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2012年10月

2012年10月22日 (月)

週刊朝日の橋下市長への攻撃

News & Letters/316

許されない差別攻撃

今回の「週刊朝日」の佐野真一、昨11月の「新潮45」の記事は徹頭徹尾「同和地区」に対する差別キャンペーンである。
それは「同和」に対する差別を橋本批判にあてたたものであるが、同時に橋本批判に借りて「同和」に対する新たなる差別キャンペーンをするものである。
このことは、既に「新潮」に対するこのブログでの私の批判で十分であるが、なお詳しく批判=非難を加えて置く。

政治家の出自についてであっても他人が、誰かを「同和」地区出身者であると指さすことは許されない。

自分が、「同和」地区出身者であると名乗ることは許される。他者が、それが同じ「同和」地区出身者であったとしても、誰かを「同和」の人間だという事は許されない。
自分がそれを名乗ること、「同和」の人間であると自己認識するのは、仕方がない。
そのような差別を受けて成長し、否応なくそのようにアイデンティティを形成したのであれば、やむを得ない。

しかし、本源的には「同和」人間などは存在しない。何の根拠もない歴史的な偏見であって、そこが、異民族や黒人への差別とは相違する。
 数十年前私が追及した話をここに書いておこう。

  人は、次の質問にまともに答えられるであろうか。

質問1:ある地区を「同和」地区であるというとき、その根拠は何か。
 *例えば、高知県でいえば、人はその答えとして
 同和対策の対象地区が同和地区だ、というであろう。
 しかし、行政は行政施策の対象である特定地区を「同和」地区だと認定するとき何らかの
 根拠資料がなくてはなるまい。同和対策事業をやっているからということでは理由にならない。

質問2: うわさや伝聞ではなく、その対象地区が「同和」地区であるという証拠となる資料はどこにあるのか。

* 市町村役場では、その資料は県庁にあるという。県庁に聞けばそれは各市町村が 
  持っているという。

*最後に県庁は、それは国の方が持っている。国は戦前から同和地区の実態調査を  
  やっているから政府が持っているはずだ、という。

*しかし、政府の方も、どこそこが「同和」地区であるという確たる資料はなく、各都道府県からの報告で「同和」だというから集計しただけだ、ということであった。
  要するに、行政機関はどこそこの地区が、「同和」地区だという根拠資料は皆目保有していないのである。従って「同和」よばわりはなんらの科学的根拠もないのであって、行政機関であれ報道機関であれ、まして卑劣な文筆家どもが人を指して「同和」呼ばわりすることは断じて許されないのである。同和対策はあくまでも差別を受けた住民の要求があって初めて成立するものであり、行政がお前のところは同和だから同和対策をやりますとは言えない。

昔も今も、行政や個人の部落差別はあり、差別意識はある。そして差別された経験と被差別の痛ましい意識は存在する。その被差別の意識は生涯身に焼き付いて離れない。それは卑屈という自己意識だ。部落民であることを誇りに思うというのは解放運動の中で培われるが、普通は島崎藤村の「破戒」の丑松同然としてうっ屈している。

だから、今日において人を「同和」呼ばわりすることは、重大な人権侵害である。  
「同和」人間などは存在しないからである。 
歴史的にも現在的にも、特定の人物、特定の地区に対する差別偏見の記録は多数ある。
しかし、例えば私が生まれ育った吉良川町のどの地区が「同和」地区であるのか特定した資料はどこにもない。

長宗我部地検帳の「坂者」(さかのもの)の記録にも、土佐藩資料の憲章簿の牛馬の項にも、どの地域のものをも「同和」であると確定的に呼称したものは存在しない。
長宗我部の掟である百ヶ条にも、土佐藩の憲法ともいうべき元禄大定目にも賤民身分は登場していない。

江戸時代中期、土佐藩最高の学者である谷秦山は「同和」とは異民族ではない、奥州俘囚の子孫であり、生活の風俗が違うだけだと喝破した。その風俗も古代では普通のことであったというのである。谷秦山のこの見解は私は今でも卓見だと思っている。

高橋克彦の小説「火焔」の主人公アテルイ達蝦夷はもちろん日本人であるが、朝廷に従わなかったので徹底的に嫌忌され虐げられ、討伐された。討伐された人々は「奥州俘囚」として全国各地に強制的に配置された。続日本紀にはこれら「俘囚」達が各地で騒乱を起こしているという記録がたくさんある。ある時から朝廷は、融和策として奥州から強制連行してきたこれらのものを「奥州俘囚」とは呼ばないと宣言した。

