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2010年5月

2010年5月23日 (日)

木炭自動車

News & Letters/192

東洋町は、政府の特別独創的な事業に対する補助金について応募している。木炭自動車の製造開発である。
これに当選すれば1000万円が交付される。
私たちの幼い時代は自動車類はほとんど木炭自動車であった。車の後ろに炭俵を積んでいた。

急な坂道になると乗客がバスを後ろから押すというものであった。今は日本国中どこにも見あたらないようだ。実験的に走らせているというのがちらほらあるが、本格的営業者はない。フィリピン当たりではまだ走っているという話もある。
炭よりも木のペレットの方が火力(ガス)は強いようだ。当選したらどっかの整備工場にその研究費を渡すので町と共同で開発してもらうつもりである。

東洋町は、温浴施設も薪炊きボイラーでやっている。これは極めて効率がよい。夜営業をやめても
明くる朝まで釜は70度を保っている。タンクも60度ぐらいのままだから、直ぐにまた再開できる。

薪代は山や浜に捨てられている間伐材や廃材だからただだ。
もう1年以上にもなるが、東洋町は生ゴミを回収して、これを炭窯で乾燥し、炭化した生ゴミを肥料に使っている。その薪代もただだ。
町全体の生ゴミをこの乾燥方式か、または、ある種の菌を使って発酵させて肥料にして処理しようとしている。

小さな事であるが、
町長は毎朝6時ぐらいから「海の駅」の厨房で使ううどんなどの湯を炊いているが、その燃料は、浜の流木を集めて担ってきたものや、町有林の山に捨てられた樹木類を集めて使っている。

ガス代を節約し、塵芥となる樹木を清掃し、そして地球温暖化問題に少しでも貢献するというものだ。

クリーンエネルギーといいながら不経済なことをしていては普及しない。原発などはクリーンどころか死の灰の固まりであり、ウラン鉱の掘削から純度の高い燃料棒を製造するまでのコストは膨大であり、石油精製のコストなどとは比べものにならない高価なものだ。しかも廃棄物の処理も出来ない。

政府や電力会社は地層に埋設すると言うが、それをやったとしても天文学的な額の費用が要るのである。

クリーンエネルギーは、労力は要ってもコストが大きく削減できる、というものでなければならない。

大事なことは、十年前、二十年前の昔の生活をとりもどすことだ。いや原始時代に近づけば近づくほどいいのである。ライフスタイルを根本的に変えることなしには、今進行中の地球温暖化を止めることは出来ない。出来ることからはじめよう。

木炭自動車が町中に、日本中に走り回るようにしたらずいぶんと環境が良くなるだろうし、経済的にも得をすると思う。木のペレット代などは知れたものである。
東洋町が応募に当選し、木炭自動車の製造・開発事業が出来れば・・と夢はふくらむ。

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2010年5月20日 (木)

同窓会

News & Letters/191

公務のついでに大学の同窓会に顔を出した。
用談がいくつかあり2時間も遅れて出席したが、歓待してくれた。同窓会といっても同学年ではなく、同世代の反戦運動や学園闘争のお歴々のあつまりであった。半世紀近くの間隔があり、紅顔の美少年美少女たちも、あわれ、老いさらばえて見る影もないが、かすかに昔の名残の面影があった。

口舌の方は依然として活発であった。
昔のあこがれた片恋の人に会わなかったのは、むしろ幸運であろう。美しくはつらつとした姿はそのまま胸にしまっておきたい。

賤(しず)や賤、
  しずの緒だまき 繰り返し
    昔を今に 
       返すよしもがな  (静御前)
懐旧の念に胸が熱くなり、みんなで肩を組んでインタナショナルの歌を歌うときは目頭が熱くなった。

