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2010年12月

2010年12月30日 (木)

謝罪

News & Letters/210

この間の12月議会で私は謝罪を一つしました。
それは、私が、海の駅の出店者に当てた通知文が問題になりました。
どこが問題なのか議会の一般質問では事前に明確にされなかったので、まったくわかりませんでした。

どうも私の通知文にある「海の駅の貧しい出店者」という表現が問題のようだとのことでまったく合点がいきませんでした。
実際の議場での質問でわかりました。

この通知文は、出店者に対し、公共施設で売店の従業員に物品の授受をしないように呼びかけたものでした。

その際、貧しい出店者には従業員にプレゼントする余裕がありません・・・・という言葉を使ったわけですが、議員の質問では、出店者の誰かが、「私らも貧しいのですか」という苦言が議員に呈せられたということであります。
要するに、その出店者は、自分らも貧しい者の仲間にされたということに憤慨したようなのであります。

私は、謝罪を求めるこの質問に対し、謝罪しました。私の言葉が、貧しくない出店者の沽券にかかわる及んだのであるというのですから、謝る以外にありません。
ただ、その議員は心優しく私の真意を問うという形で私の逃げ道を用意して下されましたので、私はその真意について弁解を一席やらせてもらいました。それを補充します。

1、この「貧しい出店者」はあくまでも海の駅数十人の出店者のうち貧しい人に限定された言葉であることは言うまでもありません。貧しい人に言った言葉を貧しくない人がその範囲を拡大して自分に当てはめるというのは牽強付会ではないでしょうか。

 東洋町の貧しい町民は、とか貧しいお年よりは、とか私はしょっちゅう貧しいという言葉を使っています。これまでゑ一度もこの表現について苦情はありませんでした。これは貧しくない町民には耳障りなことかもしれませんが、厳密に言って決して豊かな生活を送っておられる人は含んでいないということは明らかなことだからです。

2、東洋町は全体として貧しいです。税などの徴収率は県下最低でありおそらく全国最低でしょう。
 町民が生活を依拠するのは第1次産業しかないが、その産業が廃れていっているのです。
 海の駅の出店者は一人か二人を除いて貧しくないものはいません。だから、一生懸命年中無休で商品を出店しているわけです。

もしかすると、広大な屋敷に住み資産をいっぱい持って生活していらっしゃると思われる人が混じっているかもしれませんが、しかし、出店する以上は、わずかな利益でも得ようというのであるから、その人も何らかの意味で手元不如意で貧しい人のうちに入るのではないでしょうか。

3、ところで、私は、東洋町の圧倒的大勢の貧しい人々の立場に立って行政を遂行している。東洋町役場も議会も貧しい人々のために主として働いているわけです。
 満ち足りた人のために行政はあるのではありません。戦後どこの国の行政も福祉が中核であることは知れたことです。
 特に地方政治では福祉行政が行政の代名詞です。福祉は自分で生活をできない人のためにあります。

 介護保険制度など福祉を金で買う時代になっていますが、それは邪道です。福祉はあくまでも無償でなければなりません。
 有償の福祉 などというのは自家撞着です。お金持ちには福祉は無用でしょう。だから、東洋町では極力町の福祉事業は無償にしようと努力しています。 住民は貧しいということを前提にして福祉行政は全住民に行われます。

4、さて、私の貧しいという言葉に不快な思いをしたという貧しくない出店者に言いたい。貧しいということは何も恥ずかしいことではないし、人の威厳を損なうことでもないのです。

 実は、貧しいということはいいことなのです。先年『清貧の書』とかいう本がよく売れたそうです。『貧しい人々」とか『レ・ミゼラブル』とか、多くの文学作品で貧しい人々のことが描かれています。描かれた主人公や登場人物は何も恥ずかしい人々ではありません。働けど働けどわが暮らし楽にならざり・・・と啄木は歌いましたが、誰も啄木を卑しんだりしません。

