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2010年4月18日 (日)

北原白秋

News & Letters/186

東洋町は、正式に江藤新平の慰霊祭に参加した。
町長、議長、教育長、職員、各種団体代表らが4月13日の万部島慰霊祭、と14日の江藤新平銅像祭に参加した。本行寺のお墓にも参った。佐賀の人から大変温かく迎えられた。江藤新平の曾孫である江藤兵部さん家族の方にも親しくお話をして頂いた。

佐賀に行ったついでに私は筑後川を隔てた柳川へ行ってきた。北原白秋の生誕地であり、白秋記念館があるところである。柳川は水郷であり私の青春の心のふるさとであった。
私は、私が秘蔵していた白秋の肉声の録音付の一冊の詩集をここに寄贈してきた。
この盤は邪宗門秘曲と若干の和歌を白秋自らが朗詠したものであった。私はこれを学生時分に京都の古本屋で見つけて買ったものである。いくらで買ったか忘れた。
印象深いのは、白秋は自作の和歌を詠うとき、ご詠歌のような節回しで歌っていたことだ。
このレコードの曲盤は記念館にもない貴重なものであり、今日、東洋町役場に礼状が届けられていた。
私はこれを手放すになんにも惜しくはない。

私は白秋に大きな恩義を感じている。
私は高校生の時から白秋の詩を愛唱し、柳川は水であるという文章を暗唱さえしていた。

私は、激しい青春時代のなかで、幾度も挫折し、絶望の淵に立たされたことがあった。

そのたびに、真っ暗い部屋にねていると、闇の中から、勃然と白秋の一片の詩がわき起こってきた。
その詩は次ぎのようなものである。

秋の陽は 赤く照らせり
誰が墓ぞ 風のひかりに、
鶏頭の黄なるがあまた
咲ける見て 今日も野に立つ

母ありき 髪のほつれに 陽もてりき
み手にひかれて
 かかる日の かかる野末を
泣きぬれて 歩みたりけん

ものゆかし 墓の鶏頭
さきの世か うつし世にてか
かかる人ありしを見ずや
われ1人 涙ながしぬ

幾たびか、私が絶望の淵にあるとき、忘れきっていたこの歌が自然とわき起こってくるのであった。
何故、この歌なのか、分からない。それはふるさとの母の姿が映し出されているからであろうか。
この歌を自ら歌い、涙を流しながら、私は生きる力を得て、布団からはい出て起きあがり歩き始めるのであった。

詩歌には、人をよみがえらせる力がある。
白秋の原郷に立ってしみじみ感じたことである。

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