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2009年5月22日 (金)

佐賀の江藤新平

News &Letters/125

昨晩5月20日夜10時歴史ヒスとリアとか言う番組のNHKテレビで江藤新平の業績を報道した。
ちょうどその前日の夜から翌朝にかけて、自分は佐賀市にいた。佐賀県議会議員の太田記代子女史とプルサーマル阻止運動の石丸さんご夫妻の案内で、夜、佐賀城二の丸あたりの江藤新平が斬首されたとおぼしき場所を探索し、大門に残る佐賀の乱の弾痕を指で触ったりもした。城門には幕末回天の内乱のおり大活躍した佐賀藩自慢のアームストロング砲1門が置いてあった。あたりは静まりかえり、江藤新平の魂魄がそのあたりに漂っている感じがした。

翌朝5月20日、朝まだき、太田女史と石丸女史の案内で確か万行寺とかいう新平の墓に詣で、さらに江藤新平がさらし首にされたかせ場とかいう旧刑場に赴き、さらに、神野公園とかいう旧藩主鍋島公の旧庭園に行って江藤新平の銅像を見上げた。
ことのついでに太田女史は私を、あの懐かしい俊寛僧都の、その墓とかいう所にまでも案内して頂いた。

私は、感動した。私は墓前で江藤新平に対してとった土佐人の、野根や甲浦の人の冷酷な仕打ちを謝罪した。藩命もだしがたしとはいえ、人民の権利を守る絶壁のような偉大な人物に、縄をかけたこと、死に追いやったこと、そのことによって日本近代史の歯車が狂い天皇制絶対主義の強権支配の道がはじまったこと、これは返す返すも残念なことであった。ただの1人も身を挺して江藤新平を守ろうとしなかったのである。
私は墓前で深くわが土佐人の罪を謝罪し、江藤新平の志をきっと引き継ぐぞ、という決意を心に誓った。

時折しも、佐賀の玄海原発にプルサーマルなる悪魔的な企ての、その原料が刻一刻と近づいて来ているときであった。佐賀の多くの人は江藤新平を慕っていると思われるが、佐賀の行政にたずさわる多くの人は、そうでもないようだ。江藤新平が生きていたら佐賀どころか九州の人民の生命を脅かすプルサーマルなどいうものを許すだろうか。
江藤新平は権力の中にありながら、権力の腐敗と戦い、人民の権利行使の道を必死に確保しようとした。

江藤新平の佐賀の乱は失敗したが、原発や核に対する佐賀県人の新たな「佐賀の乱」は今始まろうとしている。今度こさけ、土佐人は佐賀県民の差し出す手をしっかり握りかえさねばなるまい。

俊寛僧都であるが、私が愛読していた平家物語の一節にたしか「足摺」という文章があり、私は高校時分その箇所をよく声を出して読んでいたものである。その俊寛の墓に佐賀市で出会おうとは思いもしないことであった。
太田県議と石丸女史に感謝しています。またまもなく人を連れて佐賀に伺います。

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