 聖書にも、貧しい人こそしあわせなれ・・という言葉もあります。
 貧しい人々は決して人を搾取したり、交易で差額をせしめて儲けたりしません。貧しい人は、贅沢をしないから電気やガスを使う量も少ないし自然破壊もその分少ないはずです。肉食は膨大な家畜の飼料を必要とし、穀物生産のため広大な森林破壊進められるが、肉も食えない貧しい人々には、その責任もわずかでしょう。

 貧しいということは、苦しいことですが、衣食住最低限度の生活の保障が確保されていれば、むしろ貧しいほうがいいのです。

5、私が学生自分には大変貧しかった。一日一食で、京都の百万遍の食い放題の食堂で腹いっぱい食べて暮らしていました。

 私はいつも70円出して、お櫃(ひつ)を一個平らげて揚々として引き上げていきました。私がその食堂に現れると女子店員がいつもくすくすと笑うのでした。
 その時分に、日本書紀を読んでいるとき、その天智紀のくだりで次のようなわざ歌に出会いました。前にも紹介したと思います 
 が、
   み吉野の 吉野のあゆ
       あゆこそは 島辺もえき
        ゑくるしゑ 
          なぎのもと せりのもと
            吾は 苦しゑ

 王朝の正史にさえも、民衆の苦しみの声が反映されています。
 この日本最初の民謡に私は独自の節をつけて、これを今も歌っています。

 東洋町の役場や議会が貧しい町民の、苦しい苦しいという声で満たされるよう、住民の本当の声が私たち公務員の胸に響き渡るようにしなければなりません。

 美しい清流ですいすいと泳いで生きている人のことではなく、なぎの木やせりの水草の泥沼であえぎ苦しんでいる人のために地方行政は存在しなければなりません。

皆さん、いい年を迎えてください。

6、貧しいということは何も恥ずかしいことではない。

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2010年12月20日 (月)

議会の風景

News & Letters/219

議会の風景 決議1

町長発行の行政説明広報発行費の返還決議
平成22年12月定例議会では、町行政に直接関連する2つの議会決議がなされた。
1つは、町長が発行している町民への行政報告の新聞についてである。

この新聞は町長就任以来不定期に発行しているものですでに5、6回になる。
これは、町長交際費の使用についての規則に基づいて公費でもって発行している。
町長個人ではなく行政機関としての町長が住民への行政施策などの説明責任を果たすために発行しているものであって、何ら私的なものではない。

この新聞の最近の号外が議会の気にくわないということである。
この号外は、議会が町長に対して前回の議会で辞職勧告決議なるものをしたことに対し、

町長が住民に対して辞職などしません、任期いっぱい頑張りますよという回答を掲載して発行したものである。

内容的にも何ら問題がない。新聞にでかでかと辞職勧告決議が出て、町長が辞めるのではないかと住民が不安がっておりどういう理由でこんな勧告決議が出されたのかその背景も知りたいであろうから、町長が説明文を書いたのである。

議会の辞職勧告決議の内容は、社協の内部で起こったお金にまつわる不祥事件で町長が責任を取れ、給料カットの額が少ないとかいう話であって、それも何か誤解か何かに基づくものもあり、辞職勧告を受けるほどの事件ではあり得ないのである。

外部の団体の不祥事件を摘発したのは役場の方であり、責任のあるのはその団体の当事者と役員であって、役場の方では誰も処罰をするものはいない。社協の扱いの金は町に納める金であった。出納関係職員が適切に納められていなかったことに気付くのが遅かったという謗りは逃れられないが、気付いてすぐにきちんと完納させており損害は回復していた。

そうである以上は、職員への処罰性はない。厳重注意の程度である。しかし、不祥事全体の政治的責任は誰かが取るのであるから、町長が自ら減給処分をしたのである。その減給が少ないなどといって町長をやめろというのであるから不当きわまりない。
役場において処分性があるのであれば担当職員と会計管理者がまず第一に問題になる。出納員として責任が問われる。

