« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年4月

2011年4月26日 (火)

反革命の嵐

News & Letters/240

平成23年4月24日の結果を見たであろう。
それは、反核町長澤山保太郎の完敗に終わった。

再選されることにさほど執着していなかったとはいえ、さすがに私もその大差に驚いた。

驚異(脅威)的な事だ。一言でいえば、反革命の嵐であり、町民による不幸への選択だった。澤山がやった数々の福祉事業や産業復興政策、そして財政改革がことごとく否定された。とりわけ、福祉事業は事実そのものによって、財政改革は不実(デマ)によって。

今回の選挙では、福祉事業例えば、米の配給は、ばらまきだ、とかタダほど怖いものはない、とかいう理由で事実そのものの意義が否定された。財政改革の結果である借金の大幅減少については、澤山はどっさり借金を作っている、積み立て金を使いつくした、という事実の逆のデマでもって打ち消された。

これらの事実の意義の否定やデマの流布を町民が支持し信じたのである。米の配給について、現在で2年目であるが、これを開始するという予算案の説明の時には、例えば野根の奥まったところにある名留川地区の集会では集会場いっぱいに詰めかけた住民(大半がお年寄り)たちが、町長ら幹部職員の前で総立ちになり歓呼の声と拍手で集会場が騒然となったのである。このような事業は今年一年で打ち切られるのかという不安の質問さえあったほどだ。

熱狂的に支持され感謝されてきた澤山の福祉事業政策がかくも見事に非難の材料にひっくり返るとはだれが予想出来ようか。新聞社など第三者がばらまきだというのはいいが、「ばらまき」を受けて喜んでいた当人たちが「ばらまき」だという話をし出したのである。

この反革命の構図はこうだ。
住民の大半を占める貧しいお年寄りが、心底から無料の福祉事業を拒否しているわけではありえない。

これを拒否したのは、まず、第1に澤山によって排除された利権組が中核となり、次にそれらと親しい旧来の元役場幹部職員(OB)、それに町や村の顔役たちであり、最後にそれらに雷同した町の上層部(生活に困らないという程度だが)の住民たちである。
そして、これらを動かした決定的な後押しが高知新聞である。

全地域でデマを飛ばし澤山の業績の意義の否定を大合唱したのだから、知識の乏しいお年寄りはたまらない。それに反する考えや行動を取ると村八分になりかねない。そうして地滑り的な反革命の傾斜が起こった。お年寄りたちや町民大衆にとって、借金が増えたのか減ったのか本当のことがどうしてわかるであろう。

借金が増えた、という地域ボスや役場OB達の真顔で話す言葉を否定できるであろうか。澤山が事実をもっていくらそれを説明しても、それは嘘だ、と言われればどうしようもない。澤山の支持者たちは、こういう情勢では表面に立つことができなかった。多くの住民たちは不幸への選択・福祉事業の廃止への結果に感謝し出したのである。

全世界、人類の全歴史を見ても、このような現象が起こったのは今回の私の選挙だけであろう。世界の各地で今(昔も)起こっている国民的反乱は、パンや自由を求めての反乱である。これまで、くれるというパンを投げ捨てるというために起こった反乱は皆無であろう。

強いて例をあげたなら、あるいはナチスや日本軍国主義の登場がそうであったかもしれない。大正デモクラシーやワイマール共和国の民主主義を否定した国民が戦争と耐乏生活を選択し大惨事に自ら向かったのである。それを後になり先になりして国民大衆を洗脳し先導したのも当時の新聞など報道機関であったことは言うまでもない。

国の原子力産業をめぐる嘘八百を報道機関がこれを支持し国民に安全神話を扇動してきたが、これが、ついに福島原発をもたらした。

この選挙の敗北の教訓は何か。
私は、町長という立場上町内に強固な党派的組織を作ることができなかった。
私は役場という権力に拠って事業をしてきたにすぎない。4年前も自生的な力で選挙をやったわけではなかった。

いくらいい事をしても、敵の党派に逆の宣伝材料に使われる。
ヨーロッパでも日本でも強固な革命党の建設なしには、国家社会の危機に勝利を得て救国の事業はなしえない。

ナチスやファシズムに対して多くのパルチザンが死んだ。私は何も殺されたわけではない。

私は、臥薪嘗胆し、何時の日か、捲土重来を期す。

WE  SHALL  OVERCOME  SOMEDAY.

