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2009年1月27日 (火)

SNCCについて

News & Letters/152

それは、遠い昔のことです。
まだ、解放運動全体が活気に満ち、健全な部分が主導的であった時代のことです。
私は、大坂桃谷の解放同盟中央本部で青年対策の書記として勤務していました。水平社の生き残り活動家がきら星のごとく本部に出入りしていました。
共産党も社会党も民社系も色とりどりでした。
私は歴史上の人物、伝説的な彼らと寝食を共にして活動してきたことを今は誇りに感じています。

上田音吉、朝田善之助、北原泰作、岡映、・・・。
特に岡映(おか あきら)は豪傑でした。旅館の宿舎では常に私は一緒の部屋に連れ込まれ寝物語に戦前の水平社運動を聞かされたものです。
彼は、旅館の障子がびりびりというほど、ものすごいいびきをかき、私は、いつも寝不足でした。
私は、書記として執行委員会や大会や地域の集会や、幹部らの鞄持ちや、また解放新聞の編集やら種々様ざまな仕事をしていました。

確か1968年8月9日、それは正午のことでした。
恒例の全国青年集会を東京で開き、それを解放同盟本体の中央行動とぶっつけて実力闘争を政府に挑んだのです。それは戦後解放運動の一つの頂点でした。それを領導したのは中央本部常任執行委員の西岡智と書記の私でありました。
西岡智は大坂の男で、下からたたき上げた人物で、狭山でも私と共同してその闘争を全国闘争にまで発展させた。その当時30代の働き盛りでした。西岡は戦後部落解放運動では最優秀の実力派の活動家で、私が私淑していた人物でありました。

大坂には当時西岡を含め偉大な糾弾闘争の指導者が5人ばかりおりました。たしか、西岡智、泉海節一、松田慶一、上田卓三、大賀正行の5人だったと思います。
今でも身の毛のよだつような場面を思い出します。
大阪府警本部の小さい部屋で高松という本部長とある差別問題で団交中、本部長が解放同盟側の口の利き方が気にくわないということで座を立って去ろうとしたとき、五人の解放同盟大坂府連幹部が立ち上がって大声で怒鳴った、

   ・・・出て行けるものなら出て行ってみろ・・・。

その剣幕に、後に警察庁刑事局長にまでなった高松府警本部長ら府警幹部は立ったまますくみ上がって、しばらく呆然として立っていた。そしてどっと腰を下ろして団交を再開せざるを得なかったのであった。書記として同席していた私も仰天したのです。大阪府警本部の権力の中枢において多数の警察官に取り囲まれていながら、庁舎に響き渡る裂帛の気合いでもって、相手を圧倒した、その糾弾力のすごさであった。今はもうそんな活動家はいない。

西岡智は病体を引きずりながら、まだ私ども後輩を叱咤激励している。激励されずとも、私の体には水平社の残党達の思いが残る魔的な息吹と、当時解放運動の中核的指導者達の糾弾闘争の熱い炎の伝搬がまだ燃えたぎっている。

話が脱線しました。SNCCの活動家を全国青年集会に呼んだのは私ですが、その黒人学生の名前はすっかり忘れました。解放同盟中央に記録を尋ねたら分かると思います。私はそのアメリカの活動家の演説の内容もよく覚えていません。私は全青の集会に集まった青年達を総理府に突入させる段取りで精一杯でした。総理府は事前の情報で厳重に機動隊で包囲されておりました。

全青には共産党系の青年も三分の一ほどおりましたので突入戦術を巡って激しい論争が起こっていました。それでもその連中も含めて全国の青年1000人ほどは総理府に突入し機動隊と乱闘を演じ、その庭に入ることに成功したのでした。解放同盟中央委員・中央執行委員100名ほどもそれと呼応して庁舎内に入り込み庁舎内を騒然とさせながらデモと座り込みを敢行しました。わたしは決死隊と称して京都の駒井昭男ら5人で総理府の警備隊と乱闘し押し勝って屋上を制圧し屋上から巨大な垂れ幕2本を垂らし、数千枚のビラをばらまきました。屋上から原水禁のデモが見えたので手を振りました。

戦後解放運動の歴史的な管制高地(実際権力の屋上に立ったのですから)にたって、私はSNCCの学生のことをすっかり忘れてしまったのです。
ごめんなさい。

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コメント

早速コメントをご掲載くださいまして、ありがとうございます。丁寧なお返事を、しかも日誌の1ページとしてお書きいただいて、驚きとともに感謝の気持ちでいっぱいです。

「脱線」ではなく、これこそ沢山様のご活動の中心であり、私の質問こそ大きな流れの中の小事を針でつつくようなものでした。

もう少し自分で資料を探してみます。そして解放同盟中央にも1968年の資料が残っているかおうかがいしてみようと思います。

そういいながら、以下にもう少しだけ質問させてくださいますでしょうか。しつこくて申し訳ございません。

>>SNCCの活動家を全国青年集会に呼んだのは私ですが、

とございますが、SNCCを招待客に選ばれた経緯をご記憶でしょうか。

[仮定1]SNCCに直接招待状をお送りになったのでしょうか。つまり、1968年夏当時、解放同盟の中でブラックパワー運動に高い関心があったのでしょうか。
*『朝日ジャーナル』に、雪山慶正氏と朝田善之助氏との座談会が、「米騒動とブラックパワー」という題で掲載されています(1968年11月24日号、82-89頁)。

[仮定2]偶然のなせるわざだったのでしょうか。つまり、SNCCは別の団体、たとえば原水協やベ平連など(1966年以降交流のある団体)から招待され来日していて、当初の予定にはなかったけれども「せっかくだから」と、どなたかがSNCCの代表を解放同盟に紹介され、書記の沢山様が突然の来客の世話をお引き受けになった、というような状況だったでしょうか。

どちらの仮定も見当違いでしたら申し訳ございません。

またSNCC側は日本語が全くできなかったと思われますが、どなたか英語が堪能な方が通訳として付き添っていらしたのでしょうか。

質問ばかりで恐縮至極です。
お時間のございますときにお答えいただけますと幸いです。

重ねまして丁寧なお返事への御礼申し上げます。
乱文ご容赦ください。失礼いたします。

投稿: にしじまゆみ | 2009年2月 5日 (木) 00時46分

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