そして、役場においては出納や会計は、首長と相対的に独立している。以前は かい とかいう難しい漢字の会計行政の組織があり、収入役や出納長が独立的に統括していた。出納員の会計組織は長の収支の決裁行為をもチェックし、制止することも出来る独立した機関なのである。

収入について責任があるとすれば、その出納組織の責任者を飛ばして直接首長に来るべきではない。首長が重い懲戒処分を受けるのであれば、出納職員も当然に処罰を受ける。今回は出納職員は厳重注意であり、町長は減給7%なのである。
それが不服だといっての辞職勧告なのであった。これについて事件の経緯と町長の見解を町長の名前で発表したのである。

どうしてこの説明資料の発行費を返還する必要があるのであろうか。外の私事ならともかく、重大な行政事件についての説明であることは明らかであろう。行政の施策について隠したりせず、詳細に住民に説明するというのは現町長の一貫した公約であり、今後もますますこの方針で努力するつもりである。事の詳細が発表されて都合の悪いことが掲載されたからといって町長への一方的な決議を乱発することは控えるべきだ。
議会は一方的な抜き打ち的決議をせず、決議の前に町長の意見もよく聞く、という弁明の機会も与えなければなるまい。

公費の返還などは明らかな違法行為が立証されねばならない。正当な行為、説明責任を果たすという開明的な行政行為をせき止めようという行為こそ批判される必要がある。

決議2

又今12月議会では、元選管委員達の訴訟費用を弁済してやれという一方的な決議もなされた。

この様な申し出は元委員達から一度も正式には出されていない。
元委員達が住民に訴えられた事件で弁護士を雇ったのでその弁護士費用を公費でまかなえとのことである。

しかし、これも単純ではない。公務員のしたことで国民に被害を与えた場合には国賠法の規定で公機関がその償いをするということになっている。その通りだ。しかし、国民は公機関に国賠法に基づいて訴えると同時に、公務員個人を相手にして損害賠償の裁判を起こすことも許されている。その訴えの内容の当否はともかく現行の裁判制度はそうなっているのである。

今回住民によって選管が訴えられた内容は、誠に個人の責任が問われても仕方がないと思われる。判決は、個人が責任を負うほどのことではないとかいうものであったということであるが、私はそうは思わない。公務中の外形、公務の姿をしている分には公務員個人の失敗や怠り、過失などは国賠法の規定で責任を免れる。

そうでないなら、個人の責任も問われる。また、公務の外形を持っていても余りにも非常識で逸脱した判断や行為、故意に近い重大な過失などはやはり個人の責任が問われるべきだ。公務の外形をもっていても故意に自己の欲望か何かで国民に被害を及ぼす場合もやはり、個人の責任は問われる。

勤務中警察官の服装をして戸別訪問をしていても、その警官が泥棒をしたり、婦女暴行をしたりしたら、司法機関の責任だけではなく個人の責任も問われる。
今回も田島毅三夫議員リコール請求に関係した事件だ。

問題の一例:元の選管は平成20年5月、議員リコール請求の署名簿をすべて無効という決定を下した。

1、この判断は結局間違っていたが、判断の内容も極めて異常であった。
 すなわち、選管の審議の結果、法定数を越える署名者全員は選挙人名簿に照合した結果、該当しないというものであった。

 有権者の三分の一以上のものが選挙人名簿に存在していないとなると、この選挙人名簿は住民票や課税対象などに連動し   
 ているから、直ちに行政執行上重大な支障を来しかねない。事実そのように判定された署名者達は、選挙人名簿にないのであればそれでは私らに課税をしてくるな、と憤りの声を挙げたのであった。

そのような全く非常識な根拠による処分は直ちに撤 回し是正されねばならなかった。当時町長もそれの是正を迫ったことは確かだ。しかし選管はあくまでもそれを是正しなかったのである。結局選管は、ずっと後になって訴えられてから、全員無効の処分についての根拠法令を変更したが、元の処分の是正はしなかったのである。今でも選管では署名者の住民は有権者名簿に存在しないという決定のままである。実務上そのような決定は明らかに事実無根であり無効だから無視しているが。

