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2011年7月10日 (日)

安全基準

News & Letters/257

原発再稼働には3つのクリアポイントがある。
一つは安全基準であり、その次は事故対策基準であり、最後に核廃棄物処理の基準だ。この3つがそろわねば原発は稼働させてはならない。

1、3月11日福島原発の大事故以降、原発の国の安全審査基準が変わったのは、津波対策だけである。それも粗雑で欠陥だらけである。地震による器機類や配管類の棄損の問題は棚上げだし、原子炉や配管を構成する鋼材などの劣化の問題は歯牙にもかかっていない。津波や地震に対する新しい安全基準が必要なことは明らかだ。常識レベルでも安全対策を講ずるという基準を策定することが可能であるかは全く別問題である。
しかし、今となっては、原発再稼働にむけて安全基準だけでは不十分だ。

2、次に事故対策の基準が確定されていなければならない。原発は人が操作する機械であるから必ず事故を起こす。福島原発がそれを実証した。
事故のパターンを想定してその対策の基準を定める必要がある。より小さな中小の事故からメルトダウンや水蒸気爆発に至る事故に対応してこれを収束させる技術、収束に動員される組織体制、避難など事故時の社会的対策、そして、これらを担保する財政の用意、これら一連の事故対策がなければ原発再稼働はできない。

、そして、これまでやかましく指摘されてきた使用済み核燃料の処理はもとより、放射能をかぶった建屋や原子炉等の処理、ウラン鉱山の残渣などの処理方法が明確でないのに、原発稼働は許されない。
これら3つをクリアできる基準がつくれるであろうか。作ったとしても夢の話で、費用と効果の天文学的乖離、被害の悲惨さ、を見て、誰もあほらしくなるだろう。

何度も言うように、これら天文学的無意味な事業を推進できたのは、原発推進の財界やその番頭である政府たちが、棄民意識を持っているからである。
東北や日本海沿岸や西南地方の過疎地域の、それらの貧しい人々を犠牲にしてもいいという差別思想が牢乎として存在しているからである。

国のエネルギー政策という最も基幹的な政策が、差別思想とその実践によって代替され推進されてきたのである。

最近若い学者が、私の若いころの論文などをテーマにして研究していると言って私に会いに来たが、私が若い時に部落問題で築いたレーニン的論理は、現在の原発の問題にも当てはまるという。
高度に発達した帝国主義は資本主義としての革命的意義はすでに喪失し、むしろそれは封建的な残滓や遅れた社会的紐帯を温存し利用する。という理論だ。

ストレステストを済ませば、再稼働というシナリオらしいが、紙上でならともかく、実際上はそもそも稼働していた原発のストレステストなどは不可能事だ。高濃度の原子炉の器機類を誰がテストしに入っていけるのか。紙上でなら、いくらでも絵をかける。自己欺瞞以外にそんな絵を誰が信用するであろうか。

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