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2012年5月

2012年5月31日 (木)

維新の会の目指す維新

News & Letters/300

明治維新は日本を中世社会から根底から変革した。
それは誰も否定できない歴史的事実である。しかし、日本の民衆にとって、そして後にはアジアの民衆にとっては、大変な事態の現出となった。

人民は中央政府にほとんど生殺与奪の権を握られ、日本列島の全土が権力に握られてしまった。牧歌的でめったに来なかった布達は、昔の庄屋に匹敵する戸長らには年間何百という義務を課す通達が届き息もできない駆り立てが行われた。

明治維新も、旧幕府を打倒し新政権を樹立したまでは、意義があった。
しかし、旧体制を破壊するというのは、維新の前提にすぎない。その後の維新の本領たる過程で、特に明治7年の内閣の分裂、西郷隆盛や江藤新平らが離脱してから以降が明治維新の本体過程であるが、その維新が建設した国家体制は、天皇を頂点とした有司専制の国家であった。

その維新国家の行く先が侵略戦争に次ぐ侵略戦争であって、そういう帝国主義国家の形成であった。戦後、その明治維新の作った日本国家体制について多くの人が痛切な反省と批判をしてきたはずである。
しかし、維新の会が目指す維新は、どう見ても先の明治維新の新たな復活の様相を呈している。

そこで、この橋下の維新の会に対する批判のあり方について一言したい。

戦前の日本の国家体制については丸山真男を象徴とする論者の根本的な分析と厳しい批判が積み上げられてきた。近代的な思惟の未熟・未形成、詔書必謹の自立意識の欠如、統治者の無責任体制等々。

これら前近代の意識や慣習、制度の問題についてはいくら指摘してもしきれないぐらい日本の国家にも社会にも山積していたことは言うまでもないだろう。

だが、丸山らがやったように理念的な近代の論理で見て、それに足らざる、未成熟という批判だけでは、戦前の国家主義者も現在の維新の会やそれにまつわりついている知識人らをも正しく批判したとはいえないだろう。

アジア太平洋戦争に至る明治維新の日本の賛同者とりわけ高山岩男や高坂正顕ら京都学派といわれた哲学者や河上徹太郎、小林秀雄、亀井勝一郎ら文学者らは、日本の帝国主義的侵略戦争体制を「近代の超克」と呼んでいた。

戦前の国家権力やそれにまとわりついていた学者たち、そして今日の維新の会の手法を反民主主義、反近代とだけの批判に終わらせてはならない。

あれが、またこれが、彼らの民主主義であり近代なのである。
広範な前近代を内包したまま、あるいはそれを必須条件にしなが高度な政治体制、思想体系を彼らは構築してきたこと、構築しようとしているととらえるべきであろう。

それはあたかも日本の資本主義が、地主小作関係、同和問題等広範かつ深刻な前近代的桎梏を包摂しながら、なおかつ金融資本という高度な資本主義体制ー帝国主義を構築したのと同じなのである。

後進の日本資本主義の特殊な帝国主義的展開にたいして、ただ民主主義革命路線でブルジョワジーと連携して封建勢力を駆逐することから二段階革命的に問題を解決しようという発想は全く非現実的であり、むしろ敵に包容されてしまうのである。

丸山真男は確かに偉大な政治学者であり、日本における荻生徂徠の研究の近代的思惟の萌芽から、軍国主義体制のその歪んだ未成熟の実態を剔けつして戦後の日本の知識人の目を開かせた。

だが、日本の政治体制の非近代性を強調することは大切なことであったが、しかえってそれに対して近代を対置するだけでは不十分であったと思う。

そのことについては、私が20代の前半に卒論とそれを基にして書いた「帝国主義と部落解放」という小論文の中で、日本帝国主義の上部構造として、西田哲学(善の研究)と日本文学(島崎藤村の「破戒」)を取り上げて分析を試みた。丸山真男の手法、前近代に対して近代を対置する方法ではなく、前近代を包摂する日本近代の思想の構造を明らかにしたつもりである。

私の学問的課題は、この論文を深化することであったが、闘争と生活苦の中でついに果たすことはできないのか、文字通り残念である。

(注)
私が書いた「帝国主義と部落解放」の論文は立命館大学の日本史専攻科の卒業論文の序文の部分である。この序文を独立させて最初「立命評論」に掲載して頂いた。

それは思わぬ反響があり、その時の立命評論は数回増刷されたと聞いている。
その後新しい部落解放運動を推進していた全国部落研の機関紙「荊冠」創刊号に掲載した。部落問題を初めて科学的に位置付けたと評された。

それは、帝国主義段階の日本の資本主義の特殊性の中に部落問題など反封建的な残滓を位置付けたという点で評価されたという事であるが、私の思いはむしろその帝国主義の上部構造の特殊性を明らかにしたかったのである。丸山真男を乗り越えるという大きな企てであった。

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2012年5月27日 (日)

公務員の政治活動の規制

News & Letters/299

維新の会橋本市長は、市役所職員の政治活動の規制を条例化しようとしている。
違反者には国家公務員並みの罰則をかけるという。
先の市長選で市役所職員が現職候補を公務中にも応援したという事で頭に来たのであろう。その心情は判らないわけではない。

