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2012年2月29日 (水)

維新の教育思想

News & Letters/288

橋下維新の会の教育思想は、その内容や手法において恐るべきだ。
内容的には、極右・反人権であり、手法は弾圧的権力の行使である。
やっこさんは、憲法九条を改悪し、アメリカ帝国主義の下で日本を軍事強国化する。
原発に反対するようだが、核兵器保有には身を乗り出すだろう。

労働者の団結権、政治的活動の自由を奪い、貧窮者の生活保護を切ってしまう。
そして、TPPに賛同しブルジョワジーのお先棒を担ぐ。

原発には反対の様だが、原発住民投票条例には反対だ。現行の議会や教育委員会制度を段々に破壊し、翼賛的議会のみを承認する。
この様な内容を教育の世界に持ち込むために、公務員制度と現行の教育体制に切り込んでくる。
教育の世界にストレートに権力の顔をむき出しこれをコントロールしようとする。

何度も言うが、首長も教育委員も、教育の内容に関与してはならない。

現在の法や制度では、首長や教育委員が出来ることは、教育条件の整備である。

その主なものは、①学校や公民館の施設を建設・維持すること、②教員や教育専門職を雇用しその生活と活動を支える財政を構えること、③教科書など教材や給食や制服など児童生徒らが通学し勉学に勤しむ材料を整えること。④私学や産業、地域での教育活動を財政的に支えること、などであろう。

これらのことが首長や教委のおもな仕事だ。これらの事業を通じて首長や教委は間接的に教育に自己の影響力を行使するのである。

世の中には、教育の場はいくつかある。学校教育、塾・各種学校、家庭、地域、職場、
各種団体だ。学校は先生であり家庭は親、それぞれの世界で、教育するものは決まっている。職場はもとより、各家庭での親の教育に関与できないと同じように、権力は学校や公民館の教育内容に直接関与してはならない。

学校での教育内容は、教員の担当である。教員が個人であれ団体であれ、教育を担当する。教員も一定の倫理観をもち、政治思想をもって政治活動をもする。教育は中立であるとはいえ、正しい政治教育をすることは義務付けられている。何が正しいかは、憲法の趣旨に照らし又本人の良心に基づいて判断されねばならない。

教員から教育の自由を奪うことはできない。その教育に彼らの道徳観や政治思想が出てくるのは仕方がないことだ。また、そうでなくては教育にならない。教育は、どのような知識や技術を教えても、それ自体に思想が入っている。原子力を教える場合に、原子力を肯定するか否定するかの思想は避けられない。

松下村塾の松陰先生に時の幕府に対する批判をやめよということは、松陰から教育事業を取り上げるのと同じだ。生徒や門弟は、その先生の思想を慕って集まって来る。

教員は大学で教育を受け、地方自治体の採用試験を受ける。教員の思想を左右したり関与したりできるのはその二つの場面だけだ。採用試験の場で、首長や教委は、論文などを書かせて、応募者の思想的傾向を把握できる。採否の決定には一定のルールがあるがある程度は、選考する側の裁量の部分がある。

私の経験では、ある年の採用試験で、小論文の選択的課題に南京事件を入れておいた。それをテーマに選んだ青年が、南京虐殺の史実を否定する論文を書いていた。

私は不快であった。論旨がはっきりしていなかった。他の試験委員はどう採点したか分からないが、私はかなり低い評点を出した。結局その青年は学科試験などが良好な成績であり、論文に配された点数はさほど多くなかったので、合格となった。このようにある限定された範囲内で採用者の思想的傾向が試験の評点に影響し、又受験者も、採用者の思想的傾向に迎合するような小論文を書くという場合もあるのである。

採否の決定に採用者の思想的傾向がある程度関与するのは避けられないだろう。しかし、私の経験でも、その影響は最小限でなければならない。小論文に決定的な評点を割いてはならないのだ。採否の評価において、思想性に大きな点数を割けば、権力者の考えが絶対正しいという姿勢となり、精神の自由が侵される。