選挙人名簿に掲載されているかどうかは、選管委員の能力がないとか、判断が誤ったとかいう次元の話ではない。全員が名簿にあることを百も承知で故意にこの決定を押し通したのである。そこには悪意と何らかの政治的意図を感ぜざるを得ない。

町民として最も大事な選挙権(直接請求権)を理由なく剥奪されて、これに憤慨する町民がその是正と慰謝を選管や委員個人に求めるのは当然であろう。それには公務員としての正常な姿でなく、公務を逸脱した個人的な我意の露出以外には何も見えないのである。公務としてではなく個人の責任が問われるべきであろう。

2、さらに、問題はこの決定を下すに当たって公務の外形を取っていたか、ということである。

 選管のこの決定をするには正規の選管委員会が開かれねばならず、しかも原則公開でなければならない。

 しかし、当時の選管が、総ての署名が無効であるという重大決定をしたのは、誰も知らない場所で誰も知らない期日に密かに されていたのである。この事実は、私などもずっと後になって知ったことである。

 もし、議会が、あらかじめ誰も知らない期日にどっかの料亭などで開かれて住民の権利に関わる重大案件を決議した場合、その決議は正規のものと認められるであろうか。そして、その議員の行為を公務であると言えるであろうか。

権利を奪われた住民は、その決議を正規のものとした議会を訴えると同時に、やはり、公務の外形でさえ装わずにした行為を議員の個人責任であるとして訴えることもありうるであろう。その他にも選管委員個人の恣意的な処分がいくつもあり、公機関の責任だけではなく個人責任も追求される理由が多々あったと考える。

公務員の個人責任が追及される裁判には、特別な条例規則があればともかく、今は弁護士代金など公費を出すことは出来ない。ただ、訴訟費用は住民側が全部負担している。公務員が訴えられた場合、損害賠償金は公費負担となっても弁護士費用まで公費負担となるかどうかは、これも難しい。以前は訴えられる幹部職員は、そのため積立金を用意していたという。、

ただ、この裁判には町も訴えられているので弁護士を雇っていて、この町の主張を援用するなどで元委員達が裁判に対応することは問題ないとして黙過してきた経緯がある。
以上のような事情についても、町長に意見をいわせるという機会を設けて、その上に立って決議をするべきであろう。

裁判の内容もよく知らず一方的な決議は、議会の独走・独断という印象となろう。
それは、大阪の橋本知事、名古屋の河村市長らがやっているような首長独裁的な政治手法の裏返しに過ぎず、現在の議会と首長が政治的に聳立して互いに批判しかつ協調しあって行政を行っていくという民主的な制度に反するものであろう。
私は、大阪府や名古屋市、また鹿児島の阿久根市などで見られる首長の独裁的な傾向は好ましくないと考えている。

現行の地方政治制度については、議会無答責などいろいろな点で改革が必要であると考えるが、首長と議会の二頭立てのコントロールのシステムは良いものだと思う。但し、お互いが、言いたいことは言うが、しかし、その立場を尊重し合う、我慢し合うという礼儀が必要だ。

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2010年12月14日 (火)

玄海原発の問 原稿にかえて

News & Letters/218

12月1日、この日は毎年全国町村長大会が東京のNHKホールで開催される。全国1000足らずの町村長が皆一堂に会し、総理大臣、衆参両議院議長、総務大臣・・・・そしてたくさんな国会議員達がひな壇に上るのに対面する。

この日、大勢の町村長は東京へ東京へと上っていく。私は1人九州へ佐賀へ向かった。

私は、列車の中で考える。人間は何であり何であるべきか。

人間ほどあやふやではかないものはない。よこしまな欲望を抱き、無責任な言動をし多くの過ちや錯覚を起こし、人を傷つけ自然を破壊する・・・、自動車を運転するだけでも極めて危険な行為を平気でやっていると思う。無数の交通事故を見よ。