、感情に駆られて思い立った。事はそう簡単なことではない。
今から6,7年前、私が室戸市長選で戦った折、相手陣営である小松現市長が選挙期間中に、選挙カーを市役所玄関前に乗り付け、立候補のあいさつをやった。それには現職の県会議員も同伴し、それぞれが演説を数十分間やったのである。その間運動員が市役所のロビーに入り込み、演説を聞くよう呼びかけた。かなりの職員がその演説を聞くために職務を離れたという。これは公衆の前で公然とやった行為であり、明らかに公選法違反の行為だった。

私の支援者らがこれを警察に訴えたが、小松らが罰せられたということはなかった。小松は選挙直前まで市役所の幹部職員であり、大勢の市役所職員とその家族は小松を応援したと思われる。逆に私が市役所玄関前に車を横付けして選挙演説したらどうなったであろうか。私自身も悔しい思いをもっている。

しかし、私は、だからと言って市職員ら地方公務員の政治活動の規制は現状でもきついと思っている。

私は、議員や首長のリコール制度で、公務員が、たとえ非常勤の農業委員であっても直接請求の代表者になれない、なっていて収集したリコール署名簿は全て無効であるという50年前の最高裁判決や地方自治法令と対決し、最高裁大法廷においてそれら公務員への政治活動規制を憲法に抵触するとして覆した。

また、リコール署名運動につき、町職員が私は公務員だからと言って署名に応じない口実に公務員の身分を使う事についても、町長の通達として禁じた。
普通の町民と同じように署名に賛成なら署名し、反対なら拒否すれば良い。反対の理由に公務員だという身分をひけらかす必要はない。

要するに、公務員であるがゆえに政治活動はさせないとか、しないとかいう判決や言い分を不当とし、公務員が職務外では堂々と政治活動する自由がある事を闡明した。
それら二様の言い分では何か政治的中立を装うようであるが、けっしてそうではない。
例えば橋本市長は、今度自分が市長選挙に出た時市役所職員らが応援活動をした場合罰するであろうか。目を細めて容認するであろう。容認する理由はいくらでもひねり出せる。

違法行為については、現在の地方自治法でも罰することは可能である。刑事罰だけが罰ではない。違法行為について行政罰、懲戒処分を通じて罰することが出来る。
まして、公職選挙法に照らせば、罰条は十分にある。

現行法令でも、また新しく条例を作っても、問題は、その違法行為について、取り締まり機関が公正に動くかどうかである。特定の優勢な勢力がやることは野放しで、反体制的な者のすることはささないことでも見逃さず、規制を加えて排除する。
さらに、橋本の狙いは、現政権に賛成派は黙って静かにしていればよい。反対派は活動をせざるを得ないから必ず規制にひっかかるという仕掛けだ。

公務員が政治的に先鋭化するのは職務上避けることはできない。公務員も含め国民全体が何らかの形でも常日頃政治的に活性化しなければ、原発や核兵器、戦争や貧困など地球規模の危機的状況を克服することはできない。

むしろ、公務員であることを理由にして公務員が政治的活動を自制したり逃避したりしている傾向が次第に広がっている。無気力が支配的ではないか。教員や公務員らが組合旗をへんぽんとなびかせて原発など大きな政治テーマをめぐって国民大衆の先頭に立って時の政府と対決するというかつての雄姿を復活させるべきときだ。
そういうことのアンチテーゼとして橋本の今度の挑戦がある。

私が町長時代には、規制を加えるどころか、行政の職務としても政治活動に参加すべきだという考えで、職員を反原発集会に町有のバスを1台出して繰り出したり、また、東京の南京大虐殺の記念集会に職員を研修名目で参加させたりもした。

人権や環境をまもり国民の生活を守るための正しい政治活動は、行政も国民も区別なく
やらなくてはならない。これら政治的行為を批判する者があれば、地方自治の法令や先例を見てみればいくらでも抗弁の弁術は出てくるのである。

原発の見学に行くのでも公費を使う地方自治体はいくらでもある。原発の危険性を訴える集会へ職員を参加させる理由などいくらでもある。どちらも政治的行為だ。

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2012年5月22日 (火)

原稿再開

News & Letters/298

しばらく、パソコンの不具合などで投稿することをやめていましたが、再開します。
現在リボルト社の責任者として、激務に耐えている所です。

朝は6時前に起床し、大小六つの薪の釜に火をつけ、飯、煮汁、湯、豆やジャガイモ、赤飯蒸しなどをやりながら、客室のシーツ等の洗濯を全部こなし、客室のメイクを手伝いフロント係を務め、その他一切の雑務を処理する。

夜寝るのは深夜12時過ぎとなる。24時間住み込みだ。私が寝るベッドは事務室の長椅子である。風呂どころかシャワーでさえ浴びる時間が滅多にない。

私はこの労働をしながらよく思うのは、死んだ母のことである。母は丹波篠山の旅館や信貴山の旅館などで住み込みで働き、田の稲が実る頃私ら子供のところに帰ってくる、そのような繰り返しで十年以上も過ごしてきた。

旅館の近くの谷川の水で山のような汚れものの洗濯をしていたという。昭和30年代だから当時は洗濯機もなかったであろう。谷川の水はいかに冷たかったか、察するに余りある。私は、これまで家でも全く従事してこなかった洗濯や炊事、掃除をしながら、今になって親の恩、女の人の苦労をしみじみと感じる。

わたしは、ここで新たな心で精神と肉体を鍛え、山のような汚れものをものともせず、生きていく。世の汚れものの洗濯もやはり清らかな水が必要だ。その水は自らの手が切れるほど冷たく清冽でなければならない。

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