活動からは離れていても、ほとんどの者が、昔抱いた思想は思い出と共にしっかりと心に残しているようであった。

会席では、私は度々発言の機会があった。
昔、世界革命や日本帝国主義打倒など太いことを言って多くの年下の学友を惑わしたものである。

さしずめ、日本プロレタリア革命の革命評議会の議長と名乗りたかったところであるが、いかんせん今の私は、新国劇の島田正吾ではないが、
「しがねぇ姿の土俵入り」というところで勘弁してもらいたい。今の仕事が私の横綱土俵入りなのである。

この会合で、私はますます原点に返り、純真な自分を取り戻した感じがした。
純乎として純なる革命的パトスを注入された。
私の愛唱歌「イタリアパルチザンの歌」を教えてくれた山陰の男も来ていた。

ある朝 目覚めて
  さらば さらば 
      恋人よ
目覚めて われは見ぬ
   攻め入る敵を

われをも 連れ行け
  さらば さらば
     恋人よ
連れ行け パルチザンよ
     やがて死す身を

いくさに 果てなば
   さらば さらば
      恋人よ
いくさに 果てなば
     山に埋めてや

埋めてや かの山に
    さらば さらば
       恋人よ
 埋めてや かの山に
    花咲く下に
 
道行く 人々
    さらば さらば
     恋人よ
道行く 人々
    その花愛(め)ぜん

すでに痛ましくも亡くなった人への哀惜の念とその面影が余韻のように響き、たゆたっている。

星霜は移り去り、昔を今に返すよすがもない。
私は、マルクス主義者として生き続け、人民解放の闘いの中で生涯を終える覚悟である。

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2010年5月11日 (火)

佐賀のプルサーマル原発反対の裁判闘争

News & Letters/190

佐賀の玄海原発のプルサーマルが強行されている。これに対する反対運動も、裁判での公判闘争に転化しようとし、私もその支援グループの一員に名を連ねている。佐賀の闘いは全九州に広がり、プルサーマル計画の強行発展に連れて、更に全国的な問題になろうとしている。

訴訟はまだ準備中であるが、争点は2つに絞られつつあるようだ。

①1つは、MOX燃料である。

②今ひとつはその使用済み残渣(高レベルの核のゴミ)の処分の問題である。

①については、国の安全基準が不存在であり、不良品(良品などあり得ないが)に対する規制がないのである。この問題を法的にどう批判し、国を圧倒するか、専門家の知嚢をかりて慎重に論陣を組み立てねばならない。

②については断然我々が有利である。

 MOX燃料といわず、およそ核廃棄物の処分の方法は世界的に確立されていない。
地層処分などは核廃棄物を、ただ人間の目に触れないようにするという効果だけで、恐ろしいプルトニウムなどの放射能の汚染を何ら解消するというものではない。

原子炉建設に関する国の法律に建設時にすでにその核廃棄物の処分について明確になっていなければならない、と規定がある。

全ての日本の原発建設において、この規定を守ったところはない。
しかし、国は、この法律の規定を、省庁レベルの「内規」で取り崩し、実質的に処分方法について申請段階で明記されなくても構わないようにしてしまっている。玄海原発のプルサーマル核実験においても同じである。

果たして、時の政府が政策的に勝手に作る「内規」が国民の代表である国会の審議を経て作られた法律の趣旨をないがしろにすることが出来るであろうか。国の法律は、核廃棄物の処分を事前にはっきりさせることを原子力事業者に課している。

その義務を、省庁の執行機関で解除することが許されるのか。
回答:政令でも省令でも、まして「内規」などで国の法律の趣旨をないがしろにすることは憲法違反である。憲法第41条に抵触する。

議会の審議を経た法律を時の権力者が骨抜きにすることが出来るというなら、権力の座に座った者の勝ちであり、議会も法律も国民もないと同様となる。省庁の令や通達・内規類でいくらでも法律の趣旨を変えることが出来るというのであれば、権力と結んだ電力会社はいかなる無法行為をやっても無罪放免と言うことになるであろう。

