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2010年5月 1日 (土)

江藤新平

News & Letters/187

明治7年3月29日江藤新平が高知の甲浦で捕縛され、翌日30日に甲浦を発ち、かん送されて高知に入る最後の夜、宿泊先で最後の歌を詠んだ。

郭公(ほととぎす) 声待ちかねて 
   ついにまた
     月をも恨む 人心かな  

この世に無念の思いを込めた辞世の句はいろいろあるが、私は江藤新平のこの歌は、忠臣蔵の浅野内匠頭の次の歌に匹敵するのではないかと思う。

風誘う 花よりもなほ われはまた
       春の名残を
           いかに解やさん

浅野の殿さんは花、江藤新平は郭公にかけて今生の恨みを人に託そうとした。
忠臣蔵は死後1年有半で見事にその恨みははらされた。しかし、江藤新平の恨みは晴らされていない。
我々日本人は、江藤新平(又は江藤新平に象徴される啓蒙思想家、啓蒙政治家)の業績に大きな恩義を受けている。その業績の多くは明治初年から明治7年の政変ごろまでに達成された。

とりわけ、封建時代に人外の人として差別を受けてきた人々(同和地区のもの)はこの一群の政治思想家に大きな恩義がある。
いわゆる明治四年の「えた解放令」のことである。

この解放令がなければ、我々同胞は、今日まともに
往還を歩くことは出来なかったであろう。
解放令は部落解放運動の原点であり根拠となった。解放令によって差別がなくなったのではない。

差別が不当であるという近代的な人権の根拠が出来たのであった。
同和地区の人々は、「新平」と呼ばれ、単に「新」とも呼ばれてきたが、全て江藤新平の子供であり、その一族である。彼が人権の父であって、我々は人権の子弟なのである。
私が、学生時代よりこの方、江藤新平を特に大事に思うのは、この理由なのだ。

江藤は、大久保利通ら天皇制絶対主義者に圧殺された。江藤があと5年でも生きていれば、日本の近代はもっと明るく、もっと民主的な世界となっていただろう。

明治7年郭公は薩摩でも、土佐でも鳴かなかった。
百数十年後の今、千万の声を合わせて、江藤新平の恨みを晴らすときの声を上げるときである。

プルサーマルにかかる佐賀の戦争が、人の生きる権利をめぐって、江藤新平の天からの呼びかけに答えるわれらが戦場としなければならない。
第2次の佐賀戦争・玄海プルサーマル阻止に参戦しよう。

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コメント

先日のインタビュー録画がベスト10入りしております。

http://kochi53.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/05/post_6e33.html

佐賀参戦ですか・・・ メディア対策が大切です。

投稿: 藤島利久 | 2010年5月 6日 (木) 05時17分

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» 原子力発電は使えない技術である [夕暮菜日記]
私は以前から、原子力で発電することに反対してきた。 危険性が、他の発電方法に比して突出しているからだ。 遺伝子を傷付ける放射能物質は、世代を超えた被害をもたらす、時間スケールの被害が出るからだ。 さらに、電力会社の言う『活断層は調査済み』というのには、明らかなデータのごまかしがあり、高レベル放射性廃棄物(=死の灰)はその捨て場さえ決まっていない。日本全国から拒否られているからだ。 しかも、原子力発電の利点と言われている『CO2排出を減らせる』『(プルサーマル計画によって)純国産エネルギーが手に入る』... [続きを読む]

受信: 2010年5月 2日 (日) 17時09分

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