戦国時代尼子の山中鹿之助が月に向かって叫んだように、

我に七難八苦を与えたまえ。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2011年4月18日 (月)

高知新聞記事(3)

News & Letters/240

高知新聞は、「東洋町の課題」と題する記事を4月13日、14日、東洋町長選挙を前にしてと上下に分けて特集した。

その狙いは

第1に、核廃棄物の問題を「過去の話」として「課題」から抹消すること、反核意識の強さを解消すること、

第2に核廃棄物施設導入の理由は「それほど町財政は窮迫していた」として、これを弁護すること

第3に核の交付金を拒否した沢山町政がやっている福祉サービスは、政府からの臨時的特別な活性化資金によるものであって、むしろ今後財政圧迫するものである、として不安をあおる。

第1、第2については核廃棄物施設の安全宣伝に転じた高知新聞の政治的な思惑を記者として忠実に表現した作文である。

第3については、核交付金を拒否した町が、福祉や教育の民生重視の行政で成果を上げ多くの住民に歓迎されている事実があるが、これを抹消する意図に基づいてかかれたものである。そこには、自己の核推進の方針を貫くためには、福祉事業の充実政策をも一笑に付してしまおうという浮薄な観念がある。

たとえば、東洋町では義務教育費の無償化がどんどん進んでいる。議会のブレーキで修学旅行費の公費負担がまだ半額となっている面を除くとほとんど無償となっている。この義務教育無償化の事業はさほど費用がいるというものではない。

このような教育行政の実績は、全国的なニュースに値するであろう。これを報道することによって、高知県はもとより、全国的に波及効果は大きいであろう。さすがに高知新聞はこれを無視はするが攻撃することはできないでいる。何故なら義務教育無償化は憲法の規定だからである。

高知新聞の今回の記事で無視または隠している大きな事実が借金の減少の事実である。この4年間で10億円近くの地方債が減少した。積立金は6000万円増加した。多くの福祉事業や公共事業をやってきた自治体では、当然その見返りとして借金が増える。

東洋町では借金は大幅に減少した。これの第1の原因は、無駄な事業をしなかったということであり、第2に諸事業において節約を旨として運営してきたという事実である。

億単位の個別事業は何もやっていない。せいぜい数千万円程度の事業に抑えてきている。業者にぎりぎりの予算、時には破格の値を示し、極力安い費用で完成させてきた。

たとえば、海の駅の建設である。今1億数千万円の売り上げを続けているが、建設費は当時3000万円程度であった。
全国の道の駅の類で数千万円でこれくらいの施設を建設したところはないと思われる。しかも町の出費は500万円ぐらいであってほとんど国と県の金を使っている。

また、温浴施設も5000万円程度で整備したが、今日、それくらいの金で大衆浴場は建設できない。

14室の個室を持つ高齢者住宅(一種の老人ホーム)も5000万円ぐらいであったが、これも普通は億の建設費用が要るものであろう。公営住宅の維持管理費も年間2000万円前後の費用がかかっていたが、5、6百万円に激減させた。

一銭の金も町長の決裁がなければ出費できないという体制を構築してきた。
このような行財政改革の努力は、借金の大幅減少という形で現出している。高知新聞はこれを無視する。

東洋町は、3億円の巨額の国の失業対策事業を導入した。近隣の市町村と比較しても大変な額である。

この事業を受け入れることによって町長としての仕事は倍増した。まず仕事を作り出し、労働者を管理し、各分野で実績を挙げなければならないからである。これは期限(1年とか3年とか)を切られた国の失対事業だ。

これは、町が直接請け負う場合と民間会社に請け負わせなければならないものがある。東洋町は失対事業を受け入れる事業体はごく少なく、結局第三セクターである㈱リ・ボルト社に請け負わせることになった。その意味でもリ・ボルト社の存在は大きな役割を果たした。リ・ボルト社の方はいくつもの失対事業の事務管理を背負わされて大きな負担となったが、失業者を雇用するという東洋町の一番大事な仕事であるから拒むわけにはいかない。

高知新聞は、これらの事業は今後国の失対基金交付が途絶えたら「採算」が会わなくなると攻撃する。

国の失業対策事業は大概期限付きだ。それがいつまでも続くということはない。期限付きでもこれを積極的に受け入れて、荒地の耕作や、間伐など有益な事業に活用し、雇用を確保するべきである。招来も採算が合うように努力をするべきである。