昨年11月、このことを東洋町ははっきりさせた。
最高裁大法廷で、これまでの最高裁判例を覆し、法律(地自法及び公選法)で制限されていないのに、政令(地自法施行令)で国民の権利(この場合リコール請求権)を規制することは憲法違反であるという判決が下された。その詳細はこのブロッグに詳しく報告したとおりである。

佐賀の反プルサーマルの裁判闘争の大きな根拠が昨年11月の最高裁においてすでに構築されていた。江藤新平の霊魂の残る東洋町。そこの住民が築いたこの管制高地に立って、この高地を反原発の今後の闘いを進める1つのよすがとする必要があろう。

原発行政は、一般法律の規制をほとんどとっぱらい、まるで治外法権扱いか、または超法規的措置をもって優遇し続けている。

比較的小規模なボイラーには厳しい規制をかけておきながら、最も危険な大規模ボイラーについては何の安全基準もなく、何らの規制もかけない野放し状態である。この様ないわば無法地帯・暗雲の闇の世界を取っ払って青天を回復せねばなるまい。

この裁判は、人類の危機をかけた闘いであり、原発について佐賀県・九州全体さらに全国民の一大争論の渦を作り出すきっかけにせねばならない。

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2010年5月10日 (月)

町長室の風景

 Ysawayama_r News & Letters/189

東洋町町長室の執務風景です。

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2010年5月 8日 (土)

薪炊き温浴施設

News & Letters/188

5月1日、東洋町白浜の自然休養村管理センターを改装し温浴施設を拡張設置した。
この施設は、国(旧農林省)の補助を受けて建てたもので、老朽化して数年間放置されていた。
全額国の交付金を頂いて平成21年度事業として1階部分に風呂とサウナ、事務所を設置し、22年度には、2階部分の研修室や宿泊設備の改修をしようとしている。現在1、2ヶ月は支援営業だ。
当初風呂代はただにしようとしたが、大方の反対があり、600円頂いて500円の商品券を返す、実質100円風呂にすることにした。
入浴した地元住民や観光客にはなかなか好評である。
ところで、例の高知新聞。原環機構の高レベル放射性廃棄物地層処分安全の誇大宣伝の広告料で生計を営んでいる新聞であるが、早速反核東洋町のこの100円風呂にかみついた。

シニカルな警句を載せる「出放題」というコラムで、
垢と赤字をかけて「アカが出る」と揶揄した。
東洋町の100円風呂が報道された明くる日に早速「出放題」に掲載したのだから、一般読者の寄稿とは思われない。

しかし、この「出放題」さんは風呂を誤解しているようだ。

、風呂は、垢が出るところではなく、仕事やスポー 
 ツだけではなく生理的自然に出て、体にこびりつ 
 いた汗や垢を洗い流すところであり、石鹸をつけ
 て体を清浄するところである。風呂に入って初め 
 てアカが出てくるというものではない。

2、私はこの風呂を金儲けのために作っているのではない。新聞の私のコメントでも福祉と観光目的だと明確にしている。
風呂の歴史はよくわからないが、日本の民衆の間に温浴が一般的にあったわけではなかろう。

温浴は貴族階級が楽しんでいたと思われる。
実際、私が小中学生までは私の家には風呂はなく、もらい風呂をするか、庭でタライで湯浴みをして暮らしていた。姉が庭で湯浴みをしているのを盗み見したことを覚えている。千年も昔から貧しい多くの家庭はそうして体を清めていた。私が旅をした東南アジアのどこの農家に温浴の風習はなく水で体を洗うのが普通だった。、

中世の寺院関係の記録などには、僧が鴨川などで施行として簡易な風呂を設け、アカにまみれた庶民を世話していた、という。
温浴の原点は、福祉である。福祉事業に赤字の概念はない。

、観光目的について。
人口3000人少しの東洋町ではあるが、ここには多くの観光客が来る。サーフィンや海水浴で十数万人が毎年やってき、また最近では「海の駅」での買い物客が昨年1年間レジを通過した者だけでも13万人という数字が上がっている。