最高学府である大学の教育では、もはや、学問の自由はだれも侵すことはできないから、権力者が、教員志望者の思想を左右することは困難である。そこで培った教養や専門知識・技能を学校などの現場で、既成の価値観をもって拘束しようとすることは、人権にかかわる事態となりそればかりか人類社会のためにならない。

教育者は次世代の人間を育てるのであって閉塞した現実の時代を切り開く人材にかかわるのであるから、現実世界の利害に制約された政治家や権力者の言うままになっては、その使命を果たせないのである。

教員は独立不羈であり日本国憲法に従うということと本人の良心とその研鑽した学問による以外何物にも束縛されてはならない。本人の良心の世界にその教員の世界観が入って来る。どんなに弾圧しても、真の教育者から思想や良心をはく奪することは出来ない。政治思想を含む思想のない教師からは立派な生徒は生まれない。

もし、橋下が己の思う教育をやりたいなら、一教員として教壇に立つことだ。自ら実践して己の教育が正しいかどうか見せるべきだ。
選挙で選ばれたからといって、教育を自由にしていいという権限まで与えられたわけではない。

但し、橋下が批判する現行の教委の有り様は極めて無責任体制だ。
教育委員は教育行政の執行官であるが、今の現状は諮問委員程度で教委事務局のイエスマン的存在である。

私は教育環境の整備については、教委や学校現場を超えてどんどんやってきた。
鉛筆から消しゴム、ノート、学級費やPTA会費に至るまで義務教育費を無償化する財政措置も取った。学校給食も100%実施し無料化した。中学3年生まで医療費も無償にし、保育園から高校生まで毎月米の配給もやった。

プラネタリウムや高性能の天体望遠鏡まで予算措置をしたが、議会の反対で実現しなかった。・・・・・。越境入学の惨状については厳しく対処した。

教育委員会や首長は、もっとこの様な教育条件の整備に力を注ぐべきだ。
不満は大いにあっても、しかし、教育の内容には一切関与はしてはならない。
ガサツな政治家が教育の世界を荒らし出せば、それは亡国の予兆である。
政治家自身が学問思弁の師を探し、常に教育を受けねばならない存在だ。

橋下は、教員が組合の政治方針を教育現場に持ち込んでいるではないか、選挙で選ばれた首長が教育内容を決めるのは当然だという。

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コメント

日本語には時制 (tense) はない。
過去・現在・未来のそれぞれの世界を脳裏に描くことは難しい。
前世・現世・来世に関するインド人の教えも、日本語脳では定かでない。
「我々はどこから来たか」「我々は何者であるか」「我々はどこに行くか」といった哲学的命題は考えられない。

理想 (ideal) は、未来時制の内容である。
意思 (will) も未来時制の内容である。
理想がなければ、未来社会の建設計画もない。
意思のないところに方法はない。(Where there’s a will, there’s a way).

意思はなくても恣意 (self-will) はある。
建設的な話はできなくても、出来心はある。
問題解決の能力はなくても、事態を台無しにする力だけは持っている。
政治は遅々として動かない。人々の頭を閉塞感が襲う。

英語のリスボンシビリティ (responsibility) は応答可能性であり、自己の意思により現実対応策を考えて行使するものである。
責任は、自由意思により果たすところが大切なところである。
意思なくしては、責任は果たせない (責任はとれない)。とかく、この世は無責任となる。

ところが、日本人には意思がない。子供・アニマルと同様である。
場当たり的な行動にでるしかない。
未来時制の内容に確信は持てない。不安ばかりが募る。
ただ目的の遂行だけを求められるならば、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことになるのは必定である。

以前マッカーサ元帥は、日本人を12歳と評したことがある。
日本人は彼の評に立腹こそすれ、その意味を深く掘り下げることはしてこなかった。
我々は、浅薄である。秋入学の動きは、浅はかである。だから、留学生は、我が国を避けて英米に行く。
知的な人になるためには、英米の高等教育が必要である。これは国際的な判断である。
英米の高等教育は、奥の深い大人になるための更なる英語の勉強である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


投稿: noga | 2012年3月 8日 (木) 18時34分

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