ一層のいわれない差別をあおろうとするものであった。この陰謀と暴力を我々には適法な手段で解消する手段は何もない。実力で奪還する以外になかったのである。無論合法的な戦いも大いに結構であり、それを推し進めるにやぶさかではない。しかし本質的なことは、部落問題は、理論的にも実際にも今の資本主義体制では合法的な解決方法はないということだ。

常に部落民は実力で自己を防衛しなければ生きていけない。これが、部落解放運動が武装闘争であるということの意味だ。全国部落研や部落青年戦闘同志会はそのために作った。あれから40年が過ぎた. 

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2013年7月11日 (木)

あてるいの末裔

News & Letters/357

奈良~平安時代にかけて、大和朝廷と東国の蝦夷といわれた人々が内戦を繰り広げた。結局大和朝廷側が勝利する。蝦夷の英雄アテルイも敗れて捕斬された。

蝦夷といわれた人々は奥州俘囚ともよばれ、そのまま圧伏されたり、相当な人数が西日本各地に配流された。続日本紀には、西日本(関西、中四国、九州など)の数十国に強制移住させられたという記録がある。

1、蝦夷、奥州俘囚と言われた人々とは、何者であったのか。
  私の回答。それは日本人の源流をなす人々であろう。

2、そして、蝦夷とアイヌとはいかなる関係があるのであろうか。
  私の回答。アイヌとは蝦夷の中の蝦夷であり、日本人の源流中の源流であろう。
  現在アイヌは独自の文化と血族を誇る一個の民族である。
  しかし、梅原猛氏らの研究では、その言語や文化・宗教、風俗も日本人の原型となる
  特徴を持つと言われる。私が学んだ限りでは、人類学的にもアイヌは日本人の祖型を      持っていると考えられる。
  日本人の少なくとも半分以上は、アイヌ、蝦夷系の人間の血を享けていると考えられ
  る。

3、平安末から鎌倉時代のはじめ、各地の配流先で騒動が絶えなかった奥州俘囚の記 
  録がとだえた。朝廷はある時期からその呼称をやめると宣言したのである。
  それにかわるかのように、穢多、非人の記録が出始めた。

4、私の生れた村やその近辺の同じ村には、アイヌのユーカラに出てくる古い言葉がいくつも残っている。それに気が付いたのは大学の図書館でユーカラを読んでからであった。少年時代には、どうしてそんな言葉なのだ、と不思議に思ったり、人前でそういう 言 葉で話しかけられることが恥ずかしい思いであった。私の田舎では、言葉遣いや 身振り手振りで、同胞であるというのがすぐに分かった。

  例えば、ユーカラに出てくる典型的な言葉で日本語にはないと言われる「イタク」=  sayという言葉は私の村では立派に生きていた。
  又例えば、珍しい人にあって驚くときに発するアイヌ語「アヤボ」=おやまあ、はアヨバという風に母音転換( ayabo→ ayoba)の形で残っていた。
  昔話をするとき、私の母は冬に着る分厚い上着をアツシとはっきり発言した。
  私の母の実家は北海道のアイヌ部落のある有名な地名を苗字にしていた。
  これらユーカラなどのアイヌの言葉は私の村に枚挙にいとまがないほど存在した。

5、だから私は私どもの先祖は奥州俘囚アテルイの末裔であろうと考えている。
 それは部落民異民族説とは何の関係もない。アテルイがれっきとした日本人である以 
 上は、部落民も日本人であり、ただ日本人の源流に近いということだ。
 そして、それは、大和朝廷を始め日本列島の支配権力に正当に処遇されず激しい差別を受け、それに対して連綿として抵抗勢力として生きてきた血統を受け継いできたとい  う ことだ。私の血が、組合運動主義ではなく、反体制の武装勢力なのである。

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