このお客さんに100円風呂を提供したい。
東洋町の役場の予算の95%前後は、国からの交付金や補助金で賄っている。この金は都会の人の税金である。都会の人のお陰で町の予算が成り立っているのであるから、その恩義の万分の1でもお返しをしなければなるまい。

癒やしを求めて東洋町にお越し頂いた国民に少しだけのサービスをさせて頂いている。

恩返しに損得はない。しかもこのささやかなサービスによって東洋町への来客数が飛躍的に上昇する事は十分可能である。数百万円のアカに拘泥するどころではあるまい。

4、果たしてこの風呂の経営は赤字になるであろうか。予算上は赤字を見込んで浴客1万人程度と見て収入は年に120万円程度に設定してあるが、そんな数では収まるまい。
東洋町の財政は、健全とは言えないが、私の1期の任期中に、48億円の借金が38億円にまで削減され、1億円積立金を増やしている。
高校生までの子供と、75歳以上のお年寄りに米を配給するなど日本一の福祉事業を推進し、さらに、多くの失業対策事業を展開し、学校や漁業施設、道路の整備など公共事業も断然増加させてきた。
そのなかで、福祉事業の一環として数百万円の費用をかけて風呂を運営することが、揶揄や茶化しで批判されることとなるのであろうか。

灯油やガスを使わず、山や浜に捨ててある薪で炊く銭湯を復活させること、これが今日のエコエネルギーの時代にどのような意義があるか考えてみるべきではないか。
新聞は、記事を書くとき

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2010年5月 1日 (土)

江藤新平

News & Letters/187

明治7年3月29日江藤新平が高知の甲浦で捕縛され、翌日30日に甲浦を発ち、かん送されて高知に入る最後の夜、宿泊先で最後の歌を詠んだ。

郭公(ほととぎす) 声待ちかねて 
   ついにまた
     月をも恨む 人心かな  

この世に無念の思いを込めた辞世の句はいろいろあるが、私は江藤新平のこの歌は、忠臣蔵の浅野内匠頭の次の歌に匹敵するのではないかと思う。

風誘う 花よりもなほ われはまた
       春の名残を
           いかに解やさん

浅野の殿さんは花、江藤新平は郭公にかけて今生の恨みを人に託そうとした。
忠臣蔵は死後1年有半で見事にその恨みははらされた。しかし、江藤新平の恨みは晴らされていない。
我々日本人は、江藤新平(又は江藤新平に象徴される啓蒙思想家、啓蒙政治家)の業績に大きな恩義を受けている。その業績の多くは明治初年から明治7年の政変ごろまでに達成された。

とりわけ、封建時代に人外の人として差別を受けてきた人々(同和地区のもの)はこの一群の政治思想家に大きな恩義がある。
いわゆる明治四年の「えた解放令」のことである。

この解放令がなければ、我々同胞は、今日まともに
往還を歩くことは出来なかったであろう。
解放令は部落解放運動の原点であり根拠となった。解放令によって差別がなくなったのではない。

差別が不当であるという近代的な人権の根拠が出来たのであった。
同和地区の人々は、「新平」と呼ばれ、単に「新」とも呼ばれてきたが、全て江藤新平の子供であり、その一族である。彼が人権の父であって、我々は人権の子弟なのである。
私が、学生時代よりこの方、江藤新平を特に大事に思うのは、この理由なのだ。

江藤は、大久保利通ら天皇制絶対主義者に圧殺された。江藤があと5年でも生きていれば、日本の近代はもっと明るく、もっと民主的な世界となっていただろう。

明治7年郭公は薩摩でも、土佐でも鳴かなかった。
百数十年後の今、千万の声を合わせて、江藤新平の恨みを晴らすときの声を上げるときである。

プルサーマルにかかる佐賀の戦争が、人の生きる権利をめぐって、江藤新平の天からの呼びかけに答えるわれらが戦場としなければならない。
第2次の佐賀戦争・玄海プルサーマル阻止に参戦しよう。

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