国からの資金が切れて、この失対事業が終わってしまっても、失対事業をやった意義は何も減ずることはない。
リボルト社の主な経営の母体は、海の駅とホテルと、公共施設管理の3つであるが、この基本的な柱は完全な黒字である。

いくつもの失業対策事業は町(国)から委託されたもので、失対事業はリボルト社としては付随的な負担事業である。期限が来て契約が切れて労働者が失職するという悲劇があるが、会社自身は、身が軽くなるということはあっても損害をこうむるということはない。失対事業は国か町が構えるべき事柄である。町としてはできる限り現在の失対事業を継続できるように努力をしていることは言うまでもない。

リボルト社は、最初100パーセント町の出資会社であって、町長が社長であった。
しかし、ホテルの購入を民間資本で達成したことで株のシエア25パーセントなった。

このホテル購入はこのブログでも何度も書いてきた。このホテルの敷地には、もともと町の行政財産である「青少年旅行村」が立っていた。しかし平成6年ごろ当時の執行部が何の手続きもせずこれを破却した。そうしてこの敷地300坪を破格の安値で業者に売り渡し、ホテルが建ったのである。

この敷地は今でも役場の財産帳簿上には行政財産のままであり、管理条例もある。政府の補助金で立てたこの「青少年旅行村」は実際は蒸発してないのに帳簿上は存在していることになっている。

私はこれを町に回復するために、国の地域活性化資金をあてて議案を出したが1票差で否決された。
それでは町としては都合が悪いので、主として私と私の実姉がリボルト社に金を出して、その資金でこのホテル購入(5500万円)を実行したのである。

私は、そのために1700万円ほどを報酬や退職金をあてて銀行から借金をした。
私が社長になれないから、幾人かに社長をやってもらったが、最後に私の実姉が社長を引き受ける羽目になった。

社長は基本的に無報酬であり、無報酬で会社の雑務(客室の掃除や、厨房の手伝いなど)をしなければならない。

それに、他の者に社長職を引き受けてもらえないもっとも厳しい条件は、社長は、いざというときには、金を出さなければならない義務を負うのである。高知新聞は、この事実を歪曲し、実姉が社長になっていることについて「町民が向ける目も厳しくなっている」と攻撃する。

しかし、私と姉は、公の金を私物化しているのではなく、会社ひいては町のために私財をなげうって、しかも無償で働いているのである。今日、公有財産を回復するためにだれが、巨額の私財を出すであろうか。東洋町には何の関係もない実姉に物心両面で犠牲を強いている。1日も早くこの犠牲を解消しなければならない。

私は、悪党たちと戦うだけでなく、新聞社の悪意ある攻撃とも戦わねばならない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011年4月17日 (日)

高知新聞の記事(2)

News & Letters/239

次に高知新聞は、東洋町の画期的な福祉行政に攻撃の的を絞り、これを「ばらまき?」だとこき落とす。

  しかもそれは、政府の地域活性化の交付金の分配金で東洋町が「財政好転」したので「さまざまな福祉サービスに乗り出した」というのである。

  しかし、交付金の増額はともかく、この数年間に政府自民党や民主党が出してきた地域活性化交付金を福祉事業の「ばらまき」に使えるであろうか。使えない。地域活性化の交付金はそれぞれの趣旨に沿った使い道が決められて交付される。

また、地方交付税交付金は平成18年前後数年の厳しい時代を除いて前述したとおり15億円を超える時代が長く続き、予算規模も今の2倍ほどあったが、米の一粒でも住民にあたがったであろうか。

米の配給にしてもデイサービスにしてもさまざまな福祉事業や教育費の保護者負担の軽減は個別にはほんの数百万円であり、全部あわせてもせいぜい数千万円で達成できる。 毎年十数億円の交付金 のうち数千万円の「ばらまき」事業ができないわけはない。

そして、高新は 小中学校生徒への米代は370万円、配食サービス780万円が「借金」で賄っていると攻撃する。
  しかし、この1200万円の「原資」は過疎債であり、7割は国が負担し、町は3割負担に過ぎない。すなわち360万円を10年間で支払うのである。 毎年36万円、月に3万円の支払いで 子供数 百人と高齢者数百人ほどが恩恵をこうむる。どこも配食サービスはせいぜい週1回できわめて貧しいメニューだが、東洋町では週2回である。

しかも月3万円でこの配食サービスに働く町民5人ほどが生活の糧を得られるのである。これで、1トンの米とお年寄りの弁当1万5百食のサービスが得られるのである。月3万円ほどの負担が東洋町にできないであろうか。