こんな不確かでいい加減な存在である我々が、原子力発電という途方もない破壊力を持つ装置を操作して良いのであろうか。

能力に絶対的な限界のある我々不完全人間が、複雑怪奇な機械類を永続的に誤り無く完璧に操作する、しかも如何なる天変地異が起こってもそれを乗り切れる、という不遜な思いを抱ける人間とは何者であろうか。

原発に賛成か反対かという問は、結局人間とは何であるのかという問に逢着する。人間はもろく弱い者で有限な者であると認識するのか、それとも人間は絶対的で無謬で無限の責任能力があると考えるのか。

私は裁判の争点の根底にはこの人間観の相違があると考える。

しかし、別の人は言うかも知れない。そんな仰々しい哲学的な対立ではない。実際は人間絶対主義者などいるはずはないから、本当の争点は、自分がすることについて責任を取ろうとするのか、それともやりっ放しで行くのかというだけのことだ。と。

私はこんな事を考えながら疲れて車中で深い眠りに入ってしまった。
いづれにしろ、私は核反対の十字架を背負って町長に就任したのであり、総理大臣に会いに行くよりもプルサーマルの燃える震源地に行かねばならない。一部の無責任人間にこの世を任せるわけにはいかない。

この一部の人間が強く見えるのは、ただ、私たち民衆がきゃつらを偉く強い人だと思い、自ら従順としているからに過ぎない。

プルサーマルは稼働し放射能でくすぶって目に見えない噴煙を上げている。

短い手と足しかない人間が開けてはならない伏魔殿を開け、おびただしい魑魅魍魎を空中に解き放そうとしているのである。

玄海原発はくすぶりだした。おびただしい放射能がこの世を覆い生けるものを死滅させようとしている。

西日本の人という人は決然としてごく一部の自信過剰な驕慢人間に対決しなければならない。

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2010年12月 9日 (木)

12/8開戦記念日

News & Letters/217

12/8は日本帝国主義が太平洋戦争を全面的におっ始めた記念日である。
天皇(元帥)を頂点とする軍隊が政治権力を壟断した結果、祖国は敗亡の道をたどり、アジア諸国民に多大の犠牲を強いた。

軍隊が政治に介入した場合誰も勝てる者はいない。憲法9条の真の意味は軍隊や武装した組織に政治をやらせない、ということである。軍隊が暴力装置であることは仙石さんの言うとおりである。何にも謝ることはない。
軍隊は暴力装置であるばかりではない。

詐術集団でもある。詐術と暴力がその本来の姿であり行動原則だ。
ナポレオンであれ誰であれ、軍略の天才はすべて詐術の天才である。その精神は無慈悲と残虐性であろう。

織田信長の桶狭間の勝利も詐術の勝利だ。関ヶ原の合戦も詐術と裏切りの合戦であった。

武田信玄が掲げた「風林火山」とはその事を言っている。
その疾きこと風の如く、その徐かなること林のごとく、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、知りがたきこと陰の如く・・・・・という孫子の名言の通りである。およそ誠実とか公明正大とか言う世界とはまるで違う世界に住んでいるのである。

詐術と暴力を本業とする軍隊が国民の政治活動に参入したら、もう終わりだ。軍人に公明正大とか誠実とか情報公開とか言うものを求めても無駄である。北朝鮮でもビルマでも軍事政権を制御するすべはない。武装して反乱する以外に自由になる道はないであろう。詐術に冨み、大胆で無慈悲なものが戦場で勝つ

。風林火山とは、虚と実と変幻自在な活動をする軍隊の本質を端的に表した言葉であり、まともな人間社会の原理ではない。
憲法9条は、そのような行動様式を持つ組織の存在を永遠に許さないと言うことだ。

だからといって我々は現存する兵士を敵視し忌み嫌ってはならない。ロシア革命は労農兵のソビエトによって達成された。
兵士は人民の子であり、その行動には厳しい監視が必要であるが、決して国民に敵対させ、国民から排斥してはならない。

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