天皇制について
News &Letters/158
天皇制と人権問題についての研究小集会に出席し、意見を求められたのでとりとめもないことであるが、発言しましたが、十分意を尽くせなかったのでもう少し展開してみます。
その集会は、2月14日、大坂市浪速の部落解放・人権研究所反差別部会の催しでした。
大坂樟蔭女子大学の黒田伊彦先生の問題提起で始まりました。
私の発言の趣旨
1、現在、麻生総理大臣らを含め日本の権力と反動派が天皇尊崇の政治的キャンペーンを活発に展開している。
これを許しているのは、我々社会運動家の努力の不足だ。しかしまた、天皇制批判は長い間日本権力の機微にふれる重要問題であるので軽々に論ずることは出来ない。それは日本の支配階級のプライバシィにかかることである。それは日本国家の生誕の秘密をはらんでいる。その秘密の由来をつつかれると名誉毀損にもにた強い反応が起こってくる。
普段はそれを神話に包んで雲の上に奉り、無きが如くに扱っている。
しかし、支配階級が危機に瀕したとき、彼らはそれを正面にかざして敵勢力、そして民衆の頭上に振りかざしてくる。明治維新の際に錦旗を掲げた官軍のように。それは一種の危機管理上の至上の道具だ。彼らはその威力を十分知っている。
私の母は、4年前に死んだ。母が死ぬ前生涯を振り返って、繰り返し言い残した言葉がある。
「私の生涯は、戦争と差別によって苦しい、苦しいものであった。」と。
私は、その忍苦に満ちた生涯から出た言葉について言われるまでもなく何度も反芻して生きてきたものである。
戦争と差別。その元凶は近代の天皇制権力に他ならない。それは天皇裕仁の個人の問題だけではなく、支配体制としての天皇制(政治学的には天皇制絶対主義から天皇制ボナパルティズム)のことである。戦後現代をとれば、戦前型の天皇制権力機構はほとんど解体された。しかし、いつでも戦前型に復活する潜在的要素は残している。それは憲法第1章と、皇室典範、皇室経済法のことである。
近代日本を形成した明治維新は、残念ながら勤王思想を大きな原動力とした。これが近代日本の大きな制約をなした。
しかし、勤王思想も二つの大きな流れがある。
一つは放伐思想を内包したもの、
もう一つは天皇を絶対化するもの、とである。
前者は古くは神皇正統記の北畠親房から、戦前の天皇機関説、立憲君主制の流れである。
それは、人民に害をなす王は放逐し誅殺するという革命思想をもっており、明治維新の勤王派の多くはこの考え方であったであろう。孝明天皇暗殺説もそこから出ている。土佐の南学派の朱子学もこの系統だ。儒学に神代史を入れた南学派は、「神は人間であり、人間は神だ」というフォイエルバッハ(「キリスト教の本質」)のような考えに基づく勤王思想を学問に据えた。それが天皇を上に立てたのは、幕府や大名・武士を否定するためであった。彼ら勤王派は、倒幕・封建体制打倒のための理論の方便として天皇を定立しただけであった。
土佐の勤王の歴史に出てくる「庄屋連盟」の描いた新しい権力図は幕府や大名などの武士階級を否定して人民と天皇が直接繋がるという構図であった。
この思想が当時いかに恐るべきものであったか、この庄屋連盟の後続である土佐勤王党が土佐藩(山内容堂)に徹底的に弾圧されその首領武市瑞山らがことごとく葬り去られたことでも知れる。激しい弾圧の中で坂本龍馬らも逃げ散って、脱藩を余儀なくされたのである。この勤王派の流れはたやすく幕末の洋学派(佐久間象山ら)の流れと合体し、日本の近代思想の柱となった。
そして、この流れの思想には身分差別の穢れはない。佐久間象山も早くから旧賤民への身分差別撤廃論を展開しているし、その影響を受けた吉田松陰は、賤民差別を根底的に批判している。
松陰はその著書(「講孟余話」)で賤民を差別する孟子さえも批判してはばからなかった。
そもそも南村梅軒、山崎闇斎の流れをくむ土佐南学の、江戸中期その中興の祖谷秦山は、賤民の由来について論じて、差別をするいわれのないことを闡明した。その論考については高知藩の明治新政府は特に留意するという記録が残っている。
しかし、大王ではなく道教的、神仙思想的用語の「天皇」は、神がかっており、この天皇が権力の実権をとったとき恐るべき結果が招来することになる。今次アジア太平洋戦争がそうであった。
この神仙的天皇観は、極めてひどい汚染思想をもっており、身分差別、汚穢の感情に汚染されていた。それが特に現れたのは平田国学系統であり
その汚辱の思想は戦慄するべき程であった。この系統の勤王派は近代日本の反動派となり、土佐では脂取り一揆など差別暴動まで引き起こしていた。
天皇家の歴史は、神聖視されるようなものではない。カールマルクスが言うように血と火の文字で書かれるものである。天皇家を永遠に呪うと誓いを立てて死んだ上皇もいる。崇徳上皇だ。
マルクスの場合はたとえ話であるが、崇徳上皇の場合は本当のことだ。本当に手の指の血でもって朝廷を呪ってやると経文に書いて死んだという。
その史実は有名であり、太平記にも載っているし、西行法師も日記に書いているし、雨月物語の上田秋成も記している。太平記では崇徳上皇は、冥土で悪魔の統領となって悪魔達の大会議を主催しているとのことである。明治維新になって、朝廷はそのたたりというか、呪いの誓いをおそれ、鎮めるために京都に神社を建てた。京都のど真ん中にある白神神社がそれであるという。これが明治以前までは日本のインテリのなかでは常識であったのである。
家にあれば けに盛る飯を
草枕 旅にしあれば
椎の葉に盛る
私の好きな感傷的な万葉の歌だ。しかし、これはある親王の辞世のうたである。この歌を歌った後、殺害された。
死を前にして我が身の非運をなげき、涙でほし飯をほどきながら食べたのであろう。
王朝の皇族達は陰謀と暴力の嵐の中で血みどろの生活を送っていた。同情に値する。
何も神聖でも慈悲深くもない。
最近冥界で異変が起きているのではないか。
悪魔会議の主催者崇徳上皇にかわって、先の大戦を引き起こし拡大に次ぐ拡大をしてアジア太平洋全域を血と火の地獄の世界にたたきこんだ天皇が、その冥界にやってきて、会議の議長職を譲らねばならなくなってきたからである。
崇徳上皇の呪いは、保元・平治の乱や源平合戦でたちまち効を現出したが、アジア太平洋戦争に比べればはるかに小さいものだ。
天皇の歴史的実態は大変なものだ。
権力者とはいえ、古代中世の天皇達の生き様が本当に人間らしい。
もはや、特定の人間に天皇称号を押しつけ、権力争闘の看板に押し立てて悲喜劇を繰り返す愚行は止めねばならない。
今日こそは かえり見はせじ
大王(おおぎみ)の
醜(しこ)のみ盾と
出で立つ吾は
東国の醜の民よと差別を受けた、その者達が防人として招集される悲歌が、千年の時を超えて今も我々の胸を打ってくる。
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