  高知新聞はこの記事の下で東洋町の疲弊を指摘する。だが、この新聞記者や編集局にはこの疲弊と現行の福祉事業とを結びつけて考えることができない。日日の生活ができがたい高齢者が多数なのである。税金はもとより、国保税や介護保険料の負担にさえ耐えられない、安い公営の住宅の家賃も滞納がちなのである。諸税の徴収率はおそらく全国最低であろう。

  この貧しい住民の生活を支援することが行政として優先事業なのだ。
私が就任した平成19年4月では平成18年度とほぼ同じ交付金を基にして財政を組んでいたがそれでも「全廃」されかかっていた福祉事業を再開した。福祉センターは閑古鳥がなき、ボイラーなどはさび付いていたがこの施設でのデイサービス等福祉事業を再生した。

福祉事業は政府の交付金の多寡ではなく、首長の意思の問題なのである。
この間の政府の地域活性化交付金のほとんどは、その交付金の趣旨に従い、県下最悪であった学校の耐震補強や避難高台の建設、道路の整備、廃れていた公共施設の再生事業などに使われた。

  これらの交付金が今後途絶したら公共土木事業の展開は困難になるであろう。しかし、住民の生存をかけた福祉事業は他を切り詰めてでも続行しなければならない。高知新聞が言うように政府の一時的な交付金を当て込んでバラまきをやるという筋合いのものではない。ニューモ(NUMO)の宣伝を受け持ち、核廃棄物の高知導入を意図する高知新聞は核交付金を拒否した町は、どのように財政的に行き詰まるか、というシナリオを描きたいのである。核を拒絶して福祉行政日本一になった、などということはあってはならないのである。

この記者には、福祉行政とは何か、義務教育無償とは何かがまったく分からない。ヒュウマニズムのかけらもないということだろうか。
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月15日 (金)

高知新聞の記事(1)

News & Letters/239

高知新聞は、高レベル核廃棄物の埋設施設は安全であるという原環機構の広告(広告かどうか一般読者には分からないから高知新聞の記事と読むであろう)を一面全部を割いて繰り返し掲載してきたが、このように核推進のお先棒を担ぐというのは、会社の方針であろうが、この方針はいつ決定されたのであろうか。社員は納得しているのであろうか。

原子炉内の核燃料だけではなく、使用済み核燃料の保存庫でも大災害につながるということは今回の福島原発で実証されている。全国各地にあるそれら使用済み核燃料を一箇所に集積した場合、それが地震や津波で、あるいは自分自身の反応で制御できない事態が発生した場合、おそらくその地域のみか、全世界が地獄に陥ったようになるのである。
高知新聞は、その責任が負えるのであろうか。

1、昨日今日の特集で高知新聞が東洋町の財政状況などを取り上げたが、その冒頭に核のことはもう過去の問題で住民が忘れてしまった、ような内容を書いている。核廃棄物施設のことは「過去の話」だという。

 しかし、実際には東洋町民や近隣の住民たちは、福島原発の大事故で4年前の選択の意義をいまさらながらかみ締めている。核に賛成した住民も核を拒絶した東洋町の選択を喜んでいる。町内はまさに核反対の意思で完全に融和した。その話題は新たになり尽きていない。東洋町での核の話とは、核反対の話以外にない。高レベルの廃棄物を歓迎する高知新聞は、東洋町から核(反核)の話題を解消したいのである。そしてそれは、憎むべき現町長の評価につながるからでもある。

2、そして、高新は前町政が核廃棄物施設受け入れに応募したのは、多額の核交付金が目当てであり「それほど町財政は窮迫していた。」と弁護の幕を張る。この考えはまさにどこの原発関連施設を受け入れてきた市町村長や議会の弁解と同じである。

 では、東洋町(だけが)は本当にそこまで落ち込んでいたのであろうか。
たとえば私が仕事をした4年間の地方交付税交付金とその前の4年間の交付金の平均値は前者が13億6千万円、後者が13億円ぐらいで、実質6、7千万円の差でしかない。それ以前(平成14年以前)の4年間は平均15億円を超えていた。

6千万円やそこらの金で町を死神に売らねばならないほどの「窮迫」があったといえるであろうか。

しかも平成18年度の決算でも黒字は3000万円あったのである。
高知新聞は、「窮迫」すれば、核推進派と同じ口吻で核廃棄物でも原発でも受け入れのもやむを得ないというのであろうか。
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月13日 (水)