それから、奥州俘囚の記録はピタッとなくなり、鎌倉時代あたりから「穢多」という言葉がしきりに使われだした。
そのエタという言葉の語源は未だに明確ではない。

餌取りが語源ではないか、など色々説がある。
私の見解ではそれはアイヌの言葉であるエタパがその語源であると思われる。エタパというのは皮を剥ぐ者、ということだ。エタパのパは破裂音だから消えてエタとなったのであろう。

又蝦夷(えみし、又は、いみし?)という名前の語源も種々の説がある。
わたしはこれは私の生まれた地域で使われている いびし という言葉と同じだと思う。
いびし というのは汚い人、いびしい は汚い という意味に今も使われている。

だからエミシというのは金田一先生らが言うような尊称ではなく、侮蔑する朝廷側の言葉だ。アイヌの叙事詩ユーカラに出てくる言葉で最も大事なものは、言う、という単語 itak(いたく)だと思うが、それは現代の日本語には存在しないとされているようだ。しかし、私の故郷では今でもその言葉が使われている。酒を飲んでイタクルという。

また例えば、ユーカラでは ako という単語は我という意味で使われているが、私の故郷では ako はあなた(you)という意味で今でも頻繁につかわれている。男の子に対して僕んちはどこだいというのと同じで僕が自分ではなく相手になったのであろうか。
アイヌ語で おやまあ!、という驚きの言葉は ayabo!( アヤボ)というそうだが、私の故郷の近隣の村でそれは ayoba ! となっている。(母音交換)

谷秦山がいうように、現代の「同和」地区の人間は、奥州俘囚の子孫であろう。
日本土着の人間であることには変わりはない。
私は、週刊朝日や新潮に問いたいのだ。

①橋本徹の父や父祖が「同和」だというが、それは如何なる根拠でそういうのであろうか、確かな資料を確認して言っているのか。同和対策事業が行われているからそうだとはいえない。そして「同和」地区とは何なのか、答えてみよ。

②そして、部落等貧しい底辺で生まれ育ったことが、どうして人を貶める材料に使われるのか。逆ではないのか。どのような悪環境に生まれたからといって、そのことと人の形成される人格とどう関係があるのであろうか。
狭山事件の石川青年に対する攻撃に見るように戦後の大きな冤罪事件では、「犯人」に仕立て上げられた人々の生活環境の悪さが強調された。新聞だけではなく判決文や検察の論告にさえそれが出ている。狭山事件の検察論告では、出会い地点で善枝ちゃんはかわいい小鳥として描かれ石川さんは蛇として描かれた。
だが、いかに貧しくとも、逆境を乗り越えて学問で身を立て、事業で成功した人はごまんといるであろう。むろん、いかに貧しくとも生涯清貧に甘んじて庶民として誠実に生きた人もたくさんいる。
橋本徹は思想も政治手法も悪いが、人としては悪党ではない、立派な人士の一人であろう。父が死に母子家庭でよく頑張って弁護士になったのであるから、立派だというべきだ。
弁護士で国民の人権と正義を守って生涯を通すべきであった。あるいはタレントでも十分生きていけただろう。しかし、政治の世界は、橋本は全く勉強不足であり、支離滅裂であって、適職ではない。

ヒットラーを攻撃するのに、ヒットラーはユダヤ人だというとなると、それはヒットラーと同じレベルの差別排外主義であって、許されない。

私は橋本の維新の会に対する根底的な拒絶的意見をもっている。しかし、その人格に対する卑劣な部落差別攻撃は許せない。週刊朝日だけではなく新潮も同類であり、その週刊誌は廃刊にし、執筆者は筆を折るべきである。

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2012年10月17日 (水)

虚報

News & Letters/315

森口某とかの虚偽報告 ips細胞を心臓の治療に応用した、をそのまま大ニュースとして報道した読売新聞。

それは「誤報」ではなく虚報である。新聞社として解体的総括をしなければなるまい。
此の読売の報道の姿勢は、日本の新聞にあまねく存在している。

福島原発事故での政府や東電の発表をそのまま真実として報道してきたことを筆頭に、およそ日本の報道機関は官製新聞、官製テレビの域をほとんど出ていない。
狭山事件等警察発表をうのみにして犯人をでっちあげたことも数知れずだ。
今回の事件について読売新聞の検証やお詫びは責任逃れの新たな虚報であろう。