決戦勝利の旗

News & Letters/238

原発が人類にとって最大の課題であることが福島原発事故ではっきりした。

それは昔、湯川秀樹博士が言っていたことだ。だが、ほとんど誰も日常の諸問題の中で原発を忘れていた。

反差別の陣営やその他の反体制運動も自らが抱える事件に追われ、原発に正面から取り組まなかった。

私もそうだった。我々が油断している間に原子力産業推進勢力は、いまやのっぴきならないところまで我々を運んでいた。

福島原発は人間業ではもはや制御できない。核反応というのはそういうものだということはわかりきったことだ。
今まで大きな事故が起こらなかったということのほうが奇跡的なことだったのである。

今起こっていることは序曲に過ぎない。危険度を7に上げたということは、そのことの自白に過ぎない。その事故は日本列島のみか北半球全体を飲み込もうとしている。私は反差別陣営で育った人間だ。

その私が、反原発に立ち上がったのは偶然ではない。もちろん原発は全ての階層を問わず人類の敵である。その危険性は全ての生物の脅威である。それだけで反対する理由は成り立つ。

しかし、私としては、それだけではなく、原発は、その超科学的な面持ちにもかかわらず、その基層には、陋劣な差別を内包している点にこだわる。原発の立地は非居住地域と限定され、人口の非密集地帯、すなわち過疎地域と指定されている。

そして現場で働く労働者は、命を犠牲にしてでも働かねばならない貧乏人の子弟だ。
立地された過疎地では大事故が起こっては故郷から逃れて流浪の民となる運命のものだ。

反差別の陣営の皆さん、反原発は即反差別であることを考えて、それぞれの戦線での個別闘争と関連させて、反原発の戦いを国民的な統一戦線の最高の戦略的課題として取り組む必要がある。

命あっての物だねだが、物だねにこだわっても、まずは命を失わないような戦いが必要だ。
反差別の原点から反原発・反核の戦いは一直線上にある。

東洋町のこれからの闘争は、反核の拠点を守るかどうかである。反核・福祉の町の東洋町を、今、一部の利権屋どもが密集してこれをつぶそうとかかっている。彼らはほとんど何も対抗の施策はない。彼らの隠された意図は、町役場に掲げた核反対の旗幟をおろし、種々の福祉事業を解体し、利権の巣を回復することであろう。多くの町民は、核を拒絶したことを何よりの喜びと感じ、核の交付金に頼らずこの4年間に町が進める日本一の福祉事業を大切に守ろうとしている。

今私は、町民の切実な願いを一身に受けて、決戦にのぞむ。
満月のように引き絞った弓弦から戦いの鏑矢は発射されようとしている。東北の地で死んだ尊い御霊に誓って、決戦勝利の旗を高く、高く掲げて前進する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 8日 (金)

統一地方選挙及び町長選挙

News & Letters/237

統一地方選挙が始まっている。
東洋町の町長選挙は4月19日告示、24日投票です。
今回の町長選挙はきわめて静かなものになると思います。

福島の災害や原発のこともあるので、町内を騒がせないように、
町民一人ひとりに話しかけるような選挙になると思います。
行事は粛々とせねばならないが国民的な服喪中であることを忘れてはならない。、
マイクでがなり立てたり、大勢の人が気勢を上げるというようなことはやめましょう。

選挙の課題は、前回と同じです。

①核や自然災害(南海地震と大津波)にどう対処するのか

②福祉・教育と産業復興をどうするのか です。

前回は特に①が緊急の差し迫った大きな課題であったが、今回も東北の震災によって引き続き大きな課題になってきました。
津波からどのようにして町民の命を守るのか、施策を計画しています。

今建設してきたまたは建設予定の4基の鉄骨の避難高台を、さらに増やして合計で8基建設し、野根と甲浦の山の上にそれぞれ地域防災センターを建設し大勢の人を収容できるようにします。

宝永の時代には、大津波によって東洋町の甲浦や白浜は人家が滅亡したという記録があります。

必ず津波は襲来してくるものとしてこの数年間に体制を整えなければなりません。これは一種の戦争です。

行財政改革の方向は基本的に定まった感じです。日常行政はもう職員に任せても大丈夫です。

週1回の庁議と各課との臨時の協議で十分やっていけます。福祉行政も定着しています。

私は防災対策を最重視しながら、今後は、産業復興という大仕事に取り掛かろうと思います。

それは第1次産業、農林業と漁業を基軸にして、それに商工観光です。
現場に出て事業推進に尽力しようと思います。私自らがやらずに人を頼みにしていては道は開けない。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

反省

News & Letters/236

福島原発は今や日本の、否、世界の最大の政治問題に発展した。

これまで既成の反体制政党はこの問題を等閑に付してきた。
全国各地の細々とした市民運動に任せて、ほとんど何もしなかった。

日本共産党も、「根本的見直し」とまではいうが原発廃止とはどうしても言わない。
その他の急進派左翼も、実践的にはほとんど原発問題では動かなかった。

今からはるか以前に原子力空母エンタープライズが佐世保に入港しようとしたとき激しい実力的抗議闘争をやったが、それも原子力というよりも反米軍闘争の意味が強かった。
原発が、日本列島に住む全ての人々の文字通り死命を制することになることを認識することができなかった。

私も、4年前まで原発には反対の思いはあったが、すぐ近くにまでその問題が迫ってくるまで、それを実践的課題にすることができなかった。それより前に橋本大二郎前知事が原発を視察に行ったとき、オンブズマンとして若干それを問題にはしたが、ほとんど何もしなかった。思えばそれが東洋町への核廃棄物持込策動の予兆であったかもしれない。

自分に身の危険が迫らねば、その重要性がわからないでは政治家とはいえない。
全ての反体制運動家は、直ちに原発をめぐって戦略の建て直しをしなければならない。

今の市民運動の力では、独占資本と国家権力が担う原発推進の大勢力には到底太刀打ちができない。

宣伝力がまるで違う。大衆に真実を知らせる機関紙も満足に発行できないでいる。裁判闘争をしてもごく一部の国民しか携わっていない。既成の反体制政党や運動は、私が唱えるように反原発を主な旗印にして、その下でそれどれの課題を追求するという風に変革すべきである。全ての戦線で主敵を見定め広範な国民の統一戦線を早急に編成しなければならない。

全世界のプロレタリア人民が立ち上がり、全世界の原発の即時廃止と、核兵器製造を含む原子力産業を推進してきた帝国主義ブルジョワジーの打倒を勝ち取る戦略的闘争の布陣をしかなければならない。そうしなければ、人類は滅亡するであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

続・電子黒板

News & Letters/235

私が東洋町へ来て、県教委に事業の押し付けを拒否したのは二つある。

一つはCRTテストだ。

これは純然たる業者テストであり、文部省や県教委がその通達で繰り返し禁止してきたものである。

業者テストの弊害がかまびすしく批判された時には禁止しておいて、何年かしてそのほとぼりが冷めたころまた、自らが業者テストを導入してきた。

このCRTテスト業者の顔ぶれは、文部省や教育関係の大学の元教員で天下り連中である。その連中が、全国的に都道府県教委を通じてこの業者テストの注文をとり、学校現場に半強制的にやらせているのであり、その費用の半額を市町村に負担させてきたのである。私はこれを拒否した。

拒否の理由1 業者テストは公教育の現場に持ち込ませない。公教育は、国と地方自治体・学校現場が責任を持ってやるのであって、営利業者の介入を許すべきではない。実力テストは文房具など教材ではなく、教育の内容そのものである。

学校でのテストは、公教育の関係者が自分が教えたことがどれほどの成果をあげたか、足らざるところは何かを検証するためであり、同時に子供たち自身が、自分の日ごろの努力の成果を確認するために行うのである。

CRTテストは現場と何の関係もない業者化した元学者や官僚どもが作成する(実際は誰が作っているかわからない)ものであり、そのテストを受けても、答案用紙もかえってこないし、正解も分からないという代物だ。正解を教える授業もない。
子供たちは、いくつかの解答例中から正解を選ぶというものであるから、半分ぐらいはあてずっぽうに答える。

そして間違った答えに望みをつなぐから、間違った答えを覚えてしまうということになりかねない。

そんなでたらめなテストをしてなんになる。この業者テストをするために1日以上の授業をつぶすことになる。
90時間ぐらいしかない各教科の授業にとって5時間以上も空費するのは大きな打撃だ。

昔、学力テストについては日教組が激しく抵抗し、裁判闘争までやってきた。それは権力の教育統制であり、学校間の競争をあおるものである。その精神を学校現場の先生は忘れたのであろうか。まして権力ならともかく、業者によって学校現場が支配されていいのであろうか。