第一に、breakthroughの新治療であるというなら,それを実施した医療機関への取材、元気になったという患者の取材は欠かすことはできないはずだ。
第二に、その治療を実行したスタッフの確認取材も当然しなければならない。
第三に、その報告をもたらした人物森口某が何者であるかの確認が必要であろう。

その報告が真実であれば、ノーベル賞クラスの偉業であるから、その人物のこれまでの実績を検討すべきであろう。
第四に、その報告書の内容の分析は専門家にゆだねなければならないから、しかるべき学者にそれを見せてある程度の感触を得る努力が必要だった。・・・・

これらの当然の手続きを読売新聞は一切しなかった、此の事の反省がまるでない。
虚偽の事実を報道すれば、それを意図するしないに関係なく、その報道は虚報となる。
この世に存在しないことを、存在するという人がいた、その証言の真実性、存在するという事実を確認せずに、存在すると報道した。そしていよいよそれが存在していないことがわかった。・・・お詫びで済む事柄であろうか。

嘘つきにはそれ相当の社会的罰が下されるだろう。今後誰も本気で相手にしない。
だが、簡単な確認取材でそれが嘘だとわかることなのに、その嘘を大々的に報道した新聞には、いかなる罰もないのであろうか。読売新聞の編集体制は解体的な出直しが必要であろう。

今回の森口某の話とは違って、中国の釣魚島や韓国の独島(竹島)について、何の合理的説明もせずに一方的に日本固有のものという政府主張を喧伝する行為などは、それが嘘だという事がなかなかばれないから、やりやすいのであろう。
中国や朝鮮を敵に回して何の国益があるのであろうか。
嘘を報道することによって、悪党が栄え、人民が苦しみ、甚大な国益が損なわれる。
せっかく山中教授がノーベル賞をもらったのに、日本の報道機関は国際的な信用失墜行為をもって山中教授の業績に泥を塗ったのである。
高知新聞による澤山攻撃なども同じ性質のものだ。嘘と誇張。

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2012年10月14日 (日)

百年河清

News & Letters/314

衆議院選挙が近づき、来夏には参議院選挙がある。
だが、日本国民の多くには投票すべき適当な人物がいない。

選択肢がないのだ。悪はいくらでも出てくる。維新の会だの、石原党だの、松下政経塾、・・・・新旧の悪がウドウドと育って名乗りを上げている。旧来の政党の多くも悪ばっかりだ。実力で現体制の権力を打倒する展望は今ではまるでない。

当面は議会や行政機関に人民の代表を送り出して体制打破を図るしかない。
原発を始め日本や世界が解決しなければならない喫緊の課題は山ほどあるが、権力機構のほとんど全部を悪党どもに占領されている以上、少しもいい方向への進展がない。
それどころかますます負の世界は深刻化し拡大している。新聞やテレビなどの報道がでたらめで国民をだまし、真実を隠し、現権力に逆らう事を阻んでいる。
公職の選挙でもまともな人間が出てこれない。

松下政経塾や防衛大学にに対抗するような反原発人民戦線的な人材の養成機関が必要だ。革命兵士の軍官学校や大衆運動政治家の国民学校が必要なのである。

市民運動で反対運動をしておれば何とかなる、という幻想は捨てなければならない。
はじめから権力を人民の手に奪取するという戦略をもって、人材を集め教育する学校を早急に作らねばならない。講師陣はたくさんいる。先ず、大阪と東京に作り、段々と全国都道府県に普及させる。開講は夜間でいい。

もちろん法律や歴史や環境問題等を体系的に学習するだけでなく実習・実践も併課される。思想信条や宗教はとわず、ただ、反原発、反戦、人権の、3つほどの原点的確認があれば、後は自由思想、自由行動でよい。
国会議員だけではなく、地方の議員や首長に至るまで学校の生徒たちが立候補し、当選するよう努力しなければならない。この学校や学生を支援する国民的な応援を組織しなければならない。

今は許されているのであるから、議会を通じ選挙を通じて権力の奪取を図らねばなるまい。福島原発等どんなひどい事故にあっても、権力と資本は、原発をやめようとしない。原発全開を望む自民党が復権すれば一層絶望的になる。

今度の選挙には間に合わないかもしれないが、原発を廃止するには人材を育成しなければならない事は火を見るよりも明らかだ。

既成政党のましな誰彼を選んだり、いい人が自然に登場するのを待つのではなく、われわれ自身が我々の中から真の代表を育て上げなければ、原発を廃滅するとき、日本の夜明けの到来は、百年河清だ。

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