いかなるテストもテストを作るのは、教えている教師たちだ。そのテストの採点をするのも教師たちだ。そのテスト結果を評価するのも教師でなければならない。そして子供たちは自分の解答した答案用紙を手にして、正解を教えてもらう権利がある。

もう一つ私が県教委の押し付けを拒否したのが電子黒板であった。

かつて私の塾生で特殊学級に入っている少女がいた。その子は挙措が激しくじっと座っていられないので学校で勉強にならない
というので私が預かった。私はその子をひざの上に乗せて一緒に九九を唱えながら勉強することにした。

数週間後、その子は九九を覚え、加減乗除ができるようになった。やがて、普通の教室に入り、成長して立派な職業人となった。当時、担任の女教師が私の塾へ来てどうしてこの子が勉強するようになったのか聞かせて欲しいといってやってきた。

私はその子をひざの上に乗せてこうやって一緒に教えたと答えた。
これは私の自慢話ではない。心意気だ。教育は先生と生徒の人間の交流であり、機械がこれに替わることはできないということなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 7日 (木)

電子黒板

News & Letters/234

私のブログに対するコメントに答える。
電子黒板を断った理由。

電子黒板とプラネタリウムを同じレベルで考えるべきではない。
プラネタリウムは、映画だ。宇宙についての映画であって授業や教科書とはなれた映画鑑賞の時間だ。

そういう時間も必要だということだ。修学旅行と同じように普通の授業とは次元の違う話である。

黒板は、先生が手書きすべきものだ。
その子供たちに応じ先生が当意即妙に考え付いたことを紙や黒板に書いて、あるいは生徒自身に書かせて授業を行うべきであろう。教室では機械ではなく、先生と生徒の人間の交流が必要である。

教室での勉強は、基本は教科書である。子供らが勉学に立ち上がるのは先生の息吹であり、情熱だ。

現在、数学でも英語でも、教科書を満足に教えきられているものはほとんどない。
行事がいろいろあって、各科の授業の時間数が絶対的に足らない。
数学の教科書に載っている例題や練習問題を満足に解ける生徒は各教室に数名しかいないであろう。

各教室で、英語の教科書を、満足に声を出して読める生徒は何人いるだろうか。
読めない単語は一つ二つは覚えられるだろう、しかし、数百の読めない単語を覚えろといっても不可能だ。

字が読めない教科書について先生がいくら講釈しても頭には入らないだろう。
授業では、少なくとも字が読めるようにしていただきたい。字が読めたら家で自習もできるだろう。

国語でも社会でもそうだ。
教科書を繰り返し学習し、それに習熟して学問の骨格づくりをしなければならない。
読みの練習は音楽のようなもので、先生について何度も繰り返し発声練習をしなければならないのである。

分からないことは生徒一人ひとり違っている。つまづきは、一人ひとり違う。その都度、黒板や紙で絵解きをしてやらないといけない。電子黒板のような画一化された機械化授業では生徒のニーズにこたえられない。
手取り足取りで先生の熱い息吹が伝わるような授業でないと生徒の頭や心を動かすことはできない。、

授業では、教科書を徹底的に習熟させて欲しいのだ。映像として教科書の1頁1頁が頭に叩き込まれなくてはならない。
英語でも国語でも暗誦するくらいやってはじめて学問の基礎ができるというものだ。それがまったくされていないのが現状だ。

今の状況では、高知県下の小中高校生の学力が上がらない。
教科書を習熟させよ、プリントや副教材など他の余分な教材は教科書学習が完全にできてからやればよい。

教室では先生自身の声と、手や足をつかって教科書に取り組むべきだ。
教科書習熟の重要性がわからない人は一回自分が生徒になったつもりで学科について勉強してみたらどうだろう。

私は数十年生徒と一緒に教科書に取り組んできた経験でこういうのである。私がやっていた学習塾の生徒でも親にでも聞いてみたらよかろう。

だから、理科の実験とか、音楽や美術、体育などは別として、教室での授業で電子黒板だのテレビ学習だの何だの機械類は必要にないというのだ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年4月 4日 (月)

再議

News & Letters/233

国の緊急の交付金が出たので、これでプラネタリュウムなど理科の教育機材を購入しようと議会に提案したところ、全て否決されました。国からの交付金1500万円は喪失です。

これは昨年の年末、仕事納めの数日前に総務大臣の片山さん肝いりで作った「光を注ぐ・・・」という交付金のことです

この交付金の申請は翌月の1月4日が締め切りというものでした。
東洋町では特別な交付金が出た場合は大概地区懇談会や産業団体を集めた集会で説明会を開いてきましたが、今回年末の交付金はまったく時間的余裕がありませんでした。部内でこの特殊な交付金の性質を理解し、事業を検討する時間もろくにありません。公共土木事業や福祉事業、農林水産関係の事業などではなく、これまで日のあたらないもので大切な事業ということで
した。

 町議を開いて協議したけれど提案はなく、私が提案したのが図書とプラネタリウムや天文観測機器でした。
図書は年々予算を組んでいますが、自然科学系の機器類はまったく手を出すことはできないものでした。

年末年始の休暇をはさんでいるから実質上数日で決定しなければなりません。
議会など他にはかる時間がない場合は、首長は専決処分をします。実質上私は専決処分をして県庁にこの交付金の申請をしたわけです。しなければみすみす得るべき大きな財産を失うわけで、批判は免れない。

天体望遠鏡はもとより、今日では天井に映像するプラネタリウムも理科の機材としては重要なものです。
文部省の新学習指導要領にも、数回にわたってプラネタリウム活用の指示があります。

議会で審議をして決定した私たちの町の過疎計画にも教育機材の充実は挙げられています。

国の方針にも町の計画にも何の齟齬もありませんでした。

然るに議会は、わけのわからない理由で私の提案を拒否し、交付金で教育機器を購入するという事業費を抜いた修正案を可決し、これに対する私の再議も認めませんでした。

ここで問題になるのは、

①、天文観測などの理科機器の重要性についてどう考えるのか

②議会の理不尽な議決について法的に対抗手段が設けられていない現行の議会制度である。

①については、教育とりわけ自然科学教育に何の関心もない人には、議論の余地はないであろう。

②については、議会無答責ともいうべき議会制度を放置していいのかということです。

 戦前はほとんど国家は無答責で、国のやる事業で国民が被害を受けても何の弁償もされないということでした。

 だんだんに改められた来ていたが、戦後になって、憲法や国家賠償法で償われることになった。
 天皇が無答責であることは今も昔も変わるまい。
だが、現代、公の重大な行為をしながら無答責である存在がもう一つある。それが議会である。

どんな議決をしても基本的に責任が問われない。政治的責任はあるが、政治的責任というのはほとんど無責任と同義である。

 市町村の財産となるものを平然と放擲する議決をしても何の責任も問われない。

 福島県の海辺の村や町の議会が、原発を誘致する決議をして現在の悲惨な事故を招いても何も責任が問われない。

一番の責任者が免罪されているのである。A級戦犯が免罪されて、一般兵士が断罪されるのである。

 議会無答責は許すべきではない。この世に自己の行為についてあらかじめ責任が免ぜられているという存在はあり得べきではない。支出や財産処分についての議決については議決した議員にも応分の責任を負わせるべきであろう。

 それをいやだというのであれば、絶対的な現在の議決力を相対化するべきであろう。
同じように町民から選出され、大きな責任を負うていながら、最終的には無答責な議会に拘束され牛耳られている首長の現状は不合理である。現行の議決の効力を持つなら、議会もそれ相当の責任を負うべきであろう。

 たとえば今回の東洋町の場合、1500万円以上の交付金を失ったことについて、町民が議会や議員にその損害の賠償を求める訴えをすることができるように地方自治法を改正するべきではないか。

 もし、仮に首長が交付金を申請せず、得るべき財産を失った場合には、住民訴訟の対象とされるであろう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年4月 3日 (日)

禁じられた遊び

News & Letters/232

「禁じられた遊び」 という映画を見たであろう。

20代に何度か見たその映画の意味を見るたびに私は考え続けていた。
その当時は、戦争がテーマだった。

私は、福島原発の惨状を見るにつけ、その映画を思い出す。

原発建設という死の遊びに夢中になっている子供のような大人たち。

その子供のような大人によって日本の各地の海岸に作られた原発という十字架の列。
何よりその主題歌が忘れられない。

私は、福島原発のニュースの折には、そのニュースの主題歌として
「禁じられた遊び」の主題歌を流すべきではないかと思う。

今、私の耳朶(じだ)に高く低くそのテーマソングが鳴っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »